先週の「江」は徳川家康の死をはさんで、家康と秀忠、江と竹千代の二組の親子がそれぞれ初めて心を通わすというお話でした。
その中で家康が息子・秀忠に語る言葉に戦国武将としての家康の非情な論理が凝縮して表現されていました。
「わしの父は24歳で死んだ。わしは臨終に立ち会っていない。6歳から織田家の人質だったからな。その後19歳まで今川の人質だった。戦が憎い。戦のない世がくればとどれだけ願ったことか。乱世は心無い定めを与えた。妻と嫡男・信康を殺させたことだ。その時に誓った。時が来れば必ず天下をとってやると。戦のない世が欲しいならこの手で作るしかない。だからお前も人質に出した。全ては天下泰平のためだ」
この話こさりげなく出てきた家康の24歳で死んだ父・松平広忠の死因についてWikipediaで調べてみました。
「松平広忠」について書かれた記事では病死と殺害の両論併記となっています。
★ Wikipedia「松平広忠」記事
一方、殺害者とされる「岩松八弥」の記事を見ると殺害の可能性が高そうです。病死と書いた史料がすべて江戸時代に書かれたものであるのに対して、殺害と書いた史料がいずれも三河で編述されたものであり、地元三河では史実とされてきたとみられるからです。
★ Wikipedia「岩松八弥」記事
また、当時の三河の緊迫した政治状況からも、その可能性が推測されます。当時は、織田信秀(信長の父)が三河に侵攻し、広忠がそれに対抗していた時期ですので織田家が広忠に近侍していた岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性があります。
それを裏付けるのが広忠の父、つまり家康の祖父である松平清康の死です。
三河を統一した清康は尾張に攻め込み織田信秀の弟・信光の守る守山城を攻めるのですが、この戦の最中に家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られて殺されました。これによって松平勢は「森山崩れ」といわれる大敗を喫しました。清康25歳の死です。
★ Wikipedia「松平清康」記事
織田家との攻防の途上で父も祖父も20代半ばで非業の死。おそらく家康は父も祖父も信長の父・信秀に殺されたと考えていたでしょう。「信長が同盟者の家康を殺すわけがない」と頭から思い込んでいる方々には是非知っていただきたい松平(徳川)家と織田家との歴史です。
ある瞬間の人間の判断は切り取られたその瞬間の情報で決まるのではなく、生きてきた人生の総和で答が出てくると私は感じています。「江」の脚本家は家康の語った言葉でそのことを言ってくれていると思いました。
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「松平広忠」について書かれた記事では病死と殺害の両論併記となっています。
★ Wikipedia「松平広忠」記事
一方、殺害者とされる「岩松八弥」の記事を見ると殺害の可能性が高そうです。病死と書いた史料がすべて江戸時代に書かれたものであるのに対して、殺害と書いた史料がいずれも三河で編述されたものであり、地元三河では史実とされてきたとみられるからです。
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また、当時の三河の緊迫した政治状況からも、その可能性が推測されます。当時は、織田信秀(信長の父)が三河に侵攻し、広忠がそれに対抗していた時期ですので織田家が広忠に近侍していた岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性があります。
それを裏付けるのが広忠の父、つまり家康の祖父である松平清康の死です。
三河を統一した清康は尾張に攻め込み織田信秀の弟・信光の守る守山城を攻めるのですが、この戦の最中に家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られて殺されました。これによって松平勢は「森山崩れ」といわれる大敗を喫しました。清康25歳の死です。
★ Wikipedia「松平清康」記事
織田家との攻防の途上で父も祖父も20代半ばで非業の死。おそらく家康は父も祖父も信長の父・信秀に殺されたと考えていたでしょう。「信長が同盟者の家康を殺すわけがない」と頭から思い込んでいる方々には是非知っていただきたい松平(徳川)家と織田家との歴史です。
ある瞬間の人間の判断は切り取られたその瞬間の情報で決まるのではなく、生きてきた人生の総和で答が出てくると私は感じています。「江」の脚本家は家康の語った言葉でそのことを言ってくれていると思いました。
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私も明智様の著書を読んで、家康を取り巻く祖父清康 父広忠 そして長男信康の死を 織田家の画策とされ非常に興味を持ったのですが、ただ1点気になったのですが、Wikipedia「松平広忠」によると、明智様の変の真相解明の要となった『家忠日記(増補?)』が広忠病死としていると書かれていることです・・・ 明智様はその辺りをどのようにお考えでしょうか? ただ私は確かに織田家画策による 広忠暗殺「未遂」はあったのではないか?
と考えます・・・
Wikipedia「松平広忠」の記事はこういった史料評価を抜きにして書かれています。これが戦国史研究界の驚くべき常識です。300年後に大河ドラマ「江」が参考文献とされているようなものです。この困った常識を壊したいのですが、とても強固でこわれそうにありません。
実は「改ざん」なのですね・・・ 清康 広忠 二代続けて暗殺されたという事実は 後の徳川政権にとって都合の悪い事だったという事でしょうか・・・?
それに関連して今度は 長男「信康事件」について気になります。Wikipediaには 『家忠日記』がちらほら参考文献として出てきています。
記事を見て今度は逆に家康の方が信長を利用した感
がするのも否めません・・・
明智様が以前 『秀忠遅参の謎』にて御指摘されたのと同じように「信康事件」についても家康に騙されているような気がします。「信長の命で泣く泣く信康を処罰した・・・」と