岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

土砂災害は緑が救う / 先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及する(その3)

2009-08-16 05:39:14 | Weblog
(今日の写真は雪消え直後の「岩木山百沢スキー場」のゲレンデだ。リフト降り場の手前にはまだ、残雪が少しだがある。
 「砂漠だ」と思ったのが、最初この光景を見た時の印象だった。この「岩木山百沢スキー場」が出来てから数年後の1975年8月6日に、大きな土石流が発生して、百沢の住民22名が命を奪われたのである。)

            ◇◇ 土砂災害は緑が救う ◇◇

 今日の写真に見える「百沢スキー場」の敷地は国有林地で、蔵助沢付近の61.58haだった。そこの標高 800m以上の部分約6haが「土壌流出防備保安林」であり、標高800m以下の部分が「水源涵養保安林」であった。
 そこは、下部がタムシバやコナラ、ムシカリなどが生い茂る雑木林であり、上部はミズナラの純林で大木が多く、鬱蒼とした森だった。つまり、この部分が「水源涵養保安林」だったのである。
 そして、さらにその上部には「ブナ」の森が続いていた。ところが、スキー場のある尾根の「ブナ林」は標高900m以上のところまで「きれい」に伐られているのだ。
 それは、現在、「スキー場ゲレンデ」となっていない「尾根上部」であり、「ゲレンデ」でないのだから、「伐る」必要は何もないのではないかと思うのだ。
 「標高 800m以上の部分約6haが伐採」されたというがそんなものではない。もっと広い。しかも、「土壌流出防備保安林」だったところである。
 「土壌流出防備保安林」も「水源涵養保安林」も、スキー場の開設にあたり、その指定が解除されたのである。それ以後の拡張も含めた総森林伐採面積は19.63haとなっていたのである。
 また、1974年の「平坦化工事」として、蔵助沢がゲレンデを斜めに横断する約200mのうち、町道とも交差する場所には暗渠用ヒューム管を埋め、礫が埋められ、その上がアップルロードの残土で覆われたのである。
 この「残土」が、災害時の土砂に混じって流下していたことが、「土石流の発生・拡大」を増幅させたのである。百沢土石流災害は「人災」であると、私は今でもそう思っている。

 先日の毎日新聞電子版の「憂楽帳」に、次のような記事があった。

 『死者が30人に上った中国・九州北部豪雨。時間雨量が100ミリを超える異常気象ではあったが、災害現場で聞いた話が今も耳に残っている。
 「うちは裏山が雑木林だったので、がけ崩れが起きなかったようだ」。土砂災害で母娘2人が亡くなった福岡県篠栗町の民家近く。年配の男性は自宅背後に生い茂る木々を見上げた。
 被災場所の上部を含め、周りの多くは細い幹が密集するスギ林。そのあちこちで地滑りが起きていた。「自分が中学生だったころにどんどん植林された。こんな植え方をしていたらえらいことになる、と思っていたが……」
 国が造成を進めた人工林は、林業の衰退で荒廃が進む。適切に間伐されないと、日光が遮られて下草が育たず、地表が流出し、土砂崩れの危険が高まるとされる。「緑のダム」としての保水力が落ち、洪水も起きやすいと訴える研究者もいる。
 最近の猛烈な雨が、国土のぜい弱さをあらわにしているようにも思える。温暖化防止と一石二鳥で、新たな植林事業などによる防災が進められないものだろうか。』
 これはすべて当たっているだろうし、岩木山にもこのすべてが当てはまるのである。「森林は伐るべきではないし、育てるもの」だ。

◇◇先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及する(その3)◇◇
(承前)

 『夏休みに自然体験を企画する子どもだけのキャンプに「就学前の小さな子」をり出す親』がいる。
 これもまた、あきれた話しだ。先ずは「言葉の意味」とその整合性についての理解がない。キーワードは「夏休み」、「子どもだけのキャンプ」と「就学前の小さな子」だろう。
 「夏休み」のある「子ども」だけというのが「キャンプ」に参加出来る条件なのだ。となれば、ここで言う「子ども」というのは「小学生から中学生」が対象となるはずだ。
 そこに、「就学前の小さな子」、つまり、幼稚園児や保育園児を参加させようとするのだから、呆れるのである。
 言葉が分からない。その意味が分からない。その論理性が分からない。言葉と言葉のつながり全体が示す「思考」理解が出来ない。これが、親なのである。
 「自然体験」とは、あくまでも、「自然の中」で、「自主的、主体的」に行動することが基本原則である。「導入部分」では「主催者」がある程度まで「手を取り足を取って」指導はするが、「展開的な活動」は、個々の自主性に委ねられる。自助努力の世界なのだ。だからこそ、「体験」が実感され、新しい発見が喜びとなり、生きてくるのだ。
 「これは何々ですよ。分かりましたか」という世界では「自然」は「体験」出来ない。

 「テント」で「キャンプ」をするということは、「食と住」をすべて自分たちで「賄う」ことが「参加者各自」に要求されることだ。
 つまり、テントという「家」を自分たちで建てて、「食事」も自分たちで調理して作らねばならないのだ。食べた後の始末も含めて、すべて「自分たち」でしなければいけない世界が「キャンプ」なのだ。
 このような世界に「箸を使えない」とか「親に食べさせてもらっている」とか「衣類の着脱が出来ない」とかいう「幼児」が参加出来る訳がないだろう。
 さらに、テント生活やキャンプとは「集団性」が強いものだ。だから、「集団としての守るべきルール」があり、その遵守が要求されるものだ。「自主的な自律」性に欠ける「幼児」には、その「ルール」の意味すら分からないだろう。
 このようなことが、「大人である親」に理解されないのだ。「体と顔つきは大人」だが、「思考回路」は「幼児並み」という親が増えている。
 これは、恐ろしいことだが、このような親の増大を密かに願い、喜んでいる人たちもいる。それは「為政者」である。「アホ」な国民が多くなるほど「政治」はし易い。政治家の「虚言」はばれず、「無駄遣い」がどんどん出来るからだ。(明日に続く)

セミの鳴き声が聞こえない / 先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及する(その2)

2009-08-15 05:23:16 | Weblog
 (今日の写真は藤崎方面から岩木川に向かって進む道路から見た岩木山だ。昼を過ぎた頃に撮ったものだ。空はすっかり「秋空」である。確かに「暦の上」では立秋は過ぎたし、秋なのだろうが、まだ8月の中旬だ。
 まだまだ、「残暑」が厳しくてもいい時季である。残暑というよりも、「ねぷた」が終わり、「お盆」というと「盛夏」という季節だろう。だが、空の風情は秋である。
 昨日の気温は、日中、もっとも温度が上がるという午後の2時頃でも25℃を切っていた。南風なのに「涼しい」のである。夕方になると風向きは逆になり「北風」だった。これは涼しかった。我が家の造りだが、「西」に窓が少ない。これは、「西日」を避けるためである。南と北に面した窓を開放すると、それぞれの側から「風」が吹き込んで涼しい。だが、今季は別に「西日」を遮断することもない。
 今季はまだ1度も「エアコン」を作動させてはいない。そういえば、昨年の夏も「エアコン」を作動させることはなかった。
 この西日も最近は早々と「岩木山」の山頂付近に沈んでくれる。夏至の頃は、弘前から見て、ずっと右側の「山の端」に沈んで、長い時間「西日」を照射していたが、昨日も山頂付近に沈んだ。「山頂付近」だが、これは、山頂に「向かって」左側に沈んだということだ。
 まさに「天」は高い。「天高く馬肥ゆる秋」の風情だ。だが、これでいいのだろうか。「梅雨あけ」の宣言もなく、秋なのだ。)

         ◇◇ セミの鳴き声が聞こえない ◇◇

 昨日の毎日新聞電子版「余録:冷夏とセミ」に次のようなことが書かれていた。

 「いつもの夏よりだいぶ早くから東京近郊の自宅近くでセミの死骸(しがい)にアリが群がっている様を見かけるからだ。例年あおむけに大往生したたくさんのセミで夏の終わりを知るのとは、やや様子が違うように思われる。
 何か地域特有の環境の変化のせいかもしれないが、やはり疑いたくなるのは冷夏の影響だ。そもそもいつもならうるさいほどのアブラゼミの鳴き声が今年はおとなしい。晴天の日が少ないことも鳴き声の総量に影響しているのかもしれない。
(中略)羽化はしたものの大声で鳴ける天気をひたすら待つのはセミばかりではない。
 とはいえ鳴くため与えられた地上の生で、存分に鳴けぬまま終わるセミがいるなら哀れだ」

 …確かにそうだ。これは何も「東京近郊」に限ったことではない。
 私の家は田町の「熊のん様(熊野宮)」の直ぐ裏にある。私はこの「熊野神社」に救われている。朝から晩までである。「救われている」というが、信仰的な意味ではない。 それは、「境内林」のあることによるものだ。朝はこの林で鳴く小鳥たちの声が目覚まし時計である。季節の移ろいを鳥たちが教えてくれる。
 カラスが巣を造り子育てをするし、猛禽類のハヤブサの鳴き声も、時たま聞こえる。夜は「フクロウ」が鳴き、時には「トラフヅク」が子育てをして、巣立ちの頃には夜明けまで「幼鳥」が、哀れな鳴き声を聞かせてくれる。
 狭い境内林なのに、有り難いことに「まともな自然」を与えてくれるのだ。
 日中、一時的に「鳥の鳴き声」が途切れることがある。もちろん、セミも朝から鳴いているのだが、そのような時には「セミ」の合唱が聞こえる。夏の昼下がりに顕著だ。だが、今年は「鳥」は鳴くけれども「セミ」の鳴き声は全く聞かれないのだ。
 そのうちに、これら「鳥」たちの鳴き声も聞かれなくなることがあるのでは…と考えると「ぞっと」してしまうのだ。
 岩木山も同様だ。エゾハルゼミに始まる鳴き声も少なかったし、それ以降に出てくるセミの鳴き声は殆ど聴くことが出来ない。恐ろしい。

 ◇◇ 先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及する(その2)◇◇
(承前)

 ご苦労さんにも、人力で「エアコン」と「発電機」、それに「ガソリン」をテントサイトまで、運んでいったとしよう。
 「発電機」のガソリンタンクに「ガソリン」を入れる。電源ケーブルで「エアコン」に接続する。「エアコン」の冷気送風口に「ダクト」をガムテープで取り付ける。
 これはそのような仕様になっていないから難しい。長方形の送風口に円形パイプ状の「ダクト」を付けるなんてことは常識では考えられないことだ。その「ダクト」の先端をテントの排気孔から差し込んでテント内に入れる。これで、一応準備はOKだ。
 発電機を作動させる。機関銃のような音を出して発電機が動き出す。森に囲まれた静かなテントサイトに騒音が響く。エアコンをオンにする。途端に発電機は爆発音に近い音を立てて喘ぎ始める。
 エアコンは「冷蔵庫に扇風機を付けた」ようなものだから、消費電力が大きい。「発電機」は自己の「発電容量ぎりぎりのところ」で動くから、喘ぎながら轟音を発するのである。
 それは「これ以上は無理だ。出来ない、助けてくれ」と言って「泣き叫んで」いることなのである。
 これだと、静閑な森、その森に囲まれた自然が台無しである。森に棲む野鳥や動物たちにどれほどの「恐怖」を与えていることだろう。
 これでは、「キャンプファイヤー」と称して、火を焚き、花火を打ち鳴らして馬鹿騒ぎをする輩と同じである。本ものの「キャンプファイヤー」は「森や自然の聖霊に感謝すること」をその根本に置くものである。だから、敬虔な「儀式」的な要素を持っているものであり、「馬鹿さ騒ぎ」とは無縁のものである。

