岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

落葉樹林と照葉樹林の春

2009-04-15 05:26:23 | Weblog
 (今日の写真は落葉樹の春の森だ。詳しく説明すると「岩木山白狐沢左岸尾根」のブナ林である。この尾根のブナ林は「扇ノ金目山」手前の斜面で姿を消す。そこから細い稜線を辿る斜面は急峻で、幹や枝が歪に曲がり陳こびたダケカンバやミネザクラ、それにチシマザサの生える痩せ尾根になっている。
 標高が800mを越えているのでブナはいずれも細く丈も余りない。「原生林」なのか「二次林」なのか判別するのが難しいところだ。
 ただ、この尾根のブナは標高の低いところから、上背はあるが余り太くはない。やはり、数十年前に、いやそれ以前にも数次にわたって伐採されたもののようである。その証拠に、ブナの極相林を形成するための「遷移」途中を示すオオヤマザクラやナナカマド、それにタムシバなどが所々の「開放地」に点在して生えている。
 やはり、この尾根は「ブナ極相林」であるべき「ブナの原生林」ではない。「ブナの原生林」は何も「白神山地」のトレードマークではない。
 私は岩木山にも「ブナ原生林」は存在すると確信している。その場所は数カ所あるが、代表的なところは「黒森山」を含んだ「スカイライン」のある尾根である。もしも、自動車道路「スカイライン」がなかったならば、弘前から自動車で30分足らずの場所で私たちは「ブナ原生林」の散策を楽しめるのである。まあ、それも「今」は無理というものだ。
 もう一度、今日の写真をよく見て欲しい。青空を遮るものは何もない。陽光は容赦なく枝や幹を素通りして、樹幹の足下、雪面を照らす。そして、その暖かい輝きは自由に「樹間」を照らし、縦横に樹間空間を往来し、幹を暖める。そして、その輻射熱が「根開き」をどんどんと大きくしていく。その「深い根開きの地表」には既に、一薬草が丸みのある緑の葉を見せていたりする。
 落葉樹の森、ブナ樹間。それは明るい。そして乾いている。ブナ林よりも低い場所の「ミズナラ」や「コナラ」林では、間もなく雪が消える。しかし、これらも落葉樹だ。まだ葉は出ない。ブナ林と同じように、遮るもののない陽光は活発に動いて、地表に働きかける。
 「エゾエンゴサク」や「キクザキイチゲ」などスプリング・エフェラルズはそれを待っている。気の早い「福寿草」などは既に咲き出している。林縁では「マルバマンサク」が満開だ。
 落葉樹の林は、その中も、その縁も、どこもかしこも「明るく、暖かい」のである。)

 私は、このような「落葉樹の森」を春夏秋冬、数十年間、ずっと見てきた。そして、毎春、「新しい生命」との出会いを期待し、胸を弾ませてきた。そして、自然は偽らず、私に「生命」との出会いを与え、私は喜びに包まれながら過ごしてきた。
 だから、私は春の明るい時季の「落葉樹」の森にはじまり、吹雪に曝されている「落葉樹」の森のことは知っているつもりである。
 だが、恥ずかしいことに、前述したが、この「落葉樹の森」と対置される「照葉樹が生い茂る西日本の暗い森」をまだ見たことがなかった。もちろん足を踏み入れたこともない。岩木山には常緑の針葉樹はあるが、「常緑照葉樹」と言われるものの高木はまずない。
 「今日の写真」を撮ったのは4月13日である。積雪が少なく、山麓部では「藪漕ぎ」を強いられたが、数少ない岩木山の「常緑照葉樹」である「エゾユズリハ」だけが妙に元気で、登山口に急ぐ私たちを見送ってくれていた。
 葉が生い茂らない限り「暗い森」にならないのが、「落葉樹」の森だ。岩木山のブナ林、ミズナラ林もすべて、秋から冬は葉を落として「明るい森」になる。
 明るい「落葉樹の森」しか見たことのない私は、どうしても「照葉樹が生い茂る西日本の暗い森」をこの目で見たかったのである。

 3月31日、朝9時頃、私は奈良、春日大社の参道を歩いていた。一通り大社へのお参りを済ませて、その参道を歩きながら、私は「照葉樹林内」にいることを実感していた。既にそこは「照葉樹」の春日大社境内林だったのである。参道の両側には、スダジイやイチイガシの巨木が鬱蒼と茂っていた。「春日山原始林」はその植生上、すでに始まっていたのである。
 下手に赤い大きい鳥居を見ながら、アスファルト道路のバス道路に出る。そこを左折してその道を「道なり」に進む。バス停を2つ過ぎたところから「瀟洒で小綺麗」しかも、古都ならではの面影を色濃く残している家並みの、緩やかな坂道を直進する。
 その町屋のような家並みが途切れると、そこがもう「春日山原始林」の入り口であった。ただ、そこは上の道と下の道に分かれている。上の道は「春日山遊歩道」であり、直ぐに「春日山原始林」内に入ることが出来るが、古い「柳生街道」の面影を辿ることは出来ない。
 「原始林」と「古道」の両方を楽しみ、味わいたいと思ったので下の道を行くことにした。足下には細いアスファルト歩道が続いていたが、目の前に薄暗い樹林帯が見え出すとその道は土と石の道に変わる。
 そこが、あの「柳生の里」に続く「柳生街道滝坂道」の入り口であり、別に「東海自然歩道」とも呼ばれている道であった。標識を丹念に辿りながら進む。
 いよいよ「春日山原始林」内を通って若草山を経て、二月堂、東大寺大仏殿までの約12kmの「歩行による観察」が始まったのである。
 「春日山原始林」は、現在も 豊かな「原始林」としての植生を残しており、春日大社と同様に世界文化遺産に登録されているのである。

 ところで、「原始林」という呼称であるが、この地に住む私たちにとっては「聞き慣れない」言葉ではなかろうか。「原始」とは「原始人」の「原始」である。「広辞苑第六版」によると「原始人」を「原始時代の人類。原始的な人間」としてある。
 また、「原始」とは「根源をたずね極めること」「物事のはじめ。おこり。元始。原初」「自然のままで、進化または変化しないこと。原生。用例として原始林」とある。
 これに当てはめると、「原始林」とは「自然のままで、進化または変化していない原生林」となる。
 私たちは「原始林」という言葉よりも「原生林」という呼称を、例えば「ブナ原生林」などと、よく耳にしたり、口にしたりする。
 これは、その林を形成する樹種が、植物群落の遷移によってしだいに変化し、「極相(climax)」に達して、その地域の環境条件に合った長期間安定な状態が続くこと、つまり特定の樹種だけになった場合には「…原生林」と呼ぶことに因るらしい。これに対置させて「多数の樹種」が「その地域の環境条件に合って長期間安定な状態が続いている」森林を「…原始林」と呼んでいるように思える。(明日に続く) 

桜の季節、これが吉野の桜「ヤマザクラ」だ。

2009-04-14 04:44:33 | Weblog
 (今日の写真は奈良県吉野のヤマザクラだ。超弩アップで写したものがなかったのでトリミングして花そのものを大きくしてみた。これで、花の詳細が伝わるといいなあと思っている。これで五弁の花びら、おしべ、雌しべ、萼片などはっきり分かるだろう。何せ、この津軽では「自生していない」サクラなので、「とくとご覧あれ」というところである。)

 さて、吉野山とその桜の歴史を辿ると、今から1300年以上も前の飛鳥時代の「山岳信仰」まで遡るのだそうだ。
 「修験道の開祖」とされている役行者「えんのぎょうじゃ」が、この吉野山で難行苦行の末に「蔵王権現」を会得した。この「蔵王権現」を「桜の木」で彫り刻み、金峯山(きんぷうせん)寺の本堂として「蔵王堂」を建立して、そこの「ご本尊」とした。
 それで、「桜」が御神木として扱われるようになったのだそうである。だが、実際は、既に書いたとおり、農民たちはサクラの開花を農作業開始の目安にするなど、「神」や「女神」として崇めていたのである。
 また、それは「吉野」は大和の水を司る地であったことを想起させる。「水の神」は「山の神」でもある。これは全国にほぼ共通する信仰体系である。
 その「山の神」に人々は「花を供える」という形で「信仰」を具現化してきた。つまり、農民達の「水を差配する神への信仰が、吉野山を一面の桜にする」に至ったのであろう。
 加えて、修験道が盛んになるのに従い、吉野山に修業に訪れる修験者が「御神木」である桜の木を、植栽し続けてきたという。
 これらのことが「大峯奥駈け道」を駆け抜ける修験者や修験僧が、桜の木を「道しるべ」にしたことと相まって伝えられているのであろう。

 吉野山の「ヤマザクラ」はこのようにして保守されてきた自生の桜であった。「山中で迷うか迷わない程度」しかなかったなかったのが、古来からの「吉野山の桜」なのである。
 しかし、現在のものは、余りにも観光を意識し、造られた桜の林に過ぎない。現在のものは限りなく桜並木に近いものである。
 道々には仰々しいほどに素晴らしい「これでは迷うことがあり得ない」ないほどの案内板や標識がある。
 「吉野」の桜は今や完全に「標識」という役割を放棄させられている。観光客集めの「書き割り」や「立て看板」に堕しきっている。

 一説に因ると、吉野山の桜は、現在200種、約3万本が、約50haにわたって「生えている」そうだ。大半が「ヤマザクラ」だという。これだけ「日本古来のヤマザクラ」が集団で生えている場所はないと言われている。
 だが、これでは、密植に過ぎる。「並木」完成を急ぐための「密植」に過ぎるし、「種類」も交配や変異を考えると多すぎる。
 そして、これらの影響が「樹勢の衰え」や「若木が枯れる現象」として、既に出始めている。これは「1300年来の貴重な歴史的景観が消える」ということでもある。
 それは、吉野の「ヤマザクラ」のほとんどが、「ウメノキゴケに幹が覆われている」ということだ。
 「ウメノキゴケ」は枯れた木に付着する。それは、桜の木の内部で「ナラタケ菌」が繁殖して、内部がほぼ空洞化しているからである。
 だから、「ウメノキゴケに覆われた桜」は、この「コケ」を「剥ぎ取って」も自己治癒は出来ず、伐ってしまうしかない。
 既に「下千本の桜」の大半がナラタケ菌に犯され、「中千本の桜」にも広がっているというのだ。若木でも急速に「衰えること」もあり、もはや、対症療法では追いつかない状態なっているということだ。
 調査によると、「衰退」している木は、日当たりのよくない北東斜面に多いという。このことから、「雨の降り方、水回りによる影響」や「管理する人手の不足」などが樹勢に影響した可能性もあると考えられるという。
「山の神(水の神)」に人々は「花を供える」ということで、「桜を植樹」してきたという信仰的な側面もある。「道しるべ」という修験道的な側面もある。それだけ「止めておく」べきだった。
 観光・人集めという商業的な側面に比重がかかりすぎて、「密植」へと走った。その結果が「枯れる」という事態だ。何という愚かなことだろう。「ほどほど」という「分を知る」には、自然に学ぶしかないのである。人の本性はまさに「愚」である。
 以上の事例は、「岩木山の大山桜の並木」にも、当然、該当することがあると考えられるが、どうだろうか。

