本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)

2011年05月21日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 連載してきた藤本正行氏・鈴木眞哉氏の拙著批判への反論も今回の7回目がいよいよ最終回です。前々回は両氏の唱える説の正体が歴史学界のメジャーを占める高柳説(高柳光寿氏が50年ほど前に『明智光秀』に書いた説)の追認であることを書きました。前回は光秀の前半生と謀反の動機について斬りましたが、今回は謀反のプロセスについての高柳説、藤本・鈴木説を斬ってみます
 ★ 前回はこちら

【謀反プロセス】
単独犯行説
 「共犯者はおらず光秀の単独犯行である」とする説です。
 高柳氏は光秀が重臣に初めて謀反の企てを打ち明けたのは本能寺の変の前日の六月一日の夜だと書いています。高柳氏は『信長公記』『甫庵信長記』『当代記』などの記述を参考に示した上で『川角太閤記』の記述を引いて次のように書いています。
 「光秀がその決意を深く蔵していたということ、出発のころにならなければそれを発表しなかったということであり、謀反の企ては他から勧められてのものではなく、またそれを他と相談して決定したものではないことを物語っている
 この主張は藤本・鈴木両氏の「機密漏洩が肝心であり、謀略はなかった」とする説の元になった主張といえます。
 そして、高柳氏はこの文の続きを次のように書いています。
 「この『川角太閤記』という本は、誤りも多いけれども、肝要なことはよく捉えており、珍重すべきところも多い
 ここに非常に危険な考え方が現れています。果たして、ある記事について「誤り」と「珍重すべき」との判定の基準は何なのでしょうか。「誤り」を「珍重すべき」と判定誤りしていませんか。そうではないと何をもって反証できるのでしょうか。特に「誤りの多い書物」と本人自身が認めている書物についてなのです。要は自説に合う記事のみを都合よくつまみ食いしているに過ぎないのです。
 『川角太閤記』は本能寺の変から四十年以上たって書かれた軍記物、つまり物語に過ぎないのですが、高柳氏がこのように公認したことによって歴史学界では史料としての価値が認められてしまったようです。史料の信憑性の取り扱いに慎重な藤本・鈴木両氏も『川角太閤記』は躊躇無く引用しているように見えます。
 結局のところ、藤本・鈴木両氏の共著では高柳説の六月一日説を踏襲して光秀は初めて六月一日夜に重臣に謀反の企てを話したと断定的に書いています。

 ところで、軍記物が単独犯行説の元ネタに使ったのは『惟任退治記』です。その中で明らかに秀吉は光秀の単独犯であると宣言しています。しかし、重臣に打ち明けたのは六月一日が初めてだとは書いていません。軍記物は『惟任退治記』に書かれている「光秀は密に謀反を企てた」ということと「五人の重臣を頭として部隊編成した」という記述から「六月一日夜に五人に初めて話した」場面を創作したに過ぎないのです。「重臣にすら直前まで秘密にしていたのだから、他の人に事前に話すわけもない」という論拠は本能寺の変から四十年以上たって書かれた軍記物という物語が作った話に依拠しているに過ぎないのです
 一方で、長宗我部元親の家臣が書いた『元親記』には光秀重臣の斎藤利三が長宗我部氏の滅亡を危惧して「明智の謀反をさし急いだ」と書かれています。大軍勢を動員しての謀反という一大プロジェクトを遂行するには、それなりの準備が必要だ、というのが企業人としていくつも大きなプロジェクト経験してきた私の認識です。当然、重臣クラスとは綿密な事前調整を実施していなければできないことだと考えます。『元親記』の記述はそれを裏付けていると思います。
 謀反を起こすからには成功しなければなりません。そのためには明智家中の結束は当然ですが、勝ち残るための施策が必要です。当然、同盟者の確保が必要です。光秀は同盟者の確保と情報漏えいのリスクを天秤にかけたでしょう。企業人は自然にそのように考えます。企業活動での政策決定はそうやって行っているのです。高柳説(それを踏襲した藤本・鈴木説)には、この視点が一切ありません。千載一遇のチャンスが来たので後先考えずにとにかく信長を討ってしまうのです。
 当時の武将たちが生き残りをかけて、様々な形での合従連衡を行い、調略を行っていた事実は枚挙にいとまがありません。秀吉の公式発表である『惟任退治記』の単独犯行説に疑いを全く持たず、軍記物の作った六月一日説を論拠にして単独犯行説しかありえないという主張は余りにお人好しというか現実を見ないというか強引な主張です。この論理には無理があるという極めて常識的な認識がさまざまな謀略説を生んでいるといってよいでしょう。謀略説を嗤う前に単独犯行説の論拠の脆弱性を検証してみるべきではないでしょうか。