 「冷気」がダクトを通じてテント内に送り込まれる。「排気孔(ベンチレイター)」は「ダクト」によって塞がれている。冷気を外に漏らさないように入り口の「ファスナー」はきつく閉められている。まさに、中にいる人は、密封された空間にいることになる。 もしも、この「冷気」に有害なガス、たとえば「炭酸ガス」でも混じっているとすれば、大事だ。自動車内を密閉して「練炭」を焚いて「自殺」をする原理そのものの実験が出来るというものだ。実験成功は言うまでもない。
 もともと、「エアコン」は厚い壁で仕切られている場所で使用するものだ。それを「布」1枚の仕切りで使うこと自体が「奇想天外」を越えた「阿呆」な行為なのだ。冷気はどんどん外部に放散してしまう。どだい最初から無理な発想、無知な発想なのであり、常識ある「親」や「大人」のすることではない。
 「ガソリン」を燃やして「発電機」を稼働させると、もちろん、「CO2」を排出する。(明日に続く)

オオマルハナバチのこと / 先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及する(その1)

2009-08-14 05:20:13 | Weblog
 (今日の写真はエゾノツガザクラで吸密するミツバチ科マルハナバチ亜科マルハナバチ属の「オオマルハナバチ(大丸花蜂)」だ。大きさは2cm前後だろう。活動時期は4月から10月である。北海道、本州、四国、九州に分布する。)

             ◇◇ オオマルハナバチのこと ◇◇ 

 黒色と黄白色のふさふさとした毛で全身が覆われたハチで、顔にも黒い毛がはえている。これはミツバチに近い仲間で、幼虫のエサとして花粉と花蜜を集める。
 舌が長くて、花蜜が奥に隠された細長いツリフネソウの花やツガザクラのように壺型で、形の複雑な花からも花蜜を吸うことが出来る。そのような花には「他の昆虫」はあまりやって来ない。
 実際、この場所で、これまでお目にかかった昆虫は、この「オオマルハナバチ」と「ミヤマアゲハ」、それに「アサギマダラ」ぐらいである。私の狭い庭には藤の木が1本あるが、花の咲いている頃は、垂れ下がった花の下に立つと「ブンブン、ウオーンウオーン」というもの凄い「ハチ」たちの羽音が聞こえる。それほどに「里の花」には「虫」たちが群がるのに、ここの「エゾノツガザクラ」には「群がる虫」は殆どいない。
 そのような中で、数少ない蝶の仲間や「オオマルハナバチ」などが花から花へ花粉を運ぶ「花粉媒介」の役割をしているのだ。「オオマルハナバチ」は自然界の中で大切な役目をする働き手だ。
 亜高山帯や高山帯では、「オオマルハナバチ」の他に「ヒメマルハナバチ」や「ナガマルハナバチ」などが見られるそうだ。

 ところで、オランダやベルギーで、トマトのハウス栽培で「花粉媒介」に利用されていた「セイヨウオオマルハナバチ」が1991年から日本にも導入され、現在多くの個体が輸入され主にトマトのハウス栽培で使用されている。農家の省力化や品質の向上に役立っている。
 しかし、それが逃げ出して野性化、定着した場合、「日本の在来のマルハナバチ類」や「在来のマルハナバチ類に花粉媒介されていた植物」に大きな影響を与える可能性があるのだ。そして、1996年に北海道で、野外営巣が発見され、また、本州各地で女王蜂や雄蜂、それに働き蜂が野外で発見され、野性化の可能性が大きくなっている。

 この写真のものは「尻の部分」が橙色を帯びているから「オオマルハナバチ」であることは間違いないだろう。
 しかし、ファインダーを通して見た時は、ちらりと「尻の部分」が「白く」見えたのだ。『えっ何で!岩木山に「セイヨウオオマルハナバチ」がいるのだ?』と一瞬たじろいだのである。
 そのようにならないことを強く祈っている。

  ◇◇ 先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及したいこと ◇◇

 『「テントにエアコンあるの?」と聞く親がいる』ということなどは論外だ。笑止千万なことだが、このような親がいるのである。
 この親は無知である。「エアコン」が何をエネルギーにして、作動しているものなのかを知らない。「エアコン」が作動するエネルギーは「電気」である。「動くもの」には「エネルギー」が必要であるという最も基本的な「論理」の学習をしていないといってもいい。
 だから、「スイッチオン」で作動するという短絡的な思考回路で捉えてしまうのだ。恐らくこのような親は、人生のすべてを、この「短絡的な思考回路」で把握して生きているのだろう。きわめて脳(能)天気な「幸せ者」だ。
 中には、『「電気エネルギー」で作動することぐらい知っている。キャンプ設営場所が送電線による電気のない場所であることも知っている。発電機で「電気」を作りだして、その「電気」で「エアコン」を作動させることが出来るかを訊いたのだ』と反論する者がいるかも知れない。
 それよりも、先ず、「エアコン」が問題だ。「エアコン」は大きくて重い。外側と内側に「壁」という仕切りがないと設置は不可能だ。さらに、外側と内側にかなりの容量である固体機器を突出させる。
 「テント」の仕切りは「布1枚」だ。そこに、どのようにして「エアコン」を設置しようと言うのか。「エアコン」設備をテント外に置いて、「冷風・冷気」の吹き出し口に「ダクト」を付けて、それをテント内部にいれて、「冷風・冷気」を取り込むのだというような「屁理屈」はいえるかも知れないが、これとて「引かれ者の小唄」に過ぎない。
 「エアコン」も「発電機」も重い。その上「嵩」がある。何で運搬するのか。自動車では行けない。テントサイトまでの道は歩道である。
 集団装備は「大人のスタッフ」が背負い、個々人は「自分の食糧や衣類、寝具」を背負う。だれが、「エアコン」と「発電機」を運べるというのだろう。
 仮に、「エアコン」と「発電機」を運び持って行ったとして、「発電機」を作動させる「エネルギー源」である「ガソリン」をどのようにして誰が運ぶのか。
 まあ、それも運んでいったとしよう。(明日に続く)

今年の熊は腹を空かしている

2009-08-13 05:23:46 | Weblog
(今日の写真は、春5月残雪の上を走り去る「ニホンツキノワグマ(日本月輪熊)」だ。これには、「焼け止り小屋」近くで出会った。
 体長が110~130cmで、単独で森林に棲み、昼夜活動し植物の芽、木の実、昆虫などを食べる雑食性である。雌は冬眠中に出産する。
 このような出会いもあった…。
『フキノトウの先だけが摘み取られている。冬眠から醒めた熊は先ずこれを漁る。今し方の採餌痕、近くにいる。左岸に急斜面のブナ林が見え、その幹は白く眩しい。黒いものが林内の雪の上を横切って行く。ゆっくりと歩く熊だ。時々、立ち止まっては私を見る。』
 嬉しく懐かしく、古い友達に会ったような気持ちになり夢見心地の中にいた。岩木山にもまだ生きていたのだ。ここ数年害獣駆除の名目で熊は殺され続けていた。

・去年今年害獣という名尽きえたり命雄々しく熊の往くなり(三浦 奨)

     ◇◇今年の熊は腹を空かして里に早々と下りてきている…◇◇

 朝日新聞「電子版8月12日」の秋田県版に次のような記事があった。
『奈良漬け目当て「暴れグマ」、仕留めてみたら… 秋田』

 「奈良漬け」を目当てに、秋田県大仙市の無職村上誠良さん(76)方の漬物小屋を連日襲っていたクマが11日、近くの森に仕掛けられたわなにかかった。
 「酒が入っているので味をしめたはず」と、オリに奈良漬けを入れたおびき寄せ作戦が成功。猟友会が撃ち、安心したが、クマは体重約60キロとやせこけた姿だった。
 切り開いた腹には、木の実、ハチなどは見あたらず。山の狩人「マタギ」からは「今年は山中に餌がなく、やむを得ず山を下りてきたのだろう」と同情する声も。

 同じく朝日新聞の8月11日付(青森版)には「クマの食害相次ぐ」として「熊出没」の記事があった。 

 10日、クマによる食害が相次いで見つかった。
 大鰐町長峰のスイカ畑では10日午前6時ごろ、スイカ20個(2千円相当)が食べられているのを、畑を所有する農業男性(50)が見つけた。7日午後36時ごろに作業を終えた時は、異常はなかったという。黒石署によると、畑の周りにはクマの糞が落ちていたという。
 また、七戸町上志多では、トウモロコシ約70本が食べられているのが見つかった。
 野辺地町十文字の畑でも卜ウモロコシ約150本が食べられていた。
 また、平内町外童子のトウモロコシ畑では、8日午前8時ごろ、トウモロコシ80本が食い荒らされているのが発見されている。畑の周りにはクマの足跡が多数残されていたという。

 確かに今季は、「クマによる食害」や「熊出没」が非常に多い。「クマ」が里に現れて「トウモロコシ」や「スイカ」を食べる原因と理由は色々あるが、そのいずれも「人間」側の自然の収奪である。
 岩木山の例で話しをしてみよう。先ずは、「トウモロコシ」だが、現在「トウモロコシ」畑として開墾されたところは山麓の雑木林や原野と呼ばれていた場所である。
 これが、「クマと人間」の生息域を区切るための「緩衝帯(バッファーゾーン)」だった。そこに「トウモロコシ」を植えるものだから「クマ」たちは自分たちの住処に直結する場所に「餌場」があると思い込み「それ」を食べるのである。
 また、ここ数年、「営林署(森林管理署)」が所有する国有林も、あるいは民有林も全く手入れがされず、クマが「人間世界との境界地域」と認識して、それよりも先には「侵入しない」という「緩衝帯(バッファーゾーン)」が消滅状態にあることだ。このために、クマは人里に出てくるのである。クマからすると「気がつけばそこは人里だった」ということであるのだ。
 そのような、「クマ」も、例えば「漬物小屋を連日襲っていた」という理由で「害獣駆除」、つまり、「銃殺」されてしまうのである。「漬け物」が「クマの命」よりも大事だということだろう。生物の多様性や多様な生態系という観点に立って「クマ」をとらえると、「クマ」はそんなに安っぽい「存在」ではない。
 ところで、「岩木山」には何頭ほどの「クマ」が生息しているのだろう。「クマ」の縄張りは広い。1頭で大きな沢と尾根を2つほど縄張りにしている。そう考えると、岩木山にいるクマは5頭前後だ。多くても6頭程度である。
 この、本州で最も大きい雑食性の「ほ乳類」ニホンツキノワグマは周囲60kmの岩木山域に僅かに5頭しかいないのだ。喩えどのような事態になっても、私は「殺すこと」だけは避けたいと思う。「銃殺」という行為は「知恵ある人間」のすることではない。
 
