「本能寺の変の定説はどれも嘘」という事実を拙著『本能寺の変 431年目の真実』のプロローグで明らかにしました。プロローグの全文を以下に転載しましたので、是非お読みください。
少し長いですが最後までお読みいただければ目からウロコが落ちるはずです。今まで信じていたものは何だったんでしょうか。「光秀は信長を恨んで殺したんだよ」なんて言っているご友人がいたら教えてあげてください。
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』出版のお知らせ
早々に10万部突破、啓文堂大賞受賞!!
プロローグ【問題だらけの本能寺の変の定説】
皆さんは明智光秀や本能寺の変について、どのような知識をお持ちですか。おそらく多くの方が次のような基本ストーリーのもとに様々なエピソードをご存じなのではないでしょうか。
明智光秀の前半生については、美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、諸国放浪の後に朝倉義景に仕官し(明智城落城説+朝倉仕官説)、その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えた(信長・義昭両属説)。義昭の追放後は信長のもとで粉骨砕身働いたが、織田信長を怨むようになり、天下を取りたい野望も抱いて謀反を企てた(怨恨説+野望説)。
光秀は前夜になるまで重臣にも打ち明けずに一人で謀反を決意した(単独犯行説+謀反秘匿説)。謀反は信長の油断から生じた軍事空白によって偶発的に引き起こされたものだった(油断説+偶発説)。
本能寺の変の勃発を知って徳川家康は命からがら三河に逃げ帰り光秀討伐の軍を起こしたが出遅れた(伊賀越え危機説)、羽柴秀吉は本能寺の変の勃発を知ると毛利氏との和睦をまとめて台風の中を驚異的なスピードで引き返して光秀を討った(中国大返し神業説)。
以上の基本ストーリーは歴史学界でもおおむね公認されている「定説」といえます。怨恨説を除いては昭和三十三年(一九五八)に出版された高柳光寿著『明智光秀』に書かれて定説として広く受け入れられたものです。この本は光秀謀反の動機として通説となっている怨恨説を否定し野望説を打ち出した本で、これを受けて歴史学界ではしばらく「怨恨説か野望説か」の論争が続きました。動機以外については議論にはならず「定説」として固まったわけです。
その後、黒幕説も含めて様々な動機論が飛び出しましたが、二○○六年に高柳説の継承者といわれる鈴木眞哉・藤本正行両氏が『信長は謀略で殺されたのか』で怨恨説と野望説を両立させることによって動機論にも決着を付けて「定説」を再確定した形になっています。
しかし、この「定説」の根拠がどれも極めて薄弱です。「歴史裁判所」のようなものがあって、「定説」を審判したら間違いなく証拠不十分と判定されるでしょう。
それでは「定説」の根拠のどこに問題があるのかを見てみましょう。
【明智城落城説+朝倉仕官説】
この話は本能寺の変から百年以上もたって出版された軍記物、つまり物語である『明智軍記』が創作した話に過ぎません。ところが、高柳光寿著『明智光秀』が朝倉仕官説を肯定したために定説として固まってしまったものです。高柳氏は熊本藩細川家が正史として編纂した『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』(細川家記)の記述を根拠としていますが、この記事は『明智軍記』を参考にして書かれています。
高柳氏は『明智軍記』は「誤謬(ゴビュウ)充満の悪書であるから光秀の経歴を述べるところでは引用しない」とわざわざ宣言しながら、『綿考輯録』の記事を肯定することによって、皮肉にも『明智軍記』を引用してしまったのです。
【信長・義昭両属説】
高柳光寿著『明智光秀』が義昭の上洛時点で「光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実と見てよい」と書き、さらに「義昭にも仕えていた」と書いたことによって光秀が同時に信長と義昭の二人に仕えていたことが確固たる定説になってしまいました。
しかし、高柳氏が根拠とした史料はやはり『綿考輯録』です。『綿考輯録』が『明智軍記』の記事を参考にして義昭上洛前に光秀は信長に仕えたと書いているのです。ここでも『明智軍記』の記事を引用してしまったのです。
【怨恨説+野望説】
