(今日の写真は何だろう。「ギンリョウソウ」のようにも見えるし、そうでもないようにも見える。岳登山道の分岐から入るブナ林沿いの脇で見かけたものだ。
ここ辺りには、ギンリョウソウの仲間である「錫杖草(シャクゾウソウ)」や「ギンリョウソウモドキ(銀竜草擬き)別名を秋の銀竜草」などが結構多いのである。
果たして、の変異種かと思い、わくわくして写したが、初めての出会いではない。以前にも出会っている。恐らく「ギンリョウソウ」の花後の姿だろう。実かも知れない。種が熟す頃になると、一見別の植物のようになるのだ。
咲いている時は「蝋細工のような柔らかそうな」花だが、「実」になると指でそっと触ると硬くてボールのような感じがする。
この実は「液果」とか「漿果」と呼ばれている。「水っぽい実」という意味だ。だが、ちょっと「固めのブドウ」という感触であった。実の中央にある薄黒い出っ張りは、花の時にブルーだった柱頭の名残である。
「何々かも知れない」ということがなくなると、頭の中は「爽快」だろう。さっぱりし過ぎて、みんな忘れてしまうかも知れない。「混沌」としていることがいいのである。だから、思索や検証が進むのだ。人生も同じだ。単純明快、爽快感に満たされた人生などない。)
◇◇ 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その1)◇◇
(昨日、「エゾノツガザクラ(蝦夷の栂桜)」に会いたくて、岩木山に出かけた。1ヶ月ぶりの「登山口」からの「岩木山山頂越え」だった。
先月の1日は相棒Tさんと百沢から登り、大沢の雪渓登りを楽しんで、山頂まで行って、帰りは「アイゼン」の威力を雪渓の下りで実証しながら、また百沢に下山した。
その時の所要時間は「定年前」、つまり50代のそれにかなり近づいていた。6月はずいぶんと登った。やはり、「登山」は間遠になるといけない。
特に私のように60代の後半、いや70歳に手が届く年齢になると、少なくとも1週間に、「1回」の割合で登山口から山頂越え、または「山頂ピストン」をしていないと駄目なのだ。
7月には岩木山に5回出かけた。そして、秋田県乳頭山にも出かけた。1ヶ月の間に6回の山行をしているのだから「平均」的には「決して間遠」ではない。週1回をクリアしている。
ところが、「長距離の登り」を伴う「山行」は1日の「百沢登山道」の登下行だけであった。乳頭山は高さはあるが「距離」は短い。相棒Tさんと行った「久しぶりの踏み跡探し」は距離はあったが「登り」が少なかった。
残りの3回はいずれも「沢沿い」を登り、尾根に取り付いて降りて来るという「登り」も余りなく「距離」も短いものだった。
そのような「訓練不足」が昨日、標高差が一番少なく、距離も短い「岳登山道」を登ったのだが、よく出た。
登山口を出発したのが8時30分だった。もちろん、弘前からはバスである。山頂にはほぼ12時に着いた。私は山頂着を11時20分頃と踏んでいた。40分も遅れた。だが、この遅れの理由は「訓練不足」ではない。
その1つは「ターミナル」でスエーデン在住のKさん夫妻とついつい「長話」をしたことである。2つは「二の御坂」上部で秋田県から来たという人に捕まり、あれこれと質問攻めにあってここでも「長話」をしたことであった。
スエーデン在住のKさん夫妻とはバスから一緒だった。私は「市役所前」バス停から乗り込んで、たまたま、Kさん夫妻の隣の座席に座った。「彼らの会話」が耳を打つ。英語ではない。ラテン系の言葉でもない。ドイツ語でもない。私は自分が片言なら話せる「スペイン語」や「ドイツ語」と照らし合わせてじっと聴いた。しかし、夫妻の交わす言葉はそのいずれでもなかった。
不思議なことに、会話の中で時折、Kさんが視線を走らしているのは「陸奥新報」だったのである。「わけの分からない言葉」を話す「外国人」の片割れが「日本語の新聞」を読んでいるのだ。これは奇妙ではないか。私の好奇心はむずむずと動いた。
