本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」

2010年07月04日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 >>> 本能寺の変の定説は打破された
 >>> 「織田信長」の虚像を暴く!『信長脳を歴史捜査せよ!』
 

 本能寺の変が勃発すると堺にいた徳川家康一行は直ちに脱出を図り、途中一揆に襲われながらも伊賀を越えて三河の岡崎まで命からがらたどり着いた。一行に同行していた穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)は家康一行と離れたため一揆に殺された。岡崎に帰りついた家康は光秀討ちに動こうとしたが「中国大返し」をした秀吉に先をこされてしまった。
 これが世にいう「神君伊賀越え」の顛末として誰も疑わない定説となっています。
 軍記物や歌舞伎を通じて広まっていた、この通説を本能寺の変研究界で定説にしたのは高柳光寿氏です。高柳氏とその著『明智光秀』がいかに研究界で権威あるものとなっているかは本ブログでも紹介したとおりです。
 ★ 定説の根拠を斬る!「中国大返し」

 高柳氏の『明智光秀』の記述をご紹介します。
「そして翌二日朝、本能寺の変報に接したのであった。そこで彼は信長に面会の必要があるといってすぐ堺を発し、伊賀越をして岡崎に帰ることができたが、それは非常の困難を極めたものであった。家康とともに堺に赴いた駿河江尻の城主穴山信君(梅雪のこと)は途中で一揆に殺された。フロイスはこのことについてその書状の中で、家康は引連れていた兵士も多く金子(きんす)も十分であったので、あるいは脅し、あるいは物を与えて通過することを得たが、信君は出発が遅れた上に部下の人数も少なかったために、たびたび一揆に襲撃され、部下と荷物とも失い、最後には自分も殺されたといっている。これは恐らくは事実であったろう(『家忠日記』『三河物語』『日本耶蘇会年報』)。
 家康は六月四日岡崎に帰ると居城浜松には赴かないで、翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た。けれども、彼はそれよりも甲斐・信濃の経営を主としたのであって、十四日には自分で兵を率いて尾張の鳴海(名古屋市緑区)まで到るという有様であったが、その行動は緩慢であり、十九日になって、秀吉から光秀の滅亡を通知し帰陣するようにいって来たので、二十一日には兵をかえしたのであった(『家忠日記』『当代記』『三河物語』『寛永諸家系図伝』『古今消息集』『深沢文書』『一蓮寺文書』『吉村文書』『高木文書』)」

 以上の記述によって家康は命からがら「神君伊賀越え」をして堺から逃げ帰ったこと、同行していた穴山梅雪が一揆によって殺されたこと、そして家康が光秀に対して敵対行動に出たことが定説となりました。もちろん、こういった話は軍記物がいろいろ書いて世の中に広まった通説になっていましたが、これを史実と認定したことになったのです。
 それでは、穴山梅雪が一揆に殺されたとする「史実」の裏付けから確認してみましょう。
 高柳氏は本文中でフロイスの書状の記述を引用して「これは恐らくは事実であったろう」と書いています。「あったろう」ですから断定したわけではないですが、歴史学界の権威者がこう書けば誰もが「史実と認定された」と受取ってしまうのでしょう。
 ところが、当時九州にいたフロイスがどのようにしてこの情報を入手したのかを考えると、果たして「事実であったろう」と言ってしまってよいのかと疑問に思いませんでしょうか。フロイスの文章を読むと実に奇妙なことに気が付きます。あたかも穴山梅雪一行に同行していた人物が話したような内容になっています。梅雪本人と最後まで行動を共にして生き残った人物が存在することになりますが、そのようなことがありえるのでしょうか。

 「事実であったろう」の直後に根拠史料が3つ書かれています。3つ目の『日本耶蘇会年報』にフロイスの書状が掲載されているわけですが、この書き方だと残りの2つにもフロイスの記述を裏付けることが書かれていると思ってしまいます。私も自分で確認するまではそう思い込んでいました。
 それでは家康の家臣で、岡崎に近い深溝(ふこうず)城主・松平家忠が書き残した『家忠日記』を見てみましょう。天正十年六月四日の日記に次のように書かれています。(現代語に訳しています)
 「家康以下、伊勢地をたって、大浜に上陸したので、町までお迎えに行った。穴山は腹を切った。帰り道の途中で織田信澄が謀反に加わったのは噂にすぎないと聞いた」

