本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3

2010年08月03日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
(注)フロイス・2様にご提供いただいた竹薮の写真

【2010年8月3日追記】
 小栗栖での光秀の死の定説の根拠を斬りましたが、大切なことを忘れていました。私のブログの読者であるk.ののさんからいただいたコメントです。
 ★ SE手法で解き明かす本能寺の変

 「最近、明智光秀は竹薮で討たれていない!と確信しました!何故なら、竹薮は防衛には有利で刀や槍・弓矢すら打てない!さらに人影なんか丸見えだからです。
 騎馬武者を竹槍で討とうとすると3mクラスの竹槍でないと隠れて打てるハズも無く、昔の人は現代人よりも目が良く暗闇でも遠く離れないと丸見えです。竹薮の竹は不規則に生えており直線で3mの槍は、まず無理と考えました。
 また!手入れの行き届いていない竹薮と仮定しても、人が隠れる足の踏み場も無く攻撃不可とみました。
 となると竹林を抜けた場所で、待ち伏せして攻撃されたかもしれませんね。」

 確かに不規則にはえた竹薮の中で3mの槍を直線的に突くことは難しいというか不可能でしょう。私は信憑性ある史料の記述から論理的に推理をめぐらせてきましたが、k.ののさんは物理的な合理性で定説の嘘を暴いてくださいました。素晴らしい発想で私の論理を補強していただき誠にありがとうございます。これぞ三現主義(現場・現物・現実)ですね。

【2010年8月2日記事】
 前回は勝竜寺城からの光秀の脱出行と小栗栖での死について、通説の定説化に大きな役割を果たした高柳光壽氏の著書『明智光秀』の記述を分析しました。
 ★ 定説の根拠を斬る!「光秀の敗死とその死」その2

 今回はその前段にあたる山崎の合戦の記述についてみてみます。高柳氏は次のように書いています。

 「十三日はすでに梅雨の時期を過ぎていたが雨が降った。午前中は両軍とも動く気配がなかったが、申(さる)の刻(午後四時)ころになって戦闘が開始された。戦闘は秀吉方の右翼川の手池田恒興隊の進出が案外すみやかに行われ、とくに加藤光泰隊の進出がめざましく、これに伴って中央の高山重友・堀秀政らの諸隊も進出し、左翼山の手方面も有利に展開し、光秀方も奮戦大いに努めたがついに総敗軍となり、光秀は逃れて勝竜寺城に入った。このとき伊勢貞興・諏訪飛騨守・御牧三左衛門らの旧幕府衆が戦死している(『兼見卿記』『言経卿記』『多聞院日記』『蓮成院記録』『浅野家文書』『秀吉事記』『太閤記』)」

 引き続き高柳氏は次のように書いています。

 「天王山の占拠が勝敗を決したということは普(あま)ねく人口に膾炙(かいしゃ)するところであるが、これは『太閤記』『川角太閤記』などの主張するところであり(中略)。天王山の占拠がこの隘路(あいろ)の進出掩護(えんご)にすこぶる重要なことは衆目のひとしくみとめるところであるけれども、この天王山の争奪戦は良質な史料には全く見えていない。『浅野家文書』の十月十八日付の岡本良勝・斎藤利堯(としたか)宛の秀吉の書状は山崎の戦をかなり詳細に記しているが、天王山のことには少しも触れていないし、また秀吉の右筆(ゆうひつ)大村由己(ゆうこ)の『秀吉事記』にも山崎合戦の状を記しているが、この書もまたこの点には少しも触れていない。そんなわけで天王山の争奪が勝敗を決したというのは作り話であって、事実ではないのである」

 この話は前回の「光秀の敗死とその死」その2で書きましたが、ここで「天王山の占拠」を「小栗栖での光秀の死」に置き換えていただくと、ほぼそのまま文章が成り立ってしまうことにあらためてご注目ください。
 「小栗栖での光秀の死は『太閤記』『川角太閤記』などの主張するところであり、良質な史料には全く見えていない。『浅野家文書』の秀吉書状も『秀吉事記』も触れていない。そんなわけで小栗栖での光秀の死は作り話であって、事実ではないのである」

 ところが、高柳氏はどういうわけか小栗栖での光秀の死は「作り話ではなくて、事実である」と全く百八十度異なる答を出したのです。長らく世の中に信じられてきた歴史の定説の根拠はこのようなものなのです。

 さて、山崎の合戦の模様はどうでしょうか?
 ここでも高柳氏はかなり具体的な記述を行っています。合戦の全体図を見渡せる立場の人間でないと書けない描写です。テレビの実況中継を見ているような感じがしないでしょうか。
 次回、高柳氏の根拠とした資料にどのように書かれているのかを分析してみます。