 漬け物小屋を襲い銃殺されたクマは『体重約60キロとやせこけた姿だった。切り開いた腹には、「木の実」、「ハチ」などは見あたらなかった』という。
 確かに、8月に入ると「クマ」の餌になる「タケノコ」などはなくなってしまう。この時季は「クマの餌」の「端境期」ではあるが、季節が順調に進んでいれば「木苺」の実も熟れている。「蜂」も幼虫がどんどんと増え「子育て」に忙しい時季である。
 だが、今季は例年とは違う。確かに、木苺の実は少なく、蜂の発生も少ない。「自然」をそのままに受け、その中でしか生きられないものほど「異常気象」や「地球温暖化」の影響をまともに受けるのである。
 この「異常気象」や「地球温暖化」を引き起こしているのは誰だ。「トウモロコシ」を「緩衝帯」で栽培している者が「私はそのことに関係がない」などと言うことを私は許さない。あなた方も「地球温暖化」を担ってきた1人なのだ。
 秋田のマタギが「今年は山中に餌がなく、やむを得ず山を下りてきたのだろう」と同情的に言ったそうだが、まさにそのとおりなのである。
 
 恐らく、「岩木山」の通称「ダケキミ」と呼ばれる「トウモロコシ」畑にもクマは現れるだろう。害獣駆除という銃殺の前に、共存することを考えてくれないだろうか。
 その方法の一つに、「畑の一部分」を「クマ」に開放するという手もあるだろう。電気柵を畑全体に張り巡らさないで、一部分をクマの出入り自由にして「クマ」に与えるということだ。

信じられないこと / 「生物多様性」への理解を今すぐに

2009-08-12 05:16:00 | Weblog
 (今日の写真は、節足動物門・昆虫(昆虫綱)・トンボ目「オニヤンマ科オニヤンマ(鬼蜻蜓、または馬大頭)」だ。ダケカンバの枝に停まっている。3匹いるのが見えるだろうか。アキアカネも数匹いるのが分かるだろう。標高1500mぐらいの所だ。
 日本最大のトンボとして知られている。北海道から八重山諸島に分布し、平地から山地に生息する。
 腹長は75mmで、左右の複眼は頭部中央でわずかに接する。生体の複眼は鮮やかな緑色できれいだ。6~10月に出現して、8月頃はこのように標高の高い「樹林帯」をねぐらにして、「暖」を摂り、エネルギーを蓄えては、山頂で群舞するのだ。
 この写真では「仲良く直ぐ近くにアキアカネが羽を休めて」いる。だが、この2者の関係は「捕食するものと捕食されるもの」である。
 「暖」を摂り、活発に動けるようになると、事態は一変する。変温動物の世界では、いや常温動物のほ乳類でもそうだろうが、自然の恵みである「陽光エネルギー」にしろ、食べものにしろ、少なくてすむし、即効性の面でも有利なのだ。写真の「アキアカネ」は直ぐに飛び立てる態勢にあるが、オニヤンマの方はまだ、直ぐには飛び立てない。
 「ススズメバチ」は「オニヤンマ」を襲い腹にかぶりつき、強靱な顎でがりがりと囓る。「オニヤンマ」は飛翔中に、これまた飛翔している「アキアカネ」を襲い捕食する。「アキアカネ」は小さな羽虫を襲い食べる。このような連鎖が自然に続いていくところに、正常な「食物連鎖」が存在し、「生物多様性」があるのだ。今月半ば辺りまで、岩木山山頂で群飛する「アキアカネ」と「オニヤンマ」を見ていると必ず「オニヤンマ」の捕食行動に出会える。
 また、それ以降は、それぞれの登山道を登る場合は標高700mから1300m辺りの低木帯で、その光景に出くわすことがある。

 「オニヤンマ」の学名の種名を表す「sieboldii」はシーボルトに対する献名だと言われている。)

            ◇◇ 信じられないこと ◇◇

 毎日新聞電子版「憂楽帳:自然体験」の中で大和田香織記者が、私にとっては「信じられない」ことを書いていた。
こうである。…『火が珍しい子どもが、たき火に触ろうとする。「テントにエアコンあるの?」と聞く親がいる。にわかには信じられないが、群馬などで子ども向けの自然体験教室を開くNPO(非営利組織)「国際自然大学校」(東京都狛江市)の佐藤初雄理事長から聞いた実話だ』と。…
 また、『「夏休みに自然体験を」と企画する子どもだけのキャンプに就学前の小さな子を送り出す親も多いという。「ただ、山や海の事故が報道されただけで参加をやめてしまう家庭もある。野山で遊んだ経験の少ない世代が親になったのでしょうか」。親が過剰に警戒してしまったり、逆に天気の移ろいなどに無防備だったりするようだ』。

 佐藤さんらは今年、「安全に注意すれば自然はもっと楽しめる」という安全キャンペーンを始めたという。自然体験に関する親の不安を解消し、楽しさや意義を再認識してもらうためだそうだ。
 私も、子供向けの「自然観察会」や「登山」を通じて、「自然」への芽を育もうと考えているのだが、最近の「子供と親」の実態から二の足を踏んでいる。このような実態であるからには「生物多様性」などについての理解はないだろう。

  ◇◇「生物多様性」への理解・「生物多様性」って何だ、どういうこと ◇◇

 ところで、「生物多様性」について内閣府が世論調査をしたところ、6割(61.5%)の人が「聞いたこともない」と答えたそうだ。「生物多様性」という言葉になじみが薄いのは事実だ。愛知県が昨年7月実施した意識調査では、86%が「あまり知らない」「ほとんど知らない」と答えたそうだ。
 G8環境相会合などでの主要議題「生物多様性」という言葉を、政府の第3次生物多様性国家戦略では、11年末までに50%の認知度達成を目指しているが、国内で、その理解が進んでいないことがはっきりした。
 調査では、「生物多様性の意味」を知っている人は12.8%、「意味は知らないが聞いたことがある」は23.6%だったという。
 一方、「多様性の意味」を説明した上で環境保全への考え方をたずねたところ、「人間の生活が制約されない程度の環境保全」との回答が過半数を占めたそうだ。やはり、「人間中心の考え方」を半数以上の人間がしているわけである。
 だが、一方で、「制約があっても環境保全を優先」が約4割を占めたというから、まだ救われる気持ちになる。
 環境省生物多様性地球戦略企画室は「生物と触れ合うなど体験を通じて、多様性の意味と重要性をもっと多くの人に理解してほしい」としているそうだが、それだけではどうにもならないだろう。

 生物多様性とは、簡単に言うと『地球上に多様な生物が存在し、それぞれがかかわりながらバランスを保っている状態』のことだ。つまり、『地球上には3000万種の生物が存在する。「生物多様性」は、あらゆる生物と、それらによって成り立つ生態系、さらに遺伝子レベルでも多様で豊かな状態』を指す。
 私たちは「生物多様性」のおかげで、食料、木材、衣服、医薬品など多くの恩恵を得ている。しかし、現在、「生物多様性」は危機に曝されている。「開発や地球温暖化」の影響で、毎年約4万種が絶滅していると推測されているのである。

 1992年に採択された国連の「生物多様性条約」は「生物多様性が失われる速度を2010年までに顕著に減らす」との目標を立てた。日本も含め191の国・地域が参加しているが、達成の見通しは立っていない。
 2010年には名古屋市で「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開催され、多様性保全のための新たな目標や、遺伝子レベルで医薬品などのもとになる有用生物を取り扱う国際ルール作りなどが議論される予定だ。それだけに、新たな目標と戦略を練り直す重要な会議となる。

 それにしても、この事実は悲しいくらいに情けないことではある。

続:まだ咲いているミチノクコザクラ / ツツジの仲間は果実の季節

2009-08-11 04:55:04 | Weblog
 (今日の写真もミチノクコザクラだ。これも、8月6日に写したものだ。今日は8月11日だから、この場所ではまだ咲いているかも知れない。ひょっとしたら、百沢登山道大沢中部の右岸や大沢内の登山道沿いの「雪消え」がつい先日終わったと思われるようなところには、数輪まだ咲いているかも知れない。
 いずれにしても、「スカイラインとリフト利用」で登る「登山客」には縁のない場所である。つまり、登山客にとっては「今季のミチノクコザクラシーズン」は終了したと思えばいい。
 天気次第だが、今日は百沢登山道を登ろうかな考えている。あくまでも、「雨が降らなければ」というのが条件だ。
 最近、「雨が降る中を登る」ということが億劫になっている。以前は「雨が降る中を登る」時にも色々と発見があって楽しいものだった。特に、「雨露」に濡れた花全体や花弁の趣には、晴れた日には絶対に見られないものがあった。だから、それらの発見と出会いが楽しかったのだが、最近は雨降りは辛いだけで、少しも面白くない。今年6月6日の登山は登るに従い「雨脚」は強まり、散々だった。その時に「辛い・面白くない」を実感したのだ。

  ところで、この時季の岩木山では、「早咲きのツツジの仲間」がすでに、「実」をつけている。岩木山はすでに「実りの秋」なのだ。
 さて、岩木山の代表的な「ツツジ(躑躅)」にはどのようなものがあるのだろう。「ツツジ科」には多くの属がある。その中で「岩木山」で見られるものを次に掲げてみよう。
主な属としては…
* イワナシ属(イワナシ) 
* イワナンテン属(ウラジロハナヘリノキ・ハナヘリノキ)
* イワヒゲ属(イワヒゲ) 
* コメバツガザクラ属(コメバツガザクラ)
* シラタマノキ属(イワハゼ・シラタマノキ) 
* スノキ属(アクシバ・イワツツジ・コケモモ・マルバウスゴ・クロウスゴ・ウスノキ・オオバスノキ)
* ツガザクラ属(エゾノツガザクラ・ナガバツガザクラ・)
* ツツジ属(ハクサンシャクナゲ・ムラサキヤシオツツジ・ヤマツツジ) 
* ホツツジ属(ホツツジ)
* ミヤマホツツジ属(ミヤマホツツジ)  
* ヨウラクツツジ属(ガクウラジロヨウラクツツジ・ウラジロヨウラクツツジ・コヨウラクツツジ) 
…などだ。
だが、注意しなければいけないのは「ウラジロハナヘリノキ」「ハナヘリノキ」それに「ホツツジ」と「ミヤマホツツジ」だ。これは「有毒成分」を持っているので、「実」を絶対、食べてはいけない。
 食べることの「お薦め」は「スノキ属」に限る。つまり、アクシバ、イワツツジ、コケモモ、マルバウスゴ、クロウスゴ、ウスノキ、オオバスノキなどである。これら以外は口にしない方が「無難」である。
 「スノキ属」の中で、今の時季に食べられるものは「イワツツジ」である。これはリンゴに喩えると、「青リンゴ」の時期でも食べられるのだ。むしろ、この時の方が「甘酸っぱく」て美味しい。もちろん、この時季も食べることが出来る。だが、数が少ないのでなかなか見つけることが出来ないだろう。
 「マルバウスゴ」や「クロウスゴ」は場所によって違いがあるが、すでに「黒熟」しているものも見られる。これらはまだ、「甘味」は薄いが十分食味に耐えられる美味しさだ。
 「アクシバ」、「ウスノキ、別名(カクミノスノキ)」や「オオバスノキ」は薄く透き通った漿果をつけるので、食べることよりも、その透明感ある果実の「美しさ」を愛でる方がいいかも知れない。これらはまだ、その美しさを発揮していない。9月に入るまで待った方がいいだろう。
 「コケモモ」も、まだ食べる時季ではない。真紅に近い色をしているが、まだかなり硬いし、甘みは殆どない。
 食べたり果実酒にするにはやはり、10月に入ってからの方がいいだろう。その頃になると、いくらか黒熟してくるので、その果実を採取してコケモモ酒に利用する。コケモモ酒は3ヶ月以上熟成したほうが、味も色もよくなると言われている。就寝前に飲むと疲労回復によく効くそうである。
 「イワナシ属」の「イワナシ」も早く咲き出して、早く実をつけたものは今が食べ頃である。個体と生えている場所でかなりの時期的な差異があるので、「早い・遅い」があるので、注意が必要だ。
 それにしても「イワナシ」という名前は即物的である。味という情感を踏まえていながら、果実が果物の「梨」に似ているということから、「物」で名づけたところが面白い。果実は梨のような味が確かにするのだ。果実は夏に熟し甘く食べられる。丸く大きいものは1cm程にもなり、表面に腺毛が蜜に生えている。多肉質で甘みがあって梨の味がするし、食感や歯触りが梨に似ているのだ。
 ただ、これは現在、「酸性雨」などの為に、枯れて減少している。これは、「氷河期の生き残り植物」なのだ。大切に保護したい。