 この記述はフロイスの記述を裏付けているでしょうか?
 私にはフロイスの記述を全面否定していると読めます。穴山梅雪は一揆に殺されたのではなく、自分で腹を切ったのです。しかも、家忠の記述の順に従えば、大浜に帰り着いてから切腹したと読めます。また、信澄謀反は噂に過ぎないと「聞いた」という伝聞の書き方をしているのに対して、梅雪切腹は伝聞の書式をとっていません。自分自身で確認できたこととして書いています。これも聞いた話であれば家忠はきちんと「穴山は切腹と聞いた」と書いたでしょう。フロイスが言うように梅雪が家康一行に遅れてしまい、離れ離れになったために一揆に殺されたり切腹したのであれば、先行した家康一行がどうやってその情報を入手できるのでしょうか?
 つまり、穴山梅雪は一揆に殺されたのではなく、徳川家康によって切腹させられたのです。
 家忠が直接的に家康一行と接触できたこと、その内容をその当日に日記として書き残していること、さらに家忠がビジネス文書のような極めて正確な記述で日記を書いていることを考えるとフロイスの伝聞による記述とは比べようもなく信憑性の高い記述です。
 それでは、何故梅雪は切腹させられたのかという話は拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みいただくことにして、次回はさらに「神君伊賀越え」の定説を斬っていくことにします。

 >>>続き
 
【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
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19 コメント

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穴山の死について (aki)
2013-01-06 17:54:24
こちらでも『家忠日記』6月4日条の解釈について、疑問があり、コメント致します。
「信長之儀秘定候由、岡崎緒川より申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也」
これが原文ですが意味を補いながら現代語訳すると
「信長(の自害)については間違いないと、岡崎緒川より知らせがあった。家康は堺におられたとのことだ。(私は)岡崎へ向かった。家康などが伊勢路をお退きになり、大浜に上陸されたので、(私は)町までお迎えに行った。穴山は腹を切った。道中、津田信澄殿の別心は誤報であった(と聞いた)。」となります。
穴山の切腹について、大浜上陸後の出来事とされていますが、家康を迎えたときに家康たちから聞いた内容を記したものではないでしょうか?そして道中さらに津田信澄については誤報だったとの話をされた、と。
『家忠日記』は、伝聞であっても「~候」で記述していることが少なくありません。伝聞を明示するかたちで書かれていないことを理由に大浜上陸後に切腹させられたとするのは、すこし弱い気がします。
また後発の穴山の動向をなぜ家康が知り得たのかという矛盾を傍証とされていますが、家康が先行したというのはご指摘のようにフロイスの記述で信憑性は高くありませんから、気にする必要はないと思います。
返信する
ご指摘感謝! (明智憲三郎)
2013-01-07 21:51:38
 私の『本能寺の変 四二七年目の真実』は「歴史捜査」と命名したように信憑性ある証拠から真実を復元して得られた蓋然性の高い結論を記したものです。ですから結論が誤っているかどうかは私の採用した証拠と推論に誤りがあるかどうか、その蓋然性が高いかどうかで論じていただくべきと考えています。
