・イワウメにエゾツガザクラ群れ咲くや彼の愛せし八月の谿(たに)
・高みにて弧に舞う蝶の影ひとつ沢を旋(め)ぐりて宙(そら)にとどめり
(三浦 奨)
(今日の写真はツツジ科ツガザクラ属の常緑小低木「エゾノツガザクラ(蝦夷栂桜)」だ。8月6日、TKさんが亡くなったその日に写したものだ。
谷すじには、小さな雪田があった。その周りは春の風情なのだ。そして、春の花のミヤマキンバイやミツバオウレンなどが咲いていた。
雪田から少し離れたところには夏の花のミチノクコザクラが、そしてイワウメが満を持して咲き出していた。不思議である。近くの風衝地尾根では5月の上旬に咲き出すミチノクコザクラが今、まさに満開なのである。
その上の登山道沿いにはミヤマカラマツが白い花を見せ、淡い黄色のオガラバナが総状花序を林立させ、深紅色のベニバナイチゴが咲いている。さらに、上部にはコケモモが赤い実をつけ、その近くにはクロウスゴの実が、コヨウラクツツジの淡い橙色の実をつけていた。大岩の先っちょではカヤクグリが鳴き交わしている。
赤倉方向に行ったところの道端では既に、秋の花ミヤマアキノキリンソウやシラネニンジンが咲き出している。近くの低木のダケカンバの枝にはオニヤマトンボが3匹停まって暖をとり、アキアカネが岩に張り付くように停まりこれまた暖をとっている。時折、ミヤマアゲハが縄張りのパトロールにやって来る。さらに、時折、岩の間からは「オコジョ」(注1)が可愛い顔を覗かせて、慌ただしく動き回る。まさにここは生き物たちの楽園なのである。
それらが取り巻く中心には、透かし薄むらさき模様の汗杉(注2)に身を包んだ童女たちがちょっとはしゃぎながらもはにかみを添えて踊っていた。エゾノツガザクラが咲き乱れているのである。
本州では早池峰山、月山、それに岩木山にしか咲かない花である。
彼女たちが恥じらいながら仰ぐ青空には、白い雲の峰が盛り上がって頂部を鉄床雲(かなとこぐも)とし積乱雲になりかかっていた。これは夏空の雲だ。
その雲が影を落とし、時には黒っぽく、時には白っぽく染める岩や礫は、太陽を浴びて暖まっていて、その表面には秋のとんぼアキアカネが羽を休め、岩の熱を体に取り入れてエネルギーを蓄えていた。そして、蓄え終えると山頂に向かって飛び立っていく。涼しい山頂で時を過ごしたアキアカネたちは8月の半ばになると、次第に山を降り始めて里へ向かう。
そして、その命の楽園を画然と深緑の樹林帯と区切る外縁は、背丈の高い黄色の垣根花に覆われていた。たおやかに揺れ、柔らかい夏の風を楽しむ黄金花。ウコンウツギ(注3)だ。
なんと多くの色彩を越えた豊かな生命ではないか。絵画や写真ではそれまでは描けまい。そこは三つの季節の風物に彩られていたのだ。山とは神秘で「あやしき」ところである。そして、美しい極楽浄土なのである。
西方浄土、岩木山は弘前から見ると西に位置する。だから、岩木山は西方にある「浄土」なのだ。それゆえに、津軽の人たち(農家の人たち)にとって岩木山は、先祖の霊が暮らし(居て)、春になると田の神や水神として里に降り、収穫が終わるとまた帰る(往来する)という「お居往来山(おいゆきやま)」であるとされているのだ。
ここは、弘前から見ると「山頂と右の肩」に挟まれた位置になる。それは、三峰三位一体の霊山である岩木山の阿弥陀仏と観世音仏に優しく抱かれている場所でもあるのだ。
TKさんは3日に「先生と最後にあそこに行ったのも8月1日だった。もう一度でいいからあそこに行きたい」と確かに言ったのだ。そして、その魂は確実に「それ」を実行したのである。
私たちの先人が「お居往来山」としてきた岩木山のこの場所を、彼は安住の場所と定めたのである。そのために、「アサギマダラ」に姿を変えて、私たちと一緒に登ったのである。3日に見せた彼の視線の奥底には「この場所」があったのであろう。そして、私との約束を果たしたのである。
私はこれからも、登り続け、この場所に通う。この場所に来ると必ず彼に会えると確信しているからだ。
TKさんは自己の死期を認識していた。そのことを、私は奥さんから聞いた。奥さんが言うにはこういうことだ。
6月の20日過ぎに「検査入院」をして、その検査の結果から「癌」発症が分かった。そして、余命幾ばくもないことが告知された。それは、長くても2、3ヶ月。速ければ1ヶ月ということだった。最後の処置として、「抗がん剤」の投入が施されたのである。彼が私に電話をしてきたのは、ちょうどその頃であったのだ。