 豊臣秀吉が「乙女子が袖ふる山に千年へてながめにあかじ花の色香を」と詠い、そして、が徳川家康が「咲く花を散らさじと思ふ御吉野は心あるべき春の山風」と詠じた和歌は、ともに吉野山の桜である。
 だが、「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」(願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたい。草木が芽吹く頃の如月(陰暦二月だから現在の3月末から4月の初めか)の満月の頃がいい、とでも解釈すればいいだろうか)という辞世の歌を残している「西行」法師の和歌には、その情緒、趣意的に及ぶものではないだろう。
 「西行」は、奥吉野の金峯神社の近くに庵をあんで、桜の園の中に埋もれるように暮らした。現在、西行が住んだといわれる跡が「西行庵」として遺っている。私はここも訪ねてきた。「西行庵」が在ったとされる辺りは、吉野でも一番最後に、桜が開花する場所でもある。

 「新古今集」には、次の三首が収録されている。難しい和歌でないので、注釈を参考に解釈されてはいかがだろう。

「よし野山さくらが枝に雲散りて花おそげなる年にもあるかな」
(注:花おそげなる年にもあるかな-「花の咲くのが遅い年であることだなあ」)

「吉野山去年(こぞ)のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ」
(注:去年のしをり-「去年尋ねた」)

「ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」
(注:花にもいたく馴れぬれば-「花にひどく情が移ってしまうので」)

 なお、「西行」が編んだ山家集には、次の歌もある。
「雪と見てかげに桜の乱るれば花の笠着る春の夜の月」これは注釈が不要だろう。月と桜が醸し出す美しい風情である。
 
 「西行」の吉野の「桜」に対する思いを知れば知るほど、「西行」は現在の「吉野山」の桜の実態を知ったら、どのように思うのだろうか、屹度、悩むに違いないと考えるのである。そして、何だか西行が気の毒で可哀想に思えてしようがないのである。(明日に続く)

桜の季節だ。これが山桜「ヤマザクラ」だ。

2009-04-13 04:55:38 | Weblog
 (今日の写真も山桜だ。前景の一枝はまだ疎らな花つきだが、奥の方の枝々は五分咲きくらいだろうか。
 「ソメイヨシノ」に比べると、「ヤマザクラ」は花の数が密生していないので、案外満開に近いのかも知れない。「ソメイヨシノ」は、まるで雪洞「ぼんぼり」のように隙間もないほどに花を咲かせるので、「何分咲き」という表現が比較的し易いのかも知れない。)

 …3月27日は、既に書いたとおり、岩木山に登り「真冬の登山」を味わっていた。その翌日も寒い日だった。日曜日の29日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」で、赤倉尾根の「ブナとミズナラの混交林」を「ワカン」を着けて歩いた。
 灰色の雪雲にぽっかりと穴が空いて、そこからスポットライトのように青空が覗いて陽光が射し込んでいた。その陽光に射し込められる時は暖かかったが、日が翳ると「冷たい北西」の風が容赦なく吹き過ぎた。動いている時はそれほど感じはしないが、雪の上に腰を降ろして、もちろん、敷物を敷いてのことだが、昼食を摂った時は寒かった。
 30日の朝、7時少し過ぎの電車に乗るために、「外」に出た時は寒かった。服装は下着を含めて3枚の重ね着である。駅に着くまでに素手の指先は軽く凍えたように悴(かじか)んでしまった。こんなこともあろうかとザックの上ポケットには薄手の手袋を忍ばせてあった。
 八戸駅までは特急電車、車中でも「3枚重ね」の冬まかないであるにも拘わらず「暑く」はなかった。それだけ外気が低いということだ。
 八戸から東北新幹線に乗り継ぎ、東京へ。東京からは東海道新幹線で京都に着く。そこから、私鉄の近鉄に乗り換えて奈良に入った。
 そこまで、私の服装は朝に家を出た時のままで、上着を「暑いから脱ぐ」などということは一度もなかった。外は結構寒い上に「風」が強いらしく、車窓から見える樹木は一様に大きく揺れていた。
 それに、空も穏やかに爽やかに晴れ渡っているわけではなく、寒々とした薄曇りであった。
 きっと、三陸東方に寒気を伴った高気圧が居座り、その上、日本海には低気圧が発生していたのだろう。京都駅で乗り換えの近鉄電車を待つ間、その寒さに震えた。
 雨は降らなかったが、この寒さは、私が奈良にいて、照葉樹の暗い森である「春日山原始林」を歩いたり、吉野山の「奥千本」まで登ったりして、帰って来る4月2日まで続いた。まるで、冬の名残りの「奈良の旅」であった。
 そして、帰って来てから既に10日以上、最高気温22℃を含んで、真夏や初夏のような暖かく穏やかな日々が続いている。

 …4月1日、電車を近鉄吉野駅で下車して「近畿自然歩道」を登った。水分(みくまり)神社、金峯(きんぷう)神社を経て、西行庵の跡地まで行った。この辺りは知る人ぞ知る「吉野杉」林に囲まれている。
 岩木山や周辺で見られる杉の「放置林」とは違い、しっかりと「枝打ち」などの手入れがされている。槙(まき)の林も見える。その杉林の林縁には疎らだが「照葉樹」も見られる。「奥千本」と称されている辺りだ。しかも、昔からこの道は「大峯奥駈け道」とされていたところでもあった。何だか霊気が漂っている感じでもある。
 探し求める「照葉樹の暗い森」も「ヤマザクラ」も発見出来ない。たとえ、サクラを発見したとしても、まだ固い蕾であるに違いなかった。
 登りに時間を費やしたので、ゆっくりはしていられない。「西行庵」跡地の奥には「山上ヶ岳」という山があり、そこが「吉野山」山域で一番高い山らしかったので、行きたかったのだが、早々と引き返すことにする。所々の道の両側に供養の石塔が建っている。
 道の片側が開けたところから眼下を見る。直ぐ下に「上千本」と呼ばれる疎らな桜の樹林が見える。梢はまだまだ幹や枝の色と同じだ。まだ蕾は固い萼片に包まれているらしい。
 「ヤマザクラ」と「ヤマザクラ」の間はかなり、間遠で花が散って葉だけになっても、上から、その地肌がくっきりと見えるだろうと思った。
 そして、その疎らな桜の林を「濃緑」の杉や槙の林が、厳然と輪郭を形作っていたのだ。
 私は「吉野駅」を目指して、そのかつての「大峯奥駈け道」をどんどんと降りて行った。だが、目は道の脇に注がれていた。私は「スミレ」の花を追っていた。それは照葉樹林帯が分布の本拠とされる「ヒメミヤマスミレ」のことである。「ミヤマ(深山)」と呼ばれているが「標高」には余り関係がないそうだ。
 岩木山では見ることが出来ないものだから「会いたかった」のだが、その道筋ではとうとう会えなかったのである。 
 だが、幸せにも岩木山で出会える懐かしいものも発見した。それは「黒文字」の花と「木五倍子(きぶし)」の花だった。「黒文字」は岩木山では「大葉」という言葉を冠するが花は殆ど同じだ。
 そして、の脇にはまた、供養の石塔があった。私は「木五倍子咲く地図には載らぬ道祖神(北澤瑞史)」という句を思い出していた。

 吉野山の「ヤマザクラ」は本来、自生していたものだそうである。「大峯奥駈け道」を駆け抜ける修験者や修験僧が、その道の「道しるべ」にしたのが初めだそうだ。
 「ヤマザクラ」は明るい陽光の射し込む場所に自生する。そこは崩壊地や開放地であり、見晴らしがよく見通しの利く場所であった。彼らは「自生しているヤマザクラ」を道しるべ(道標)として、護り育ててきたのである。しかも、ヤマザクラは寿命が長い。樹齢が数百年になっても枯れない。恰好な「道標」なのだ。
 その上、新しく苗木を植樹する必要もない。果実を食べた鳥が種を適当に蒔いてくれる。暗い照葉樹林内に落ちた種は芽を出さない。明るい崩壊地や開放地でなければ芽を出さない「ヤマザクラ」ゆえに「育つ場所」はいつも決まっているから「道標」は永遠に存在することになる。(明日に続く)

桜の季節だ。今朝の写真は何桜だろう。

2009-04-12 04:49:50 | Weblog
 (今日の写真は桜だ。えんじ色の葉をつけながら花を咲かせているのでソメイヨシノではない。ソメイヨシノはヒガンザクラとオオシマザクラの交配種で「桜世界」では新参者だ。この写真の桜は万葉の時代よりも昔から、恐らく農耕時代が始まる以前から森林の縁や崖崩れや土石流で出来た開放地に咲いていたものである。明るい陽光が降り注ぎ、水はけのよい土地でなければ生きられない。だから、その生息地はきわめて限定されていた。
 やがて農耕時代が始まり、人々は森を切り開いて「農地」をとして定住生活をはじめた。
「照葉樹が生い茂る西日本の暗い森」は、集落に近いところでは、明るい雑木林の空間へ
と変貌をとげていった。
 桜はそこや農地の隅などに進出し、そして人々と身近なところで「桜」は共存するようになる。その当時の山野にあっても「桜の美しさ」はずば抜けていただろう。その桜が人里近くの山々に、次々出現したのである。
 そういうわけで、桜は本来、農民と、または農村生活とは切っても切り離せない存在であった。やがて、「桜」は心優しい妖精となり、女神となった。
 桜の開花が農作業の目安の一つになっていたので、古代の人々が桜に、実り・収穫の神が宿ると考えたとしても不思議ではない。
 花名の由来とされる「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」の転訛説にしろ、『さくらの「さ」は穀物の霊を表し「くら」は神霊が鎮座する場所を意味する』という説からも、それは明らかだろう。
 いつしか人と桜はさらに近づいて、仲のよい隣人になってしまった。このようにして人里近くには、雑木林の里山が、その「里山には桜があるという日本の原風景」が出来上がったのである。

…さて、ここで述べられている写真の桜は、似てはいるが、私たちが5月の中旬頃に毎年眺めることの出来る「オオヤマザクラ」ではない。これは「ヤマザクラ」である。
 私は、これまで「ヤマザクラ」の写真は見たことがあっても、「ヤマザクラ」を実際にこの目で見たことはなかった。「ヤマザクラ」の咲く京都や奈良など関西地方に数度となく、修学旅行の引率などで出かけてはいるが、いずれもまだ「ヤマザクラ」の咲かない3月だったり、果実が落ちて葉だけになっている秋9月だったりで、その機会を持つことが出来なかった。だから、一度は咲いている「ヤマザクラ」の実態を見たいと思っていた。これには、3つの反省が込められていた。

 1つは30数年間に渡って、生徒に誤魔化し授業をしてきたことである。まさに、それは「見てきたような嘘を言い」に等しいことだった。 万葉集に45首も出てくる「山桜」、古今集に登場する「桜」、江戸時代の「俳諧」に登場する「さくら」について、「ヤマザクラ」、「オオヤマザクラ」、「ソメイヨシノ」、「ヒガンザクラ」、「オオシマザクラ」などの具体的な知識も与えず、しかもその区別すら説明もせずに過ごしてきたことである。
 時々、『この和歌に登場している「桜」は「私たちが春5月に林の中で見る淡桃色の花びらをつけている桜です」という話し』はしたが、生徒はそれをどれくらい理解し、「毎春」見るであろう「ソメイヨシノ」との違いを確実に把握したかは不明だ。恐らく、多くの生徒は「桜」イコール「ソメイヨシノ」と理解しているであろう。これは、国語教員として、日本人として大罪を為したに等しいことではないだろうか。これが、反省の7割を占めるだろう。