次に、イワナシの実に寄せる私の思いを、拙い自作の短歌にしたものを掲載する。

・イワナシの素朴な色香見せる実に純なる花を見ざるものかは(三浦 奨)

…「イワナシの果実は小さい上に薄い茶色で、それゆえに地味で非常に目立たないのである。しかし、私はそれだけに花の透き通るような純な美しさをそこに見ないわけにはいかないのだ。何という不思議、純粋なものほど華麗さをそぎ取った素朴をまとうものではないだろうか」…というような意味を込めた歌である。

 私はこの花にも惚れ込んでいる。岩木山のどこで出会えるかが分かっているので、其処に差しかかると時間を忘れる。とにかく花の色がいい。白と桃色の配色が群を抜いていいのだ。
 瑞々しく透けるような花びらは春の和菓子を思わせてくれる。清楚という表現で「花の精」を顕在化すると、この花になるのではとさえ思ってしまう。)

まだ咲いているミチノクコザクラ

2009-08-10 05:25:59 | Weblog
 (今日の写真はミチノクコザクラだ。これは8月6日に撮ったものだ。「岩木山の案内」パンフレットなどには、ミチノクコザクラの見頃として6月中旬を推奨しているが、遅い場所では8月の中旬でもまだ咲いているところがある。
 いずれも、沢すじで積雪層が厚く、雪消えの時期が遅い場所である。私は3カ所ほど確認している。
 つまり、ミチノクコザクラは積雪の消え方次第で、その咲き出しが早くなったり、遅くなったりするのである。「6月中旬が見頃」ということは、スカイラインやリフトを利用してやって来る登山客を対象とした「キャッチフレーズ」であり、「ミチノクコザクラ」を餌にして多くの登山客を岩木山に呼び込もうとするコマーシャリズムの戦略に他なならない。
 もともと、「見頃」とは主観的なことである。それは「見るという行為」が人間の主観であり、見た結果に対する「美しい」とか「可愛らしい」などはすべて主観的なものであることに因る。
 「6月中旬」に、岩木山のすべての「ミチノクコザクラ」が満開になるわけではない。「6月中旬」に拘る理由は「スカイライン・リフト」を利用してやって来る登山客が通る道沿いでは、その頃に見られるということによる。
 だが、リフトを降りて、山頂までの間をいくら登山道沿いを探しても「ミチノクコザクラ」には出会えない。数年に1度くらい「一の御坂」沿いに1本か2本の株を見ることはあるが、これを称して「6月中旬が見頃」というのでは「詐欺」である。
 数年前までは「二の御坂」を登り詰めた岩がごつごつとしている広場の東端辺りでも、確かに「ミチノクコザクラ」は「6月中旬」頃に咲いていた。その中には「総状にたわわに花をつけたシロバナミチノクコザクラ」もあった。
 だが、その場所からも、いつの間にか「ミチノクコザクラ」は消えてしまった。あるのはスコップで掘り起こして「盗掘」した跡だけである。
 遅きに過ぎたが、現在は「岩木山パトロール隊」の手によって「虎ロープ」が張られて、その場所へは「侵入禁止」の措置がとられている。
 それでは何故、パンフレットで「6月中旬」を主張するのか。リフトを降りて、山頂までの登山道を辿ってもミチノクコザクラには会えないのにだ。
 鳳鳴小屋の東面に「種蒔苗代」と呼ばれる小さな池溏がある。噴火口の水が溜まったものだが、「御山参詣」の時はここで、豊作の願いごと(神事)した場所であった。
 そこは百沢登山道に沿った場所であるから、リフトからの道を鳳鳴小屋の前から東に、百沢登山道を降りて行くことででることが可能だ。その「種蒔苗代」の周辺に、「6月中旬」頃に「ミチノクコザクラ」が咲き出すのである。
 この事実をもって「6月中旬」を主張しているのである。だが、あくまでも「ミチノクコザクラ」は雪の消え方次第で咲き出す時季が違う。この「種蒔苗代」は岩木山では有数の「雪の吹き溜まり」場所である。「吹き溜まる」積雪の量が多かったり、春から冷涼な気温日が続くと融雪が遅れて、咲き出しは遅れてしまう。または、その逆もある。早く融け出すと、「6月中旬」よりも早く咲き出してしまう。 だから、正直言うとこの「6月中旬が見頃」ということは眉唾物なのだ。
 積雪の多い年には「種蒔苗代」の西側上部に5月中に、イワウメの咲く岩壁の下で、ミチノクコザクラが咲き出す。だが、その時季は「登山客」は殆どいず、やって来るのはスキーヤーだけである。彼らは「花」に興味を殆ど示さない。
 5年ほど前の5月下旬、その年は雪が多く、「種蒔苗代」から上に続く雪渓の上端は、この「鳥の海噴火口外輪」の東壁まで達していた。その上端の直ぐ傍には「イワウメ」「ナガバツガザクラ」「コメバツガザクラ」「ミチノクコザクラ」「ミヤマキンバイ」などが咲き誇り、小さな花畑を形成していた。
 普通、「種蒔苗代」の部分にだけ積雪を少し残した状態の時に、その周囲にミチノクコザクラは花を咲かせる。それと、大体、時を同じくして、鳳鳴小屋までの道沿いにも花を咲かせる。これが、普通年の「雪消え」に併せたミチノクコザクラの咲き出しである。
 スカイラインとリフトを乗り継いでやって来る登山者が「ミチノクコザクラ」に出会える機会はこの場所でしかないのだ。
 だから、頂上へ向かう途中か、あるいは下山の途中に、百沢登山道へと下行しない限り、または、頂上には行かずに「ミチノクコザクラ」に会う目的のために百沢登山道を下らない限りは、「ミチノクコザクラ」には出会えないのだ。
「種蒔苗代」の周囲という制約、それは狭い範囲である。しかも、咲いている期間が非常に短いという「時間の制約」もあり、この場所に限定してしまうと、「6月中旬」に「ミチノクコザクラ」には出会えないことが多いのだ。
 時季が遅れた場合は、やはり、「種蒔苗代」から、さらに百沢登山道を下る必要がある。この登山道は大沢という沢を辿っている。遅くまで「雪渓」のある沢である。まず、雪渓があると、その先端付近右岸沿いの草付きと沢本体が接する「短い」崩落地に目を向けるといい。
 「雪渓」が消えて、その上端がどんどんと下降していくと、それに従い、沢両岸の崩落地に次々とミチノクコザクラが咲き出すのだ。ただ、スカイラインとリフト利用の登山客にとっては「登り返す」ということは相当な難行苦行だろうから、勧められるものではないだろう。この場所のミチノクコザクラは、すでに、その花期を終えている。
 岩木山の「ミチノクコザクラ」は、岩木山全域で今日辺りで、その「花期」を終えるだろう。)

親友TKさん逝く(3)

2009-08-09 05:26:58 | Weblog
 (今日の写真はイワウメ科イワウメ属の常緑矮小低木の「イワウメ(岩梅)」である。まさに、「緑地に踏ん張り天上に向かい自立する命」そのものである。
 普通、「イワウメ」は光沢のない「垂直で黒い岩壁」の所々に、「深緑の絨毯(じゅうたん)が貼り付けられ、それにはクリーム色の小花の刺繍(ししゅう)が施されている」ように「緑地に踏ん張って」咲くものである。
 だが、この場所の「イワウメ」は水平な地肌に咲いているのだ。写真の中に他の「花」を探してみよう。咲き終えたもの、これから咲き出すミチノクコザクラが先ず目につく。ミヤマキンバイの葉も見える。下端左にはナガバツガザクラ、上端右にはエゾノツガザクラが見える。この狭い場所で、自然の摂理に従い、太陽を含む自然の恵みを均衡に分かちあっている。何とすばらしい「共存」ではないか。この営為は、競争に日々を送っている人間たちを遙かに凌ぐことであるように思えた。
 雪消えの早い場所のイワウメはすでに花は終わっている。5月に咲くのだから当然だろう。だが、ここの「お花畑」では8月になってから咲くのである。)  

・居往来山(いゆきやま)阿弥陀仏(あみだほとけ)と観音に抱かれたるは彼の御霊(みたま)ぞ                               (三浦 奨)

 昨晩の通夜の次第には「和尚さんによる法話」と「弔電披露」がなかった。このことは事前に分かっていたので、奥さんから「通夜の始まる前に司会者からの話し」として少し語るということが許されていた。
 そこで披露したのが、冒頭の短歌である。この短歌に関連づけながら、彼との関わりや思いで、人となりを紹介したのであるが、心持ちからするともう少し時間がほしかった。導師入場と通夜開始時間を遅らせまいとする自主規制に縛られて、「話し」にまとまりがなくなってしまった。特に「彼の人となり」への言及が少なくなってしまったことが、残念でならない。
 私は「岩木山」に向かって手を合わせることがある。それは真西に岩木山を見てのことだ。だが、これからは少し北寄り、つまり右に体をずらした位置で合掌するだろう。何故か、山頂と巌鬼山に挟まれた大鳴沢の源頭、そこに存在する「お花畑」に向かって祈ろうとするからである。そこで、彼の「御霊」は安息の日々を過ごしているのだ。

