定説となっている「神君伊賀越え」の根拠がいかに脆弱なものであるかを2回にわたってみてきました。今回が最終回になります。
★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
世の中に広まっていた通説を史実として認定して定説にしたのは高柳光寿氏が50年前に書いた本能寺の変研究のバイブル『明智光秀』です。高柳氏は「神君伊賀越え」が極めて困難なものであったことを認めて次のように書いています。今回はこの根拠を斬ります。
「そして翌二日朝、本能寺の変報に接したのであった。そこで彼は信長に面会の必要があるといってすぐ堺を発し、伊賀越をして岡崎に帰ることができたが、それは非常の困難を極めたものであった」
当時九州にいたフロイスの書状を根拠としています。高柳氏は次のように書いています。
「フロイスはこのことについてその書状の中で、家康は引連れていた兵士も多く金子(きんす)も十分であったので、あるいは脅し、あるいは物を与えて通過することを得たが、信君は出発が遅れた上に部下の人数も少なかったために、たびたび一揆に襲撃され、部下と荷物とも失い、最後には自分も殺されたといっている。これは恐らくは事実であったろう」
果たしてフロイスはどうやってこの情報を誰から入手したのでしょうか。家康一行の行動も梅雪一行の行動もあたかも両方を見ていたように書いています。現代のような報道機関のない時代にもかかわらず、実況中継をみるような感覚がします。物語である軍記物は必ずこういった書き方になるのですが、報告書を書くべきフロイスもたびたびこういった書き方をしています。
それでは実際に家康と行動を共にした人物はどのようには書いているでしょうか。
家康一行に同行して伊賀越えを行った商人の茶屋四郎次郎は次のように書いています。(『茶屋由緒書』の要約)
「追々本能寺の変の話も伝わってきて、ところどころ山賊共が蜂起するだろうから、四郎次郎が先に立って用意した金を配ったので、あちこちの者が案内を買って出て家康はご機嫌よく三河に帰った」
これを読むと「命からがら」といった緊迫感はありません。
それもそのはず。服部半蔵や伊賀者二百人近くが家康一行の護衛についていたのです。(詳しくは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』参照)
この記事の書かれた『茶屋由緒書』は寛永元年(1624年)に成立しているようです。一方、同じく家康に同行して「神君伊賀越え」を行った家臣の酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らの手柄話も残されています。それらには一揆を自分が追い払ったと書いたものもあれば、一切一揆の記載のないものもあります。一揆の話が書かれたものも「つつがなく御帰還」とか「難なく還らせらる」という言葉が書かれており、やはり「命からがら」というトーンではありません。
もっとも、これらが書かれた『寛永諸家系図伝』は1649年から51年までに編纂されたものですし、『寛政重修諸家譜』にいたっては1789年から1801年に編修されたものですので、本能寺の変から42年後に書かれた『茶屋由緒書』よりもさらに信憑性を割り引いてみなければなりませんが。
★ Wikipedia「寛永諸家系図伝」記事
★ Wikipedia「寛政重修諸家譜」記事
いずれにせよ、家康の同行者の記述には高柳氏が言うような「非常の困難を極めた」という印象はありません。家康に同行した人物の記述よりも当時九州にいたフロイスの記述を信ずる妥当性はどこにもないと思うのですが、フロイスの記述もよくよく読めば家康一行にはそれほどの危機がなかったとも読めます。高柳氏には軍記物が作った「神君伊賀越え」の苦難が先入観として頭にこびりついていたのではないでしょうか?