自分自身動けない彼は、奥さんに「遺言」を口述した。恐らく、その遺言は内容の多いものだっただろう。
その中に、「私の墓は岩木山の一番よく見える場所にして欲しい。出来れば、藤代にある革秀寺がいい」があったのだそうだ。そこで、先日、お寺さんと「墓地設立」の契約を交わしたというのだ。
「革秀寺」は弘前城築城の時、「陰陽・五行・十干十二支などを配し、その吉凶によって禍福が支配されるとする」方位の考えから、お城と真西の岩木山を結ぶ直線上に位置しているのである。だから、当然「よく見える」のだ。彼にとって、岩木山はまさに、西方浄土の何ものでもない。
口述された「遺言」の中には、私に関することもあったという。それは、「死出の旅」に関わる儀式の一切を三浦に依頼するというものだった。
彼には兄弟はいるが、「子供」という係累がいない。いきおい、すべてが「奥さん」にかかっていく。これは辛苦の何ものでもない。それを少しでも軽減してやりたいという優しい彼の配慮なのだ。私はそれを引き受けた。出来るだけのことは精一杯してあげたいと思うのだ。
私が信頼して、楽しく付き合っている優しい人は、これまで皆、私より先に逝った。「真面目で、優しい」人は逝き、私のような「強突張りの人でなし」なものほどこの世に残る。これはおかしい。いい人は長生きすべきだろう。
そう思うと、涙が出てきてしまう。岩木山よ、おかしいだろう。不合理だろう。何とか、このような不条理がこれ以上起こらないようにしてほしい。
昨日の段階で、通夜、葬儀、法事のすべての段取りが終わった。今日は出棺、火葬、通夜ということになる。明日は葬式である。この一連の儀式の司会もすることになっている。
<注>
1.「オコジョ」:ホンドオコジョ・食肉目イタチ科の動物で体長は15~20cm。山岳地帯の岩場に単独で棲み、ネズミ類などを捕食する。
2.「汗杉(かざみ)」:平安時代以降の官女・童女の衣服。儀礼の時の汗杉は濃袴に表袴を重ねて着用する。
3.「鬱金(うこん)」:ショウガ科の植物で根茎は黄色、カレーや沢庵漬の黄色染料とする。)
・高みにて弧に舞う蝶の影ひとつ沢を旋(め)ぐりて宙(そら)にとどめり
(三浦 奨)
(今日の写真はツツジ科ツガザクラ属の常緑小低木「エゾノツガザクラ(蝦夷栂桜)」だ。8月6日、TKさんが亡くなったその日に写したものだ。
谷すじには、小さな雪田があった。その周りは春の風情なのだ。そして、春の花のミヤマキンバイやミツバオウレンなどが咲いていた。
雪田から少し離れたところには夏の花のミチノクコザクラが、そしてイワウメが満を持して咲き出していた。不思議である。近くの風衝地尾根では5月の上旬に咲き出すミチノクコザクラが今、まさに満開なのである。
その上の登山道沿いにはミヤマカラマツが白い花を見せ、淡い黄色のオガラバナが総状花序を林立させ、深紅色のベニバナイチゴが咲いている。さらに、上部にはコケモモが赤い実をつけ、その近くにはクロウスゴの実が、コヨウラクツツジの淡い橙色の実をつけていた。大岩の先っちょではカヤクグリが鳴き交わしている。
赤倉方向に行ったところの道端では既に、秋の花ミヤマアキノキリンソウやシラネニンジンが咲き出している。近くの低木のダケカンバの枝にはオニヤマトンボが3匹停まって暖をとり、アキアカネが岩に張り付くように停まりこれまた暖をとっている。時折、ミヤマアゲハが縄張りのパトロールにやって来る。さらに、時折、岩の間からは「オコジョ」(注1)が可愛い顔を覗かせて、慌ただしく動き回る。まさにここは生き物たちの楽園なのである。
それらが取り巻く中心には、透かし薄むらさき模様の汗杉(注2)に身を包んだ童女たちがちょっとはしゃぎながらもはにかみを添えて踊っていた。エゾノツガザクラが咲き乱れているのである。
本州では早池峰山、月山、それに岩木山にしか咲かない花である。
彼女たちが恥じらいながら仰ぐ青空には、白い雲の峰が盛り上がって頂部を鉄床雲(かなとこぐも)とし積乱雲になりかかっていた。これは夏空の雲だ。
その雲が影を落とし、時には黒っぽく、時には白っぽく染める岩や礫は、太陽を浴びて暖まっていて、その表面には秋のとんぼアキアカネが羽を休め、岩の熱を体に取り入れてエネルギーを蓄えていた。そして、蓄え終えると山頂に向かって飛び立っていく。涼しい山頂で時を過ごしたアキアカネたちは8月の半ばになると、次第に山を降り始めて里へ向かう。