 2つめは、「岩木山・花の山旅」などという書物を、一応「植物」に「造詣」が深そうなポーズで上梓はしているが「ヤマザクラ」を見たことがないという「自分の不明」にある。

 3つめも意向は同じだ。咲いている「ヤマザクラ」をまだ実際に見たことがないのに「オオヤマザクラ」と「ヤマザクラ」の違いを挙げて、「オオヤマザクラ」の並木道にかかわることを論じていることにある。

 私はこの反省を「実効」あるものにどうしてもしなければいけないと思った。早い方がいい。来年を待つことはない。今年だ。そうだ今季だ。いや今すぐにだ。

 それに、恥ずかしいことに、「植物」に関して前述した「本」まで出版している者として、私は「照葉樹が生い茂る西日本の暗い森」をまだ見たことがなかった。もちろん足を踏み入れたこともない。岩木山には常緑針葉樹はあるが、「照葉樹」と言われるものは「エゾユズリハ」や「ヒメアオキ」程度と非常に数は少ない。高木はまずない。
 葉が生い茂らない限り「暗い森」はないのが、「落葉樹」の森だ。岩木山のブナ林、ミズナラ林もすべて、秋から冬は葉を落として「明るい森」になる。
 明るい「落葉樹の森」しか見たことがなく、「足」を踏み入れたことがないのでは「片手落ち」ではないか。
 私は、どうしても「照葉樹が生い茂る西日本の暗い森」をこの目で見たかった。そして、この「照葉樹の森」が伐り開かれたところに生えて咲いている「ヤマザクラ」も見たかったのだ。

 私は3月30日に新幹線を乗り継いで奈良に向かった。「照葉樹が生い茂る暗い森」と本物の「ヤマザクラ」を見るためである。
 今日の写真は4月1日に奈良県吉野山の「中千本」と呼ばれる場所に咲いていたまだ一分咲きほどの「ヤマザクラ」だ。(明日に続く)

いい天気が続いている

2009-04-11 05:18:59 | Weblog
 (今日の写真は3月29日に撮ったものだ。岩木山赤倉沢の下流域である。上流域には幅長が150mから200m、高さが5mという「堰堤」が15基も造営されている。
 この写真に見られる「沢」の幅は僅かに数mである。この「数m」の沢幅を確保するために上流に1基1億円以上の「国費」を使って15基もの巨大な堰堤を造ったのだろうか。きっとそうだ。そうとしか言えない。
 上流に人工の巨大な構築物があるにもかかわらず、沢には「注連縄(しめなわ)」が張ってある。これは上流は「御神域」であることを表し、上流には「不浄なもの」の侵入を認めないという「結界」を示すものでもある。
 この注連縄を張った人、上流に15基もの堰堤を造った林野庁は「注連縄」の意味に考えが及んだのだろうか。
 28日まで降り続いた「新雪」が岸辺の岩頭を覆っている。わずか2週間前、岩木山赤倉沢はその下流でも「冬の装い」を見せていた。)

         ◇◇ いい天気が続いている ◇◇

 昨日は本当に暑かった。午後1時過ぎに「14kg」のリュックを背負って約10kmの歩行に出かけた。その時、室内にセットしてある「外気温計」は22℃を指していた。「これだと夏だなあ」呟いて外に出る。その途端猛烈な風である。しかも、巻き風である。堰を挟んだところにある採石を敷いた駐車場に砂塵が舞い、それが小さい「トルネード」を成している。
 何だか、西部劇の映画で見たような光景が目の前に広がっていた。
風は南西から吹き込んでいた。恐らく移動性の「冷たい高気圧」が北海道の東にでもあるのだろう。それに向かって暖かい南風が吹き込んでいるのかも知れない。
 昨日は4月10日。十数年前の「平年」ならば、周期的に「大荒れの天気」になる時季だ。この強い風はその名残かも知れないと思ったりした。
 この暖かさが続いてさらに10日が経つと「弘前公園」の「ソメイヨシノ」の開花予想の日だ。その時に昨日のような強風が荒れると「ひとたまり」もなく散っていく。見物人は、残りの「桜祭り」期間中、花のない、しかも葉も出ていない枝や幹だけを眺め、いきおい「花無し団子」に走り、どんちゃん騒ぎの醜態を演ずるだろう。

 藤崎まで行って帰るのだが、往きは「バイパス」の「ソメイヨシノ」の桜並木を通った。注意して見たが、まだまだどの枝にも「ほころんだ花びら」は見えない。硬く萼を閉ざした「蕾」だけである。何だって「休眠打破」は「暑い」だけでは起こらない。
 「ソメイヨシノ」は花を咲かせるが果実をつけない。だから、花が終わると来年の花芽はすぐに「休眠」に入る。花は咲くが「果実」をつけないとは「なんと不埒でふとどきな樹木」であろう。
 生命体にとって命がけである「子孫残し」を割愛して、そのエネルギーをすべて「咲いて散る」ことに傾注する。だから、別に「強風が吹き荒れること」を期待しなくても、早々に散っていってくれる。
 そして、散り終えた後はのんきに長い「休眠」状態で過ごすのである。
 桜の「ソメイヨシノ」を咲かせるには、この「休眠状態」から目覚めさせてやらなければいけない。これを専門的には「休眠打破」と言う。それは気温のなせる技だ。一日の平均気温が5℃から9℃、これが桜の目を醒まさせる気温らしい。昨日のように夏並みの暖かさだから、開花が早くなるだろうなどと考えてはいけない。

 桜の季節は早まっているのだろうか。気象庁の過去30年のデータを見る限り、年によってばらつきがあり、「早まっている」と断言はできないそうだ。
 だが、暖冬の今年は、「ソメイヨシノ」の開花が平年値(1971~2000年の平均)と比べて福岡で13日、京都で12日、東京で7日早かったそうだ。
 九大の伊藤教授が予測した将来の桜前線は、今とかなり違ってくらしい。温暖化がこのまま進めば、今世紀末には東北などで現在より最大24日早く咲くという。
 それだけではない。南九州や房総、伊豆など温暖な地域では、開花の前提となる「休眠打破」が不十分になり、「咲かない所」も出るという。
 ぱっと咲いてぱっと散る。まさに、「散る桜残る桜も散る桜」である。その散り際のはかなさも、日本人の心にひときわ響くようだ。

 桜の咲く時季は、新しいことに向かって人やものごとが動き出す季節でもある。アメリカやヨーロッパでは新学期は9~10月である。日本は4月が新学期だ。
 「日本人の季節感を重視し、春を年度の始めにした」という説もある。それが定着したのは、多くの人が「花で彩られる春は、門出にふさわしい季節」と考えているからだろう。ある人は「桜や新芽の季節にスタートできるのは、四季の巡りを暮らしの秩序にしているこの列島の特権ではないだろうか」とまで言う。
 公園のサクラも「バイパス」沿道のサクラ並木も20日頃には咲くだろう。だが、今季は「サクラ」によって「春が来たことを喜ぶ」必要はないようだ。気温は22℃、もうすでに「夏」だ?。
 これまでの、この時季における、昨日のような暖かい日は、何と20年ぶりだという。「20年ぶり」というと、1988年か1989年頃だろうか。
 因みに、私の記録によると「88年も89年」も昨今のように別に暖冬でも少雪でもなかった。「平年並み」の気象で推移した年である。

 …帰りは田圃の畦道と農道を通ってきた。「ミチタネツケバナ」「オオイヌノフグリ」「ハコベ」「ヒメオドリコソウ」などが既に満開となり、「春」を謳歌していたのだ。

YさんのいないNHK弘前文化センター講座

2009-04-10 05:17:56 | Weblog
 (今日の写真も「コメツガ」である。「コメツガ」林内を写したものだ。夏場や雪解け時季に、長平登山道と松代登山道との分岐辺りや追子森山頂などからよく見える対岸尾根稜線の「蒼い」樹列がこの林なのである。
 私は、烏帽子岳から続く標高1396mピークまでの「コメツガ」林内を登下降したことはあるが、この写真の場所を夏場に歩いたことはない。もちろん、平年並みに積雪のある時には、この「林」の縁を歩いていた。
 しかし、今日の写真のように3月下旬だというのに「林の全容」を見せることはなかった。これまでは「コメツガ」1本1本が圧雪を纏い、丸みを帯びた構築物となり、積雪が樹間を埋め尽くし、「空間」はなく、前方が見えて「透視」出来るということはまったくなかったのだ。驚くほどの少雪がなせることなのである。これだと、ごつごつした岩が出ているが、林内を歩くことが可能だ。
 赤倉登山道沿いや追子森山頂付近に生えているものと比較すると、何という「空間」の多さだろうか。
 それに、幹の太いものもあるが、総じて幹は細い。その上、幹は根元は若干、反傾斜方向に湾曲してはいるが横倒しになり、伏せてはいない。その湾曲部から上は直状に伸びているではないか。
 まさに平地における針葉樹林を見ているような気分になるのだ。このような点が、明らかに異質なのである。樹齢が少なく若いということなのだろうか。何故なのか、残念ながら、私にはよく分からないのだ。)