【定説の根拠を斬る!シリーズ】
定説の根拠を斬る!「中国大返し」
定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
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★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
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世の中に広まっていた通説を史実として認定して定説にしたのは高柳光寿氏が50年前に書いた本能寺の変研究のバイブル『明智光秀』です。高柳氏は「神君伊賀越え」が極めて困難なものであったことを認めて次のように書いています。今回はこの根拠を斬ります。
「そして翌二日朝、本能寺の変報に接したのであった。そこで彼は信長に面会の必要があるといってすぐ堺を発し、伊賀越をして岡崎に帰ることができたが、それは非常の困難を極めたものであった」
当時九州にいたフロイスの書状を根拠としています。高柳氏は次のように書いています。
「フロイスはこのことについてその書状の中で、家康は引連れていた兵士も多く金子(きんす)も十分であったので、あるいは脅し、あるいは物を与えて通過することを得たが、信君は出発が遅れた上に部下の人数も少なかったために、たびたび一揆に襲撃され、部下と荷物とも失い、最後には自分も殺されたといっている。これは恐らくは事実であったろう」
果たしてフロイスはどうやってこの情報を誰から入手したのでしょうか。家康一行の行動も梅雪一行の行動もあたかも両方を見ていたように書いています。現代のような報道機関のない時代にもかかわらず、実況中継をみるような感覚がします。物語である軍記物は必ずこういった書き方になるのですが、報告書を書くべきフロイスもたびたびこういった書き方をしています。
それでは実際に家康と行動を共にした人物はどのようには書いているでしょうか。
家康一行に同行して伊賀越えを行った商人の茶屋四郎次郎は次のように書いています。(『茶屋由緒書』の要約)
「追々本能寺の変の話も伝わってきて、ところどころ山賊共が蜂起するだろうから、四郎次郎が先に立って用意した金を配ったので、あちこちの者が案内を買って出て家康はご機嫌よく三河に帰った」
これを読むと「命からがら」といった緊迫感はありません。
それもそのはず。服部半蔵や伊賀者二百人近くが家康一行の護衛についていたのです。(詳しくは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』参照)
この記事の書かれた『茶屋由緒書』は寛永元年(1624年)に成立しているようです。一方、同じく家康に同行して「神君伊賀越え」を行った家臣の酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らの手柄話も残されています。それらには一揆を自分が追い払ったと書いたものもあれば、一切一揆の記載のないものもあります。一揆の話が書かれたものも「つつがなく御帰還」とか「難なく還らせらる」という言葉が書かれており、やはり「命からがら」というトーンではありません。
もっとも、これらが書かれた『寛永諸家系図伝』は1649年から51年までに編纂されたものですし、『寛政重修諸家譜』にいたっては1789年から1801年に編修されたものですので、本能寺の変から42年後に書かれた『茶屋由緒書』よりもさらに信憑性を割り引いてみなければなりませんが。
★ Wikipedia「寛永諸家系図伝」記事
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いずれにせよ、家康の同行者の記述には高柳氏が言うような「非常の困難を極めた」という印象はありません。家康に同行した人物の記述よりも当時九州にいたフロイスの記述を信ずる妥当性はどこにもないと思うのですが、フロイスの記述もよくよく読めば家康一行にはそれほどの危機がなかったとも読めます。高柳氏には軍記物が作った「神君伊賀越え」の苦難が先入観として頭にこびりついていたのではないでしょうか?
【定説の根拠を斬る!シリーズ】
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定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
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ところで、御著書でも紹介されていたと記憶しますが、「家忠日記」は伝聞・憶測と事実との差を意識し、それらを明確に峻別するような記述で統一されているのでしょうか? そうだとしたら、とりわけこの時代に書かれた物としての情報的価値の高さは出色であり、この文書を基準に事実認定がなされてもいいほどの資料ではないかと考えます。
これは寡聞にして知らないのですが、光秀クラスの武将で、いわゆる落ち武者狩りの犠牲と認定されている者はいるのでしょうか? 印象では、「殿」と呼ばれるような身分の者が百姓に殺されたというケースは、あっても極めて稀なのではという感じです。 それが「本能寺」に関連して、光秀、梅雪と2人もやられている事に何か不自然なものを感じています。 そもそも、梅雪の墓はどこにあるのでしょう? 遺体は回収されたのでしょうか?
伊賀者200名の護衛とは物々しい話です。 いかに「忍者」とは言え、不測の事態に際してボランティアで200人も緊急集合できるものでしょうか? むしろ、丸腰で信長との面会に出かけざるを得なかった家康が、いざと言うときの保険として、特殊部隊を手配していたと考える方が自然に思えます。 そして、それならなおさら梅雪が一揆にやられたというストーリーの信憑性が下がるのではないでしょうか。
「軍記物」の根拠は極めて薄弱で、事実認定の資料とはなりえない、と言う事に尽きるのかもしれませんね。