 これまで残念ながら、そのようなご指摘はなく、私が最終的に出した結論のみに対して、「そんなはずはない!」といった反論を著名な歴史学者からいただくといった、誠に寂しい状況でした。
 今回いただいたコメントは私の採用した証拠と推論に対する疑問であり、誠に歓迎すべき(おそらく初めての)コメントです。拙著出版以来4年近くたち、ようやくいただいた本当にうれしいコメントと感謝しております。
 いただいたコメントへの回答は長文となりますので、本ブログの記事として書かせていただきますので、しばしお待ちください。このような形で、私の採用した証拠と推論の妥当性を検証していくことが本能寺の変の真実を突き詰めていくことになりますので、引き続きご指摘のコメントをよろしくお願いいたします。
返信する
回答いたします。 (明智憲三郎)
2013-01-08 15:25:46
 回答をブログ記事にしようと思いましたが直接回答した方が速そうなので以下に回答します。
 「穴山者腹切候」は極めて明快に「切腹した」と書いています。あいまいさが一切ありません。したがって、家忠が直接目撃したのか家康一行から聞いたのかは別にしても切腹したという家忠の得た認識は間違いなく強固なものです。
 次に、家康一行から聞いたのであれば「ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也」の後に書くか、あるいは「ミちにて穴山者腹切候、七兵衛殿別心ハセツ也」と書いたはずです。
 文章を素直に読めば、これ以外の解釈はできないと思います。
 また、フロイスの記述は信憑性が高くないとのご認識は結構ですが、穴山梅雪が一揆に殺されたと書いた書物のいずれもがフロイス同様に直接確認できる立場にない人間が書いたものですから、フロイス同様にいずれも信憑性は高くありません。
 それに対して家忠は当事者である家康一行と直接接触した人間ですから、格段に信憑性は高いことになります。
 以上のように先入観を持たずに素直に文章を読めば、切腹の蓋然性が明らかに高いです。一揆説は400年に渡って世の中に刷り込まれてきただけのものです。事件当時は家康に殺されたとも一揆に殺されたとも、どちらとも言われていたのです。(下記のページをご覧ください)http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/a8a68ef11ec8b829ae31031c3199b157
 蓋然性の評価には神君伊賀越えや政治状況など当時の全体像の理解が必要となりますので、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みいただければ、よりご理解いただけるものと思います。
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回答ありがとうございます。 (aki)
2013-01-08 19:03:35
史料批判を厳密にされて史実の再構築をなさっている様子を拝見して、感銘しております。「歴史捜査」と名付けておられますが、方法そのものは歴史学の基本的な方法と同じものだと思っております。ご高著への評価を見るに、結論部分への批判に終始しています。これは、ご高著も批判した書籍の何れも一般書であることが大きいかと思います。といいますのは、まず一般書に書かれた内容の是非について研究論文では反応しにくい状況にあります。次に、一般書を執筆できる研究者は非常に限られていますので、ご高著で出された個別の指摘について普通の研究者は反応しづらいという背景があります。あらためて、個別の事象を研究論文として発表された方が建設的な批判がなされるのではないかと感じています。