そして、その命の楽園を画然と深緑の樹林帯と区切る外縁は、背丈の高い黄色の垣根花に覆われていた。たおやかに揺れ、柔らかい夏の風を楽しむ黄金花。ウコンウツギ(注3)だ。
なんと多くの色彩を越えた豊かな生命ではないか。絵画や写真ではそれまでは描けまい。そこは三つの季節の風物に彩られていたのだ。山とは神秘で「あやしき」ところである。そして、美しい極楽浄土なのである。
西方浄土、岩木山は弘前から見ると西に位置する。だから、岩木山は西方にある「浄土」なのだ。それゆえに、津軽の人たち(農家の人たち)にとって岩木山は、先祖の霊が暮らし(居て)、春になると田の神や水神として里に降り、収穫が終わるとまた帰る(往来する)という「お居往来山(おいゆきやま)」であるとされているのだ。
ここは、弘前から見ると「山頂と右の肩」に挟まれた位置になる。それは、三峰三位一体の霊山である岩木山の阿弥陀仏と観世音仏に優しく抱かれている場所でもあるのだ。
TKさんは3日に「先生と最後にあそこに行ったのも8月1日だった。もう一度でいいからあそこに行きたい」と確かに言ったのだ。そして、その魂は確実に「それ」を実行したのである。
私たちの先人が「お居往来山」としてきた岩木山のこの場所を、彼は安住の場所と定めたのである。そのために、「アサギマダラ」に姿を変えて、私たちと一緒に登ったのである。3日に見せた彼の視線の奥底には「この場所」があったのであろう。そして、私との約束を果たしたのである。
私はこれからも、登り続け、この場所に通う。この場所に来ると必ず彼に会えると確信しているからだ。
TKさんは自己の死期を認識していた。そのことを、私は奥さんから聞いた。奥さんが言うにはこういうことだ。
6月の20日過ぎに「検査入院」をして、その検査の結果から「癌」発症が分かった。そして、余命幾ばくもないことが告知された。それは、長くても2、3ヶ月。速ければ1ヶ月ということだった。最後の処置として、「抗がん剤」の投入が施されたのである。彼が私に電話をしてきたのは、ちょうどその頃であったのだ。
自分自身動けない彼は、奥さんに「遺言」を口述した。恐らく、その遺言は内容の多いものだっただろう。
その中に、「私の墓は岩木山の一番よく見える場所にして欲しい。出来れば、藤代にある革秀寺がいい」があったのだそうだ。そこで、先日、お寺さんと「墓地設立」の契約を交わしたというのだ。
「革秀寺」は弘前城築城の時、「陰陽・五行・十干十二支などを配し、その吉凶によって禍福が支配されるとする」方位の考えから、お城と真西の岩木山を結ぶ直線上に位置しているのである。だから、当然「よく見える」のだ。彼にとって、岩木山はまさに、西方浄土の何ものでもない。
口述された「遺言」の中には、私に関することもあったという。それは、「死出の旅」に関わる儀式の一切を三浦に依頼するというものだった。
彼には兄弟はいるが、「子供」という係累がいない。いきおい、すべてが「奥さん」にかかっていく。これは辛苦の何ものでもない。それを少しでも軽減してやりたいという優しい彼の配慮なのだ。私はそれを引き受けた。出来るだけのことは精一杯してあげたいと思うのだ。
私が信頼して、楽しく付き合っている優しい人は、これまで皆、私より先に逝った。「真面目で、優しい」人は逝き、私のような「強突張りの人でなし」なものほどこの世に残る。これはおかしい。いい人は長生きすべきだろう。
そう思うと、涙が出てきてしまう。岩木山よ、おかしいだろう。不合理だろう。何とか、このような不条理がこれ以上起こらないようにしてほしい。
昨日の段階で、通夜、葬儀、法事のすべての段取りが終わった。今日は出棺、火葬、通夜ということになる。明日は葬式である。この一連の儀式の司会もすることになっている。
<注>
1.「オコジョ」:ホンドオコジョ・食肉目イタチ科の動物で体長は15~20cm。山岳地帯の岩場に単独で棲み、ネズミ類などを捕食する。
2.「汗杉(かざみ)」:平安時代以降の官女・童女の衣服。儀礼の時の汗杉は濃袴に表袴を重ねて着用する。
3.「鬱金(うこん)」:ショウガ科の植物で根茎は黄色、カレーや沢庵漬の黄色染料とする。)