        ◇◇ YさんのいないNHK弘前文化センター講座 ◇◇

 昨日はNHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねて」だった。4月期最初の講座だった。やはり、言っていたとおりYさんは受講者名簿にはなかった。1月から始まったこの講座に「冬だから参加出来るのです。4月からは忙しくて参加は無理です。農家ですから…」と言っていたとおりになったのだ。
 Yさんは私のN高校勤務時代の教え子であり、HRの生徒でもあった。今から30数年前、私がまだ30代の初めの頃に担任した生徒だ。
 テニス部に所属していて、日焼けした健康な顔に大きな瞳をくるくるさせた明るく元気な女の子であった。だからといって、「テニス」だけをしていればいいという生徒ではなかった。勉強もよくして、よく出来たし、何よりもクラスの誰に対しても優しい行動のとれる生徒であった。
 だから、その意味でもクラスの中ではリーダーであった。遠足や修学旅行の班構成ではいつも「班長」だったし、日常的な学習活動や学級活動でも班長だった。
 その頃、私は生徒と一緒に毎日、学級新聞「クマとその一味」を発行していた。クラスには7つの班があった。構成人数は6名だ。毎日1つの班がB5版の新聞の半ページにその日の出来事や感じたことを書いた。順番は1週6日を7班で持ち回るのだから、それほどの回数にはならないが、生徒にとっては辛いことのようだった。
 先ず私が半ページを先に、その日の昼休み前に書くのだ。そして、それを昼休みに担当する班に渡す。班員は昼休み中に書いて、私のところに持って来る。私は帰りのホームルームの時間までに、それを印刷して生徒に配布する。生徒はそれを家庭に持ち帰り保護者に見せるということになっていた。
 まだ、コピーはおろか、ワープロもない、パソコンもない時代だ。「鑢(やすり)版」に「蝋(ろう)原紙」を置いて「鉄筆(てっぴつ)」で手書きをするものである。よくこの原紙は破れた。破れてしまうとインクが滲んで紙面は「読めない」状態になってしまうという代物だった。
 それを謄写版で印刷するのである。すべてが手作業だった。これを、毎日続けるということは大変なことだった。
 Yさんはもちろんこの「学級新聞作り」の中心であった。しかも、Yさんの班にはO君がいた。O君は「弱視」ほどではないが視力が弱かった。
 その所為で勉強も遅れがちだったし、みんなと同一行動をすることが、とても「苦手」だった。別な言い方をすれば「行動が遅い」のである。
 YさんはO君の勉強の手助けをするだけでなく、O君をみんなで行動する時の中心に据えた。そしてO君に合わせて全体で動いた。クラスもそれに倣(なら)った。
 7つの班の構成人員は私が決めた。それぞれ1人1人の個性や特性を熟慮して私が決めた。この手法は私がクラス担任をしている間は踏襲した。
 Yさんはいい意味で私の術数に填(はま)ったのだ。いや、私の「指導」の目的を十分理解して、それを真摯に実践してくれたのである。だが、人生とは皮肉なものだ。このO君は早世した。
 ある時のことだ。私が半ページ書きかけの「蝋原紙」をYさんに渡して「ごめん、大変だね。」と言ったら、Yさんは「私たちは8日に1回です。先生は毎日です。それに比べたら楽なものです。」と明るい瞳をくるくるさせて、微笑みながら言ってくれたものである。私は、その30数年前の笑顔を今でも忘れない。

 そのYさんに、1月から始まった講座の初日に出会ったのだ。「山菜などを採りに山に行くのですが、その時に出会う花や草などのことについて知りたくて受講したいと思います。」と言う懐かしい顔を「受講者」の中に発見した時は、先ずびっくりした。そして、懐かしさが一気に広がった。それにしても、「知りたい」という気持ちの持ち主であることには、高校生の頃と何も変わっていない。すばらしいことだ。
 彼女は予告したとおり、4月期からは受講をやめた。昨日もいい天気だった。今日もいい天気だ。寡黙な彼女はりんご園で一日いっぱい働くのであろう。
 受講料を払って 、しかも平日の数時間を費やすことは、「働く人」にとってはもったいないことであろう。

岩木山、3月下旬の真冬登山(6)

2009-04-09 05:16:01 | Weblog
 (今日の写真も3月27日に撮ったもので、昨日に引き続いて「コメツガ」だ。しかし、昨日のものとははっきりと異質である。
 昨日のものは斜面にほぼ垂直に立っていたし、疎らであり「集合」体をなしていなかった。ところがどうだ。あの急斜面を足場を造りながら、登り詰めたところには「コメツガ」の「純林」が広がっていたのである。これも、今冬の少雪のなし得た業である。
 …初めて見る景観だった。既に書いたとおり、この場所は何回か登り降りをしている。しかも、冬場である。3月のこともあった。しかし、この「コメツガ」林が「幹」を露わにして、「林」という形態をこれほど鮮やかに見せてくれたことはなかった。
 何故ならば、これまでは、いつも「雪」にすっぽりと覆われて「丸み」を帯びた構造物という外観を呈していたからである。もちろん、そのような場合は、この林の中を「登り降り」することは出来なかった。
 見事な「コメツガ」の林である。私は改めて、この林と「コメツガ」1本1本の美しさと厳寒と強風への忍従に満ちた「生(しょう)」を思い、心の中で合掌した。
 私は赤倉登山道沿いの「コメツガ」と目の前に屹立している「コメツガ」を比べていた。そして、その違いを探していた。
 赤倉尾根の「コメツガ」はほぼ立っていない。斜面に沿って下方に横倒し状に「寝そべっている」のだ。つまり東に向かって倒れ込んだ状態なのである。そして、それらは一様に、幹は「太く」しかも歪な「楕円形」なのである。
 旧岩木山時代からの生き残り、長い長い時間を強い西風と圧雪に撓(たわ)められて、このような格好になってしまったのだ。
 強風と圧雪という障害は同じであるはずなのに、だが、この場所のコメツガは腹ばいにはなっていない。何故だろう。「明日に続く」)

           ◇◇岩木山、3月下旬の真冬登山(6)◇◇

 …序(つい)でだから、4月上旬の「真冬登山」の体験にも触れてみよう。(2)
(承前)

 ところが、じわりじわりは気持ちの上だけのことで、風は容赦なく雪の塊やら氷片を礫(つぶて)の束として、ザックのある背中以外を猛烈に攻め立てるのだ。
 背後からの風には耐風姿勢は取れない。つんのめっては転倒し、足を払われては転び、その都度、後長根沢の倉まで流されるのではないかという恐怖に対してピッケルで身を確保しながら戦い、前進していった。
 濃霧(ガス)である。さらに猛烈な強風の中で氷片が礫(つぶて)と化して渦をまいている。これだけでも視界は利かない。しかもその礫(つぶて)が顔を、目をまともに撃つのである。
 目をあけていられない。視界不良は視覚不良をも道連れにしていた。
 例年ならこの時期になると積雪が剥げ落ちて、耳成岩は辺りに比して黒々とした岩稜となっているので、かなりの視界不良でも確認が出来るのである。耳成岩は広くて大きい。ぶつかったら戻ればいいのだ、というのが日常的な観念であった。
 ところが、この日は違っていた。霧が岩肌で凍結して白い粉状に、小さな「海老のしっぽ」を形成して真っ白なのだ。回り全体も白い闇なのである。
 磁石を見ることはかろうじて可能だが、地図を見ることは出来ない。距離感と時間との頃合いを測って、北に方向を変える。方向転換の地点と狙いは結果的には正確だった。しかし、これはかなりまぐれに近いものである。やっとの思いで、耳成岩の西の下端に辿り着いた。
 風は一段と強さを増して、左からの横風に変わった。赤沢に収斂された強風は一気に駆け上り、第一おみ坂のテラスを吹き走って、耳成岩と山頂の深い溝を突き抜けるのだ。
 足場を切りながら、やっとの思いで耳成岩と山頂の深い溝をなす平坦地に出た。もう立っていることは出来ない。腹這いになる。
 山頂への真っ直ぐな斜面はきつい。腹這いから四つ足の獣的な行動に変わった。二本足よりはるかにこっちのほうに安定感がある。
 横からの風は前から受ける風よりも性質(たち)が悪い。いや風に罪はない。私の平衡感覚が前後よりも左右という動きに対して鈍いからそう思うのだ。

 その当時は、山頂小屋は石室造りのものだけであった。雪のためにそこに入ることが出来ず、奥宮の東側に2人で身を寄せ合ったのは、僅か20~30mの直登が永遠の時間に感じられた後だった。山頂に辿り着いたのは既に15時を廻っていた。
 焼止り小屋から4時間もかかってしまい、登山口からは8時間以上を要したのである。
 
 この4月2日からの10日間隔による周期的な延長線上に4月21日が存在した。1974年4月21日、弘前南高校山岳部員が岳ルートで「凍死」した。この日はまさに、前述した「4月2日」以上に、その日から約20日も経過して、日ごとに春めいて来ていたはずなのに…大荒れだった。
 私は弘前南高校山岳部パーティとは別ルートで五所川原工業高校山岳部を引率して、岩木山に登っていた。このことについての詳細は拙著「おお悲し、泣くはみちのく岩木山」を参照されたい。
 ところで、その同じ大荒れの日に、山に馴れていると思われていた私の所属する山岳会のメンバー3人が後長根沢を登攀し、倉を越えていた。
 だが、倉から倉窓、大マブを登り、耳成岩付近に辿り着く手前でルートを誤ったのである。大沢に降りるつもりで行動していたが、実は大鳴沢に降りていたというのだ。しかも、大鳴沢をかなり下降してからそのことに気がついたという。
 東と西を間違えたのみならず、南北までその方向感覚を失ったのである。これほどに人知を越えた荒天であったのである。
 その時から十年前の1964年1月に大館鳳鳴高校山岳部が犯したミスを、「大人である社会人山岳会」メンバーが、そのままを繰り返したのだ。
 幸いにも、この遭難一歩手前の事件は「大騒ぎ」にはならなかったし、所属する会も重要視はしなかったと記憶している。
 しかし、この件は、「岩木山の気象の特殊性」として語り伝えられるべきことだと思うのである。

 …ところで、私と相棒はどうしたのだろう。今日の写真が示す「コメツガ」林内で小休止をした後で、果敢に「烏帽子岳」ピークを攻めて、そこに立ったのである。
 ピークに立って360度の展望を眺め、次回の登山は「扇ノ金目山」稜線を経て山頂に行くということを確認したのだ。
 そして、持って行った「スコップ」で新雪を掘り起こし、積み上げて防風壁をこしらえて、その陰に座り、遅い昼食にしたのである。
 食べ終わった頃に、ちょうど、下山の時間になった。ゆっくりと慎重に「造った」足場を辿りながら、踵を使ってキックステップして、ようやくブナ林に辿り着いた。
 あとは書く必要がないだろう。それは、「登り」の逆だからである。駐車場に着いたのは3時頃だった。(この稿は今日で終わりとなる)

岩木山、3月下旬の真冬登山(5)

2009-04-08 05:09:32 | Weblog
 (今日の写真も3月27日に撮ったものだ。真っ直ぐに立っているが、これも「コメツガ」である。これほど真っ直ぐに生えているものは凄く珍しいのである。「」は本来、岩場など水気の少ない乾燥した、しかも「栄養分の乏しい」痩せた土地に生える樹木である。そのために成長は早くはない。しかも、標高1000m以上の亜高山帯や高山帯に生育しているので、寒冷のためにも、成長は極端に遅い。
 ところが、この場所の「コメツガ」は背丈があり、しかも「スクッ」と立っている。急斜面に対して天を垂直に窺いながら立っているのである。このような「生え方」をしているものは非常に少ない。「コメツガ」の生えている尾根や稜線はこの稜線以外に「追子森」、「赤倉尾根」、「水無沢右岸尾根」などに限られるが、今日の写真のように「真っ直ぐ」に立っているものに「出会った」回数は非常に少ない。
 「追子森」では、1本ぐらいだろう。「赤倉尾根」では、登山道沿いでは先ずお目にかかれない。「鬼の土俵」から沢に降りていくルートに若干あることはあるが、この写真のような姿勢ではない。「水無沢右岸尾根」もあるが背丈が低いのだ。)
 写真中央から右に駆け上がっている斜面に注目して欲しい。斜度は40度近いだろう。キックステップと「ワカンの爪」が効けば「直登」も出来るのだが、氷化している雪面は、それらすべてを跳ね返してしまう。もしも、この場所で「滑落」したら間違いなく「あの世往き」である。
 だが、ここを登らなければ、烏帽子岳まで行くことは出来ない。ここで引き返すことは出来ないのだ。
 私たちは、この斜面の「より右側」にルートを採った。ピッケルの出番だ。ピッケルのブレードを使って足場(即席の階段)を造るのだ。
 私はピッケルを使った「足場造り」のノウハウを簡単に相棒に伝えた。だが、それはあくまでも、「形式」に過ぎなかった。「足場」の確実な「実効」までは伝えなかった。それは、実際に体験する中で体得することだからだ。
 その足場に「靴先」をかけて、上体を「上」へと持ち上げる。その時、ピッケルのピックを氷化した雪面に刺して、上体を上部雪面にぐっと接近させ引き寄せる。その行動を繰り返しながら「一歩一歩」距離を稼いでいくのだ。時間はかかるがやむを得ない。命あっての物種だ。
 私が山を始めた頃に使った「ピッケル」のピック下面には「鋸刃」状の切れ込みがなかった。「カドタ」や「ホープ」、それに「シモン」製のものも同様だった。
 ピックを刺して上体を引き寄せる時に抜けやすくて不安定だった。しかし、現在のものには、この「鋸刃状の切れ込み」があるので抜ける心配はないが、角度によっては「抜き出す」時に、少々手こずることがある。
 相棒がトップで「足場」を造って行く。だが、慣れていないからだろう。「足場」の形状が、斜面なみで奥が高いのである。これでは、降りてくる時の「足場」にはならない。靴の「踵」を使ったキックステップを確実なものにするためには、もっと、奥を低く「削り取る」ように、靴先が底面に対して斜めに刺し込まれるような形状にしなければいけないのだ。
 相棒が造った足場を私は「修復」しながら、後について登って行った。

