謎とされてきた光秀の前半生・系譜・享年などに決着がつきます。「斎藤道三に仕えた」なんてありえない。「道三と死に物狂いで戦った」のですから。
定説では、明智光秀は弘治2年に斎藤道三が息子の義龍に討たれた戦いで道三に加担して落城し、越前に落ち延びて朝倉義景に仕えた。その後、永禄9年に織田信長に仕え、信長と義昭の間を取り持って上洛させた。ということになっています。
ところが私の歴史捜査では、弘治2 . . . 本文を読む
この15年、本能寺の変研究に力を注いできました。それにかけた気力・体力・労力・時間はとてつもないものです。
なぜ、そこまでやったかと考えると、「先祖の起こした事件の真実をどうしても知りたい」という強い思いでした。いくら心地よい話でも、不確かな話では納得できないのです。確かな証拠を探し続けました。
その結果、ようやくたどり着いた光秀の前半生と系譜の真実。実は今まで年次不明とされていた文書や誤っ . . . 本文を読む
拙著『本能寺の変 431年目の真実』を「奇説」として葬ろうとしている方々が恐れているのは、このエピローグに書かれた認識が世の中に広まることのようです。彼らの批判がこの文章の範囲にとどまっていることから推理できます。研究者の主張に具体性がなく(たとえば何が奇説だと言っているのかすら不明)、この文章だけ読んだ研究者が「徳川家康黒幕説」だと早とちりしていることとも合致します(それにしても?とは思います . . . 本文を読む