 昨日も書いたが、TKさんの通夜では司会をやった。これは、彼の強い意向によるものだ。祭壇に飾る写真も私が用意した。
 彼は「写真」が得意で私の写真の「師」でもある。昨年、上梓した「岩木山・花の山旅」の後書きに「写真に関しては、特に、ド素人である私にとっては、かつての同僚で、写真術に長けるTK先生に、写真全般については言うまでもなく、時には撮影の足役や同行までしてもらうなど、簡単な言葉では表現できないほどお世話になった。真摯に謝意を述べたい。」と書いたくらいだ。
 彼は他の人や他の事象を写すことは得意なのだが、自分が写されることを嫌った。照れもあるのだろうが、何よりも前面に出ることを好まない謙虚な人柄がそうさせるらしい。だから、一緒に山歩きをして、彼を写す時は、これは嫌らしいことなのだが、自然に「盗み撮り」という形になってしまう。
 そのような彼だから、奥さんが『「祭壇」用の写真がない』と言った時、「そうだろうなあ」と思わず頷いてしまった。このことを言われたのは7日である。
 打ち合わせをし、午前中に帰って来て、午後の3時過ぎまでに、私は「ファイル」の中から「彼の写真」を探し、「祭壇用」として使えるものを2枚選び出した。
 そして、A3サイズのカラー印刷をしてから、奥さんに届けたのだ。そして、その中から正面祭壇用と祭壇前の壇上に飾るものを選んで貰い、それを葬儀屋さんに渡したのである。
 その2枚の「山登り」をしている方は「祭壇前の壇上」に、「写真展でのスナップ」の方を正面祭壇に飾ることにすると奥さんは選んだのだ。
 「正面祭壇」を飾ったものは、私と一緒に2回目の「岩木山の写真展」を開いた時のものである。1回目は、百沢と岳を繋ぐ県道30号線の途中にある、現在「岩木山観光協会」の事務所になっている「建物」で開いた。彼が退職1年目、私は残り1年で退職という年の夏だった。私はまだ勤めていた。
 夏休みだというのに「講習」という正規の授業外の「授業」があり、私は朝からその場所に詰めることは出来なかった。授業を終えてから自転車で、その場所に毎日駆けつけたものだった。もちろん、彼は朝から、奥さんと一緒に、その場に「詰めて」、見に来て下さる方々への「案内や解説」に務めていた。私はまさに、彼に「おんぶに抱っこ」の状態だったのである。
 そして、2回目は私が退職した年である。場所は岩木町にある「みちのく銀行岩木支店」だった。この「正面祭壇」用の写真は…
 彼と2人で額縁に入れた写真を、その日の「現金取り扱い業務の終わった」時間帯に「みちのく銀行岩木支店」に搬入して、ロビーでの「飾り付けや設定」を終えた時のものである。
 お互いに「ご苦労さん」と言い交わしながら、「記念に1枚撮っておこう」と言って写したものだ。
「展示完了だ。レイアウトもうまくいった。明日からお客さんに見て貰える。ほっとした」という気分で私は彼を写した。彼もそのような気分でいたのだろう。穏やかな満足感溢れる優しい笑顔をの写真であった。
 通夜に参加して下さった方々の多くは、祭壇前に進む足をしばし、留めて、その「彼」に見入っていた。横向きに見える司会者の席からは、そのことがよく分かった。
 中には、遺族席にいる奥さんに「いい写真ですね。今にも生きかえって来そうですね」とか「優しい先生そのままの写真ですね」と言う人もいた。

 その時、私のことを彼が「私のカメラ」写してくれた。「ファイル」にはこの写真の次のコマに私が写っている。その私が写っている写真と彼の写真には、謙虚な「穏やかな満足感」がある、なしという「雲泥の違い」があった。

親友TKさん逝く(2)

2009-08-08 05:00:03 | Weblog
 ・イワウメにエゾツガザクラ群れ咲くや彼の愛せし八月の谿(たに)
 ・高みにて弧に舞う蝶の影ひとつ沢を旋(め)ぐりて宙(そら)にとどめり
                               (三浦 奨)
 (今日の写真はツツジ科ツガザクラ属の常緑小低木「エゾノツガザクラ(蝦夷栂桜)」だ。8月6日、TKさんが亡くなったその日に写したものだ。

 谷すじには、小さな雪田があった。その周りは春の風情なのだ。そして、春の花のミヤマキンバイやミツバオウレンなどが咲いていた。
 雪田から少し離れたところには夏の花のミチノクコザクラが、そしてイワウメが満を持して咲き出していた。不思議である。近くの風衝地尾根では5月の上旬に咲き出すミチノクコザクラが今、まさに満開なのである。
 その上の登山道沿いにはミヤマカラマツが白い花を見せ、淡い黄色のオガラバナが総状花序を林立させ、深紅色のベニバナイチゴが咲いている。さらに、上部にはコケモモが赤い実をつけ、その近くにはクロウスゴの実が、コヨウラクツツジの淡い橙色の実をつけていた。大岩の先っちょではカヤクグリが鳴き交わしている。

 赤倉方向に行ったところの道端では既に、秋の花ミヤマアキノキリンソウやシラネニンジンが咲き出している。近くの低木のダケカンバの枝にはオニヤマトンボが3匹停まって暖をとり、アキアカネが岩に張り付くように停まりこれまた暖をとっている。時折、ミヤマアゲハが縄張りのパトロールにやって来る。さらに、時折、岩の間からは「オコジョ」(注1)が可愛い顔を覗かせて、慌ただしく動き回る。まさにここは生き物たちの楽園なのである。

 それらが取り巻く中心には、透かし薄むらさき模様の汗杉(注2)に身を包んだ童女たちがちょっとはしゃぎながらもはにかみを添えて踊っていた。エゾノツガザクラが咲き乱れているのである。
 本州では早池峰山、月山、それに岩木山にしか咲かない花である。
 彼女たちが恥じらいながら仰ぐ青空には、白い雲の峰が盛り上がって頂部を鉄床雲(かなとこぐも)とし積乱雲になりかかっていた。これは夏空の雲だ。
 その雲が影を落とし、時には黒っぽく、時には白っぽく染める岩や礫は、太陽を浴びて暖まっていて、その表面には秋のとんぼアキアカネが羽を休め、岩の熱を体に取り入れてエネルギーを蓄えていた。そして、蓄え終えると山頂に向かって飛び立っていく。涼しい山頂で時を過ごしたアキアカネたちは8月の半ばになると、次第に山を降り始めて里へ向かう。
 そして、その命の楽園を画然と深緑の樹林帯と区切る外縁は、背丈の高い黄色の垣根花に覆われていた。たおやかに揺れ、柔らかい夏の風を楽しむ黄金花。ウコンウツギ(注3)だ。
 なんと多くの色彩を越えた豊かな生命ではないか。絵画や写真ではそれまでは描けまい。そこは三つの季節の風物に彩られていたのだ。山とは神秘で「あやしき」ところである。そして、美しい極楽浄土なのである。
 西方浄土、岩木山は弘前から見ると西に位置する。だから、岩木山は西方にある「浄土」なのだ。それゆえに、津軽の人たち(農家の人たち)にとって岩木山は、先祖の霊が暮らし(居て)、春になると田の神や水神として里に降り、収穫が終わるとまた帰る(往来する)という「お居往来山(おいゆきやま)」であるとされているのだ。
 ここは、弘前から見ると「山頂と右の肩」に挟まれた位置になる。それは、三峰三位一体の霊山である岩木山の阿弥陀仏と観世音仏に優しく抱かれている場所でもあるのだ。

 TKさんは3日に「先生と最後にあそこに行ったのも8月1日だった。もう一度でいいからあそこに行きたい」と確かに言ったのだ。そして、その魂は確実に「それ」を実行したのである。
 私たちの先人が「お居往来山」としてきた岩木山のこの場所を、彼は安住の場所と定めたのである。そのために、「アサギマダラ」に姿を変えて、私たちと一緒に登ったのである。3日に見せた彼の視線の奥底には「この場所」があったのであろう。そして、私との約束を果たしたのである。
 私はこれからも、登り続け、この場所に通う。この場所に来ると必ず彼に会えると確信しているからだ。

 TKさんは自己の死期を認識していた。そのことを、私は奥さんから聞いた。奥さんが言うにはこういうことだ。
 6月の20日過ぎに「検査入院」をして、その検査の結果から「癌」発症が分かった。そして、余命幾ばくもないことが告知された。それは、長くても2、3ヶ月。速ければ1ヶ月ということだった。最後の処置として、「抗がん剤」の投入が施されたのである。彼が私に電話をしてきたのは、ちょうどその頃であったのだ。
 自分自身動けない彼は、奥さんに「遺言」を口述した。恐らく、その遺言は内容の多いものだっただろう。
 その中に、「私の墓は岩木山の一番よく見える場所にして欲しい。出来れば、藤代にある革秀寺がいい」があったのだそうだ。そこで、先日、お寺さんと「墓地設立」の契約を交わしたというのだ。
 「革秀寺」は弘前城築城の時、「陰陽・五行・十干十二支などを配し、その吉凶によって禍福が支配されるとする」方位の考えから、お城と真西の岩木山を結ぶ直線上に位置しているのである。だから、当然「よく見える」のだ。彼にとって、岩木山はまさに、西方浄土の何ものでもない。
 口述された「遺言」の中には、私に関することもあったという。それは、「死出の旅」に関わる儀式の一切を三浦に依頼するというものだった。
 彼には兄弟はいるが、「子供」という係累がいない。いきおい、すべてが「奥さん」にかかっていく。これは辛苦の何ものでもない。それを少しでも軽減してやりたいという優しい彼の配慮なのだ。私はそれを引き受けた。出来るだけのことは精一杯してあげたいと思うのだ。
 私が信頼して、楽しく付き合っている優しい人は、これまで皆、私より先に逝った。「真面目で、優しい」人は逝き、私のような「強突張りの人でなし」なものほどこの世に残る。これはおかしい。いい人は長生きすべきだろう。
 そう思うと、涙が出てきてしまう。岩木山よ、おかしいだろう。不合理だろう。何とか、このような不条理がこれ以上起こらないようにしてほしい。

 昨日の段階で、通夜、葬儀、法事のすべての段取りが終わった。今日は出棺、火葬、通夜ということになる。明日は葬式である。この一連の儀式の司会もすることになっている。
 
<注>
1.「オコジョ」:ホンドオコジョ・食肉目イタチ科の動物で体長は15~20cm。山岳地帯の岩場に単独で棲み、ネズミ類などを捕食する。
2.「汗杉(かざみ)」:平安時代以降の官女・童女の衣服。儀礼の時の汗杉は濃袴に表袴を重ねて着用する。
3.「鬱金(うこん)」:ショウガ科の植物で根茎は黄色、カレーや沢庵漬の黄色染料とする。)

親友TKさん逝く(1)

2009-08-07 05:23:05 | Weblog
(今日の写真は「オガラバナ」に停まって「吸密」する「アサギマダラ」だ。昨日6日、岩木山標高1600m近くの「大鳴沢源頭部」上部登山道で撮ったものだ。
 この「アサギマダラ」はやがて、ゆらりと花を離れ、ゆらりひらりと飛翔しながら、眼下に広がる大鳴沢に向かって、旋回しながら下降していった。それは、私たちを先導するかのように、しかも、何か大切な場所に誘うように、案内するようにゆっくりと舞を続けながら降りて行くのである。それは私たちと出会えたことを喜んでいるようであり、楽しんでいるようでもあった。
 その様子を見て、私は熱い想いに囚われた。『ああ、TKさんは私たちと一緒に登山をしているのだ。今日の目的地「お花畑」が近くなったので、TKさんの魂がアサギマダラに姿を変えて現れたのだ。優しい心根のTKさんならではの化身ではないだろうか。ここ、このお花畑こそが、彼の黄泉の国なのだろう』と…。

