本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2

2010年08月03日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
(注)フロイス・2様にご提供いただいた竹薮の写真

【2010年8月3日追記】
 8月1日の記事にうっかり間違いを書いてしまいましたので、お詫びして訂正いたします。『浅野家文書』に書かれている記事の説明で「光秀は山科の籔の中で百姓に首を拾われた」と書いてあるとすべきところを誤って「百姓に首を討たれた」と書いてしまいました。本文を赤字で修正しておきましたのでご確認ください。
 いやはや思い込みとは恐ろしいもので、『浅野家文書』にははっきりと「首を拾われた」と書いてあるのですが、小栗栖で百姓に殺されたという通説が頭にこびりついていたため、「首を討たれた」と解釈してしまいました。文字通りに素直に読めばよかったものを勝手に意訳してしまったのです。定説の根拠斬りに挑戦している張本人がこのていたらくではいかんですね。素直に反省です。
 『浅野家文書』の記述は秀吉が書いた書状とのことなので、秀吉が書かせた『惟任退治記』の記述である「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」と整合のとれた内容だったのです。山科で百姓が拾って届けた首の中に光秀の首があったということです。

【2010年8月1日記事(修正版)】
 光秀の山崎の合戦での敗北後の行動についての通説は次のようなものです。
 「合戦に敗れた光秀は一旦勝竜寺城に逃げ込むものの、夜陰に乗じて城を脱出し、わずかな供回りと居城の近江坂本城を目指す途中、小栗栖の竹薮で落ち武者狩りの農民の槍に刺されて死んだ」
 この通説も定説としてほぼ固まっています。
 これまでに「定説の根拠を斬る!」で見てきた通り、『惟任退治記』や『明智軍記』が作った通説を定説として固めたのは高柳光寿氏の書いた名著とされる『明智光秀』です。
 ★ 定説の根拠を斬る!「中国大返し」
 ★ 定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
 ★ 定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」

 そこで、この『明智光秀』に高柳氏がどのように書いているか確認してみましょう。
まず、光秀の小栗栖での死の場面です。
 「光秀は一旦勝竜寺城に入ったが、曇天下の暗夜に乗じて坂本への脱出を試みた。すなわち彼は溝尾庄兵衛尉ら五・六人とともに城を出て、秀吉方の包囲を巧みにくぐって間道をとり、淀川の右岸を久我縄手から伏見方面に向い、大亀谷を過ぎて桃山北方の鞍部を東へ越えて小栗栖(京都府宇治市)に出たところを土民に襲撃された。相当深手であったろう。もうこれまでと覚悟して後事(こうじ)を庄兵衛尉に托した。庄兵衛尉は光秀を介錯(かいしゃく)し、首を鞍覆(くらおおい)に包んで籔中の溝に隠して坂本に走った(『多聞院日記』『蓮成院記録』『天正日記』『浅野家文書』『豊鑑』『太閤記』)」

 高柳氏の書き方を見るといかにも『多聞院日記』『蓮成院記録』『天正日記』『浅野家文書』『豊鑑』『太閤記』のいずれもが同じような記述をしているように見えてしまうのですが、実は全く違います。
 奈良興福寺の院主の書いた『多聞院日記』には勝竜寺城の落城と光秀が坂本へ逃れたということしか書かれていません。『蓮成院記録』にも勝竜寺城の落城と翌日光秀が京都の醍醐で殺されたと書いているだけです。それに対して高柳氏の記述が光秀の逃走経路にしろ死の経緯にしろ極めて詳細なことに気が付きます。あたかもテレビカメラが光秀一行を追っていたような記述です。これこそが軍記物という物語の記述の姿勢なのです。
 それでは高柳氏はどの史料からこの記述を拾ったのでしょうか?
 『浅野家文書』の記述は秀吉の書状として書かれていますが、そこでも光秀は山科の籔の中で百姓に首を拾われたとは書いていますが、高柳氏が書いたようなことこまかな記述はありません。
 ようやく、軍記物の典型である『太閤記』に小栗栖での土民の襲撃と庄兵衛尉に後事を託した話が書かれていました。この書は小瀬甫庵(おぜ・ほあん)という人が本能寺の変から40年以上たって書いた本で、この書が初めて「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」と書いたのです。軍記物を悪書、でたらめと否定した高柳氏がこのような軍記物の記述を採用するのもどうかと思いますが、どこにも「淀川の右岸を久我縄手から伏見方面に向い、大亀谷を過ぎて桃山北方の鞍部を東へ越えて小栗栖(京都府宇治市)に出た」という話は書かれていません。
 いったいどこからこの話を持ってきたのでしょうか?
 具体的なものが見つからないのですが、おそらく、下記の記述から類推したのではないでしょうか?
 「十三日亥の刻に勝竜寺を出て、川端を上り、北淀より深草を過ぎけるに、・・・・小栗栖の里を経けるところに」
 私は京都に土地勘がないのですが、地図を見ると高柳氏の書いた逃走ルートとこの記述は一致しているようです。
 それではこの記述はどこに書かれているのかというと、高柳氏が誤謬充満の悪書の極致と決め付けた『明智軍記』なのです。もちろん『明智軍記』には小栗栖での土民の襲撃と庄兵衛尉に後事を託した話が書かれています。

