(今日の写真は雪消え直後の「岩木山百沢スキー場」のゲレンデだ。リフト降り場の手前にはまだ、残雪が少しだがある。
「砂漠だ」と思ったのが、最初この光景を見た時の印象だった。この「岩木山百沢スキー場」が出来てから数年後の1975年8月6日に、大きな土石流が発生して、百沢の住民22名が命を奪われたのである。)
◇◇ 土砂災害は緑が救う ◇◇
今日の写真に見える「百沢スキー場」の敷地は国有林地で、蔵助沢付近の61.58haだった。そこの標高 800m以上の部分約6haが「土壌流出防備保安林」であり、標高800m以下の部分が「水源涵養保安林」であった。
そこは、下部がタムシバやコナラ、ムシカリなどが生い茂る雑木林であり、上部はミズナラの純林で大木が多く、鬱蒼とした森だった。つまり、この部分が「水源涵養保安林」だったのである。
そして、さらにその上部には「ブナ」の森が続いていた。ところが、スキー場のある尾根の「ブナ林」は標高900m以上のところまで「きれい」に伐られているのだ。
それは、現在、「スキー場ゲレンデ」となっていない「尾根上部」であり、「ゲレンデ」でないのだから、「伐る」必要は何もないのではないかと思うのだ。
「標高 800m以上の部分約6haが伐採」されたというがそんなものではない。もっと広い。しかも、「土壌流出防備保安林」だったところである。
「土壌流出防備保安林」も「水源涵養保安林」も、スキー場の開設にあたり、その指定が解除されたのである。それ以後の拡張も含めた総森林伐採面積は19.63haとなっていたのである。
また、1974年の「平坦化工事」として、蔵助沢がゲレンデを斜めに横断する約200mのうち、町道とも交差する場所には暗渠用ヒューム管を埋め、礫が埋められ、その上がアップルロードの残土で覆われたのである。
この「残土」が、災害時の土砂に混じって流下していたことが、「土石流の発生・拡大」を増幅させたのである。百沢土石流災害は「人災」であると、私は今でもそう思っている。
先日の毎日新聞電子版の「憂楽帳」に、次のような記事があった。
『死者が30人に上った中国・九州北部豪雨。時間雨量が100ミリを超える異常気象ではあったが、災害現場で聞いた話が今も耳に残っている。
「うちは裏山が雑木林だったので、がけ崩れが起きなかったようだ」。土砂災害で母娘2人が亡くなった福岡県篠栗町の民家近く。年配の男性は自宅背後に生い茂る木々を見上げた。
被災場所の上部を含め、周りの多くは細い幹が密集するスギ林。そのあちこちで地滑りが起きていた。「自分が中学生だったころにどんどん植林された。こんな植え方をしていたらえらいことになる、と思っていたが……」
国が造成を進めた人工林は、林業の衰退で荒廃が進む。適切に間伐されないと、日光が遮られて下草が育たず、地表が流出し、土砂崩れの危険が高まるとされる。「緑のダム」としての保水力が落ち、洪水も起きやすいと訴える研究者もいる。
最近の猛烈な雨が、国土のぜい弱さをあらわにしているようにも思える。温暖化防止と一石二鳥で、新たな植林事業などによる防災が進められないものだろうか。』
これはすべて当たっているだろうし、岩木山にもこのすべてが当てはまるのである。「森林は伐るべきではないし、育てるもの」だ。
◇◇先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及する(その3)◇◇
(承前)
『夏休みに自然体験を企画する子どもだけのキャンプに「就学前の小さな子」をり出す親』がいる。
これもまた、あきれた話しだ。先ずは「言葉の意味」とその整合性についての理解がない。キーワードは「夏休み」、「子どもだけのキャンプ」と「就学前の小さな子」だろう。
「夏休み」のある「子ども」だけというのが「キャンプ」に参加出来る条件なのだ。となれば、ここで言う「子ども」というのは「小学生から中学生」が対象となるはずだ。