          ◇◇岩木山、3月下旬の真冬登山(5)◇◇

(承前)
 序(つい)でだから、4月上旬の「真冬登山」の体験にも触れてみよう。
 …4月2日のことであった。同じ山岳会の弘前大学医学部専門課程の学生I君と岩木山に登った。I君は20代で、私は30代の前半であったと思うのだが、はっきりしない。
 当時、交通機関の主力はバスである。弘前始発が早く、6時30分ごろだったので7時過ぎには岩木山神社登山口を出発していたはずだ。
 体力も気力も充実していたころである。疲れも知らず、力に任せて休みごとに岩木山に登っていたものだ。この日は、登り始めから荒天であった。
 夏尾根の姥石を過ぎた辺りから、猛烈な風と雪である。登る左前方から間断なくぶつかってくる。焼止り小屋までの道のりがすでに激しい吹雪との戦いであった。
 好天であれば、積雪期とはいえ締まってきている時期だから、新雪が積もっていないかぎり2時間は決してかからない。ところが、体力も気力も充実していると自負している者たちが4時間以上も費やしてしまったのである。
 その日は山頂を越えて弥生口に下山することにしていた。小屋で遅い昼飯を慌ただしく食べて、大沢右岸の鳥海尾根を登り始めた。風は相変わらず左前方から、私たちを横倒しにする勢いで吹きつけていた。
 登るにしたがい、風はその強さを増してきた。横から気圧(けお)(けお)される形になって我々は大沢に降りた。
 ところが今度は遡上(そじょう)する方向から直線で叩きつけてくる。しかも、雪面の固い積雪の表皮を剥ぎ取り、それらを巻き上げては弾丸のように撃ちつけてくる。三点支持も利かない。三歩前進二歩後退の繰り返しだ。風に向かって進むことはもう不可能だ。
 風に消され、声は聞こえない。意志の疎通(そつう)は身ぶり手ぶりだけになっていた。風の息を測りながら、先頭の私が後ろ向きになって、ピッケルの石突で進もうとする方角を指示する。
 右にルートを変え、つまり大沢を詰めないで、左岸に登り後長根沢の源頭の倉上部をトラバースし、耳成岩左下端から山頂に行こうというのだ。大沢を出ると風向きは横風に変わることを体験していた。体験どおりであれば、風を背にしながら耳成岩(みみなしいわ)左下端まで行けると考えたのである。
 ピッケルの石突でまずは、右方向を示す。次に、それをその方向に小刻みに動かして、直線的なゴーを促す。次は、右に半円を描いて迂回しながら山頂に行くことを示す。I君にはこれでことが足りた。
 私が考えていることと彼の準備性が一致していたのである。ルートの変更とこれからのルートがはっきりと確認されたのだ。
 風はまったくの背後からではなかったが、それに近いものだった。後ろから押されて前につんのめらないように、一歩一歩の感覚と歩幅を大事にしてじわりじわりと進んで行った。(明日に続く)

岩木山、3月下旬の真冬登山(4)

2009-04-07 04:35:13 | Weblog
 (今日の写真も3月27日に撮ったものだ。ようやく、稜線に辿り着いた。そこからは南の方角に、山頂部がよく見えた。山頂から右に下降している奥の稜線は赤沢の左岸だ。その手前の丸みを帯びた稜線は西法寺森から続く西法寺平である。私たちはこれを単に「テラス」または「長平のテラス」と呼んでいる。
 直近の樹木はコメツガ、さらに遠方に見える樹列もコメツガである。コメツガ樹列の急峻な斜面直下は大鳴沢であり、この場所は、その大鳴沢の右岸尾根の稜線ということになる。これら「コメツガ」は平年ならば雪を纏うか積雪に埋もれていて、このような姿を見せることはない。
 この「コメツガ」はこの稜線と、それを支える尾根に多く見られ、赤倉キレットの手前の標高1396mピークまで続いている。そして、この標高1396mピークを西に巻く林中には修験者が納めた「笈(おい)」や小型の「仏堂」が朽ち果てた姿をさらして安置されている。
 もちろん、薄暗い上に、累々とした大きな岩石が林立している場所である。夏場に何度かその場所を通ったが、その度に「霊気」に襲われ、髪が逆立つような気分になるのである。今季は少雪だ。きっと、「笈や仏堂」なども雪に埋もれないで姿を見せているだろう。
 今月の13日には、扇ノ金目山経由で、烏帽子岳、標高1396mピーク、赤倉キレット、赤倉御殿、山頂と辿るつもりでいるが、その時には、また「霊気」を感じて「ぞくぞく」という身震いをするだろう。それとも、強風と寒冷に身が震えるのだろうか。出来るならば、強風と寒さは御免被りたいものだ。

 山頂部に見える黒い長方形は「トイレ」である。このルートのみならず、岩木山の頂上を北西及び北東側から望み、攻めると、必ず「山頂」に不浄なる「トイレ」を見ながら登ることになるのだ。
 昔から「山巓(さんてん:山頂のこと)には神が宿る」といわれ、山頂は浄められた場所であることが求められてきた。私は登山者の一人としては「山頂にトイレ」は必要でないと考えている。途中のスカイラインターミナルにも、鳳鳴小屋にもトイレはある。春になると新しくトイレを作り直すそうだが、拙速は避けて、もう少し議論をしてからでもいいのではないかと思うのだ。
 晴れているが長続きする晴れではない。赤沢上空には厚い雪雲がかかっている。山頂の上にも雲がある。晴れているのはその横の切れ間だけである。あと数分もあれば、黒に縁取られた「鉛色」の雪雲に空全体が覆われるのだ。)
 

            ◇◇岩木山、3月下旬の真冬登山(4)◇◇
(承前)
 …この山行で思い出すことが出来るほかのことは、下山途中雪庇を踏みはずし、雪崩を誘発し、さらにそれに巻き込まれてしまったことである。
 ところが、大荒れの次の日もまた大荒れだった。視界の利かない中では当然地図も大して意味を持たなくなる。磁石を頼りに、大沢と毒蛇沢に挟まれた広い尾根を降りていた。毒蛇沢に「はまったら大変だ」との思いがあったので、西に回り過ぎないように注意しながら、南へと降りて行ったのである。
 私の体が一瞬、宙に浮いた。ふあっとした感覚が続いた後、深々とした雪の中に足からめり込んだ。それでも上半身は雪面の上にあった。すかさず、めり込んだ私の上にドドッと雪塊が落ちてきた。
 私は立った状態で雪に埋まり、馬の鞍のように雪にまたがって下に流されていた。またがるというと恰好がいいだろうが、実はすぽっりと垂直な形で埋まっていたのである。
 流される中で、頭が出た。右の肩も出た。雪は重く、流れるスピードは遅かった。妙に動いて流れに弾みをつけては駄目だと考えて、流されるに任せた。
 二つの沢に挟まれたこの尾根には、大きくはないがもう一つ沢がある。昨日からの強風と降雪のために、いつもはないはずの、つまり「出来ないはずの雪庇が出来ていた」のである。
 流れはゆっくりと止まった。幸運にも頭と右肩が出ていた。握っていたピッケルも流れと平行に雪面にあった。恐るおそる静かにそれを突き刺して、それを支えにしながら小刻みに体を動かしてすき間を作り、ザックから両方の肩を外した。
 両方の腕と手が使えることが脱出可能の条件である。またこのデブリが動き出すかも知れないので、脱出は早いに越したことはない。だが、静かに抑えたスピードでなんとかデブリの上に出た。そして、ザックの掘り出しにかかっていたところ、微かに吹雪がとぎれて、上部の視界がぼんやりと開いた。          
 やっと止まってくれた雪崩にできるだけ衝撃を与えないように、細心の注意を払っての脱出であった。デブリが動き出さなかったことが幸運であった。
 こうして見ると、生きていることも元気で山から戻って来れることも、みんな「幸運」に支えられているだけのことのように思える。立った恰好で沢に落ち込んだこと、雪塊の直撃を頭に受けなかったこと、右肩が出たこと、ザックから体が外れたこと、流れが停止したことなど、みんな私にとって「運が良かっただけ」のことである。           
 3月20日前後の山。それは死と隣り合わせの山になることもある。一般的な「春山」と呼ぶには、かなりその趣に違いがあるのだ。
 経験から言えることだが、この大荒れの状態は、大体10日周期で繰り返されているようだ。3月20日、そして下旬のみならず、4月の上旬、10日前後、20日前後、さらに4月から5月の上旬までという長い期間である。(明日に続く)

岩木山、3月下旬の真冬登山(3)

2009-04-06 04:59:11 | Weblog
 (今日の写真も3月27日に撮ったものだ。平年ならば稜線上に樹列は見えない。樹種はコメツガとダケカンバだ。樹列が見えないということには、2つの意味がある。
 1つは積雪に埋まっているということであり、もう1つは雪を被り樹氷になっているということである。樹氷といっても蔵王や八甲田のものとはその形態がかなり違う。「樹」という形態ではない。
 それは、稲を刈りとって乾燥のためにそれを積み上げておく「藁にお」に似ている。まるで丸い縄文時代の住居を偲ばせる「格好」をしている。ところがどうだ。今季は「樹」がはっきりと「樹」として立っている。
稜線は直ぐそこに迫っている。だが、直登は出来ない。直進すると雪庇を踏み抜く恐れもあるし、さらには上部の雪庇が崩落してくる恐れもある。だから、右に大きく巻いて稜線を目指す。
 幾分上空が明るくなった。その時だ。稜線の左端に大きな山影が覗いた。それは雪煙を纏う岩木山山頂部だった。) 