疑問への回答ありがとうございます。私は、穴山切腹説そのものには疑問を持っておりません。これまで見過ごされてきた重要な指摘と思っております。
『家忠日記』の解釈について、出迎えた直後にまず穴山の切腹について聞かされ、さらに道中で津田信澄の挙兵が誤報であったことを聞かされた、という解釈も可能ではないかということです。出迎えの者としては「あれ?穴山殿はいかがなさったのです?」と問い、「途中で切腹したよ」と聞かされた。そして道中に「津田信澄殿が謀反と聞きましたが?」と話題になり、「いや信澄どのではなない」と聞かされた。そんな状況が想定されます。
穴山の一揆殺害説を記す諸史料の信憑性についても、ご指摘の通りと思います。『老人雑話』の信憑性再検討の問題提起について、応える準備はありませんが、江村専斎は、穴山一揆殺害説と記す『三河物語』作者大久保忠教と同世代ですので、信憑性に優劣は付けがたいと思います。したがって『老人雑話』を「家康による」切腹説の傍証とするならば、同時代人の著作である『三河物語』の記事を採用しないことへの説明が必要だと思います。
『家忠日記』の記述から穴山の切腹を疑う余地はありませんから、それほど離れていなかった穴山らが一揆に襲われ、梅雪は自害した。梅雪の自害を見ていた生き残りが家康たちに合流して、梅雪の自害を知らせた。それを家康らは家忠に語った。という解釈も十分可能できないでしょうか?一揆殺害説とも大きく矛盾しません。
ご高著については改めてよく確認したいと思います。
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ご助言ありがとうございます。 (明智憲三郎)
2013-01-09 09:55:55
 個別の事象を研究論文として発表するとよいというご助言ありがとうございます。研究誌の投稿規定など調べておりますが、歴史学界には門外漢でしたので、敷居が高く感じております。あらためて検討してみたいと思います。
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こう考えます (明智憲三郎)
2013-01-09 10:49:06
 公式に論じるならば、太田牛一、大久保忠教、そして家康の伊賀越えに同行した榊原康政、茶屋四郎次郎らの同時代人の記述についての評価が必要だと思います。
 前二者は「フロイス同様に直接確認できる立場にない人間」と前回ひとくくりで書かせていただいた人物です。大久保忠教もフロイス同様の考えます。
 伊賀越え同行者は後年編纂された『寛政重修諸家譜』や『茶屋由緒記』に伊賀越えの手柄話が書かれていますが、梅雪の死については記述がありません。
 とくとくと伊賀越えの苦難と梅雪一揆殺害の報告を書いた『石川忠総留書』は研究者が喜んで論拠に使いますが、忠総は本能寺の変の年に生まれた人物であり、「フロイス同様に直接確認できる立場にない人間」です。
 一方、『老人雑話』を書いた江村専斎もフロイス同様に直接確認できる立場にない人間」ですが、彼の書いたことは「一揆に殺されたとも家康の仕業だともいわれる」であり、その2説が当時言われていたという事実を書いたわけです。
 したがって、『老人雑話』の記事を証拠として、「梅雪は家康に殺された」とは言えません。しかし、「当時は家康に殺されたともいわれていた」とは言えます。
 私はこのことは重要なことだと思います。当時の人々は「ありえる!」と認識していたという事実を現代の歴史研究者は「あり得ない!」と決めつけている理不尽を明らかにしているからです。『本城惣右衛門覚書』の「兵は皆、家康を討ちにいくものだとばかり思っていた」という本能寺討ち入りの記述も同様です。
 さて、梅雪の自害を見ていた家臣が家康一行に合流した可能性ですが、梅雪の家臣で伊賀越え後に生き残った人物がいたことが確認できれば蓋然性が上がります。私の調べた範囲では気が付きませんでした。
 石川忠総留書は「梅雪一行は一里後からついてきたが近郷の者に一人残らず討ち殺された」旨、書いており、この留書を盾にして反論する研究者がいそうです。
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返信遅れました (aki)
2013-01-14 14:22:27
 研究論文としての体裁が整っていれば、研究職についていなくとも学術雑誌には掲載されます。歴史学界と距離をとっていては、ご高著の指摘が学界に響くことが遠ざかるばかりだと思います。
 同時代人が梅雪が家康に殺されたという認識を持っていたことは疑う余地がありません。事情を知らなければ、変直後まで家康に同行していたはずの梅雪が死んでいるのですから、(一揆に殺害されたとしても)家康に殺されたんじゃ?と疑念を持つのはごく自然のことでしょう。
 『本城惣右衛門覚書』の認識にしても、重臣レベルではない者の認識ですから「京に行くなら家康を討つんじゃないの?」と想像するのは自然なことだと思います。
 おっしゃるように、後世の我々からすればありえない認識でも、当時はそのように認識されていたことは重要だと思います。ここで話題となった2例については、上で述べましたように、それぞれの置かれた立場を考えれば自然な発想だと理解できます。
 梅雪一行の生き残りの有無について史料的な裏付けは難しいと思いますが、『石川忠総留書』の記事をもとに生き残りはいないと主張する研究者がいたとすれば、その研究者は同時にその記事の信憑性を完全否定するという自己矛盾を起こしますね。