そこに、「就学前の小さな子」、つまり、幼稚園児や保育園児を参加させようとするのだから、呆れるのである。
言葉が分からない。その意味が分からない。その論理性が分からない。言葉と言葉のつながり全体が示す「思考」理解が出来ない。これが、親なのである。
「自然体験」とは、あくまでも、「自然の中」で、「自主的、主体的」に行動することが基本原則である。「導入部分」では「主催者」がある程度まで「手を取り足を取って」指導はするが、「展開的な活動」は、個々の自主性に委ねられる。自助努力の世界なのだ。だからこそ、「体験」が実感され、新しい発見が喜びとなり、生きてくるのだ。
「これは何々ですよ。分かりましたか」という世界では「自然」は「体験」出来ない。
「テント」で「キャンプ」をするということは、「食と住」をすべて自分たちで「賄う」ことが「参加者各自」に要求されることだ。
つまり、テントという「家」を自分たちで建てて、「食事」も自分たちで調理して作らねばならないのだ。食べた後の始末も含めて、すべて「自分たち」でしなければいけない世界が「キャンプ」なのだ。
このような世界に「箸を使えない」とか「親に食べさせてもらっている」とか「衣類の着脱が出来ない」とかいう「幼児」が参加出来る訳がないだろう。
さらに、テント生活やキャンプとは「集団性」が強いものだ。だから、「集団としての守るべきルール」があり、その遵守が要求されるものだ。「自主的な自律」性に欠ける「幼児」には、その「ルール」の意味すら分からないだろう。
このようなことが、「大人である親」に理解されないのだ。「体と顔つきは大人」だが、「思考回路」は「幼児並み」という親が増えている。
これは、恐ろしいことだが、このような親の増大を密かに願い、喜んでいる人たちもいる。それは「為政者」である。「アホ」な国民が多くなるほど「政治」はし易い。政治家の「虚言」はばれず、「無駄遣い」がどんどん出来るからだ。(明日に続く)
「砂漠だ」と思ったのが、最初この光景を見た時の印象だった。この「岩木山百沢スキー場」が出来てから数年後の1975年8月6日に、大きな土石流が発生して、百沢の住民22名が命を奪われたのである。)
◇◇ 土砂災害は緑が救う ◇◇
今日の写真に見える「百沢スキー場」の敷地は国有林地で、蔵助沢付近の61.58haだった。そこの標高 800m以上の部分約6haが「土壌流出防備保安林」であり、標高800m以下の部分が「水源涵養保安林」であった。
そこは、下部がタムシバやコナラ、ムシカリなどが生い茂る雑木林であり、上部はミズナラの純林で大木が多く、鬱蒼とした森だった。つまり、この部分が「水源涵養保安林」だったのである。
そして、さらにその上部には「ブナ」の森が続いていた。ところが、スキー場のある尾根の「ブナ林」は標高900m以上のところまで「きれい」に伐られているのだ。
それは、現在、「スキー場ゲレンデ」となっていない「尾根上部」であり、「ゲレンデ」でないのだから、「伐る」必要は何もないのではないかと思うのだ。
「標高 800m以上の部分約6haが伐採」されたというがそんなものではない。もっと広い。しかも、「土壌流出防備保安林」だったところである。
「土壌流出防備保安林」も「水源涵養保安林」も、スキー場の開設にあたり、その指定が解除されたのである。それ以後の拡張も含めた総森林伐採面積は19.63haとなっていたのである。
また、1974年の「平坦化工事」として、蔵助沢がゲレンデを斜めに横断する約200mのうち、町道とも交差する場所には暗渠用ヒューム管を埋め、礫が埋められ、その上がアップルロードの残土で覆われたのである。
この「残土」が、災害時の土砂に混じって流下していたことが、「土石流の発生・拡大」を増幅させたのである。百沢土石流災害は「人災」であると、私は今でもそう思っている。