            ◇◇岩木山、3月下旬の真冬登山(3)◇◇
(承前)
 さて、「ゲレンデ上部に接するブナ林の環境」はどのような変貌をとげていたのだろうか。
 それは、ブナ林内全体が大きな吹き溜まりになっていたということである。ゲレンデ下端から吹き上げる風が雪をこのブナ林に運ぶのである。積雪が多いと当然雪解けが遅くなる。
 そこに生えている草本も木本も「営々と続いてきた」変化のない環境に適応して「生きて」いるのである。そして、それら「草本や木本」に依拠して生きている昆虫や動物も同じように変化のない環境に生きているのである。
 「岳登山道」とほぼ並行して「使用」されていた「雪上車」利用のスキーコース、そのブナ林内で「ミドリシジミ」という蝶がほぼ絶滅したという報告がある。その理由は「圧雪車に依って固められた積雪が遅くまで消え残り、その分だけ季節の推移が遅れて、ミドリシジミが羽化出来ない」ことにあったという。
 この事例からも分かるように、これまで、「吹き溜まり」などにならないブナ林に生息していた生きものは吹き溜まりによる「雪解け」の遅れによって、「生命」の継続を断ち切られているかも知れないのである。
 ゲレンデ上端の縁は、強風に曝されて、ほぼ新雪が無く「ガチガチ」に凍っていた。この辺りで、既にピッケルの石突き部分が刺さらないほどに硬いのである。そこをピッケルを頼りに登ると今度は「深い」新雪の吹き溜まりとなった。場所によっては膝を遙かに越えるし、ピッケルはその本体全部を積雪に沈めてしまう。このような「深い新雪」は稜線に続く「ブナ林」、ゲレンデ上部の「ブナ林」を埋め尽くしていた。烏帽子岳山頂までの間で、この場所だけが、特別積雪が多かったのである。
 今季は暖冬で少雪である。だが、数10年から10数年前は、3月の岩木山というと、まだまだ「真冬」であった。
 …かれこれ20年も昔のこと。3月の20日前後に登った時のことだ。詳しいことはすっかり忘れてしまい、思い出せることはその時の天気と雪崩に関することだけである。  
 子規の俳句に「毎年よ彼岸の入に寒いのは」というのがある。経験からすると、こちらの方がはるかに事実真実を語っていると思える。
 さて、件(くだん)のその「日」である。本当に荒れた。大寒のさなか、厳冬期の岩木山や2月10日前後、よく気象庁が言う『この冬一番の大寒気団が日本上空に張り出し北日本の天気は大荒れ』というあれよりもはるかに凄かった。
 この経験から、何回も、山の仲間には「3月20日前後の山は気をつけろ。冬山以上だ」と語ったものだ。
 もちろん、登山の季節的な実感や常識としても3月の山は「冬山」だ。だから冬山以上とのこの表現にこそ、私の言いたいことがある。            

 その日は、とにかく重い雪だった。粘っこい雪であった。ラッセルする時は、ワカンを持ち上げ引き抜くことがとても辛かった。
 時折、突風がある。これは強い。北から南へと日本列島をすっぽり覆うような大きな前線が、3つの低気圧を連ねて、通過した。翌日、気圧配置は典型的な西高東低、等圧線は間隔を描けないほどに混んでいた。地吹雪が雪面の雪を飛ばしながら体当たりしてくる。
 北西の風だ。焼止まり小屋を出てからはこの風にまともに向かう。腰を屈(かが)め三点支持をとらないと風圧に押し飛ばされる。呼吸も風に向かっては出来ない。口の向きは雪面に対してつねに垂直になる。
 風速が1m増すごとに体感温度は1度下がる。1991年の9月に、100年に一度あるかないかと言われる「進行速度、規模、強さ、風速」等すべての点で「超」という冠詞をいただいた台風19号を私たちは体験した。
 弘前地方でも瞬間最大風速が50mを越えていたそうだ。この体験をもとにしてあの時の風速を勘案すると40mぐらいかも知れない。  
 里では、その日、雪が降っていたそうだから、気温は高く見積もっても2℃前後だろう。100m登ると0.6℃下がるから標高1300から1400m付近での体感温度は、標高差の分で約8℃、風速の分で35℃、つまり氷点下40℃を下回るということになる。
 私は目出し帽を被っていた。強風によるこの低温は、吐く息を目出し帽の口にあたる部分で、すぐに「氷」にした。さらに、顔や首すじから発散される汗をも、今度は目出し帽の外面で即、「氷」にしてしまった。
 私は、中世の騎士がつけた鉄仮面のような、ガッチリした氷の仮面を一瞬にして被らせられたのである。そんな中を進んで、何とか鳳鳴小屋には辿り着いたのである。
 「三点支持:三点確保とも言う。自分を支える時いつも3つの支点を保つこと。足二本で立ち、両手でピッケルを握り雪面に突きさして確保する時、支点は3つになる。) (明日に続く)

岩木山、3月下旬の真冬登山(2)

2009-04-05 05:24:12 | Weblog
(今日の写真も3月27日に撮ったものだ。樹木はブナである。右上方の疎らに見える樹木もブナである。これら樹木の枝や梢に着いているものは、一見霧氷にも見える。
 確かに出来方としては、氷点下の中で霧(雲)の水蒸気粒が枝や梢に付着して凍え着く現象なのだが、これは、その「霧氷」に吹きつける雪の片々がさらに付着して造り上げたややぼってり感のある「霧氷」なのである。だから、暗い鉛色の雲の下でも白さがよく映えるのである。
 霧氷は気温が低く、風が弱い晩から朝方にかけて「よく」出来る。この日も朝は気温が低かった。しかも、登り始めて約2時間のこの辺りでは風も強く、その風を受けて体感温度はぐんぐん下がっていた。カメラのシャッターボタンを押すために手袋を脱いでいる右手の感覚は、ほぼ無いに等しい。
 この状態を身近なところの「冷蔵庫内」に喩えると「霧氷」は冷凍室に貼り付いている「霜」であり、ブナ林内の空間は「冷蔵庫内の冷気孔」である。
 右に見える樹木の殆ど無い稜線は、拡張ゲレンデ下部左岸から始まる大鳴沢右岸尾根稜線である。この稜線上には高木は殆ど無い。伝聞だが「営林署」が防火帯とするために、かなり昔に伐採したのだそうだ。
 だから、冬場にこの稜線を伝い、赤倉キレット、山頂を目指すことは、かなり視界が利かなくてもルートを失うことは余りない。その点では難しいルートではないのだが、ただ、怖いのは強い風を横から受けることと雪庇の踏み抜きと踏み落としによる雪崩である。
 厳冬期と3月中旬頃から4月中旬にかけての風は尋常ではない。特に、赤倉キレット付近の大鳴沢で収斂して登ってくる風は、下手をすると足が浮くほどに強いものだ。アイゼンやピッケル、それにザイルでの確保がないと簡単に飛ばされてしまうのである。)

◇◇岩木山、3月下旬の真冬登山(2)◇◇

(承前)

 圧雪されたゲレンデは登りやすかった。踏み抜きがないということは実に楽なものである。つまり、ラッセル行動でないということは楽なのである。
 だが、それは、あくまでも「30cm」以上の踏み抜きに比べてのことである。「圧雪されたゲレンデ」とはいっても「埋まらない」というわけではない。スキーやスノーボードでは埋まることはなくても「ワカン」を着けての登りでは数cmの沈み込みはある。しかも、私たちは、ぎりぎりそのゲレンデの縁を登っているのだから「踏み抜き」や「沈み込み」はある。特に、積雪帯に接する部分は軟弱に圧雪されているものだから、柔らかく、結構埋まるのである。深いところでは10cmを越えるほど埋まるのだ。
 そして、その朝の埋まり方には、「圧雪されたゲレンデ」といっても、その後の登りにも共通する1つの特徴があった。それは、新雪の底面が硬い氷雪となっていることであった。
 左に、まだ動いていないリフト乗り場を見て、大鳴沢を渡る。積雪が少ないので「架橋」であることがよく分かる。このスキー場を造る時の計画では、この橋は「架橋」でなく、大きく太い丸鋼管を埋めてその上に土石を載せて平らにして凹凸のない「渡場」にする予定であった。
 私たちは、上流からの流下物が、この「鋼管」によって堰き止められて、それが溜まって「土石流」を起こす引き金になるとして、その構造に反対したのだ。それで、現在のような「架橋」方式に変更されたのである。
 その橋を過ぎて、向かって右側の拡張ゲレンデ、その左端を登る。勾配がきつく、踏み出すとワカンを着けているのに、爪が効かず、ずるりと後退する。これは負担だった。
 ようやく、ゲレンデの最上端に到着した。すでに、2時間ほど経過していた。
 それまで、右横から吹きつけていた風が背後に回っていた。ゲレンデの無かった頃の冬季登山では決してあり得ない風向きである。とにかく、この尾根を登る時の「風」は徹底して「西」から吹きつけていた。つまり、ひたすら、右横からの風であったのだ。
 だが、その日の朝は、風は背中を押すようにゲレンデ下部から吹き上げてきていた。「ゲレンデ」敷設によるブナの伐採が何と「季節風」の吹き込む向きまで変えてしまったのである。「風」の向きが変わると、積雪や吹き溜まりの量や場所もすっかり変わってしまう。 以前のままのブナの森であった時の環境に則して自然生態系は維持されてきた。しかし、この風向き変化は、それを微妙に狂わせているだろう。私たちはそのことにも触れながら「拡張ゲレンデ」敷設反対を唱えたのである。
 果たして、「ゲレンデ上部に接するブナ林の環境」はすっかりと変わっていた。
(明日に続く)

           ◇◇ 昨日の問いに答えよう ◇◇

 ●「岩木山にはどんな木の実がありますか。その中で食べられるのは何ですか」
(解答)

・固い実の…
 堅果として・クリ・クルミ・トチ・ドングリ・ハシバミ・カシワ・コナラ
 球果として・ハイマツ 
・奨果(柔らかくつぶれやすい実)の
 液果として・ヤマブドウ・イチイ・ハイイヌガヤ
 集合果として・キイチゴ・ベニバナイチゴ・ヤマボウシ
 梨状果として・ズミ・アヅキナシ・ヤマナシ・ウワズミザクラ・グミ・イワナシ・ガマズミ・サルナシ
・いちじく果として・アケビ
高山帯のものとして・コケモモ・スノキ・クロマメノキ・クロウスゴ・ガンコウラン
 …などがある。食べられる。
 
 ●「広葉樹林の主要樹木で高木になる。最も普通の木らしい木であり、どれも堅果を付けるものは何科か」
 ●「日本国内に棲む雑食の動物をあげよ」

(解答)「ブナ科」・「ツキノワグマ、アカネズミ」である。

岩木山、3月下旬の真冬登山(1) / 「会報」記事案内 春の観察会について

2009-04-04 05:49:21 | Weblog
 (今日の写真も3月27日に撮ったものだ。これは、拡張ゲレンデ上端のブナと檜葉混交林斜面を登り、西の尾根にルートを採った辺りから、ぐっと引き寄せて写した烏帽子岳である。右側中央に走る雪庇も今季は非常に小さい。平年ならばこの雪庇の上部に見えるブナなどは、その梢を出しているだけなのである。
 「引き寄せて」写しているので「直ぐそば」に見えているが、ここから「稜線」に出るまでの距離は長いし、稜線に出てからもその距離は長い。決して「そば」ではない。山とはそのようなものだ。急峻であればあるだけ、辿るルートは長くなるものだ。
 一瞬の晴れ間だった。しかも、空全体が晴れたのではない。鉛色の雪雲が烏帽子岳のピークだけを照らすかのように、ぽっかりと口を開けてくれたに過ぎなかった。直ぐに暗くなり、私たちの行く手から重い雪をぶっつけてきた。)