本能寺の変から四ヵ月後に羽柴秀吉が自分の家臣に本能寺の変の顛末書といえる『惟任退治記』を書かせました。その中に「光秀が自分を怨んで殺す」と信長が言ったことや「時は今あめが下しる五月かな」と天下取りの野望を愛宕百韻と呼ばれる連歌に詠んだと書かれています。これが怨恨説、野望説のもとであり、後世の軍記物がこれをもとにあれこれエピソードを創作して話を膨らませたのです。
怨恨説を否定して野望説を打ち出した高柳光寿著『明智光秀』によって歴史学界に論争が起き、それが両説併記の「定説」に落ち着いたことは前述のとおりです。しかし、新聞の三面記事に載るような事件ならいざ知らず、天下統一を進める信長を支えてきた光秀が怨みで殺人事件を起こすでしょうか。また、「信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである」という高柳氏の野望説の根拠説明に説得力があるでしょうか。
四百年以上に渡って言われ続けてきたのでそう思い込んでしまっていますが、随分子供じみた幼稚な動機とは思いませんか。
怨恨説も野望説もその根拠は「あの羽柴秀吉が書かせた」ということに尽きます。でも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故に鵜呑みにはできないのです。勝者である秀吉が自分に都合のよい話を作ったと考えるのが当然でしょう。
【単独犯行説+謀反秘匿説】
『惟任退治記』に「光秀は密かに謀反をたくらむ」と書かれたことが始まりです。これをもとに軍記物が「重臣に謀反の決意を初めて明かしたのは前日の夜」といかにもそれらしく話を作り、それを『明智光秀』で高柳氏が肯定したことにより「定説」として固まりました。謀反の秘密の漏えい防止のため、誰にも事前に相談するわけがないとしたのです。これも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故にそのまま信ずるわけにはいきません。
目的は謀反の「成功」です。「秘匿」は「成功」のための一手段に過ぎません。謀反成功のために協力者が必要ならば秘密が漏れないようにして何としても協力者を確保します。実業界における目的と手段の関係論はこのようなものであり、戦国に生き残りをかけて常に決断に迫られていた武将たちにも当たり前の論理だったでしょう。
【油断説+偶発説】
信長が油断して生じた偶然のチャンスに光秀は謀反を起こしたことが定説となっています。現に本能寺の変は成功し、誰も「どのようにして成功したか」を問うこともなかったので具体的にどのように実行されたのか解析されていません。
たとえば、本能寺の変の当日、徳川家康は信長に会うために本能寺へ向かっていました。信長は家康を本能寺へ呼び出して何かするつもりだったのです。一体何をするつもりだったのでしょうか。
また、光秀は信長を本能寺で討ったあと、信長嫡男の信忠が二条御所に立て籠もったのを知って信忠を討ちに向かいました。光秀はなぜ信長と信忠を同時に襲撃しなかったのでしょうか。本能寺の変の勃発を知って信忠が京都を脱出していたら謀反は失敗していたはずです。
誰も失敗してよいと思って謀反を起こすわけがありません。謀反を行なうのであれば万全の準備をするのが当たり前です。その前提で本能寺の変の当日に起きたことの説明が付かなければなりません。油断説+偶発説はこの説明を回避するためのものといえます。
【伊賀越え危機説】
東京大学史料編纂所が編纂した『大日本史料』という膨大な資料があります。これは年月日順に出来事に関連した諸史料の記事を集めたダイジェスト資料で研究者の誰もがまず初めに参考にするものです。その天正十年六月四日の項には百頁以上に渡って徳川家康の伊賀越えにかかわる六十件ほどの記事がダイジェストされています。
ダイジェストした記事の多くが一揆に襲われて命からがら三河に逃げ帰った話を書いており、同行していた穴山梅雪は一揆に襲われて殺されたと書かれています。穴山梅雪は武田勝頼の重臣でしたが織田方に寝返った人物です。
それだけ多くの史料が書いていることだからという理由で動かしがたい定説となっていますが、ダイジェストされている史料の信憑性の評価は書かれていません。ほとんどの史料が後世の人の書いたものです。
ところが一人だけ三河の岡崎に逃げ帰ってきたばかりの家康一行に会った人物がいます。彼は会ったその当日の日記に「梅雪は切腹なり」と書いています。。一揆に殺されたのではないのです。状況からみれば家康に切腹させられたということでしょう。しかし、この証言は無視されてきました。証言の信憑性では「勝ち」にもかかわらず多数決で「負け」だからです。
