(今日の写真も白神山地「ぶな巨木ふれあいの径」の一部分だ。これは「簡易舗装」された部分である。何と、すばらしい舗装道路であることよ。これだと、ジョギングでも出来そうだ。往復すると約4kmになるから「距離的」にも「ジョギング」にはうってつけではないだろうか。
『いやいや、出来るのは「ジョギング」だけではありませんよ。「サイクリング」だって出来ますよ』と言う人がいるかも知れない。
おかしい話しだろう。ここは「自然のど真ん中、原生林のど真ん中」なのだ。「おかしい」というのは「ジョギング」が出来るとか「サイクリング」が出来るという人たちのことではない。この「簡易舗装された」部分を見ると誰もがそう思うだろうから、そのように思う人たちは「正常」なのである。
「おかしい」とは「ブナ原生林のど真ん中」に忽然と「都市に見られるアスファルト舗装道路のミニチュア版」が登場するということだ。
この「径」は、敷設するための「発想」としては「都市道の延長線」なのである。「ブナ原生林」とは、人里離れた「深山」にある。「人が常住坐臥」している都市とは「直接結ばず」遠く隔絶された場所にある。それが、「本来の有りよう」だろう。その都市から遠く隔絶された「自然原生林」であるにも拘わらず、「都市道」と直結しているのが「簡易舗装」された「径」なのである。
まったくおかしい。「白神山地」の「自然遺産」を保護するという名目で「コア(核心)部分」とか「バッファーゾーン(緩衝帯)」という線引きをして、入山を規制しながら、一方では「緩衝」も何もない「都市・都会」と一足飛びに「直結する径」を敷設してしまうのだ。
この思考回路は一体何なのだ。おそらく、この回路には、「ちぐはぐな部品」しか使われていないのだろう。この「径(みち)」はまだ、全線が舗装されてはいない。半分以上は「本来の山の道」つまり、「踏み跡」道に近いものが残っている。そこの部分を歩く時だけ、何だか自然の「山懐」に抱かれたような「豊かな」気分になれるのだ。)
◇◇何故、『ぶな巨木ふれあいの「径」』は「道」ではなく「径」なのだろう◇◇
『ぶな巨木ふれあいの「径」』は2kmに渡る長い「迂回路」でもある。これは、ほぼ、「白神ライン」と併行して敷設されている。「迂回路」とは本来の道があるにもかかわらず、「もう一本別の道」でもあることを意味する。「ブナ」を愛でるには「白神ライン」を辿っても出来ないことはない。それを、「ブナと触れ合いながらブナを愛でて、ブナ原生林を満喫してもらう」という「目的」を付加して、敷設されたのが、この『迂回路、ぶな巨木ふれあいの「径」』なのだ。「迂回路」は「バイパス」だ。本来ならば「なくて当たり前」という存在なのである。
…「道」という一般的な言葉を使わずに「径」という漢字を用いてあるので、少しの「違和感と怪訝さ」から「広辞苑」を引いてみた。
違和感というのは、『何も「径」でなくても、「道」でもいいのではないか。誰もが知っている「一般的な」呼び方でもいいだろう』とか「何故この漢字を使ったのか」とか『この道には「径」という漢字を使う必然的な意味があるのだろうか』という程度のことだ。
この「径」には「まっすぐ結ぶ道」や「さしわたし」という意味がある。ただし、ここで言う「まっすぐ」とは直線を指している訳ではない。実際「この径」はアップダウンあり、右折左折ありと、実に「スバラシイ山道」なのだ。
これは「ある所と直結」していると解釈すべきだ。つまり、「この道を歩いて行くと、ある場所に出ます。ある場所に行くための道に繋がっています」ということを示唆していると考えるべきだろう。果たして、「命名」した者がそこまで考えていたかどうかは疑問だが、「使い方」としては間違いではない。
この「径」を辿ると「マザーツリー」と称されているブナのある場所に通ずる道に出るのだ。「行き止まり道」には「径」という漢字は厳密には使えない。「径」には「人が大勢行き来する」という意味も含まれている。この「径」は何も、この「マザーツリー」の道に通じているだけではない。途中から「白神ライン」に出ることも可能なのだ。他にも、「間道」があったような気がする。
「道」でなく「径」を使った謂われは何か、それは「多くの人がその場所を往来する」ということだろう。つまり、「多くの観光客に来てもらい、歩いてもらいたい」という意図だ。併せて、「奥山、深山、原生林にやって来るというのに、その基本的な準備性の全くないハイヒールやサンダル履き」で訪れる、その意味からは「最低」な「観光客」への「ごますり、迎合」であろう。
いつから、林野庁は「観光業者」になり下がり、「観光客」に揉み手をする役所になったのだろう。
本来の仕事に傾注して欲しい。森を守り、森を育てることが、「国を守る」ことだということを肝に銘じて、取りかかって欲しいものだ。
◇◇ 白神山地「ぶな巨木ふれあいの径」での巨木ぶな伐採問題(その6)◇◇
(承前)
この問題に関して、「白神山地」でガイドをしている人から、次のような意向が寄せられているという。私に直接寄せられたものではない「又聞き」だが、次に紹介する。
…『奥入瀬の件を持ち出すまでもなく、ガイドする立場からいうとあのブナは当然伐るべきだ。枝落としをするために重機を入れるほうが問題なのだ。あの場所は、観光客のために用意された「安全な空間」として設定された場所なのだ。これまで駐車場や林道を通すためにどれだけのブナが伐られたというのか、今頃たった10本でがたがた騒いでほしくない。林野庁の真意を知りたければ、あんな目立ちたがりみたいな行動をしなくても直接聞けるじゃないか。ブナを伐らずに、迂回路を作るということも、そのためにまた若いブナを伐ることになるのだから反対だ』…