         ◇◇ 岩木山、3月下旬の真冬登山(1)◇◇

 昨日はその日の「雪質」とその「状態」について書いたので、今日は「辿った」ルートとその景観などについて触れることにする。
 この「烏帽子岳」山頂へと続く稜線に取り付くには、2つのルートがある。これはあくまでも「積雪期」ということだ。1つは夏道の西岩木山林道から登山道に入って、左折して大鳴沢を渡って直ぐに急峻な尾根に取り付くルートである。大鳴沢を渡るためにはスキー場ゲレンデを通ることになるが、渡ったらゲレンデと併行しながら、右の尾根に向かえばいいのだ。ただ、ここは非常に斜度がきつく、ラッセルが困難な場所である。
 もう1つは鰺ヶ沢スキー場の東側ゲレンデ最下端から「拡張ゲレンデ」を通ってその上端から直進して、西に折れて稜線に取り付くというルートである。いずれにしても、「ゲレンデ」を登ることは避けられない。
 27日には後者のルートを採ったのである。駐車場のホテル側に自動車を置いて、そこから直ぐのところにある「ゲレンデ」に入るために、除雪されたアスファルト道から「積雪」上に足を踏み入れたら、新雪が30cm以上あるではないか。きつい「ラッセル」のことが偲ばれて気が重い。
 数十歩、新雪を踏みしめ、歩いて「ゲレンデ」に出る。時は6時40分ごろだ。「スキー場」はまだ開いていない。今回も相棒はTさんである。
 「ゲレンデ」に出ると、そこはすでに圧雪されていた。しかし、すべての滑走面ではない。いわば「片側圧雪」である。私たちは、ぎりぎりその「ゲレンデ」の縁を登って行った。「圧雪車」が整備した「ゲレンデ」に足跡を付けて「ゲレンデ」を毀損し、滑走する者に迷惑をかけてはいけないと思うからである。(明日に続く)

 ◇◇ 「会報」記事案内:岩木山について学習することは沢山ある/ 春の観察会について ◇◇

□□岩木山について学習することは沢山ある…□□

 例えば、こんな質問がある。「岩木山にはどんな木の実がありますか。その中で食べられるのは何ですか。」これは小学生たちが本会に訊いてきた質問の一つだ。
 また、「広葉樹林の主要樹木で高木になる。最も普通の木らしい木であり、どれも堅果を付けるものは何科か」とか「日本国内に棲む雑食の動物をあげよ」という質問も課せられることがある。
 こちらは「自然活動指導者の為の自然ガイド実力テスト」で、自然や自然に関わる活動に必要な専門知識の習熟度(リテラシー)を確認する為のものだ。
 何も岩木山について、後者ほどの学習をする必要はないだろう。まあ、する人があってもいいのだろうが。「学習して岩木山を知る」とそれだけ岩木山が身近になることは確実なのである。
 先ずは、手始めに「小学生」の気持ちに立ち返って「素朴な」質問や疑問を持って岩木山と向き合おうではないか。
 その姿勢を保っていくと「遠景」の岩木山が、「近景」になり、気がつくと岩木山の山中にいることになっているはずである。

 本会ではそのために「自然観察会」を長いこと毎年開いてきた。これは「参加者」の範囲を会員のみならず、会員外一般の人まで広げてのものだったが、これからは「会員」に重きを置いた形で実施していこうと考えている。
 これは、会員の「岩木山学習」を広げ深めたいと考えているからである。
 次に提示してある、「第42回自然観察会」もその理念で実施するので、多くの会員の参加を願っているところである。
 さらに、今年度からは「自然観察会」以外にも「岩木山の自然」「岩木山と人殿関わり」などをテーマに「学習会」を実施する予定でいる。是非「学習」の機会にして欲しい。

 ところで、冒頭の小学生の質問の答えは…

・固い実の…堅果として(クリ・  ・   ・    ・    ・   ・
     …球果として・ハイマツ 
・奨果(柔らかくつぶれやすい実)の
…液果として(ヤマブドウ・  ・     )
…集合果として(キイチゴ・     ・      )
・梨状果として(ズミ・    ・    ・    ・    ・イワナシ・ガマズミ・サルナシ)
・いちじく果として(アケビ)

 高山帯のものとして(コケモモ・スノキ・クロマメノキ・クロウスゴ・ガンコウラン)…などがあり、食べられる。
 また、自然活動指導者用の質問の答えは「 科」と「     ・  」である。
 さて、皆さんは「小学生の質問」に対して、いくつの正解を与えることが出来るだろう。
 (  )、「  」内の・以降に、それぞれ答えを書き入れて欲しい。解答は明日する。

 そして、この学習の場を「春の自然観察会(第42回自然観察会)」として計画しているので是非参加して欲しいものである。

    ・日 時:5月17日(日)10時から・場 所:二子沼とブナ林

    ・集合場所:鰺ヶ沢スキー場駐車場(各自自家用車で集合のこと:ただし、自動車等移動の手段のない者は事務局に連絡のこと)
    ・時間: 9時45分 
    ・主 題:初夏のブナ林と池塘の観察
    ・申し込み/問い合わせ:電話で事務局へ 
    ・締め切り:5月10日まで(厳守)ただし、受付は5月1日から
 

岩木山、今季の「雪」質 / 「総会」の案内

2009-04-03 05:29:19 | Weblog
(今日の写真は3月27日に撮ったものだ。場所はもちろん岩木山だ。だが、夏道があるわけでもなく、普通、人は登らないルートである。
 曇り空、猛烈な風に雪煙があがり視界は極端悪くなる。幸い、右から横殴りの風だから、目を開けていることは出来る。右側上部に見える稜線に出るにはあと、数百mは登らなければいけない。
 目の前の雪庇を避けて、右に大きく迂回しながら、低木ブナ林の縁を巻きながら登って行く。この辺りの、ワカンを着けての「埋まり方」は50cm、深いところだと、全長72cmの「ピッケル」がすっぽりと入ってしまうくらいなのだ。
そして、「ピッケル」の石突きが、その名称の通り「石に突き当たって止まる」ように、ガチッという「硬い」ものにぶつかり、それ以上は、突き刺さっていかないのである。
 27日までの数日間に、大体50cmの積雪があったのだ。その積雪は、まさに、スケートリンクの表面のような斜面に「降り積もって」いたのである。
 登るために「ワカンを着けた靴」を上部に向けて踏み出すと、硬い氷板に接した瞬間に「ずるり」と下方に「滑る」のである。「ずるり」と滑るだけでも、登高するためのエネルギーが「失われ」て、「体力」のロスは倍加する。
 しかも、斜面を横切ったり斜めに登ったりする「トラバース」の場合は、ズルズルと足が下方にすくわれて、転倒しそうになる。転倒したらその弾みで、積雪と一緒に「流され」て、厚さ「50cm」の表層雪崩を誘発してしまうのである。その「恐怖」に緊張しながらの「登り」は一層体力のロスを産み、疲労を増加させるのだ。
 このような雪面、というより「氷板」状の雪面を作りだした主要なメカニズムは、今季の少雪と、連続的な暖気にある。
 雪面が暖気により解ける。それが解けて気温の低い早朝などに凍る。その凍った雪面にうっすらとまた「降雪」がある。そして、その薄い雪層の雪が日中の暖気で解ける。
 その雪解け水が、底部の氷板のために染みこまず溜まり、それがまた凍るということをずっと繰り返して、「ピッケル」の石突きが突き刺さらないほどに硬く、厚い氷の層を形成しているのである。 
 99年から2000年にかけて、この尾根と稜線上にだけ見られる「青森ヒバ(檜葉)」の調査で無雪期に数回稜線まで登り、残雪期にも何回か登ったり、降りたりした。
 その内の数回は白狐沢左岸尾根を辿って、「扇ノ金目山」を経て、標高1249mピークから下降するというものだった。
 この「標高1249mピーク」は、鰺ヶ沢町の人たちからは、昔から「烏帽子岳」と呼ばれていたらしい。私は人伝に聞いたことであり、古文書等で調べたわけでないので、確かな「根拠」は分からない。
 この呼び名を念頭に置いて、山麓から「見る」と「烏帽子」に似ていないわけでもない。なるほどなあという思いがしてくるから「名称」というものは摩訶不思議なものである。)

…思いがけないこと・「会報の郵送」が遅れるかも知れない…

 28日、土曜日「会報」の印刷原稿を持って「K」社をたずねた。ところが、休業であった。いつも、土曜日は終日営業だったので安心して出かけたのだ。
 私は急いでいた。「会報」には4月29日に開催される「2009年度」の総会案内が掲載されている。一日でも早く会員に「総会日程」と「議案内容」を届けて、多くの会員に総会への参加を促したいと考えていたからである。
 というわけで、会報の発送は数日遅くなることが明らかになった。そこで、今朝は「総会日程と議案内容」を、ここでお知らせすることにする。

      ※岩木山を考える会2009年度総会案内※

※2009年4月29日(水)「祝日」
※13時から16時まで 
※場所:市民参画センター中会議室

2009年度 活 動 方 針(案)  

1、岩木山の自然破壊の監視、阻止、および山岳自然の保護と再生をめざし調査と情報の蒐集につとめる
(長平登山道沿いにある「鰺ヶ沢の種蒔苗代」の調査・環状道路沿いのオオヤマザクラ)

2、弘前市が岩木山に対する自然保護行政に積極的に取り組むように働きかけ、これまで「岩木町と協力しながらしてきたこと」を継続しながら、弘前市観光物産課、環境保全課との連携を密にする
(弥生跡地に関わる弘前大学と弘前市との共同研究・ミズバショウ沼周辺の刈り払い)

3、シンポジウムを開催する
(岩木山の湧水と水生生物・岩木山の生成から地質的な特徴を探る「75年の土石流」など)

4、NHK弘前文化センター講座『津軽富士・岩木山』を昨年に引き続き出来るだけ「自然観察」を中心にすえながら開講する
(すでに、4月期から開講予定・3~11月までは野外観察、12~2月までが「座講」)

5、写真展「私の岩木山」を市民参加型の写真展と位置づけて開催する 
(第17回写真展「私の岩木山」はNHK弘前放送会館ギャラリーで開催)

6、「東北自然保護の集い」に参加する
(今年度は開催地が福島県となる)

7、会員及び市民参加型の自然観察会または学習会を開催する
(出来るだけ年2~3回実施を心がけたい)

8、市民(農民・消費者)運動と深く連携し、行政と向き合いながら自然保護運動を進めていく。また、地球温暖化を防ぐことと「核燃行政」にも向き合いながら学習をしていく
 
9、ホームページ「岩木山を考える会」の充実
(掲示内容よりも「閲覧者」の拡大に努める)