 一方、秀吉の中国大返しでは、その記述を全面採用していた『惟任退治記』(高柳氏は『秀吉事記』と記載)にはどう書かれているでしょうか。高柳氏が『惟任退治記』に寄せていた信頼感からすると、『惟任退治記』にも同様の記述があるような気がします。
 ★ 定説の根拠を斬る!「中国大返し」

 ところが、どうでしょうか。『惟任退治記』には全く違うことが書かれているのです。
 「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」

 つまり、秀吉の公式発表資料の中には小栗栖の話は一切なく、どこで討ち取られたか不明の首の中に光秀の首があったと書かれているのです。当時、新聞やテレビのない時代ですので、光秀のような有名人といえども庶民に顔を知られているはずもなく、当然の話でしょう。

 この小栗栖での光秀の死についての記述の直前で高柳氏は天王山の攻防が山崎の合戦の勝敗を分けたという話は『太閤記』などの軍記物が作った話に過ぎない、『惟任退治記』にはそのような記述はない、として「作り話であって、事実ではない」と明確に否定しています。
 どうでしょうか。その論理を小栗栖の話に当てはめたら、やはり「作り話であって、事実ではない」ことにならないでしょうか。エンジニアである私には、それがごく当たり前の結論と思えます。高柳氏の『明智光秀』を「科学的・論理的の極致」と称賛している方々のご意見をお聞きしたいところです。私の結論は高柳氏の天王山に関する論理の通りに「小栗栖で土民に殺され庄兵衛尉に後事を託した」という通説は「作り話であって、事実ではない」ということになります。誰も疑いようのない極めて素直な結論と思いますが、いかがでしょうか。
 ★ KINOKUNIYA書評空間
 ★ amazonカスタマーレビュー(画面の下の方)
 ★ Wikipedia「高柳光壽」記事

【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

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4 コメント

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つまりこういうことですか? (フロイス・2)
2010-08-02 01:22:05
高柳氏は光秀の死に関して (A) 光秀の敗走ルート、 (B) 百姓に殺されたこと、 (C) 庄兵衛尉に後を託したこと を具体的に記述され、その出典として「多聞院日記」ほか6点の文献を挙げていられる。 しかしそのうち4つにはこれらを裏付ける記述は無く、「浅野家文書」に(B)と思しき記述、高柳氏がその資料的価値を評価されていない「太閤記」に(B)と(C) が書かれているが(A)はどこにも見当たらない。 (A),(B),(C)が高柳氏の記述同様にすべて網羅されているのは、ここに出典として挙げられていない、しかも高柳氏がその資料的価値をほとんど認められていない「明智軍記」である…ということになるのでしょうか? だとしたら、これは問題ですね。 英語圏の出版物でこれをやったらかなり厳しい批判の対象となっても致し方ないと思います。

図らずも明らかになったことは、「軍記物」以外の文献には、光秀の死の状況に関する具体的記述がほとんど無いということでしょうか? 「情報が無い」ということ自体が重要な情報であると聞いたことがあります。 何かすごい真相が見えてくるような気がしてなりません。
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そういうことです (明智憲三郎)
2010-08-02 20:16:20
 よく整理していただいてありがとうございます。まとめていただいた通りです。
返信する
光秀の死 (フロイス・2)
2010-08-04 00:18:27
高柳氏の御著書にある光秀の死に関する具体的記述の根拠は、「軍記物」にしか見出せないということですね。 実は僕も、「百姓に首を討たれた」という文を見て、「えらく腕の立つ百姓だな~。」と感じていたのですが…、ご訂正ありがとうございました。 

「光秀の死」がどのようなものだったのかは、「謀反の動機」と共に「謎」として広範に認識されているようですね。 ところでこれは単純な疑問なのですが、光秀の死に方とその現場に関する具体的な記述は、「軍記物」にしか見出せないのでしょうか? (仮にそうだとすると)資料的価値の高い文献にその情報が記されていないことの理由は何なのでしょう?
返信する
もう少しお時間をください (明智憲三郎)
2010-08-04 21:58:23
 工学の世界では「わからない」という答が当然のこととして認知されています。本能寺の変研究を真面目にやってくると、歴史学の世界ではそれが許されないのか、という疑問を持ちます。分らないことを無理矢理、軍記物の記述を使って埋めるという手法が横行しています。 「史料には書かれていない歴史の隙間を埋める貴重な資料」などとして『川角太閤記』や『武功夜話』といった軍記物が重宝がられているのです。
 このようなことを言うと歴史学、特に日本史の戦国時代を研究している方からは「異端児」としてつまはじきにされるのでしょうが、何としても変革しなければならない研究姿勢です。
 では、信憑性ある史料からは何が見えてくるのか?私もまだよくわかりません。このシリーズの最終回で信憑性ある史料のみから推論できる真実を検討してみたいと思います。
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