先日私は運のみで合格した話をしました。
今から振り返って見ると、こういう運が果たして幸運だったと言えるのか非常に微妙な感じがする。
もしかしたら不運の始まりみたいなものだったのかも知れないのだが、これは家の中では広言できません・・・地方出身者同士が出会って・・・
ともあれ、人の親になって、娘や息子が受験生だった頃に自分の若い頃を思い出さずにはいられなかったので「しっかり勉強しろ」とは言えなかったですね。
例え自分の子供に親の立場でものを言うにしても、自分の若い頃を考えたら恥ずかしくて説教など出来ない。
せいぜい「しっかり勝負度胸とか運を磨いて、いざと言う時に発揮しろ」くらいだろうか・・・これでは子供たちをギャンブラーに育てるみたいですから、口には出せません。
普通に親馬鹿な親なら「十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人」ともう少し子供をちやほやしても良さそうなものですが、(ふと思い出したのですが)私の父は私が子供の「将棋」「トランプ」「花札」「ルーレット」など買ってくれました・・・これって「勝負に強くなれ」という事だったのかも・・・父自身はギャンブルは勿論、勝負事のゲームは一切しなかったのに相当怪しい
私は自分の子供に「勉強頑張れ」とか受験の話は全くしなかった。
「やりたいことや、親の援助が無ければ出来ないことについては相談すること」マアその程度の話です。
しかも「援助が出来ること、出来ないことはあるけれどネ」と断りを入れている
全く頼れない親です。
私が自分母親によく言われていた決まり文句
「お前はやれば出来る子なんだから・・・」母親は甘いですね。
これが正当な評価のはずが無い、それは単なる励ましなのか>>叱咤激励にならない甘チャン編でしょう。
「やれば出来る」>>>この言葉そのものは正しいでしょう
しかし裏面からいえば「やらないから出来ない」となるわけで、「やる」即ち努力出来ることも能力のうちであり才能なんだと言うことを軽視あるいは無視している。
私の場合自分ではこの能力が人様より劣っているとは認めたくないのですが、その前にもう一つフィルターみたいなものがあってそれが問題。
「人並みにやろうとする」という姿勢、あるいは「人並みでいたい」と言う意識が著しく希薄・欠如しているらしい。
「自分がやりたいことは人並み以上にやるが、興味が無いものには気持ちが向かない」=「人並みに出来ないことがあっても一向に気にならない」となるから、「やる気になる」ものと「全くやる気にならない」ものがハッキリしている。
(この点血液型の類型の典型的なB型らしい・・・私の性格をBのプトタイプに決めたかのように)
「やれば出来る」と言う言葉は正しくても「やる気にならない」ことについては「やれば出来る」は起こり得ない。
テストの出来が悪い時、通信簿が思わしくない時、母親から「やれば出来るのに」と叱られながら心の中では『だって、やる気にならないもの』と呟いていたものです。
さて囲碁にも似たような話があるのでは無いだろうか
(勿論私くらいのザルレベルの話)
私がよく対局するリアルでの話です。
例えば相手にいくつか置かせた場合でも、私は自分では”考えるところ”ではは考える・・・と思っている
これは当たり前の話ですよね
白の立場で言うと、置かせ碁は互い先の碁より条件が悪い分だけ難しい筈
「いづれどこかで相手は間違える筈だから、適当に打っておけばいい」みたいに相手のミスを織り込んだような手は打てないはず
少なくとも局面での折衝で、相手のミスを期待した戦いは出来ない
相手が間違わなければ潰される危険性が高いわけで・・・
マア、白としては序盤からの無理な戦いは避けて、「構想」で戦うみたいな気分でしょうか
それでも局面の戦いで相手に隙が見えれば、そこを突くのが良いのか、あるいはその弱点をもう少し拡大する方向に導き、チャンスを大きくした方がベターか・・・などなど考える。
だから、白を持った方だって結構時間を使う。
黒さんも白が考えている間に一緒に考えている筈なんだけれど・・・普通はどうなんだろう?