高柳氏は『明智光秀』に「梅雪はたびたび一揆に襲われて殺された。これは恐らく事実であったろう。家康は岡崎に帰ると翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」と書き、その裏付け史料のひとつとしてこの人物の書いた日記『家忠日記』を挙げています。
ところが、この日記には梅雪が一揆に殺されたことも翌五日に光秀に対して敵対行動に出たことも書かれていません。むしろ逆のことが書かれているのです。
【中国大返し神業説】
本能寺の変の翌日の六月三日夜、信長・信忠の死の知らせを受けた秀吉は翌四日に毛利氏と緊急に和睦し、定説では六日に備中高松の陣を引き払い、台風の中を一日で八十キロ進む強行軍で七日に姫路城にたどりついたことになっています。高柳氏の『明智光秀』にもこの行程が書かれています。
実は、この行程を最初に書いたのも『惟任退治記』です。秀吉が都合よく書かせた記事を無条件に正しいと信じ込んでしまっているに過ぎません。これも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故に鵜呑みにはできないと考えるのが当然ではないでしょうか。
「定説」の根拠は確かに怪しくていろいろな疑問もあろうが、歴史の真実はタイムマシンでもなければわからない、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。「絶対真実」といったものはその通りかもしれません。しかし、現実世界の真実は四百年前に起きたことも今日起きたことと同じように捉えることができます。それが蓋然性(確からしさの度合)です。
たとえば、一九九八年に起きた和歌山毒入りカレー事件。町内会の夏祭りで販売されたカレーライスに砒素が混入されていて死者が出た事件です。容疑者の主婦がカレー鍋に砒素を投入する決定的瞬間を見た人は誰もいません。決定的な目撃証言がなくても容疑者に有罪判決が下されたのは「蓋然性」です。様々な証拠から容疑者が砒素を投入した蓋然性が高いと判断されたのです。
歴史の真実も全く同様です。直接そのことを書き残した史料がなくても犯罪捜査と同様に様々な証拠から蓋然性の高い真実を復元することができます。大事なことは答に到るこの手順です。思い込みの前提条件から答を先に作って、それに合いそうな証拠を探すというのは本末転倒であり、犯罪捜査であれば冤罪作りです。
私は信憑性ある当時の史料から徹底して証拠を洗い直し、根底から本能寺の変研究をやり直しました。洗い出された証拠の全ての辻褄の合う真実を復元したところ、ことごとく「定説」とは異なる答が出ました。その答には私自身も驚きました。そこで、私の採用した証拠と推理を全て見直して誤りのないことを確認し、さらに、別の答の可能性がないかを様々な観点で検証して、ようやく納得できたのです。私は自分のこのやり方を「歴史捜査」と名付けました。一般的な歴史研究とは明らかに次元が異なるからです。
私の復元した答だけを聞いた方は間違いなく「あり得ない!」、「奇説!」と叫ぶと思います。なぜならば、四百三十年に渡って誰からも聞いたことがない答だからです。捜査内容(証拠と推理)の妥当性を虚心坦懐に評価していただければ「あり得る!」「正論!」とご理解いただけます。是非、お読みいただいてお確かめください。推理小説を読むような感覚で、従来とは次元の異なる本能寺の変の謎解きをお楽しみいただけると思います。
なお、本書はご好評をいただいた前著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社、二○○九年)に四年間の追跡捜査結果を加筆・修正して文庫本にしたものです。感覚的には前著の文庫本版というよりも「進化版」に仕上がりました。より深まり、より広がった歴史捜査の成果をお楽しみください。
平成二十五年十二月 明智憲三郎
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
少し長いですが最後までお読みいただければ目からウロコが落ちるはずです。今まで信じていたものは何だったんでしょうか。「光秀は信長を恨んで殺したんだよ」なんて言っているご友人がいたら教えてあげてください。
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』出版のお知らせ
早々に10万部突破、啓文堂大賞受賞!!