 なお、大浜で梅雪を自害させたとすると梅雪に同行していた家臣たちと戦闘になり、徳川側にも被害が出たと思われます。『家忠日記』には、それについての記載はありません(雑兵を200人討ち取った記事はありますが)。この点からも大浜で自害させられたとする説は納得しがたいものがあります。
ところで『信長公記』にも梅雪の死について記事がありますね。「宇治田原越えにて退られ候処、一揆共さし合ひ、穴山梅雪生害なり」と、一揆による自害が書かれています。
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史料批判の厳密性 (明智憲三郎)
2013-01-14 23:16:22
 『信長公記』の記述の信ぴょう性については拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』23~24頁でも解説していますので、お読みいただきたいと思いますが、要は太田牛一も信長周辺情報以外については「フロイス同様に直接確認できる立場にない人間」です。
 現代の犯罪捜査では現場に居たただ1人の証人の証言と現場には居なかった100人の証人の証言が異なっていたときに、どちらの証言を採用するでしょうか? 前者に決まっていると思います。
 ところが、従来の歴史研究は、明らかに後者の証言を採用してきた、ということです。フロイスも太田牛一も大久保忠教も石川忠総も現場には居なかった。ましてや、江戸時代の軍記物作者は。
 そして、家康に同行していた当事者の榊原康政も茶屋四郎次郎も梅雪の死については何も証言していない。神君伊賀越えの証言は行っているが、梅雪の死については黙秘している。
 ただ一人、伊賀越えから帰着した家康一行を出迎えた松平家忠は明確に「梅雪は切腹した」と証言している。
 そのことを無視して頭から否定しているのは単に400年の時間のなせる業に過ぎないことの証明が本城惣右衛門、フロイス、江村専斎の証言です。彼らは、繰り返しになりますが、「自分がそう思った」といっているわけではありません。そこが重要です。「彼らの勘違い」という指摘は的を外しています。
 本城惣右衛門は「我等は、其折節、家康様御上洛にて候まま、家康様とばかり存候」と自分ひとりでなく皆がそう考えたと書いています。自分もそう思ったが、皆もそう思ったといっています。
 フロイスは「兵士たちはかような動きがいったい何のためか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主を殺すつもりであろう」と兵士たちが考えたと書いており、特定の誰かが考えたわけではないのです。ましてや、フロイスがそう思ったわけでもありません。
 江村専斎は「一揆に殺さるると云、又東照宮の所為なりとも云」と世の中で両説言われていると書いており、彼自身がどっちもありと考えたわけではありません。
 前回もこの点の重要性をご説明しましたので蛇足になりましたが繰り返しご説明させていただきました。400年前に彼らが残した証言を厳密に取り扱わねば、折角重要な記述を残してくれた彼らに申し訳ないと私は思っています。
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教えてください (明智憲三郎)
2013-01-15 09:43:35
 逆にaki様にお尋ねします。「梅雪は一揆に殺された」とする根拠史料は何でしょうか。
返信する
このように考えています (aki)
2013-01-15 19:48:52
 私は当初述べましたように『家忠日記』の梅雪切腹記事は、家康一行からの伝聞だと解釈していますので、その観点に立つ以上、現場にいたた人間の証言は存在しないことになります。
 つまり、家忠の切腹情報も他の史料に見える一揆による殺害説も、伝聞情報となります。ただ、『家忠日記』の記事は、同時代の最も早い情報であり、当事者に極めて近い人物からの伝聞ですので、他の史料に比べて信憑性は高いと思います。よって、梅雪は切腹した可能性は極めて高い。
 では他の(それも多数の)一揆殺害説との矛盾はどうするのかという問題ですが、結論を言えば矛盾はないと考えます。前に書きましたように、『信長公記』は梅雪は一揆に襲われ、自害したと記述しています。これは『家忠日記』の記事と矛盾しません。他の一揆殺害説の史料も、一揆に襲われ殺されたという記述ですから、死因が切腹だったという情報が漏れているだけで、『家忠日記』と矛盾はありません。
以上のように私は、『家忠日記』(自害説)、『信長公記』(一揆自害説)、『日本耶蘇会年報』『三河物語』(一揆殺害説)によって、「一揆の襲撃によって自害に追い込まれて殺された」と考えています。
なお、『老人雑話』ですが、「所為」を原因の意味に取れば「一揆に殺されたと言う、また家康のせいでともいう」と、家康を疑ったが為に死ぬ羽目になったという一揆殺害説と矛盾しない解釈も可能です。別に「家康の仕業で殺されたとも言われる」でも、問題ありませんが。
研究史への批判についてですが、ご指摘のように、従来の研究は『家忠日記』の記事にとくに注意を払っていなかったと思います。ただ、おそらくそれは、明智さんのように「大浜で自害させられた」と読み取った上で排除したのではなく、私と同様に「家忠が自害したという情報を得た」と読み取ったゆえに一揆殺害説と矛盾をきたす内容ではないとして問題としてこなかっただけではないでしょうか?梅雪の死に方にさほど関心がなかったのは確かでしょうが。
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