白が打ってから考える?・・・そんなことは無いと思うのだけど
ともあれ、非公式であり単なるお楽しみ碁ですから時計など使っていない
従って対局時間=考える消費時間の割合は、白>黒となり、対戦成績もまあ白>黒となる。
だから「上手にあんなに考えられてはかなわない」=「上手が考えるのはズル」みたいなことを言われてしまう。
置かせて、ろくに考えずに打てるのなら相当に強いか、置石が少ないかだと思うのです・・・
心の中では『あなたも考えて打てば好いでしょう』なんだけれど、これは喧嘩の売り買いみたいな台詞だから言えないです
マアそういうやり取りもアマのザルならではでしょうが、多少の勘違いと錯覚を含んでいるようです。
例えば、プロに指導を受ける時、アマは充分に時間がありプロは早碁並の時間で打つ・・・5面くらいの多面打ちの時間的条件はそうでしょう
この時アマは時間的優位性を遺憾なく発揮できるだろうか?
アマが考えて考えて打った手に、プロは盤を見た瞬間に打ち返し、再び考え込まざるを得なくなる・・・
あるいは考えて打った手が必ずしも最善とは限らない
つまり考えれば良い手が打てるとは言えない(勿論考えても考えなくても同じだとは思いませんが)
要するに時間をかけることが最善・最強手を選択するために影響はあるけれど絶対条件ではない。
それでは「考えて打たなくてはいけない」と思うことが勘違いを含む??
少なくともアマに関して言えば単にプレースタイルかも知れません
考えて打つスタイル、あまり時間をかけないで打つスタイル
ただ、碁会所やコミュニティなどリアルで観察していると、置き碁では白を持っている方が時間を使っているように見える。
(だから私も普通ですよね)
多少失礼な表現になるけれど、「時間をかけないと置かせる碁は難しい」と同時に、「時間をかけて(考えて)打たないと、置かせる立場の碁は打てない」になるような気がします。
持って回ったような言い方なのでストレートに言うと「たまには黒さんもちゃんと考えて打たないと、いつまで経っても上達しませんよ」になる?・・・これを言ったら喧嘩になって「考えて打ってもその程度でしょうか?」と切り替えされるから「碁は難しいですね」とごまかすでしょう
そして、「考えても考えなくても五十歩百歩かも」と落ち込んでしまいそう。

今から振り返って見ると、こういう運が果たして幸運だったと言えるのか非常に微妙な感じがする。
もしかしたら不運の始まりみたいなものだったのかも知れないのだが、これは家の中では広言できません・・・地方出身者同士が出会って・・・
ともあれ、人の親になって、娘や息子が受験生だった頃に自分の若い頃を思い出さずにはいられなかったので「しっかり勉強しろ」とは言えなかったですね。
例え自分の子供に親の立場でものを言うにしても、自分の若い頃を考えたら恥ずかしくて説教など出来ない。
せいぜい「しっかり勝負度胸とか運を磨いて、いざと言う時に発揮しろ」くらいだろうか・・・これでは子供たちをギャンブラーに育てるみたいですから、口には出せません。
普通に親馬鹿な親なら「十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人」ともう少し子供をちやほやしても良さそうなものですが、(ふと思い出したのですが)私の父は私が子供の「将棋」「トランプ」「花札」「ルーレット」など買ってくれました・・・これって「勝負に強くなれ」という事だったのかも・・・父自身はギャンブルは勿論、勝負事のゲームは一切しなかったのに相当怪しい
私は自分の子供に「勉強頑張れ」とか受験の話は全くしなかった。
「やりたいことや、親の援助が無ければ出来ないことについては相談すること」マアその程度の話です。
しかも「援助が出来ること、出来ないことはあるけれどネ」と断りを入れている
全く頼れない親です。
私が自分母親によく言われていた決まり文句
「お前はやれば出来る子なんだから・・・」母親は甘いですね。
これが正当な評価のはずが無い、それは単なる励ましなのか>>叱咤激励にならない甘チャン編でしょう。
「やれば出来る」>>>この言葉そのものは正しいでしょう
しかし裏面からいえば「やらないから出来ない」となるわけで、「やる」即ち努力出来ることも能力のうちであり才能なんだと言うことを軽視あるいは無視している。
