本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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本能寺の変:定説の根拠を斬る!「中国大返し」

2010年06月22日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎著、文芸社文庫) 24万部突破!!
        >>> 本能寺の変の定説は打破された

 本能寺の変に関する通説のおおもとは羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』にあることは既に書いた通りです。通説とは世の中に広まっている説ですが、本能寺の変に関する通説は通説の域を越えて定説になってしまっているものが多いと思います。定説とは学術的な裏付けも得て史実として認定されている説です。 
 疑いようのない史実と広く世の中に信じられている定説も実は『惟任退治記』に秀吉が書かせたことに過ぎないことを是非知っていただきたいと思います。
 ★ 通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』

 その代表的なものが愛宕百韻の光秀が詠んだとされる発句です。「ときは今 あめが下しる 五月かな」は秀吉が光秀の詠んだ本当の句を改竄したものと見破ったことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にも本ブログにも書いた通りです。
 ★ あなたも挑戦!愛宕百韻完全解読

 他にもいろいろあります。この「定説の根拠を斬る!」シリーズでは「これもそうだ!」という「定説」を順にご紹介していきます。
 まず、今回は秀吉が天下をとるきっかけとなった有名な「中国大返し」の定説を取り上げます。『惟任退治記』には次のように書かれています。
 「さて、備中秀吉の陣には、六月三日夜半ばかり、密に注進あり。秀吉これを聞きて、心中愁傷限りなしといえども、少しも色に出さず」(中略)
 「高松の城主清水兄弟、芸州の加勢の主人三人腹を切り、雑兵(ぞうひょう)はこれをたすく。杉原七郎左衛門尉検使として、城を請け取り、先ず毛利家の陣を払わせ、秀吉心のどかにもてなし、六月六日未(ひつじ)の刻(午後二時)、備中表を引き、備前の国沼(ぬま)の城に至る。
 七日、大雨疾風、数か所大河の洪水を凌ぎ、姫路に至ること二十里ばかり、其の日、着陣す。諸卒相揃わずといえども、九日、姫路を立って、昼夜のさかいもなく、人馬の息をも休めず、尼崎に至る」

 台風の中を1日80キロも行軍することは物理的に難しいこと、そして六月五日には既に沼の城に入っていたことを示す秀吉の書状が残っていることから、私の歴史捜査ではこの記述は嘘と断定しました。拙著では『惟任退治記』の記述は本当の出発日を六月四日から六日へと後へ2日ずらしていると結論付けています。
 ★ 秀吉の「中国大返し」の捜査 
 ★ 秀吉の中国大返しは無理
 ★ 中国大返しはフライング
 ★ 秀吉はこうして中国大返しを準備した
 ★ 本能寺の変についての典型的な通説紹介

 『惟任退治記』に秀吉が書かせたことは秀吉が自分の都合よい内容に書かせたものだろう、というのは誰しもが考える自然なことではないでしょうか。いわゆる「大本営発表」のようなものです。まずは疑ってかかる、というのが歴史捜査の鉄則です。
 ところが中国大返しの定説は現代の本能寺の変研究では表立って疑問を唱えられることのない厳然とした史実として扱われているようです。それは何故なのでしょうか。軍記物が『惟任退治記』の記述を使って、同じような内容を次々と書いたからなのでしょうか。
 どうもそればかりではなさそうです。

 現代の本能寺の変研究に大きな影響を与え続けている1冊の本があります。歴史学界の権威者・高柳光壽氏が50年前に書いた『明智光秀』です。この本が今でも本能寺の変研究のバイブルとされ、高柳氏が本能寺の変研究の泰斗として信奉されていることはインターネットを検索してみればすぐにわかります。「科学的・論理的」「完璧」「名著」「研究の原点」といった賛辞にあふれています。
 ★ KINOKUNIYA書評空間
 ★ amazonカスタマーレビュー(画面の下の方)
 ★ Wikipedia「高柳光壽」記事

 それでは高柳氏が『明智光秀』の中で中国大返しについてどのように書いているかみてみましょう。少し長文の引用となりますが、正確を期してそのまま引用することにします。

 「そういうところへ六月三日の晩本能寺の変の変報が秀吉のところに達したのであった。そこで秀吉は安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を招いて毛利氏との講和の斡旋に当らせ、結局高松城は開城し、城兵の命を助け、(清水)宗治に腹を切らせ、備中・美作・伯耆などを毛利氏から織田氏に割譲するという条件で講和が成立した」(中略)
 「翌四日の午前秀吉は清水宗治を自殺させ、すぐに家老の杉原家次に高松城を請取らせた。そして秀吉は翌日の五日まで高松に在陣し、また家次にこの城を守らせて毛利氏の動静を監視させたが、その翌六日の申(さる)の刻(午後四時)まず大丈夫と見極めをつけて急に高松を発し、夜に入って備前の沼(岡山県岡山市)に到り、七日には大雨・大水を冒して数ヶ所の大河を渡って姫路に帰った。この日の行程は約八十粁(キロメートル)、部下の将兵はなおまだ帰着しないものが多かった。ところで秀吉が六月五日付で中川清秀に与えた書状が残っているが、それには只今京都から下ったものの確かな話によれば、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に切抜けて膳所(ぜぜ:大津市)まで退いた。福富平左衛門が比類のない働きをした。めでたい。自分も早く帰城する。野殿(岡山県岡山市)で貴下の書状を見た。今日は沼まで来た、といっている。これは勿論偽りをいっているのであり、中川清秀を光秀に味方させまいとしたものである(『浅野家文書』『秀吉事記』『松井家譜』『梅林寺文書』)。
 秀吉は七日姫路に帰るとすぐに出陣の用意を命じ、奉行を呼出して在庫の金銀・米銭がどれほどあるかと問い、麾下(きか)および組下の諸将士に対し、身分に応じてそれぞれ分配支給した。これは光秀が安土に入城したときと同じことをしているのであるが、これによって人心の収攬(しゅうらん)につとめるとともに、自分に籠城の意志はなく乾坤一擲(けんこんいってき)の壮挙を決行しようとの決意を示したものであった(『川角太閤記』)」

 この文章を読んで私は次のように考えましたが、いかがでしょうか。
①秀吉の行動については『惟任退治記』(高柳氏は『秀吉事記』と呼称)の記述を全面的に(無批判に)史実と認定している。
②「大丈夫と見極めをつけて急に高松を発し」の如く、『惟任退治記』には書かれていない描写を加えて『惟任退治記』の記述を補強している。
③『惟任退治記』には書かれていない姫路城での秀吉の行動を軍記物に過ぎない『川角太閤記』の記述を使って史実としている。
④秀吉の中川清秀宛書状の書かれている内容(信長・信忠の生存)が史実と異なるとして秀吉が偽りをいったとすることにより、同時に「秀吉が既に五日に沼の城に到着していた」という史実まで偽りとしてしまった。このため、本能寺の変研究家の誰もがこの史実を秀吉の嘘としてきた。

 こうしてみていただくと定説とされているものの根拠がいかに脆弱なものであるかがおわかりいただけるかと思います。400年前の国家最高権力者と50年前の歴史学界最高権威者が作り出したものに過ぎないのです。でも、権力・権威が固めた壁はとても厚いのです。それに対して私のささやかな挑戦はいかにもひ弱です。「蜂の一刺」程度でしょうか。是非ともご支援をよろしくお願いいたします。

【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
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   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
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   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-07-02 02:35:02
柴田勝家は変の翌日の6月3日に3ヶ月続いた魚津城攻めを終えていますが、どう思いますか?かなり不自然な気がします
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