【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

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5 コメント

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天王山争奪戦 (不知火亮)
2010-08-05 11:29:03
とても興味深く拝見させて頂いています。
私は高柳氏の書籍を読んでおりませんので、天王山における高柳氏の説がどういうものかわからないのですが、よく言われている、「前夜の天王山争奪戦が山崎合戦の勝敗を左右した」事が世間的に広く定説化しているのかなと認識しています。
光秀が山崎の隘路を決戦の場所に選択しようとしていたために、天王山支配の重要性がクローズアップされていますが、「光秀は山崎での禁制のために、勝龍寺寄りに引いた(引かざるをえなかった)」という説もあります。
大山崎歴史資料館で、信長が出した禁制の文書(複製)も展示されていましたのを見てきましたが、禁制は信長公が発令したものであり、山崎住民との約束でもあります。そして山崎が天皇領であること。油商家が立ち並ぶ山崎を戦場にした場合、多くの一般人への被害が出ることは容易に想像できます。

世に言う「決戦前夜の天王山争奪戦」に、光秀が負けたから陣を勝龍寺寄りに引いたのか、禁制のために引いたのかと言う点を見ても、光秀の性格を見る上でも、山崎合戦での戦術を考える上でも重要な要素のような気がします。

(1)光秀は兵力の少なさを補うために、山崎の隘路で秀吉を迎え討とうとした→前夜の天王山争奪戦に秀吉軍勝利→山崎合戦は前夜に勝敗が決していた。
(2)光秀は、山崎での禁制(住民との公約)があるために山崎を合戦の場にせず、勝龍寺寄りずらすことを決意→前夜の天王山へはそれほど兵力を割かなかった→翌日、予定通り西にずらした場所(円明寺川の辺り)で決戦。

この(1)か(2)か、実際はどちらであったのかでも、天王山争奪戦の意味合いは大きく異なります。
光秀が禁制など考慮せず、全勢力を傾けて天王山支配を目論んだとしたら、勝敗の流れに左右したことでしょう。
私は細かな部分に拘ってしまっているのかもしれませんが、つまり「負けたから引いたのか」「禁制があるから引いたのか」どちらだったのかは非常に重要なことのように思います。この部分も私にとっては疑問点の一つです。

定説では、前夜の天王山で敗北したために山崎から少し引いたとされているかと思いますが、信長公の禁制、住民との約束、天皇の領地であること、それらを鑑みて光秀が引いていたとしたら、光秀の人間性を見るような気がします。

もし光秀が山崎の隘路を決戦の舞台と想定してての、天王山敗北なら、天王山はとても重要な場所となりますが、最初から禁制のために山崎を戦場からずらす計算だったとしたら、天王山という場所はさほど重要では無いかと思います。
光秀は勝龍寺城、秀吉が天王山、双方が陣地を確保したと言う意味合いでしょうか。

今年は二度、天王山を登りましたが、八合目辺りにある展望の場所から見ると、今も変わらず、決戦の舞台の眺望が広がります。
この合戦場を眺めるといつも、合戦の真実はどういうものだったのか、心から知りたいと思います。
山崎合戦から光秀の死を調べることはとても大変な作業かと思いますが、明智先生のご活躍、期待しています。

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素晴らしい情報をありがとうございます (明智憲三郎)
2010-08-05 22:13:14
 貴重、かつ具体的な情報をいただき大変ありがとうございました。このような情報を私は本能寺の変研究書で読んだことが今までありません。これこそ現場にいかなければわからない情報とあらためて三現主義の重要性を思いました。
 この点はミス・マープルや隅の老人のような揺り椅子探偵(ロッキングチェア・ディテクティブ)を模して当時の史料(活字化されたもの)の分析に徹している私の捜査姿勢に欠けている点と再認識いたしました。
 いただいた情報をどのように整理して吸収していくかがこれからの課題と思っております。
返信する
Unknown (不知火亮)
2010-08-06 02:35:10
昨日書かせて頂いたコメントで、一点誤記が御座いました。
>(2)光秀は の部分で、「予定通り西にずらした」は「東にずらした」の誤りで御座いました。
大変失礼致しました。

そもそも、10日の段階で光秀は京の下鳥羽(伏見)にいましたが、兵は山崎に着陣させていたことが判明しています。
11日夕刻に秀吉は尼崎に着陣。
この時点で、尼崎から山崎からまでの西国街道のどこかが決戦の舞台が設定されることが決まっていたと思います。
しかし、尼崎・伊丹を収めていた池田、茨木の中川、高槻の高山は秀吉についたため、必然的に山崎が最終決戦の舞台となるわけですが、もし光秀が山崎の町中である隘路で秀吉軍を迎え討とうと本気で考えていたとしたら、10日に着陣していた段階で、光秀軍は真っ先に天王山を支配していたと思います。

あくまで私の想像ですが、光秀が山崎に着陣したのは、穀倉院という天皇領を守るためであり、山崎住民と交わした禁制を守るために山崎の町の中を戦場にするつもりは無かったのでは、と考えています。
ですので、ことさらに決戦前夜の天王山争奪戦を強調する定説というのは、「武功を誇示するための軍記物的」な感じが致します。