偶発説
 「たまたま偶然に信長を討てるチャンスが来たので討った。特段の段取りも謀略も存在しない」とする説です。
 これは企業人には全く納得できない説です。何故ならば、プロジェクトの成功には周到な計画と準備が必要だからです。偶然に謀反のような大事が成功することなどあり得ないのです。高柳氏も藤本・鈴木両氏も謀反成功のプロセスについては何も説明していません。偶然成功したのだから、その段取りを説明する必要は一切ないということでしょうか?
 それでは以下のような史実はどのように考えたらよいのしょう。
1.信長の5月29日の上洛の報を受けた光秀はそれだけで信長を討って謀反を成功させられると何故思ったのか?謀反という重大事の決断には余りに安易ではないか。
2.翌日(この年は6月1日)及び決行日の6月2日の信長の動向を監視していなければ、いつ信長が安土へ帰ってしまったり、増員兵力が上洛してこないとも限らない。用心深い光秀であれば当然、監視を怠らなかったであろうが、では、何故5月29日にやはり上洛して本能寺の側の妙覚寺に滞在していた織田信忠の存在を見落としていたのか?光秀は5月29日から6月2日までの本能寺周辺の情報収集を全く行っていなかったということではないのか?
3.本能寺で信長を討った後に、光秀は安土城占拠に向かい、無血入城を果たしている。織田軍本隊が中国出陣のために集結しているかもしれない安土城にどうして無血入城できると読んでいたのか?
4.本能寺の変のあった6月2日の早朝、家康一行は信長に挨拶のため堺から京都へ向かっていた(『茶屋由緒記』)、筒井順慶も本能寺へ向かっていた(『多聞院日記』)。二人を呼び集めていた信長の意図は何だったのか?また、家康は前日に茶屋四郎次郎を先行して京都に戻し、当日は本多平八郎を先行して出発させているが、その狙いは何か?筒井順慶は途中で「信長は中国出陣のため安土に帰ったので上洛の必要はない」という偽情報を受け取って大和へ帰っているが、この偽情報は誰が何の目的で出したのか?
5.信長は本能寺へ大量の茶器を持参していた(『フロイス日本史』)。これは何を目的としたものであったか?
6.3月の甲斐武田攻めの際、信長が光秀・細川忠興・筒井順慶に「人数少なく」同行する命令を出したが、これは何が目的だったのか?戦闘行為をさせずに富士山見物をさせて慰労するつもりだったのか?
7.『フロイス日本史』には「安土城の密室において信長と光秀が二人だけで家康歓迎の準備について相談していた」と書かれているが、何故、そのようなことを密室で二人だけで相談する必要があったのか?
8.『惟任退治記』には「秀吉と光秀が相談した結果次第で信長も中国へ出陣する旨を厳重に申し渡した」と書かれているが、何故信長は光秀が秀吉と相談する前に中国出陣と称して上洛したのか?
9.本城惣右衛門やフロイスはどのような情報をもとにして「光秀の兵は皆、本能寺へ向かうと聞いて、信長の命令で家康を討ちに行くものと思った」のか?新聞やテレビのない時代に「皆が同じ考えを抱いた」という事実を単なる「彼らの誤解」で済ませられるのか?
 また、藤本氏が著書で「信長が家康を討つわけがない」と決め付けていることと、当時の光秀の兵が皆揃って「信長の命令で家康を討つと誤解した」と解釈していることとに論理の整合はあるのか?当時の人がこぞって「信長による家康討ちがある」と思ったのに、それをどうして現代の歴史研究家は「あり得ない」と決め付けられるのか?当時の人が持っていた情報を現代の自分は持っていないが故に自分こそ「信長による家康討ちはない」と誤解しているのではないかと思はないのか。

神君伊賀越え命からがら説
 「本能寺の変勃発後の徳川家康の脱出行は命からがらだった」とする説です。
 これについては既に本ブログにたくさん書きましたので言い尽くされていると思います。以下のページをご覧ください。
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」 