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 | |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
プロローグ【問題だらけの本能寺の変の定説】
皆さんは明智光秀や本能寺の変について、どのような知識をお持ちですか。おそらく多くの方が次のような基本ストーリーのもとに様々なエピソードをご存じなのではないでしょうか。
明智光秀の前半生については、美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、諸国放浪の後に朝倉義景に仕官し(明智城落城説+朝倉仕官説)、その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上洛後は信長と義昭の両方に仕えた(信長・義昭両属説)。義昭の追放後は信長のもとで粉骨砕身働いたが、織田信長を怨むようになり、天下を取りたい野望も抱いて謀反を企てた(怨恨説+野望説)。
光秀は前夜になるまで重臣にも打ち明けずに一人で謀反を決意した(単独犯行説+謀反秘匿説)。謀反は信長の油断から生じた軍事空白によって偶発的に引き起こされたものだった(油断説+偶発説)。
本能寺の変の勃発を知って徳川家康は命からがら三河に逃げ帰り光秀討伐の軍を起こしたが出遅れた(伊賀越え危機説)、羽柴秀吉は本能寺の変の勃発を知ると毛利氏との和睦をまとめて台風の中を驚異的なスピードで引き返して光秀を討った(中国大返し神業説)。
以上の基本ストーリーは歴史学界でもおおむね公認されている「定説」といえます。怨恨説を除いては昭和三十三年(一九五八)に出版された高柳光寿著『明智光秀』に書かれて定説として広く受け入れられたものです。この本は光秀謀反の動機として通説となっている怨恨説を否定し野望説を打ち出した本で、これを受けて歴史学界ではしばらく「怨恨説か野望説か」の論争が続きました。動機以外については議論にはならず「定説」として固まったわけです。
その後、黒幕説も含めて様々な動機論が飛び出しましたが、二○○六年に高柳説の継承者といわれる鈴木眞哉・藤本正行両氏が『信長は謀略で殺されたのか』で怨恨説と野望説を両立させることによって動機論にも決着を付けて「定説」を再確定した形になっています。
しかし、この「定説」の根拠がどれも極めて薄弱です。「歴史裁判所」のようなものがあって、「定説」を審判したら間違いなく証拠不十分と判定されるでしょう。
それでは「定説」の根拠のどこに問題があるのかを見てみましょう。
【明智城落城説+朝倉仕官説】
この話は本能寺の変から百年以上もたって出版された軍記物、つまり物語である『明智軍記』が創作した話に過ぎません。ところが、高柳光寿著『明智光秀』が朝倉仕官説を肯定したために定説として固まってしまったものです。高柳氏は熊本藩細川家が正史として編纂した『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』(細川家記)の記述を根拠としていますが、この記事は『明智軍記』を参考にして書かれています。
高柳氏は『明智軍記』は「誤謬(ゴビュウ)充満の悪書であるから光秀の経歴を述べるところでは引用しない」とわざわざ宣言しながら、『綿考輯録』の記事を肯定することによって、皮肉にも『明智軍記』を引用してしまったのです。
【信長・義昭両属説】
高柳光寿著『明智光秀』が義昭の上洛時点で「光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実と見てよい」と書き、さらに「義昭にも仕えていた」と書いたことによって光秀が同時に信長と義昭の二人に仕えていたことが確固たる定説になってしまいました。
しかし、高柳氏が根拠とした史料はやはり『綿考輯録』です。『綿考輯録』が『明智軍記』の記事を参考にして義昭上洛前に光秀は信長に仕えたと書いているのです。ここでも『明智軍記』の記事を引用してしまったのです。
【怨恨説+野望説】
本能寺の変から四ヵ月後に羽柴秀吉が自分の家臣に本能寺の変の顛末書といえる『惟任退治記』を書かせました。その中に「光秀が自分を怨んで殺す」と信長が言ったことや「時は今あめが下しる五月かな」と天下取りの野望を愛宕百韻と呼ばれる連歌に詠んだと書かれています。これが怨恨説、野望説のもとであり、後世の軍記物がこれをもとにあれこれエピソードを創作して話を膨らませたのです。