 昨日8月6日、6時40分親友のTKさんが亡くなった。入院している病院でのことだ。
ここ1、2年腰痛があって高岡市の病院に2回ほど入院して治療していたのだが、元気になって帰ってきた。そして、その後「自己リハビリ」に専念していたのだ。これまでは「帰ってくると必ず元気な顔」を見せてくれたものである。
 ところが、2ヶ月ほど前に「帰って来た」との電話はあったが、その顔がなかなか現れない。「6月25日にNHKで、私が案内をした岩木山赤倉登山道のことが放映される」ということを電話で連絡した。「不在」だったので「留守電」に入れておいた。
 その後、「見たよ、それにしても短い」という電話があった。後で知ったことだが、その時すでに「市内の某病院」に入院していたのであった。
 7月15日過ぎのことである。朝早くのことだった。TKさんはこちらの都合をよくよく考える人だ。だから、こちらにとっては迷惑な朝早くや夜遅くには電話をくれたことはなかった。それが一般的にはまだ就寝時間であると考えられる「時間」に電話をくれたのである。
 「何だか、とにかく話したくて」という前置きで、受話器の奥の彼の声は「語り」出した。だがそれは冗長な語りではなかった。「抗がん剤を近々入れる」ということだけは数回耳を打った。短い電話の内容から、私は2つのことを理解した。
 1つは「癌」に冒されていること。しかも、相当それは進んでいること。もう1つは、私に会いたがっていることと何か私に言いたいことがあるということだった。

 私は、その日のうちに入院している病院に行った。点滴を受けて横たわっているさんには健康時の面影はなかった。顔は青白く、頬はこけていた。私は慰めになればと思い「Mac Book」を持って行った。これには「岩木山の花々の写真やその他岩木山の風景写真」が入っているからである。
 「起き上がれるか」「大丈夫だ」「パソコンで岩木山の花の写真見るか」「嬉しい。見たい」ということで、食膳台の上にノートパソコンをセットし、リモートコントロールで映像を見て貰った。
 私は次から次へと写真を繰り出すだけでよかった。「これはホタルカズラだ」「これは何々だ」と言いながら満足そうな笑みを浮かべた。
 そして言った。「まだ、花の写真の整理も終わってないし、まだまだすることが沢山あるんだ」と。私は、それに対して、今思えば惨いことを言っていた。「元気になれば、出来るじゃないか」と。
 彼も、傍に付き添っている奥さんも「元気になれば」ということが「如何に空しく儚い」言葉であるかを知っていたのである。かれは、余命幾ばくもないことを悟っていたのである。あるいは医者から告知されていたのかも知れない。
 疲れることを考えて「1時間以内」としていたので、その日は「またパソコン持って来るから」と言って帰ってきた。私はその日から8月3日まで3回彼を訪ねた。
 8月3日には、1日に彼が最も「愛したお花畑」に行ったので、ひととおり映像を見て貰った後で、そのことを話した。今年は「エゾツガザクラ」が多いこと、しかも、今が満開であることなどだ。
 そのことを聴いた彼は、「先生と最後にあそこに行ったのも8月1日だった。もう一度でいいからあそこに行きたい」と遠くを眺めるように呟いたのである。
実はNHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねる」で、野外観察として6日「昨日」にそのお花畑に出かけることになっていたのだ。
 だから、私は「6日にあそこに行くから、いっぱい写真を写してきて、それをパソコンに取り込んで、7日に見せに来るから」と言って、約束したのであった。それは3日の午後4時過ぎのことだった。
 だが、その約束は果たせなかった。それから2日半後に、彼は「黄泉の国」へと旅立ってしまったのだった。本人も奥さんもその旅立ちが間もなくのことであることを知っていた。しかし、それを私には語らなかった。それが彼の真の「優しさ」なのだ。
 だが、「日々衰弱していく肉体」はふと、「彼から優しさ」を奪うこともあったに違いない。「優しさ」とは「強さ」のことでもある。7月15日過ぎの電話は「強さ」を奪われた彼の所業だったのだろう。
 私は奥さんからの「訃報」を受け取った。私もどこかで「覚悟」があった。しかし、それはあまりにも早過ぎたことで「覚悟」は脆くも崩れそうになった。電話を受けて直ぐに駆けつけそうになったのだ。
 だが、私は踏みとどまった。計画通り、講座受講者のみんなと、あの「お花畑」に行くことを選んだのだ。
 奇しくも、そのルートと日程は最後に彼と一緒に「お花畑」を訪れた時のものと同じであった。 

・彼の霊(たま)ともに登りし花畑アサギに化して飛翔の続く
・アサギマダラゆらりひらりと永久(とこしえ)にエゾツガザクラ咲く岩の階(きざはし)                          

これは何だ? / 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その5)

2009-08-06 05:25:37 | Weblog
 (今日の写真はウルシ科ウルシ属の落葉の小高木「ヤマウルシ(山漆)」だ。ヤマウルシは日本全国に分布し、山地に普通に生える雌雄異株の樹木で、高さは3mから6mになる。 岩木山ではちょうど今頃が実のつけ初めの頃で、緑色の実が「たわわ」になっている。これが、枝や葉柄のえんじ色とよくマッチして、美しくさえある。よく伐採跡などの二次林に生育する。これも、林道によって森が切り開かれた場所で見たものだ。種子の寿命が長く、地中に埋もれて伐採などを待っているのだろう。
 樹形はあまり枝分かれせず、幹や枝の先端にまとまって葉を広げる。この樹形は伐採跡などで、いち早くある程度の樹高を確保し、光を獲得する戦略なのだろう。
 紅葉の早いのがウルシ科の仲間で、特にこの「ヤマウルシ」は最も早く、鮮やかに紅葉する。中でもヤマウルシは標高の高い場所に多いので、9月の下旬になると真っ赤に色づきはじめるのだ。
 中には黄色になるものもあるが、これは日陰のもので、アントシアニンという赤い色素に変化するためには、十分な光が必要なためだ。
 樹皮は灰白色で縦に薄く裂け、若い枝は赤色を帯びる。葉は互生し、奇数羽状複葉で小葉は4から8対になっている。小葉は卵形~卵状楕円形で先は急に尖る。縁は全縁だが、幼木の葉は鋸歯がある。
 5月から6月にかけて葉腋から長さ15㎝ほどの円錐花序を出して、黄緑色の小さな花を多数つける。果実は熟すと直径5-6㎜の淡黄色で、粗い毛がある。
 名前(和名)の由来は、「山に生育する漆の取れる木である」ことによる。樹皮を傷つけると、最初は白色の乳液が出る。しかし、この液は黒色に変わる。
 ヤマウルシは樹液に触れるとかぶれる。春の新芽が出る頃はかぶれ易いが、秋の紅葉の頃はあまりかぶれないといわれている。)

        ◇◇ 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その5)◇◇
(承前)

…秋田から来たという人は、深々と頭を下げ、謝意を述べてから下山をしていった。「お気をつけて」という短い言葉で返礼をしながら、私は頂上へと急いだ。
 間もなく「一の御坂」上部の「赤沢」源頭頂部の「登り道」と「降り道」の二股直近に達しようとした時に、私の目の前で降りてきた登山者の1人が、「浮き石」に足を取られて、転倒しそうになった。
 「転倒」など、事故に繋がる事象は「降下時」に多いのだ。危ないところだった。周りは「岩、岩」である。転倒したら打ちどころによっては「骨折」する。
 私は歩みを止めて、その「浮き石」を固定すべく、その下に「石積み」をした。大きな岩が多くて、「浮いた空間」に詰め込む適当な石が見つからない。周囲から大きさの違う岩の欠片を拾ってきては、差し込んで高さの調整をした。ようやく「ぐらつかない」程度に固定されたのは10分ぐらい後だった。ここでもまた、山頂到着時間を遅らせる要因を作ってしまった。
 二股の上の登り道に踏み出した時、私は左の脚の違和感に気づいた。大腿筋が軽く痙攣を起こしていたのだ。これは、「訓練不足」のなせることである。脚を上げる角度に大きな変化がある時に、この種の「痙攣」が起きるのである。
 1週間に1度以上、麓から岩木山山頂登下行をしていないと、標高差が一番少なく、距離も短い「岳登山道」を登っただけでも「痙攣」を起こしてしまう。これが、68歳の体なのだ。
 私は道沿いに生えている「ミヤマハンノキ(別名をイワキハンノキという)」の実を、葉の付いたままで折り採り、ベストのポケットに入れた。
 そして、私は山頂着を11時20分頃と踏んでいたのだったが、山頂にはほぼ12時に着いた。40分も遅れたのだ。その理由は以上述べたようなことである。別に私の登り速度が「遅い」というわけではない。

 山頂に着いた私は、「Kさん夫妻」を探した。山頂で出迎え握手をして、登頂出来たことを喜び、祝いたいと考えていたのだが、その立場が逆転してしまった。
 だが、「登頂を祝し喜び合う」ことは出来るのである。
 2人を発見して、休んでいる2人の所に行った。そして、奥さんに、拙い「英語」で次のような意味のことを言った。スウェーデン人は「英語」も話せると聞いていたからである。
 「岩木山登頂おめでとう。これは岩木山の特産種であるイワキハンノキの実です。これを岩木山登頂の記念としてあなたに差し上げたい。これをピン留めして襟につけると緑色の綺麗なブローチになります。いつも1人で登っているので、これまでブローチとして差し上げる人に出会ったことがないのです。どうぞ、受け取って下さい」…。
 私が言いたかったことと合っているかどうかは分からない。恐らく間違いだらけの英語だろう。次のような単語を勝手に並べただけである。
『Congratulations! You climbed top of Mt'Iwaki on today. This is the fruit of a kind specialty Mt'Iwaki alder.
I send a present it to you as the anniversary of the climb.
The green is a beautiful brooch and wear a collar and pin-in. Since the climb at a time, I have never met in person to give it as a brooch. Please, please take.』
 ところで、奥さんの名前は「シェルスティン」というのだそうだ。

これは何だ? / 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その4)