私の場合自分ではこの能力が人様より劣っているとは認めたくないのですが、その前にもう一つフィルターみたいなものがあってそれが問題。
「人並みにやろうとする」という姿勢、あるいは「人並みでいたい」と言う意識が著しく希薄・欠如しているらしい。
「自分がやりたいことは人並み以上にやるが、興味が無いものには気持ちが向かない」=「人並みに出来ないことがあっても一向に気にならない」となるから、「やる気になる」ものと「全くやる気にならない」ものがハッキリしている。
(この点血液型の類型の典型的なB型らしい・・・私の性格をBのプトタイプに決めたかのように)
「やれば出来る」と言う言葉は正しくても「やる気にならない」ことについては「やれば出来る」は起こり得ない。
テストの出来が悪い時、通信簿が思わしくない時、母親から「やれば出来るのに」と叱られながら心の中では『だって、やる気にならないもの』と呟いていたものです。
さて囲碁にも似たような話があるのでは無いだろうか
(勿論私くらいのザルレベルの話)
私がよく対局するリアルでの話です。
例えば相手にいくつか置かせた場合でも、私は自分では”考えるところ”ではは考える・・・と思っている
これは当たり前の話ですよね
白の立場で言うと、置かせ碁は互い先の碁より条件が悪い分だけ難しい筈
「いづれどこかで相手は間違える筈だから、適当に打っておけばいい」みたいに相手のミスを織り込んだような手は打てないはず
少なくとも局面での折衝で、相手のミスを期待した戦いは出来ない
相手が間違わなければ潰される危険性が高いわけで・・・
マア、白としては序盤からの無理な戦いは避けて、「構想」で戦うみたいな気分でしょうか
それでも局面の戦いで相手に隙が見えれば、そこを突くのが良いのか、あるいはその弱点をもう少し拡大する方向に導き、チャンスを大きくした方がベターか・・・などなど考える。
だから、白を持った方だって結構時間を使う。
黒さんも白が考えている間に一緒に考えている筈なんだけれど・・・普通はどうなんだろう?
白が打ってから考える?・・・そんなことは無いと思うのだけど
ともあれ、非公式であり単なるお楽しみ碁ですから時計など使っていない
従って対局時間=考える消費時間の割合は、白>黒となり、対戦成績もまあ白>黒となる。
だから「上手にあんなに考えられてはかなわない」=「上手が考えるのはズル」みたいなことを言われてしまう。
置かせて、ろくに考えずに打てるのなら相当に強いか、置石が少ないかだと思うのです・・・
心の中では『あなたも考えて打てば好いでしょう』なんだけれど、これは喧嘩の売り買いみたいな台詞だから言えないです
マアそういうやり取りもアマのザルならではでしょうが、多少の勘違いと錯覚を含んでいるようです。
例えば、プロに指導を受ける時、アマは充分に時間がありプロは早碁並の時間で打つ・・・5面くらいの多面打ちの時間的条件はそうでしょう
この時アマは時間的優位性を遺憾なく発揮できるだろうか?
アマが考えて考えて打った手に、プロは盤を見た瞬間に打ち返し、再び考え込まざるを得なくなる・・・
あるいは考えて打った手が必ずしも最善とは限らない
つまり考えれば良い手が打てるとは言えない(勿論考えても考えなくても同じだとは思いませんが)
要するに時間をかけることが最善・最強手を選択するために影響はあるけれど絶対条件ではない。
それでは「考えて打たなくてはいけない」と思うことが勘違いを含む??
少なくともアマに関して言えば単にプレースタイルかも知れません
考えて打つスタイル、あまり時間をかけないで打つスタイル
ただ、碁会所やコミュニティなどリアルで観察していると、置き碁では白を持っている方が時間を使っているように見える。
(だから私も普通ですよね)
多少失礼な表現になるけれど、「時間をかけないと置かせる碁は難しい」と同時に、「時間をかけて(考えて)打たないと、置かせる立場の碁は打てない」になるような気がします。
持って回ったような言い方なのでストレートに言うと「たまには黒さんもちゃんと考えて打たないと、いつまで経っても上達しませんよ」になる?・・・これを言ったら喧嘩になって「考えて打ってもその程度でしょうか?」と切り替えされるから「碁は難しいですね」とごまかすでしょう
そして、「考えても考えなくても五十歩百歩かも」と落ち込んでしまいそう。