怨恨説を否定して野望説を打ち出した高柳光寿著『明智光秀』によって歴史学界に論争が起き、それが両説併記の「定説」に落ち着いたことは前述のとおりです。しかし、新聞の三面記事に載るような事件ならいざ知らず、天下統一を進める信長を支えてきた光秀が怨みで殺人事件を起こすでしょうか。また、「信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである」という高柳氏の野望説の根拠説明に説得力があるでしょうか。
四百年以上に渡って言われ続けてきたのでそう思い込んでしまっていますが、随分子供じみた幼稚な動機とは思いませんか。
怨恨説も野望説もその根拠は「あの羽柴秀吉が書かせた」ということに尽きます。でも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故に鵜呑みにはできないのです。勝者である秀吉が自分に都合のよい話を作ったと考えるのが当然でしょう。
【単独犯行説+謀反秘匿説】
『惟任退治記』に「光秀は密かに謀反をたくらむ」と書かれたことが始まりです。これをもとに軍記物が「重臣に謀反の決意を初めて明かしたのは前日の夜」といかにもそれらしく話を作り、それを『明智光秀』で高柳氏が肯定したことにより「定説」として固まりました。謀反の秘密の漏えい防止のため、誰にも事前に相談するわけがないとしたのです。これも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故にそのまま信ずるわけにはいきません。
目的は謀反の「成功」です。「秘匿」は「成功」のための一手段に過ぎません。謀反成功のために協力者が必要ならば秘密が漏れないようにして何としても協力者を確保します。実業界における目的と手段の関係論はこのようなものであり、戦国に生き残りをかけて常に決断に迫られていた武将たちにも当たり前の論理だったでしょう。
【油断説+偶発説】
信長が油断して生じた偶然のチャンスに光秀は謀反を起こしたことが定説となっています。現に本能寺の変は成功し、誰も「どのようにして成功したか」を問うこともなかったので具体的にどのように実行されたのか解析されていません。
たとえば、本能寺の変の当日、徳川家康は信長に会うために本能寺へ向かっていました。信長は家康を本能寺へ呼び出して何かするつもりだったのです。一体何をするつもりだったのでしょうか。
また、光秀は信長を本能寺で討ったあと、信長嫡男の信忠が二条御所に立て籠もったのを知って信忠を討ちに向かいました。光秀はなぜ信長と信忠を同時に襲撃しなかったのでしょうか。本能寺の変の勃発を知って信忠が京都を脱出していたら謀反は失敗していたはずです。
誰も失敗してよいと思って謀反を起こすわけがありません。謀反を行なうのであれば万全の準備をするのが当たり前です。その前提で本能寺の変の当日に起きたことの説明が付かなければなりません。油断説+偶発説はこの説明を回避するためのものといえます。
【伊賀越え危機説】
東京大学史料編纂所が編纂した『大日本史料』という膨大な資料があります。これは年月日順に出来事に関連した諸史料の記事を集めたダイジェスト資料で研究者の誰もがまず初めに参考にするものです。その天正十年六月四日の項には百頁以上に渡って徳川家康の伊賀越えにかかわる六十件ほどの記事がダイジェストされています。
ダイジェストした記事の多くが一揆に襲われて命からがら三河に逃げ帰った話を書いており、同行していた穴山梅雪は一揆に襲われて殺されたと書かれています。穴山梅雪は武田勝頼の重臣でしたが織田方に寝返った人物です。
それだけ多くの史料が書いていることだからという理由で動かしがたい定説となっていますが、ダイジェストされている史料の信憑性の評価は書かれていません。ほとんどの史料が後世の人の書いたものです。
ところが一人だけ三河の岡崎に逃げ帰ってきたばかりの家康一行に会った人物がいます。彼は会ったその当日の日記に「梅雪は切腹なり」と書いています。。一揆に殺されたのではないのです。状況からみれば家康に切腹させられたということでしょう。しかし、この証言は無視されてきました。証言の信憑性では「勝ち」にもかかわらず多数決で「負け」だからです。
高柳氏は『明智光秀』に「梅雪はたびたび一揆に襲われて殺された。これは恐らく事実であったろう。家康は岡崎に帰ると翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た」と書き、その裏付け史料のひとつとしてこの人物の書いた日記『家忠日記』を挙げています。