先日の毎日新聞電子版の「憂楽帳」に、次のような記事があった。
『死者が30人に上った中国・九州北部豪雨。時間雨量が100ミリを超える異常気象ではあったが、災害現場で聞いた話が今も耳に残っている。
「うちは裏山が雑木林だったので、がけ崩れが起きなかったようだ」。土砂災害で母娘2人が亡くなった福岡県篠栗町の民家近く。年配の男性は自宅背後に生い茂る木々を見上げた。
被災場所の上部を含め、周りの多くは細い幹が密集するスギ林。そのあちこちで地滑りが起きていた。「自分が中学生だったころにどんどん植林された。こんな植え方をしていたらえらいことになる、と思っていたが……」
国が造成を進めた人工林は、林業の衰退で荒廃が進む。適切に間伐されないと、日光が遮られて下草が育たず、地表が流出し、土砂崩れの危険が高まるとされる。「緑のダム」としての保水力が落ち、洪水も起きやすいと訴える研究者もいる。
最近の猛烈な雨が、国土のぜい弱さをあらわにしているようにも思える。温暖化防止と一石二鳥で、新たな植林事業などによる防災が進められないものだろうか。』
これはすべて当たっているだろうし、岩木山にもこのすべてが当てはまるのである。「森林は伐るべきではないし、育てるもの」だ。
◇◇先日掲載した「信じられないこと」について二、三言及する(その3)◇◇
(承前)
『夏休みに自然体験を企画する子どもだけのキャンプに「就学前の小さな子」をり出す親』がいる。
これもまた、あきれた話しだ。先ずは「言葉の意味」とその整合性についての理解がない。キーワードは「夏休み」、「子どもだけのキャンプ」と「就学前の小さな子」だろう。
「夏休み」のある「子ども」だけというのが「キャンプ」に参加出来る条件なのだ。となれば、ここで言う「子ども」というのは「小学生から中学生」が対象となるはずだ。
そこに、「就学前の小さな子」、つまり、幼稚園児や保育園児を参加させようとするのだから、呆れるのである。
言葉が分からない。その意味が分からない。その論理性が分からない。言葉と言葉のつながり全体が示す「思考」理解が出来ない。これが、親なのである。
「自然体験」とは、あくまでも、「自然の中」で、「自主的、主体的」に行動することが基本原則である。「導入部分」では「主催者」がある程度まで「手を取り足を取って」指導はするが、「展開的な活動」は、個々の自主性に委ねられる。自助努力の世界なのだ。だからこそ、「体験」が実感され、新しい発見が喜びとなり、生きてくるのだ。
「これは何々ですよ。分かりましたか」という世界では「自然」は「体験」出来ない。
「テント」で「キャンプ」をするということは、「食と住」をすべて自分たちで「賄う」ことが「参加者各自」に要求されることだ。
つまり、テントという「家」を自分たちで建てて、「食事」も自分たちで調理して作らねばならないのだ。食べた後の始末も含めて、すべて「自分たち」でしなければいけない世界が「キャンプ」なのだ。
このような世界に「箸を使えない」とか「親に食べさせてもらっている」とか「衣類の着脱が出来ない」とかいう「幼児」が参加出来る訳がないだろう。
さらに、テント生活やキャンプとは「集団性」が強いものだ。だから、「集団としての守るべきルール」があり、その遵守が要求されるものだ。「自主的な自律」性に欠ける「幼児」には、その「ルール」の意味すら分からないだろう。
このようなことが、「大人である親」に理解されないのだ。「体と顔つきは大人」だが、「思考回路」は「幼児並み」という親が増えている。
これは、恐ろしいことだが、このような親の増大を密かに願い、喜んでいる人たちもいる。それは「為政者」である。「アホ」な国民が多くなるほど「政治」はし易い。政治家の「虚言」はばれず、「無駄遣い」がどんどん出来るからだ。(明日に続く)