中国大返し強行軍説
 「本能寺の変を知った秀吉は六月六日午後に備中高松を出発し、暴風雨の中、1日80キロの強行軍で翌日姫路にたどり着いた」とする説です。
 これについても本ブログで既に詳しく書いていますので以下のページをご覧ください。
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
 高柳氏は『惟任退治記』に秀吉が書かせた記事を鵜呑みにしています。藤本・鈴木両氏は『惟任退治記』という出典も示さずに既定の事実として書いています。秀吉が自分の都合のよいように書いた可能性など全く考えてもいないのです。六日の前日に既に途中まで引き返しているという秀吉の書状が残っているにもかかわらず、『惟任退治記』の記述が正しく、秀吉の書状は嘘を書いていると頭から決め付けています。
 その逆の可能性の方が高くないでしょうか?『惟任退治記』の方が嘘を書いているのでは?暴風雨の中を1日80キロの強行軍が可能なのかを是非軍事科学的に検証していただきたいと思います。

 以上、2回に渡って藤本・鈴木両氏の説と両氏が踏襲している高柳説の根拠の脆弱さを斬ってきました。こうして見るとあらためて三氏の史料の取り扱いの厳密性の欠如を感じます。ところがWIKIPEDIAやamazonの書評などを見ると三氏は歴史学界で最も史料の取り扱いが厳密で素晴らしいと誉めそやされています。エンジニアとして仕事をしてきた私にはどうにも理解しかねる評価です。そのことを最後に申し上げて、このシリーズを閉じることにいたします。
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』が「奇説」「落第組」なのか、はたまた高柳氏、藤本・鈴木氏の説が「奇説」「落第組」なのか皆様のご評価を仰ぎたいと思います。コメント欄への書き込み大歓迎です。

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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
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【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
 1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
 2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
 3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
 4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
 5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
 6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
 7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)


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22 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
復元いたしました! (明智憲三郎)
2011-05-21 09:58:10
 私の操作ミスでこのページの内容を消去してしまい、真っ青になったのですが、ひらぼん様のご協力により無事グーグルのキャッシュから復元することができました。ひらぼん様、誠にありがとうございました。
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謀反への流れ (不知火亮)
2011-05-22 19:24:30
私は藤本正行氏・鈴木眞哉氏の書籍を読んでいないので比較して感想を書くことは出来ないのですが、そもそも本能寺の変に関しては明智先生も書かれている通り、「引用する史料の信頼度」が書き手個々で大きく異なっているように思います。
他の本能寺の変書籍でも「○○は偽書と言われる事が多いが、この部分に関してはわざわざ偽りを書く必要が無いから信憑性がある」といった引用の仕方を見かけたりします。
ですので、まず証拠採用の部分で各研究者や作家によって大きく異なってしまっているので、議論を交わす裁判そのものが成立していないように思います。

少し逸れてしまいますが、僕は兵庫県伊丹市の人間でして、地元の歴史講座などに参加すると議題が荒木村重の謀反が題材になることも多いのですが、村重も割と突然「思いつき的に」謀反を起こしたように認識されているように思います。
ですが、村重も信長と戦を起こすに当たり足利義昭、毛利輝元、本願寺顕如のもとに誓書を出し同盟を誓っています。
「突発的に」と感じるのは信長に主眼を置いているために「これだけ取り立ててやっているのに何故?」という印象になりますが、村重目線で見れば様々な蓄積や政治的流れがあってのことというのがわかります。

村重は丹波波多野氏の一族の流れであること。
播磨の小寺氏との繋がり。
足利の摂津での影響力。
秀吉が中国方面司令官に任命されたこと。
尼崎、伊丹等の摂津百姓には一向宗が盛んだったこと。
それら様々な政治的連動が謀反に繋がっています。
ですので、光秀の本能寺の変にしても「突発的行動」ということは絶対あり得ないと思います。