西国街道の伊丹・茨木・高槻が秀吉軍、山崎が住民自治区と天皇領の町、山崎の東が細川領、まさに明智先生のインスピレーションに大きな謎が隠されているように思います。
ただ、この時点では、藤孝は丹後で、村井貞勝の与力が守備していた状態だった勝龍寺城を光秀が奪ったとされていますので、丹後からの細川の影響力がこの山城国でどの程度保持出来ていたのかが、私にとってはすごく気になるところです。
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竹薮 (フロイス・2)
2010-08-08 23:26:58
先日近所を散歩していて、竹薮をいくつか見つけました。 23区内ですが意外とあるものですね。 手を加えていない竹薮は、下草や竹が密生してネコでも通り抜け出来ないくらいです。 人が入ることなど不可能です。 それでも竹を通してかなり奥まで見透かすことは出来ます。 多少手が入っている竹薮は中が丸見えになり身を隠すことは不可能に近く、人が入ることは問題ないとしても、刀や槍のとり回しが出来るような空間ではありません。 素手の喧嘩さえ難しいと感じました。 想像以上に行動の自由の妨げとなります。 k.ののさんが言われているとおりです。

結局光秀の死に関しては、「山崎の戦の後、一旦立てこもった勝龍寺城を抜け出し、坂本城へ向かう途中で殺された」ということ以外はわかっていない(信頼できる文献の裏づけがない)のでしょうか…。
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細川藤考の本 (フロイス・2)
2010-08-10 00:49:12
拙宅の周りにあるのは竹薮ばかりではありません。 区立図書館もあります。 そこで興味深い本を発見しました 「加来 耕三 著 「細川家の叡智」 日本経済新聞社 1992年」です。

細川藤考が戦国の世をいかに生き抜いたか、という伝記ものです。 興味を引かれたのは光秀との関わりに関する記述で、明智様の御著書とかなり近い見解が示されています。 信長から家康の饗応役を申し付けられた光秀が、藤考と頻繁に会っていただろうこと(P.168)。 光秀の例の歌は「天が下しる」ではなくて「天が下なる」であっただろうという考察(P.174)。 藤考と光秀は、信長への不平、不安などをしばしば語り合っていたのではないかという考察(P.174,P.188「両者はともに、これまでも信長への不平不満を口にしてきたのだろう。 場合によっては、それにも増す秘事を語り合ったかもしれない。」)。 吉田兼見との関わり(P.186)。 藤考は光秀の陰謀に気づいていたが(P.174「そうでなければ、6月2日未明に起きた本能寺での異変を、詳細に、しかも翌日に知り得るなどということは考えにくい。」)、それを信長に知らせることはなかったこと(P.175)。 などです。 これらの諸点は、「歴史捜査」によってその裏づけを得たのみならず、光秀の謀反への藤考の関与については、より増幅した事実が示唆されていると考えています。

そして「山崎の合戦」の後、光秀が一揆に殺されたことを述べた後で以下の記述が出てきます。

「この歴史に残る山崎の合戦に、藤考は表立って参加はしていない。 しかし、青龍寺城をはじめ桂川周辺を、藤考より知る者がいたであろうか。 城砦の地形はいわずもがなだが、四方へ延びる間道や水路、そうした情報を詳細に、秀吉の耳に入れた者がいたとすれば、細川家の者であった公算は高い。」(P.193)

藤考を、かなり好意的に研究・考察された方が、このような見解を述べられているわけです。 

以下は僕の勝手な推理です。 藤考は光秀に死んでもらいたいだけでなく、その確証がほしかった(早とちりは致命傷になるでしょうから)。 そのためには、自分のテリトリーで確実にカタを付ける事が一番です。 「地形などに関する詳細な情報」は秀吉にではなく、光秀にリークしたのではないでしょうか。 それが行われたのは、6月9日付の光秀からの援助要請が届けられた時だったかもしれません。 援助要請にはNOと言ったわけですが、脱出ルートを教えることで使者を全くの手ぶらで帰すことにはならず、同時に光秀に対する裏切りを疑われるリスクも減少できた。 そして光秀はそのルートを逃走中に細川の精鋭に遭遇、殺害される。 このことを公に出来ない(特に家康のことがあればなおさらです)藤考は、光秀の死を確認後、土民一揆を仕立て上げて幕引きとした。 と言うストーリーです。 繰り返しますが、全くの推測でしかありません。 ただ、加来氏の御著書から浮かび上がってくる藤考像は、知的で周到な人物です。 光秀を討つことは彼にとっても断腸の思いだったでしょうし、それだけに討ち漏らしは絶対避けたかったでしょう。 「自らの手で、確実に」、と考えたと思います。 いずれにしても「藤考の光秀討ち」、かなり説得力のある説に思えてきました。
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