私は、この人の「言い分」にこそ、この問題の本質があるように思えてしょうがないのである。(字数が越えたので明日に続く)
『いやいや、出来るのは「ジョギング」だけではありませんよ。「サイクリング」だって出来ますよ』と言う人がいるかも知れない。
おかしい話しだろう。ここは「自然のど真ん中、原生林のど真ん中」なのだ。「おかしい」というのは「ジョギング」が出来るとか「サイクリング」が出来るという人たちのことではない。この「簡易舗装された」部分を見ると誰もがそう思うだろうから、そのように思う人たちは「正常」なのである。
「おかしい」とは「ブナ原生林のど真ん中」に忽然と「都市に見られるアスファルト舗装道路のミニチュア版」が登場するということだ。
この「径」は、敷設するための「発想」としては「都市道の延長線」なのである。「ブナ原生林」とは、人里離れた「深山」にある。「人が常住坐臥」している都市とは「直接結ばず」遠く隔絶された場所にある。それが、「本来の有りよう」だろう。その都市から遠く隔絶された「自然原生林」であるにも拘わらず、「都市道」と直結しているのが「簡易舗装」された「径」なのである。
まったくおかしい。「白神山地」の「自然遺産」を保護するという名目で「コア(核心)部分」とか「バッファーゾーン(緩衝帯)」という線引きをして、入山を規制しながら、一方では「緩衝」も何もない「都市・都会」と一足飛びに「直結する径」を敷設してしまうのだ。
この思考回路は一体何なのだ。おそらく、この回路には、「ちぐはぐな部品」しか使われていないのだろう。この「径(みち)」はまだ、全線が舗装されてはいない。半分以上は「本来の山の道」つまり、「踏み跡」道に近いものが残っている。そこの部分を歩く時だけ、何だか自然の「山懐」に抱かれたような「豊かな」気分になれるのだ。)
◇◇何故、『ぶな巨木ふれあいの「径」』は「道」ではなく「径」なのだろう◇◇
『ぶな巨木ふれあいの「径」』は2kmに渡る長い「迂回路」でもある。これは、ほぼ、「白神ライン」と併行して敷設されている。「迂回路」とは本来の道があるにもかかわらず、「もう一本別の道」でもあることを意味する。「ブナ」を愛でるには「白神ライン」を辿っても出来ないことはない。それを、「ブナと触れ合いながらブナを愛でて、ブナ原生林を満喫してもらう」という「目的」を付加して、敷設されたのが、この『迂回路、ぶな巨木ふれあいの「径」』なのだ。「迂回路」は「バイパス」だ。本来ならば「なくて当たり前」という存在なのである。
…「道」という一般的な言葉を使わずに「径」という漢字を用いてあるので、少しの「違和感と怪訝さ」から「広辞苑」を引いてみた。
違和感というのは、『何も「径」でなくても、「道」でもいいのではないか。誰もが知っている「一般的な」呼び方でもいいだろう』とか「何故この漢字を使ったのか」とか『この道には「径」という漢字を使う必然的な意味があるのだろうか』という程度のことだ。
この「径」には「まっすぐ結ぶ道」や「さしわたし」という意味がある。ただし、ここで言う「まっすぐ」とは直線を指している訳ではない。実際「この径」はアップダウンあり、右折左折ありと、実に「スバラシイ山道」なのだ。
これは「ある所と直結」していると解釈すべきだ。つまり、「この道を歩いて行くと、ある場所に出ます。ある場所に行くための道に繋がっています」ということを示唆していると考えるべきだろう。果たして、「命名」した者がそこまで考えていたかどうかは疑問だが、「使い方」としては間違いではない。
この「径」を辿ると「マザーツリー」と称されているブナのある場所に通ずる道に出るのだ。「行き止まり道」には「径」という漢字は厳密には使えない。「径」には「人が大勢行き来する」という意味も含まれている。この「径」は何も、この「マザーツリー」の道に通じているだけではない。途中から「白神ライン」に出ることも可能なのだ。他にも、「間道」があったような気がする。
「道」でなく「径」を使った謂われは何か、それは「多くの人がその場所を往来する」ということだろう。つまり、「多くの観光客に来てもらい、歩いてもらいたい」という意図だ。併せて、「奥山、深山、原生林にやって来るというのに、その基本的な準備性の全くないハイヒールやサンダル履き」で訪れる、その意味からは「最低」な「観光客」への「ごますり、迎合」であろう。
いつから、林野庁は「観光業者」になり下がり、「観光客」に揉み手をする役所になったのだろう。
本来の仕事に傾注して欲しい。森を守り、森を育てることが、「国を守る」ことだということを肝に銘じて、取りかかって欲しいものだ。
◇◇ 白神山地「ぶな巨木ふれあいの径」での巨木ぶな伐採問題(その6)◇◇
(承前)
この問題に関して、「白神山地」でガイドをしている人から、次のような意向が寄せられているという。私に直接寄せられたものではない「又聞き」だが、次に紹介する。
…『奥入瀬の件を持ち出すまでもなく、ガイドする立場からいうとあのブナは当然伐るべきだ。枝落としをするために重機を入れるほうが問題なのだ。あの場所は、観光客のために用意された「安全な空間」として設定された場所なのだ。これまで駐車場や林道を通すためにどれだけのブナが伐られたというのか、今頃たった10本でがたがた騒いでほしくない。林野庁の真意を知りたければ、あんな目立ちたがりみたいな行動をしなくても直接聞けるじゃないか。ブナを伐らずに、迂回路を作るということも、そのためにまた若いブナを伐ることになるのだから反対だ』…
私は、この人の「言い分」にこそ、この問題の本質があるように思えてしょうがないのである。(字数が越えたので明日に続く)