10、幹事会と事務局の機能的な充実をはかり、会員のゆるやかな拡大につとめる

 以上の案件を審議します。多くの会員の参加を希望しています。

「自生する大山桜(オオヤマザクラ)」と「植樹されたオオヤマザクラ」について(その4)

2009-04-02 05:45:26 | Weblog
 (今日の写真は鰺ヶ沢松代地区の石倉付近に植樹されたオオヤマザクラの「空しい残骸」である。無残に折れて、そのままである。
 新しい苗木に植え替えられることもなく、支柱は自然に倒れ、折れるのを待っている状態である。
 支柱の上部に見えて、ぶら下がっているものが、寄贈者名などを刻んだプラステック板だ。この板には2002.10.26と刻印され、次に施工・植樹した「鰺ヶ沢町」が、そして、その下欄に寄贈者である弘前市のK子さんの名前が見える。その上欄には「めざそう!世界一の桜並木」と刻んである。

 皮肉にも「腐敗」しないプラステック素材の板はぶら下がりながらも残っているし、あるいは落下しても道ばたに原型を留めて残っている。そして、あるものは「通行人」に踏まれ、あるものは自動車の車輪に「圧し潰され」て割れて散らばり、見る影もなくなっている。さらには、「オオヤマザクラ」は枯れて跡形もないのに、この板だけが支柱にくっついているものもあるのだ。
 苗木を支柱に止めるために、添え物とした「棕櫚(しゅろ)の繊維」は腐るが、それを止めている紐が化石燃料から造られたものであるらしく、それは腐食しないで「やっと育ち始めた苗木」を締め上げているものもある。
 だが、そういうものの数は少ない。なぜならば、まともに育っているものは非常に少ないからだ。
この写真の石倉付近では、30本中何とか「育っていたもの」は僅かに2本であった。その2本も地上部近くの幹の樹皮が、ウサギかネズミに囓られているのであった。
 まさに、やりっ放しの、責任のない行政の所業である。寄贈した人たちに言いたい。あなた方の誠意を行政は踏みにじっているのだ。元通りにせよと声を大にして言ってほしいものだ。)

◇◇「植樹されたオオヤマザクラ」について◇◇

 …その問題点…

1.並木に見られる植樹は密植に過ぎる。
 自然の生え方は密植ではない。少なくとも直径20mの円内に1本程度の割合で生えるのが、普通である。樹高も20mを越える。
 これは、多量の果実の落下による土の過栄養から生じる他の植物の繁茂などによる影響を避けるための自助努力と考えられる。

2.並木という「形態」は、その上部と下部を分断する「ベルト・ゾーン」を形成してしまい、これまでの植生に大きな変化をもたらす。

3.果実等への「鳥や昆虫の集中」などによって、「これまでやって来ない鳥や虫」等の排泄物などによって、これまでの生態系のバランスを壊してしまい、最後は互いに枯渇してしまう。

4.りんご園のハリトーシ被害発生の温床になる。その「害虫」駆除のための薬剤散布なども「生態系のバランス」という点では大きな問題となる。

5.(1.~4.)の関連から、植樹間隔を15~20m程度にするために「間引き」と「植え替え」をする必要があるだろう。
 全国的に「サクラ並木」をみると、「早く並木らしい形状」にするために最低でも10mは必要な間隔を狭めて植樹してしまうケースが多いという。本数が多いと「苗木屋」は儲かるだろうし、それを植える業者も仕事が増えるからいいのだろうが、「大きく育っていくもの」という観点が抜けているだけである。だから、枝が伸びず、最後には枯れてしまうのである。
 ところで、まったく話しにならない事実がある。行政は植えられる道の長さ(距離数)を、苗木寄贈者数(本数)で「除」した「長さ」を植樹される間隔としたというのだ。あきれてしまう。
 ただ、とにかく「並木」というものの形態を整えるための「造営」を急いだだけなのである。
 白いプラスチックの寄贈者の名札には、名前の他に「めざそう!世界一の桜並木」という文字が刻み込んである。他に、年月日と行政名が彫られている。
 この事実は何を意味するか。これは「行政」が「自力」で「世界一の桜並木」を完成すべきであることを言っているのである。各自治体が「議会」で審議して実施した事業だろう。最後まで責任を持つことは当然だろう。 

6.それに関連して、百沢側と鰺ヶ沢側では植樹の「方法と形式」に違いがあるので、その対応も考慮する必要がある。例えば鰺ヶ沢側では「植樹担当」は造園会社ではなかった。地元の「建設会社」が請け負って「道脇」に「ユンボ」で穴を掘り、路肩側に三角形のコンクリート部材を埋めて、それに沿わせて苗木を植えていた。あれだと、根の伸びるわけがない。このように植樹の仕方は担当する行政によってまちまちであった。

7.さらに、関連して、苗を寄贈してくれた者への責任と対応のあり方も検討しなければいけないだろう。併せて、名札や支柱、支縄の取り扱いなども考えなければいけない。

8.「ネックレスロード」という名称は「猪首の女性がピンクのネックレスを着けていることをイメージ」させないだろうか。
 首が短い上に太いものを猪首または猪の首という。この名称から、イメージすると決して美しい風情にはならないだろう。美意識に欠けた命名としか言いようがない。単刀直入「岩木山・大山桜の道」「岩木山・大山桜並木」でいいのではないだろうか。

9.また、生態系の危機として「ソメイヨシノ」の遺伝子が「オオヤマザクラ」に入り込んでいるという報告もある。「ソメイヨシノ」には、花の咲かなくなる「テングス病」にかかりやすいという性質がある。これが、自生するオオヤマザクラや並木のものに、遺伝子として感染することが懸念されているのだ。
 「保守・管理」をするとなれば、このような点にまで「活動」の幅を広げなければいけない。
 やはり、行政が「責任ある事業」として実行することがベターであるに違いない。最初から行政に、そのような科学的な見解と見通しがなかったことが、そして、ないままに「植樹」事業をしてしまったことに、問題の本質があるのである。(この稿は今日で終わりとなる)

「自生する大山桜(オオヤマザクラ)」と「植樹されたオオヤマザクラ」について(その3)

2009-04-01 05:34:08 | Weblog
 (今日の写真はまさに、「オオヤマザクラ」だ。赤みがかった葉っぱ、それと、淡いピンクの花びらが実によくマッチする。この写真は曇り空の下で撮った。青空にもよく映える花の一つでもある。
 場所は岩木山神社の境内林の中だった。余り大きくなく、花が頭上直ぐにまで垂れ下がっていた。
 最近、岩木山の雑木林の中で、このような若い木に出会うのだ。別に誰かが植えているわけでもないだろう。つまり、「オオヤマザクラ」は結構、繁殖力のある樹木ということだろうか。いや、そうではなさそうだ。若い木の割合に比すと、高木の比率が少ないのだ。
 樹齢何十年頃からそうなるのかは定かではないが「オオヤマザクラ」は老樹になると、枝が下垂し、「枝垂桜」の様相を見せるのだそうだ。
 そうなると、趣はすっかり変わる。腰を曲げた好々爺を偲ばせる「老樹」が、林の中にひっそりと息づいている様子を想像するだけでも楽しくなってくる。
 春の雑木林に分け入って、この「オオヤマザクラ」の木に出会えると、それはまさに「森の神」に出会うことと同じではないか。これは木の霊であり、「木魂(こだま)」であろう。「木魂」は孤塁を守ってこそ存在するものである。
 「サクラ並木」が、これから生き続けて、その結果として、この「枝垂桜の雰囲気」が延々と道路沿いに列を成しているという風情の中で、果たして、この「木魂」と出会えるのだろうか。)

   「私」のオオヤマザクラに対する思い…(2)

(承前)

4.「山桜・ヤマザクラ」は、かつて「国花」から「愛国心の象徴」とされた花である。
 その源は本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という歌にある。この歌は、太平洋戦争中の1940年代に軍部によって「上手く利用」されたのである。そして、日本の歴史やら伝統、文化が歪曲された形で破壊され、多くの若者が「露と消え」た。

 だが、真の意味として「大和心とか大和魂」という言葉は「朝日に匂う山桜の姿」のようなものなのだ。
 日本の伝統的な学問は、人間の幸、不幸に重大な関心を寄せてきたと言われている。学問とは「愛しみ、慈しむ心」を育てることにある。その「心」が大和心である。
 そこはかとなく、「もののあはれ」を知る春の早朝、朝陽を浴びて、照り輝くような山桜の姿、それが「大和心」だと宣長は言うのである。
 そのような清々しい、爽やかなもの、それが大和心なのだ。「大和心、大和魂」とは、勇壮なものではない。慌ただしく死に急ぐものではない。それは山桜の散り方にもある。のどかにゆったりと散る。潔いのは「ソメイヨシノ」の散り方である。
 だから、ある意味で「大和心、大和魂」とは女々しく、とても優しい心持ちを表すものなのである。それが、「ものの哀れを知る」ということに繋がるのではないだろうか。
 ちなみに、「大和魂」という「言葉」の初出は源氏物語、作者は紫式部で、次のように出ている。「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」と。

5.「オオヤマザクラ」は日本に自生する野生の桜である。
 日本に自生する野生の桜は、大きく分けると西日本の山桜「ヤマザクラ」と東日本の彼岸桜「ヒガンザクラ」、それに北日本の蝦夷山桜「エゾヤマザクラ」、別名は大山桜「オオヤマザクラ」だ。南伊豆の大島桜・オオシマザクラも自生しているが、これは山桜の変異種である。「ソメイヨシノ」は自生種ではない。

6.大山桜「オオヤマザクラ」の咲き方と散り方はのどかで、花の「命」と「散るを惜しむ」という風情がある。
 清楚であるが、凛とした華やかさも備えている。ある人は「源氏物語の紫の上に通ずる気品を備えている」と言う。山桜の場合は、花の色は白いが淡い。昔はその淡い色を「桜色」といった。葉と花がほとんど同時に出て開き、幼葉は赤みがかっている。その葉の色と花の色との対比が美しい。
 花の寿命は長い。実を残さなければならない「オオヤマザクラ」は、花の「命」を惜しむ。散り方はのどかで、「自分の命を惜しむ」ように散るので、見る人に「惜しまれながら散る」花といっていい。
 万葉の時代や古今集の世界で詠じられた「花(桜:サクラ)」には古人の「散るを惜しむ」という心情が溢れている。
 「オオヤマザクラ」は津軽の岩木山を愛する人たちの自然的、心情的な財産である。まさに、弘前公園の「ソメイヨシノ」を越える財産といえるだろう。

 参考までに、染井吉野「ソメイヨシノ」の特徴と思われることを次に提示しよう。

 霞かと見まがうばかりに、まさに春爛漫と咲く。花の数が多いく、しかも若葉の前に花をつけ、若葉なしに満開を迎えるから、花一色になる。一つ一つの花も大きく立派である。
 木の成長も速く、十年もしないうちに花を咲かせる。増殖は挿し木、接ぎ木ですむ。
 花の寿命は短い。受粉・結実しないので命を惜しまず一気に散り果て、その散り方は絢爛たる花吹雪となる。散り方は潔いが、一方「死に急ぐ花」に「凄惨」さと哀れさが漂う。(明日に続く)