寧ろ光秀は、それまでに信長に反旗を翻した浅井、波多野、松永、別所、荒木などの謀反を常に最前線で目の当たりにし、より入念に精度の高い計画を思考したと思います。

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同感です (明智憲三郎)
2011-05-24 22:35:03
 松永久秀や荒木村重の信長への謀反についての分析が不足していると思います。歴史は正に流れであり、光秀と信長が出会った14年間だけを切り取って、二人だけの関係を分析している従来の本能寺の変研究の姿勢は誤りだと思います。
 土岐氏の流れは足利幕府成立以前から始まっていますし、戦国時代も信長以前に様々な争乱の流れがあります。そういった流れを踏まえて起きた土岐氏である明智光秀謀反です。
 ましてや14年間の流れ、たとえば佐久間信盛追放の意味を咀嚼しないで光秀謀反は論じられないですし、久秀・村重謀反についても同様でしょう。まだまだ本能寺の変研究は浅いレベルに留まっており、私の研究がようやく本格的研究の端緒を開いたのではないでしょうか。
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ミリタリーバランス (フロイス・2)
2011-05-28 00:28:40
どなたかご存知の方に教えていただきたいのですが、「本能寺の変」直前の信長周辺のミリタリーバランス、つまりそれぞれの武将が動員できる兵力はどのようなものだったのでしょうか? 特に、織田信長自身が動員・統率可能な兵力はその当時どこにどのくらいいたのか。 また、いわゆる兵農分離に関して、これについてもいろいろ評価はあるようですが、例えば小和田哲男氏は、桶狭間の戦い以前に7~800の親衛隊がこれによって生みだされており、織田軍団での兵農分離は1578年に一応完了したと言われています。(小和田哲男 「戦国の合戦」P.98) そうすると、信長の元には一定数の常備軍が存在していたと考えるのですが、彼らはどこで何をしていたのでしょう? 必要に応じて、光秀や秀吉等に配属されていたのでしょうか?  そして家康の軍勢の構成はどうなっていたのか。 このあたりを詰めてみると、信長による家康領への侵攻の現実性や、光秀が謀反の成功をどう計算していたか、などの点に関してより鮮明な輪郭が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
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整理されていない事項 (明智憲三郎)
2011-06-03 21:42:02
 本能寺の変の歴史捜査をしてみて、これまでの歴史研究がきちんと整理していない、というか重要視していないことがあることに気付きました。 
 ひとつは引用している史料の成立年と作成者であり、作成の経緯です。これらは史料の信憑性を評価する上で極めて重要なことですが、調べてみてもしっかりした研究が行われていないと思いました。
 ふたつめはフロイス・2様ご指摘の当時の武将の兵力であり、本能寺の変当時の兵力の配置です。これについては確かに正確な基礎情報が乏しいのだと思います。
 新人物往来社の雑誌にアバウトですがそれらしいデータが掲載されていますので、明日の国分寺での講演会でコピーをお渡しします。この資料からどこまで読み取れるか疑問ではありますが、一歩前進になればと。
 
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資料をありがとうございました (フロイス・2)
2011-06-06 00:45:56
昨日の講演も楽しく拝聴しました。 毎回新しい発見があって、当分の間、追っかけはやめられそうにありません。 ミリタリーバランスに関しての資料のご提供にも感謝いたします。 谷口克広氏監修の「本能寺の変時 各部将の配置図」、これを出発点として「信長による家康領侵攻」は軍事的に成功が見込めるかを検証したいと思います。 

単純な兵力比較になりますが、侵攻軍の主力は光秀、藤考、順慶、これを上述の配置図によれば、光秀軍 10,000プラス、藤考、順慶がそれぞれ5~6,000と表されています。 光秀が本能寺のときに集めた軍勢が13,000と言われています。 これに藤考+順慶の10,000を加えて23,000、信忠の2,000ほどを加えて25,000、これを侵攻軍第1陣とします。 対する家康側は、水野忠重 2,000、穴山梅雪 6,000、どちらも多めに見積もっています。 肝心の家康軍は10,000人以上との表示しかないのですが、中国攻めの秀吉軍と同じくらいの20,000プラスと仮定すると、全軍で30,000前後でしょうか? これは毛利輝元の33,000人と匹敵します。

ここまで、数の上では家康有利ですが、k.ののさんが指摘されていたように、美濃、尾張で雪だるま式に兵を集めると(稲葉貞通、氏家直通など動員可能な部将は確かにいるようです)侵攻軍も3,000ほどの上乗せは可能です。 これに加えて、甲斐の河尻秀隆が5,000の軍勢を有しています。 さらに摂津には少なく見積もっても15,000人ほど動員可能な兵はいるようで、これらを侵攻軍第2陣とすると、この単純計算から信長軍は数の上で少なくとも10,000人の優位が見込まれます。