岳温泉で、私は一番最後に降りた。立派なトイレで用を済ましてから登り始めた。それが8時30分だった。
なかなかペースが上がらない。羽黒登山口からの分岐で、小さなナップサックを背負った男性1人に追い越された。この人も同じバスの乗客だった。何とか追いついて行こうとして、20mから30mの間隔で後に続いたが、その影は突然消えた。彼は「巨木の森」への道に入って行ったのだ。
登り始めて50分、計画通りにブナ林から杉植林地への分岐点に着いた。汗びっしょりである。水分を補給し、甘いものを摂りながら休憩をしていた。
そこに、また、バスで一緒だった「Kさん夫妻」が追いついてきたのである。この時点では、この人たちが「Kさん夫妻」であるということを私は知らない。
「何て声をかければいいのだろう。何語でいえばいいのだろう」と逡巡している私に、最初に着いた「Kさん」が「分岐する登山道」の方を指して「登山道はこっちでしたよね」と言ったのである。それは、はっきりとした「日本語」であった。
「ああ、この人は日本人なのだ。よかった」と私は救われた気持ちになって、それに応じた。
二人は、そのまま分岐から登山道に入って行った。私は10分間の休憩をとってからまた、上を目指した。私は「50分行動して10分休憩をとる」というパターンで登山をしている。急ぐと10時前には「スカイラインターミナル」に着くかも知れない。しかし、私はこの「パターン」を堅持した。
「ターミナル」に着いたのは10時20分だった。そして、そこのベンチには、私を追い越した「Kさん夫妻」が座って休憩していた。私もちょっとだけ休みたいと思い、そのベンチに近づいた。
声をかけてきたのは「Kさん」である。身を動かして、私の座るスペースを作って招いてくれたのだ。)(明日に続く)
「 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った」はここ数日休載する。
ここ辺りには、ギンリョウソウの仲間である「錫杖草(シャクゾウソウ)」や「ギンリョウソウモドキ(銀竜草擬き)別名を秋の銀竜草」などが結構多いのである。
果たして、の変異種かと思い、わくわくして写したが、初めての出会いではない。以前にも出会っている。恐らく「ギンリョウソウ」の花後の姿だろう。実かも知れない。種が熟す頃になると、一見別の植物のようになるのだ。
咲いている時は「蝋細工のような柔らかそうな」花だが、「実」になると指でそっと触ると硬くてボールのような感じがする。
この実は「液果」とか「漿果」と呼ばれている。「水っぽい実」という意味だ。だが、ちょっと「固めのブドウ」という感触であった。実の中央にある薄黒い出っ張りは、花の時にブルーだった柱頭の名残である。
「何々かも知れない」ということがなくなると、頭の中は「爽快」だろう。さっぱりし過ぎて、みんな忘れてしまうかも知れない。「混沌」としていることがいいのである。だから、思索や検証が進むのだ。人生も同じだ。単純明快、爽快感に満たされた人生などない。)
◇◇ 1ヶ月ぶりに山頂を踏んだ。(その1)◇◇
(昨日、「エゾノツガザクラ(蝦夷の栂桜)」に会いたくて、岩木山に出かけた。1ヶ月ぶりの「登山口」からの「岩木山山頂越え」だった。
先月の1日は相棒Tさんと百沢から登り、大沢の雪渓登りを楽しんで、山頂まで行って、帰りは「アイゼン」の威力を雪渓の下りで実証しながら、また百沢に下山した。
その時の所要時間は「定年前」、つまり50代のそれにかなり近づいていた。6月はずいぶんと登った。やはり、「登山」は間遠になるといけない。
特に私のように60代の後半、いや70歳に手が届く年齢になると、少なくとも1週間に、「1回」の割合で登山口から山頂越え、または「山頂ピストン」をしていないと駄目なのだ。