ところが、この日記には梅雪が一揆に殺されたことも翌五日に光秀に対して敵対行動に出たことも書かれていません。むしろ逆のことが書かれているのです。
【中国大返し神業説】
本能寺の変の翌日の六月三日夜、信長・信忠の死の知らせを受けた秀吉は翌四日に毛利氏と緊急に和睦し、定説では六日に備中高松の陣を引き払い、台風の中を一日で八十キロ進む強行軍で七日に姫路城にたどりついたことになっています。高柳氏の『明智光秀』にもこの行程が書かれています。
実は、この行程を最初に書いたのも『惟任退治記』です。秀吉が都合よく書かせた記事を無条件に正しいと信じ込んでしまっているに過ぎません。これも、「あの羽柴秀吉が書かせた」が故に鵜呑みにはできないと考えるのが当然ではないでしょうか。
「定説」の根拠は確かに怪しくていろいろな疑問もあろうが、歴史の真実はタイムマシンでもなければわからない、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。「絶対真実」といったものはその通りかもしれません。しかし、現実世界の真実は四百年前に起きたことも今日起きたことと同じように捉えることができます。それが蓋然性(確からしさの度合)です。
たとえば、一九九八年に起きた和歌山毒入りカレー事件。町内会の夏祭りで販売されたカレーライスに砒素が混入されていて死者が出た事件です。容疑者の主婦がカレー鍋に砒素を投入する決定的瞬間を見た人は誰もいません。決定的な目撃証言がなくても容疑者に有罪判決が下されたのは「蓋然性」です。様々な証拠から容疑者が砒素を投入した蓋然性が高いと判断されたのです。
歴史の真実も全く同様です。直接そのことを書き残した史料がなくても犯罪捜査と同様に様々な証拠から蓋然性の高い真実を復元することができます。大事なことは答に到るこの手順です。思い込みの前提条件から答を先に作って、それに合いそうな証拠を探すというのは本末転倒であり、犯罪捜査であれば冤罪作りです。
私は信憑性ある当時の史料から徹底して証拠を洗い直し、根底から本能寺の変研究をやり直しました。洗い出された証拠の全ての辻褄の合う真実を復元したところ、ことごとく「定説」とは異なる答が出ました。その答には私自身も驚きました。そこで、私の採用した証拠と推理を全て見直して誤りのないことを確認し、さらに、別の答の可能性がないかを様々な観点で検証して、ようやく納得できたのです。私は自分のこのやり方を「歴史捜査」と名付けました。一般的な歴史研究とは明らかに次元が異なるからです。
私の復元した答だけを聞いた方は間違いなく「あり得ない!」、「奇説!」と叫ぶと思います。なぜならば、四百三十年に渡って誰からも聞いたことがない答だからです。捜査内容(証拠と推理)の妥当性を虚心坦懐に評価していただければ「あり得る!」「正論!」とご理解いただけます。是非、お読みいただいてお確かめください。推理小説を読むような感覚で、従来とは次元の異なる本能寺の変の謎解きをお楽しみいただけると思います。
なお、本書はご好評をいただいた前著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社、二○○九年)に四年間の追跡捜査結果を加筆・修正して文庫本にしたものです。感覚的には前著の文庫本版というよりも「進化版」に仕上がりました。より深まり、より広がった歴史捜査の成果をお楽しみください。
平成二十五年十二月 明智憲三郎
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 | |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
http://bushoojapan.com/book/2014/08/25/28110
そのサイトの4コマ漫画の単行本も買っているのですが、長いマンガ連載において、時はちょうど今がまさに本能寺の変にさしかかっています。
http://bushoojapan.com/book/comictaka/2015/07/04/52105
リスト
http://bushoojapan.com/book/comictaka/2015/01/13/39427
どちらの本も大変満足しています。