2009-08-05 05:23:20 | Weblog
 (今日の写真は何だろう。真ん中に見える白い花が主役だろうか。それとも茎に種をつけた方だろうか。私は「白い小さな花」を写したつもりだから、当然主役はこちらだろう。
 ただ、これを写した場所からすると主役はどちらであってもおかしくはない。この場所は岳登山道から「ターミナル」に駆け上がる急な岩場である。岩場といっても、スカイラインターミナルへの接点なので、かなり「人工的な改変」工事が施されている。だから、「自然そのままの岩場」ではない。だが、写真からも分かるように「岩」は多い。標高は1250mほどの所だ。
 「長い茎に種をつけているもの」はオオバコ科オオバコ属の多年草「オオバコ(大葉子)または(車前草)」だ。これは本来は「日本全土の低地で日当たりのいい路傍や野原」に生育するものだ。そのような知識があるものだから、一瞬、北海道、本州、九州の日本海側の岩場や砂地に多く自生している「エゾオオバコ」かなと思った。しかし、「エゾオオバコ」とは葉が全く違っている。「エゾオオバコ」の葉は丸みがあって、葉の縁がくびれていない。
 もう1種、葉が尖ってくびれのあるものに「トウオオバコ」というのがある。葉だけ見ると「トウオオバコ」かも知れない。だが、決定的な違いがあった。それは先ず、生育場所である。これは本州、四国、九州の日当たりのいい「海岸」に自生する多年草だ。さらなる違いは「オオバコ」より大型で、草丈が約60cm、葉も約60cmというから、写真のものはせいぜい30cmほどであるということだ。
「トウオオバコ」という名前の由来は、「大型で海岸に自生するから、唐の国から渡来したと考えて、「唐おおばこ」になったことによる。だが、これは純粋に「日本在来種」で、学名に「japonica」を持っている。
 春から秋にかけて、葉間からのびた花茎の先に白い花を穂状につける。果実は楕円状で、熟すと黒褐色の扁平な小さい種子がこぼれる。種子の表面は粘液質に富んでいて、水気を含むと粘って人の衣服などにくっついて広く分布域を広める。人や車が通る道端の跡に好んで生える非常に生命力の強い薬草でもある。この「オオバコ」も山麓から長い時間をかけてここまで登って来たものだろう。
 この場所も、仮にスカイラインが閉鎖されてしまい、5万人もの人たちが歩くとしたら、踏み固められてしまい、いつかは「写真に見える白い草花」は絶えてしまい、「オオバコ」だけが踏まれても踏まれても生き残り、ついには「オオバコ」だけになってしまうかも知れない。
 現に「リフト終点」から「山頂」までの間から、多くの花々が消えてしまった。そして、「オオバコ」は延々と山頂までの登山道沿いに生えている。名前の由来は、「葉が大きい」ことによる。

 さて、どんどん人が歩くようになると「消える運命」にある花は何だろう。それは、花びらの先端に切れ込みの入った可愛い花、アカバナ科アカバナ属の多年草「イワアカバナ(岩赤花)」だ。
 茎の高さは20~60cmで、花の径は約5mm、白色から淡紅色の花を茎の上部につける。
北海道、本州、四国、九州の高山帯に生える。岩木山にはこの他に「アカバナ」「ミヤマアカバナ」「ヒメアカバナ」「オオアカバナ」などが自生している。名前の由来は、茎・葉・実が赤くなることによる。)

         ◇◇ 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その4)◇◇
(承前)
 もっと早く渡すべきだったと悔やみながら私は、名刺を差し出した。Kさんも自分の名刺を出して応じた。
 名刺に印刷されている文字で分かるものはKさんのフルネームとメールアドレス、それに数字だけだった。
 私の都合からすると、いくら何でもこれ以上の長話は出来ない。切れのいいところで「話し」を引き取って「先に行きますから、ゆっくり休んでいて下さい」と言って私は登山道へと急いだ。
 天気予報は「曇り」。だが、日差しは強い。その「日差し」を冷たい「秋風」が冷却していく。爽やかな冷気、「山の気」と言ってもいいかも知れない。北には日本海が見える。七里長浜の海岸線が白く見える。風が強く波立っている証拠だ。その上部を薄い層雲が覆っている。だが、その上空は晴れ渡り、高く青い空が岩木山の山頂へと続いていた。
 「スカイライン」からの登山道を登り始めたものの、私の歩みは遅い。歩みが遅いと登山道脇の草花によく目が行くものだ。その「鳥の海噴火口までの道」の途中で私は「Kさん夫妻」にまた追い越された。その日は「Kさん夫妻」に追い越される登山だった。彼らは速い。登って行く彼らを見やりながら、視線を落とすと、そこには白い花の「ミヤマタニタデ」や「タニギキョウ」の奥ゆかしい姿があった。
 ようやく、鳥の海噴火口の外輪に出た時、そこには、岩に腰を下ろして休んでいた「Kさん夫妻」の姿があった。追いついたといえ、それは私がスピードを上げて「時間」を縮めたわけではない。彼らが「余裕の休み」を多くとっているからに過ぎないのだ。
 「Kさん」が私を誘った。そして、奥さんの傍に座れと言うのだ。言われるままに腰を下ろしたところ、「記念写真を撮りましょう」と言う。
 私は「Kさん」のカメラに納まった後で、今度は自分のカメラで「Kさん夫妻」を写した。そして、また、私の方が先に、動き出したのである。
 その時の私の気持ちは…もう山頂までは追い越されることもないだろうし、追い越されたくもない。山頂で「Kさん夫妻」を迎えてやりたい…というものだった。
 しかし、三度私は彼らに追い越されたのだった。それは鳳鳴小屋を過ぎた辺りでのことだった。山頂から降りてきた秋田から来たという人に呼び止められたのだ。
 そして、その人から「遠望される山々の名前」を訊かれて、それについての説明をしている最中だった。私は一緒に行きたかったが「説明」を中断することはとても出来なかった。
 しかも、その人の「質問」はどんどんと「遠望される山名」から「岩木山の生成」へ、そして「植生から花々」へと、エスカレートしていくのであった。
 この時点で、山頂で「Kさん夫妻」を迎えてやりたいという思いは潰(つい)えたのだった。
 この出会いもまた、山頂到着予定時間を大きく遅らせる要因の1つとなった。(明日に続く) 

これは何だ? / 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その3)

2009-08-04 05:31:20 | Weblog
 (8月1日、標高1625mの中央火口丘山体を取り囲む気配はすでに「秋」だった。いや、秋の只中という風情だった。私の緑色のキャップは頂部を残してすっかり暗色になっている。汗にぬれた所為である。それほど「麓からの登りは暑かった」のだ。だが、二の御坂を登り切ると、そこには「涼しい」世界が広がっていた。
 百沢から岳間の岩木高原は霧に包まれていた。もちろん、岳登山口の稲荷神社も霧に覆われていた。分岐を経てブナ林が低木に替わる辺りから、霧は薄くなりターミナルではすっかり晴れ上がっていた。
 天気予報は「曇り」であったが、そんなものは、端から信じてはいない。その朝、出がけに「登るに従い晴れる」と自分に言って聴かせたことが事実となっていくことが嬉しかった。「スカイライン」に出た。日差しは強い。だが、その「熱射」を冷たい風、「秋風」が冷却していく。
 爽やかな冷気、それに冷やされるが「太陽光」は強いのだ。これはまだ、夏なのであった。長袖シャツの袖を腕まで、まくり上げていたので、その部分がすっかり日焼けして「ヒリヒリ」する。薄い層雲が地表や海上にあるものの、その上空は晴れ渡り、所々に小さな「入道雲」や鉄床雲(かなとこぐも)紛いの雲の嶺が白く光っていた。さらにその上空には真っ青な秋の高い空が広がっている。
 「スカイライン」から鳥の海噴火口までの道には余り、花は見られない。噴火口に近づいた辺りから赤い実をつけた「ハリブキ」が目立ってきた。それに紛れて白い花の「ミヤマタニタデ」や「タニギキョウ」が奥ゆかしい風姿を、その小さな白い花弁いっぱいに漂わせている。
 そこを抜けるともう山頂までは、陽光を遮るものはない。溶岩とその岩稜からなる乾いた道が続く。一の御坂手前の平坦地を過ぎて、いよいよ、山頂本体に登りかけた時、右手に「今日の写真」の花を見つけた。タデ科イタドリ属の多年草、「メイゲツソウ(明月草)」だ。これは、山野に広く生育するイタドリの高山型である。しかし、「オノエイタドリ」の花や実の赤いものを「メイゲツソウ」という説もあるそうだ。
 これが咲き出すと「岩木山の山頂付近」は秋なのだ。花名の由来は、赤みを帯びた花を明月に喩えたことによる。よく、黄色い花の「ミヤマアキノキリンソウ」と一緒に咲いていることがある。)

         ◇◇ 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その3)◇◇
(承前)

 私と「Kさん」との会話は続いた…。
「そうですか。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学まで無償ですか」
「もちろん、生活費は各家庭からの支出ですよ」
「私たち日本人から見るとヨーロッパの人は自主性があって主体的に行動する人たちが多いようですね。その中でも、特にスウェーデンの人は自主・独立心が旺盛に見えます。日本人のように大きいものに巻かれろ式で、人の後ろに従いて行くことが少ないでしょう。自分の責任と権利との関係を論理的に理解しているんでしょうね」
「私は2006年に比例代表選挙で、市議会議員に当選しました。日本人である私を選ぶのですからね。環境党の地方代表として立候補したんですよ」

 …私は「Kさん」の言う「環境党」に強く惹かれた。「環境」を考えるといっても、そのジャンルは広く深い。しかしである。「スウェーデン」には「環境党」という政党があって、それが全国に支部組織を形成している。しかも、それが市会議員レベルまで浸透し、広がりを見せている。つまり、「環境」に関わることは国民一人一人が真剣に考える問題になっているのである。
 それを理解した時、私は岩木山の実情を思い返して、「愚痴」の一つも言いたくなったのだ。
「スカイライン自動車道路利用の登山客は年間5万人です。自動車はその3分の1としても1万5~6千台、それらが排出する二酸化炭素を含んだ排気ガスの影響は、植生に対して大きいのです。だが、殆ど問題にならないのです。その自動車に犬を乗せてきて、それを連れて登る人がいます。岩木山には犬科の動物がいます。飼い犬は予防注射を接種されて、狂犬病やジステンバーの抗体を持っていることで、発症が抑えられているに過ぎません。野生の犬科の動物には、その抗体がない。だから、飼い犬が発症していなくても、野生の犬科動物と直接または間接的に接触しても、狂犬病やジステンバーの伝染が起こりえるのです。私はそのような人たちには、今言ったようなことを伝えて、犬連れ登山を止めるようにお願いします。ですが、理解をしてもらえません。」
「スウェーデンには狂犬病の発症はないんですよ。ですから、外国から犬を連れて入ることを厳しく規制しています。国民がそのことを理解しています」
「そうですか、やはり、自己責任と社会的な権利の国ですね。すばらしいことですね。自然を保護するということは、国境並みの厳しい水際での管理に似ていますよね。日本は無防備です。人的にも、精神的にも、行政的にも、この犬連れ登山を地元行政も、業者としてのスカイライン運営会社も、登山客もみんな無頓着に、ただ眺めているだけですよ」

 …私と「Kさん」との会話はなかなか終わりそうにはない。私のその日の「登山」には目標があった。それは「エゾノツガザクラ」に出会うことだった。
 その場所までの距離は長い。しかも、予定している百沢登山道を降りるとすれば、山頂に登り返さなければいけない場所でもある。だから、時間が、バス乗車に間に合うかが気になっていた。しかし、まるで、それを打ち消すかのように、「Kさん」との会話は楽しいものだった。
 Kさんが大きな袋に入った煎餅を「袋ごと」差し出して、「食べませんか」と言う。私は「遠慮もなく」旧知の間柄のような気持ちで、その1枚を受け取り、口に運んだ。
 その煎餅は口の中で爽やかな香ばしさを広げた。それは、「Kさん」の雰囲気に似ていた。(明日に続く)

これは何だ? / 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その2)