もちろん明智説では家康領侵攻に先立って、家康は家臣もろとも上意討ちにあって抹殺されてしまうわけです。 20,000以上と見積もった家康軍は、これも6,000と多めに見積もった梅雪軍同様、指揮官不在となるわけで、大混乱は避けられないでしょう。 その際、上意討ちの心理的効果も無視できないと思います。 さらに言えば、水野忠重の刈谷、家康の浜松、梅雪の江尻は信長が富士山見物と称して行軍した一直線上に並んでいるのです。短期決戦での決着さえ可能かもしれません。

以上は、不確定要素も多いデータからの極めてプリミティブな考察です。 シミュレーションなどと呼べるものとは思っていません。 大事なことは、このようなある意味雑な推論からも、「家康領侵攻は軍事的に不可能」という理由が見出しにくいことです。 より精緻なデータや情報をお持ちの方々にご批判をいただければ幸いです。
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穴山梅雪はどっち? (明智憲三郎)
2011-06-06 21:26:42
 フロイス・2様に早速分析していただきありがとうございます。分析結果をお読みして、ふと気がつきました。穴山梅雪は果たして徳川方だったのか織田方だったのか?
 俸禄関係では明らかに織田方です。信長から本領安堵された武田旧臣だからです。とはいえ、武田から織田への寝返りは家康が仲介し、家康と親しかったのも確かです。加えて、本能寺の変当時は家康と行動を共にしていました。
 信長が家康を本能寺で討つ際に果たして梅雪は一緒に討たれる立場だったのでしょうか?それとも、光秀と一緒になって家康を討って、三河に攻め込む立場だったのでしょうか?これは拙著でも考え落としていました。
 6000の軍勢が右につくか左につくかの話ですのでミリタリーバランスは大きく変わります。これは面白い謎です。
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だから梅雪は切腹させられた?! (明智憲三郎)
2011-06-06 21:40:36
 家康の家臣・松平家忠の『家忠日記』には穴山梅雪が家康と一緒に三河岡崎に帰り着いてから切腹させられたと書かれていることは拙著に書きました。
 私は梅雪の領地と家臣を手に入れるために家康が梅雪を切腹させたと推理しました。梅雪の子供を世継ぎとして守るという交換条件を突きつけたと考えました。
 しかし、梅雪が信長の意を受けて家康討ちに協力していたと考えるとどうでしょうか?家康一行と行動を共にしていたのは家康一行の監視役だったことになります。
 そうであれば、そのことをもってして家康から切腹を迫られた。そして本人も言い逃れできずに切腹せざるを得なかったと考えられます。その蓋然性が高いと思いますがどうでしょうか?
 フロイス・2様の分析から思いもよらず推理の歯車が回りだしました。ありがとうございます。
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同感です! (フロイス・2)
2011-06-07 01:01:14
梅雪の切腹の理由、ありうるシナリオだと思います。 侵攻軍25,000に加えて梅雪と河尻秀隆をあわせれば1万以上の兵力、そのうえ家康は彼の配下の名だたる部将もろともあの世行きとくれば、勝敗は明らかです。 もちろん梅雪軍6,000が何の動きも起こさずにじっとしているだけでも、侵攻軍にとっては大きなプラスになります。 北条への備えとして有効な布陣ともなるでしょうし、要は信長の邪魔をしなければいいのですから。 さらに言えば梅雪は信長の家臣として、「信長による家康上意討ち」の正当性を証言できる立場にいます。 光秀は侵攻軍を率いて、浜松に無血入城さえ出来たかもしれません。 このように推論していくと、信長の家康領侵攻作戦は、ただ可能と言えるだけでなく、極めて巧妙に計画・立案された見事な作戦だったように思えます。 
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藤本説は「残念ながら定説の尖兵」 (明智憲三郎)
2011-06-11 09:14:30
 藤本・鈴木両氏著の『信長は謀略で殺されたのか』のamazonカスタマーレビューを読むと諸手をあげて激賞する人がいる一方で「何かおかしい」と疑問を呈する人もかなりいます。
 私も「残念ながら定説の尖兵」と題して「星2つ」の評価を書きました。この書は既存の諸説の弱点を指摘して否定していることは確かですが謀略の存在そのものを否定できたわけではなく、その点に関しては定説・旧説の主張に留まっているからです。
 ご賛同いただける方は「このコメントは参考になりましたか」に「はい」を入力していただけると幸いです。
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