7月には岩木山に5回出かけた。そして、秋田県乳頭山にも出かけた。1ヶ月の間に6回の山行をしているのだから「平均」的には「決して間遠」ではない。週1回をクリアしている。
ところが、「長距離の登り」を伴う「山行」は1日の「百沢登山道」の登下行だけであった。乳頭山は高さはあるが「距離」は短い。相棒Tさんと行った「久しぶりの踏み跡探し」は距離はあったが「登り」が少なかった。
残りの3回はいずれも「沢沿い」を登り、尾根に取り付いて降りて来るという「登り」も余りなく「距離」も短いものだった。
そのような「訓練不足」が昨日、標高差が一番少なく、距離も短い「岳登山道」を登ったのだが、よく出た。
登山口を出発したのが8時30分だった。もちろん、弘前からはバスである。山頂にはほぼ12時に着いた。私は山頂着を11時20分頃と踏んでいた。40分も遅れた。だが、この遅れの理由は「訓練不足」ではない。
その1つは「ターミナル」でスエーデン在住のKさん夫妻とついつい「長話」をしたことである。2つは「二の御坂」上部で秋田県から来たという人に捕まり、あれこれと質問攻めにあってここでも「長話」をしたことであった。
スエーデン在住のKさん夫妻とはバスから一緒だった。私は「市役所前」バス停から乗り込んで、たまたま、Kさん夫妻の隣の座席に座った。「彼らの会話」が耳を打つ。英語ではない。ラテン系の言葉でもない。ドイツ語でもない。私は自分が片言なら話せる「スペイン語」や「ドイツ語」と照らし合わせてじっと聴いた。しかし、夫妻の交わす言葉はそのいずれでもなかった。
不思議なことに、会話の中で時折、Kさんが視線を走らしているのは「陸奥新報」だったのである。「わけの分からない言葉」を話す「外国人」の片割れが「日本語の新聞」を読んでいるのだ。これは奇妙ではないか。私の好奇心はむずむずと動いた。
岳温泉で、私は一番最後に降りた。立派なトイレで用を済ましてから登り始めた。それが8時30分だった。
なかなかペースが上がらない。羽黒登山口からの分岐で、小さなナップサックを背負った男性1人に追い越された。この人も同じバスの乗客だった。何とか追いついて行こうとして、20mから30mの間隔で後に続いたが、その影は突然消えた。彼は「巨木の森」への道に入って行ったのだ。
登り始めて50分、計画通りにブナ林から杉植林地への分岐点に着いた。汗びっしょりである。水分を補給し、甘いものを摂りながら休憩をしていた。
そこに、また、バスで一緒だった「Kさん夫妻」が追いついてきたのである。この時点では、この人たちが「Kさん夫妻」であるということを私は知らない。
「何て声をかければいいのだろう。何語でいえばいいのだろう」と逡巡している私に、最初に着いた「Kさん」が「分岐する登山道」の方を指して「登山道はこっちでしたよね」と言ったのである。それは、はっきりとした「日本語」であった。
「ああ、この人は日本人なのだ。よかった」と私は救われた気持ちになって、それに応じた。
二人は、そのまま分岐から登山道に入って行った。私は10分間の休憩をとってからまた、上を目指した。私は「50分行動して10分休憩をとる」というパターンで登山をしている。急ぐと10時前には「スカイラインターミナル」に着くかも知れない。しかし、私はこの「パターン」を堅持した。
「ターミナル」に着いたのは10時20分だった。そして、そこのベンチには、私を追い越した「Kさん夫妻」が座って休憩していた。私もちょっとだけ休みたいと思い、そのベンチに近づいた。
声をかけてきたのは「Kさん」である。身を動かして、私の座るスペースを作って招いてくれたのだ。)(明日に続く)
「 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った」はここ数日休載する。