2009-08-03 05:16:03 | Weblog
 (今日の写真はオトギリソウ科オトギリソウ属の多年草(イワオトギリ「岩弟切」)だ。岩木山ではこの仲間に「オトギリソウ」や「ミズオトギリ」などがある。
 一瞬、この「イワオトギリ」を見て、その葉の「細長さ」から「タカネオトギリ(高嶺弟切)」かとも思ったが、「タカネオトギリ」は四国と九州の祖母山にだけ、自生しているものだから、そんなことはないのだ。しかし、葉は長い。
 これは、山頂の西から北に回り込んでいる登山道すじで見たものだ。草丈は短い。「タカネオトギリ」が、山地の草地に生えて、丈が10~30cmというのに比べると小さい。草地でなく「岩の窪み」の狭い土溜まりに咲いている。
 花は大きく、花弁はゆがんだ長楕円形で、長さは1cmほどだろうか。花柱は明らかに子房よりうんと長い。これも、オトギリソウ属の特徴だ。
 やはりこれは「イワオトギリ」だ。山頂では他に2種類の黄色い花に出会った。その1つは「ミヤマアキノキリンソウ」であり、もう1つは「ミヤマキンバイ」である。
 「えっ、まさか春に咲くミヤマキンバイがさいているって?」という人もいよう。または「まだ夏でしょう。どうして、アキノキリンソウが咲いているのですか」と訝しがる人もいるかも知れない。
 そのとおりだ。「ミヤマキンバイ」は春の花だ。5月中旬頃から咲き出す。しかし、秋早くに咲き出すものも、その年によって「多い少ない」という違いはあるものの、存在するのだ。「時知らず」的に、秋を春と勘違いして咲き出すらしい。どうも、体験的に結論づけると「寒い年」ほど、つまりあまり暑くない夏で経過した年ほど「咲き出す」数は多くなるようだ。今年もこの傾向にあるらしいから、これからどんどんと咲くかも知れない。
 「アキノキリンソウ」は読んで字の如しで、秋咲きの花だ。これは「ミヤマキンバイ」の咲き出しと表裏の関係にある。8月、山の季節では、それは秋の始まりを告げるものである。いくら残暑が厳しくても、「山の8月」は秋なのである。
 里や麓の気温が低いので、山頂付近ではまだ「トンボ」のアキアカネの姿が見えない。)

◇◇ 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その2)◇◇
(承前)

 私は、ザックを降ろして「Kさん」の傍らに腰を置いた。その日、私の左腕には「環境省自然公園指導員」の腕章がつけられていた。「Kさん」は目敏くそれを私を追い越した時から見ていたようだ。
 そして、どのようなことをしているのかについて訊いてきた。私は「登山者や登山客に対する生物の多様性を基本に据えた自然保護の啓蒙と現場でのさまざまな指導です」と答えて、「国はどちらですか」と訊いた。「スウェーデンです」と言う。
 「意味はよく分かりませんが、英語、スペイン語、ドイツ語はその区別が出来るのですが、それなら、分からないのは当然ですね」と答える。
 私は「スウェーデン人」に会うことは初めてではない。1988年ヒマラヤの西の端、7500m峰に登った時、確かに、「スウェーデン人」のパーティにも出会った。だが、彼らは外国人である私たち日本人には英語を使ってコミュニケーションをとってくれた。だから、「生のスウェーデン語」を聴く機会がなかったのだ。

 2人の会話はそれを切っ掛けに、キャッチボールのようにどんどんと弾んだ。先ずは自己紹介だ。
 Kさんが言うところの自己紹介の概略は…「弘前の生まれであること。若い頃にスウェーデンに渡り、国籍を取り40年近くになる。職業は公務員。それに市会議員もしている。今、夏休みで弘前に妻(スウェーデン人)と帰省して、懐かしい岩木山に2人で登山に来た。子供たちも大きくなったので私たち2人で来た」…であった。
 2人の会話を全部書くと字数がオーバーオーバーになってしまうので出来るだけ簡略に記述することにする。

「日本の行政機関については疎いのですが、環境省というものがあるのですか」
「数年前に環境省になりました。Ministry of the Enviroment です。それまでは環境庁でした。地球環境・国際環境協力、廃棄物・リサイクル対策、自然環境・生物多様性、大気環境・自動車対策、水・土壌・地盤環境の保全、保健・化学物質対策などを扱う役所ですよ。環境庁時代は小回りが利いたのですが、省になったら中央集権化して既存の各省と同じで、地方や地域の声が届かなくなりました。
 南北2000kmという長い国です。亜熱帯沖縄から亜寒帯の北海道までを1つの基準でとらえよう何て無理ですよ」
「私は市議会議員もやっています。公務員をしながらでも出来るんです。もちろん、議員は無報酬で、ボランテアです。あなたは?」
「もちろん、ボランテアです。出費はあっても報酬はありません」
「無報酬のボランテアが支えているということですか」
「そうですね。私たちのするべきことは多岐に渡ります。登山客や登山者に対する指導だけではありません。生物の多様性を守り、自然保護に努めるだけではありません。山中に棄てられるゴミのこと、不法に走り回る自動車、酸性雨による植生への影響、樹木の枯渇、これは年々酷くなっています。また、尾根や沢などの崩落、雪崩による崩落や地形の変異、水質などの視認や調査などですよ」
「そのようなことを1ボランテア任せなんですか」
「そうです。日本という国は、機構的・構造的、それに社会性的に貧困なんですよ」
「スウェーデンは確かに物品税(消費税)は高いのです。日本の4倍くらいですかね。それでも、国がすべきことはちゃんとやってくれます。とにかく、大学まで無償ですから」(明日に続く)

これは何だ? / 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その1)

2009-08-02 05:36:24 | Weblog
(今日の写真は何だろう。「ギンリョウソウ」のようにも見えるし、そうでもないようにも見える。岳登山道の分岐から入るブナ林沿いの脇で見かけたものだ。
 ここ辺りには、ギンリョウソウの仲間である「錫杖草(シャクゾウソウ)」や「ギンリョウソウモドキ(銀竜草擬き)別名を秋の銀竜草」などが結構多いのである。
 果たして、の変異種かと思い、わくわくして写したが、初めての出会いではない。以前にも出会っている。恐らく「ギンリョウソウ」の花後の姿だろう。実かも知れない。種が熟す頃になると、一見別の植物のようになるのだ。
 咲いている時は「蝋細工のような柔らかそうな」花だが、「実」になると指でそっと触ると硬くてボールのような感じがする。
 この実は「液果」とか「漿果」と呼ばれている。「水っぽい実」という意味だ。だが、ちょっと「固めのブドウ」という感触であった。実の中央にある薄黒い出っ張りは、花の時にブルーだった柱頭の名残である。

 「何々かも知れない」ということがなくなると、頭の中は「爽快」だろう。さっぱりし過ぎて、みんな忘れてしまうかも知れない。「混沌」としていることがいいのである。だから、思索や検証が進むのだ。人生も同じだ。単純明快、爽快感に満たされた人生などない。)

    ◇◇ 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その1)◇◇

(昨日、「エゾノツガザクラ(蝦夷の栂桜)」に会いたくて、岩木山に出かけた。1ヶ月ぶりの「登山口」からの「岩木山山頂越え」だった。
先月の1日は相棒Tさんと百沢から登り、大沢の雪渓登りを楽しんで、山頂まで行って、帰りは「アイゼン」の威力を雪渓の下りで実証しながら、また百沢に下山した。
 その時の所要時間は「定年前」、つまり50代のそれにかなり近づいていた。6月はずいぶんと登った。やはり、「登山」は間遠になるといけない。
 特に私のように60代の後半、いや70歳に手が届く年齢になると、少なくとも1週間に、「1回」の割合で登山口から山頂越え、または「山頂ピストン」をしていないと駄目なのだ。
 7月には岩木山に5回出かけた。そして、秋田県乳頭山にも出かけた。1ヶ月の間に6回の山行をしているのだから「平均」的には「決して間遠」ではない。週1回をクリアしている。
 ところが、「長距離の登り」を伴う「山行」は1日の「百沢登山道」の登下行だけであった。乳頭山は高さはあるが「距離」は短い。相棒Tさんと行った「久しぶりの踏み跡探し」は距離はあったが「登り」が少なかった。
 残りの3回はいずれも「沢沿い」を登り、尾根に取り付いて降りて来るという「登り」も余りなく「距離」も短いものだった。
 そのような「訓練不足」が昨日、標高差が一番少なく、距離も短い「岳登山道」を登ったのだが、よく出た。

 登山口を出発したのが8時30分だった。もちろん、弘前からはバスである。山頂にはほぼ12時に着いた。私は山頂着を11時20分頃と踏んでいた。40分も遅れた。だが、この遅れの理由は「訓練不足」ではない。
 その1つは「ターミナル」でスエーデン在住のKさん夫妻とついつい「長話」をしたことである。2つは「二の御坂」上部で秋田県から来たという人に捕まり、あれこれと質問攻めにあってここでも「長話」をしたことであった。
 スエーデン在住のKさん夫妻とはバスから一緒だった。私は「市役所前」バス停から乗り込んで、たまたま、Kさん夫妻の隣の座席に座った。「彼らの会話」が耳を打つ。英語ではない。ラテン系の言葉でもない。ドイツ語でもない。私は自分が片言なら話せる「スペイン語」や「ドイツ語」と照らし合わせてじっと聴いた。しかし、夫妻の交わす言葉はそのいずれでもなかった。
 不思議なことに、会話の中で時折、Kさんが視線を走らしているのは「陸奥新報」だったのである。「わけの分からない言葉」を話す「外国人」の片割れが「日本語の新聞」を読んでいるのだ。これは奇妙ではないか。私の好奇心はむずむずと動いた。
 岳温泉で、私は一番最後に降りた。立派なトイレで用を済ましてから登り始めた。それが8時30分だった。
 なかなかペースが上がらない。羽黒登山口からの分岐で、小さなナップサックを背負った男性1人に追い越された。この人も同じバスの乗客だった。何とか追いついて行こうとして、20mから30mの間隔で後に続いたが、その影は突然消えた。彼は「巨木の森」への道に入って行ったのだ。
 登り始めて50分、計画通りにブナ林から杉植林地への分岐点に着いた。汗びっしょりである。水分を補給し、甘いものを摂りながら休憩をしていた。
 そこに、また、バスで一緒だった「Kさん夫妻」が追いついてきたのである。この時点では、この人たちが「Kさん夫妻」であるということを私は知らない。
 「何て声をかければいいのだろう。何語でいえばいいのだろう」と逡巡している私に、最初に着いた「Kさん」が「分岐する登山道」の方を指して「登山道はこっちでしたよね」と言ったのである。それは、はっきりとした「日本語」であった。
 「ああ、この人は日本人なのだ。よかった」と私は救われた気持ちになって、それに応じた。
 二人は、そのまま分岐から登山道に入って行った。私は10分間の休憩をとってからまた、上を目指した。私は「50分行動して10分休憩をとる」というパターンで登山をしている。急ぐと10時前には「スカイラインターミナル」に着くかも知れない。しかし、私はこの「パターン」を堅持した。
 「ターミナル」に着いたのは10時20分だった。そして、そこのベンチには、私を追い越した「Kさん夫妻」が座って休憩していた。私もちょっとだけ休みたいと思い、そのベンチに近づいた。
 声をかけてきたのは「Kさん」である。身を動かして、私の座るスペースを作って招いてくれたのだ。)(明日に続く)

 「 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った」はここ数日休載する。