朝夕は秋、涼しくなりました。季節は巡っていますね、秋の虫の音が心地よくしみます。遅い夏休み、エンドレスになっては困る休暇の二日目、あー斜め向かいのオジサンはほんとにずっといて喉を鳴らす音がやたらと聞こえてくるので気持ち悪いです、緊張します。心身ともに病んでるようなあ、おそらく。緊張しながら今日も断捨離。残りの人生を身軽に生きていくためにはやるしかありません。少しずつだけどモノが減ると隠れていたものがみえてきて、こんなのあったんだあっていうモノと出会います。
『40周年記念ベルサイユのばら展』のチラシ。手帳をみると、わたし、2013年9月21日(土)に行きました。その日は午後、松本侑子先生の赤毛のアンとキリスト教との関わりについての講座を受講し、お茶会にも参加。その後プリンス・エドワード島でご一緒した女性お二人とお茶。さらにその後眼科を受診、そしてベルばら展へ。盛りだくさんな一日だったとあります。妹の命日、当日のブログには全く書いていないですが、そんな一日をすごしたことを思い出しました。なんかこの頃には自分全く知らなかっただけで、クソ会社ではわたしを使い捨てる話が水面下で進んでいたんだと思うと、なんだかおかしなものを体中に感じながらも一生懸命に働いていた自分がかわいそうに思えたり、ばかみたいに思えたり。
ベルばら展は、ガイドブックをみながら振り返ると、最初の部屋にマーガレットに掲載された漫画の原画がところせましと展示されていました。小学生の頃、従妹に借りた漫画本を台詞を暗記してしまうぐらい読み返した作品の原画にテンションがあがりました。綺麗でした。端っこに何号とか書かれているのが原画なんだなあとしみじみ。ついつい台詞も全部読んでしまったので時間もかかり疲れましたがどっぷり、池田理代子さんの世界に浸ることができました。ほんとこの作品はいい意味で中毒性があります。いちばん描きたかったのは女性の自立だということをどこかで読んだことがありますが、今ならフムフム。小学生だったわたしにはそんなことわかるはずもなく、とにかくはまりました。テレビで宝塚のベルばらを放送しているのも何度も何度も観た記憶があります。宝塚ではベルばらしかやっていないのかと思っていました。はじめて東京宝塚劇場で大階段を観た時は、これが小学生のわたしがいつかみたいとあこがれた、あのキラキラの階段かと感動しました。
次の展示室は、宝塚版のベルばら。アントワネットの豪華な輪っかドレス、オスカル・アンドレ・フェルゼンの衣装。いずれも細くってさりげなく華やかで、ブーツがかっこいいし、これを着こなせる人だけが舞台の真ん中に立てるんだと実感。写真撮影OKだったのに携帯が古いタイプのままでメモリ不足で写メできたかったのが心残り。その分楽しみました。オスカルのヴァイオリンやフィナーレで大階段を降りる時もっているシャンシャンの小道具も展示されていました。あとは舞台装置の絵コンテ。ちなみに宝塚100周年記念の国際フォーラムの展示会には、オスカルの部屋が再現されていました。どこをとっても華やかなビジュアルの宝塚ワールド。嬉しかったです。宝塚の次は、アニメ版ベルばら。最後の展示室が新たなベルばら世界の紹介。池田理代子さん自らが構築。ベルばらのキャラクターが可愛らしい3頭身キャラに変身し四コマ漫画が新聞に連載されているということでした。これは知りませんでした。史実は生々しく、史実に沿った漫画の世界も重いのでこれはほっとしました。天に召されたはずのキャラクターたちがお茶目に蘇っているの嬉しくなりました。キャラクターもたくさん登場して楽しいかぎりでした。夢見るベルばらルームというのが最後にあって、どこまで可愛くキラキラの世界。史実を思う時、フランスに行った時訪れた壮大なヴェルサイユ宮殿を思い出すとき、アントワネットの長女マリー・テレーズと次男ルイ・シャルルが負の大きな遺産を背負う運命となったことを思うとつらくなりますが、こうして漫画の世界では生きているの嬉しいですね。
(池田理代子さんへのインタビュー、ビジュアルブックより)
「-「ベルばら」はセリフもすごく魅力的ですが、これを言いたかったというセリフはありますか。
池田:沢山ありますが、強いてひとつ選ぶとすれば、オスカルが衛兵隊の兵士たちに向かって、人間は身分が拘束されていたとしても心は自由だと。最後に、それを取り消したい、人間は心だけじゃないと、髪の毛一本、血の一滴まで自由でなくてはならないと、いうところですね。それはオスカルが革命側につくという姿勢を決めた時のひとつの考え方を示したと思うんです。
-女性の立場に対する反骨精神が、創作意欲をかきたてていたというお話も聞きました。
池田;そうですね、それが「ベルばら」の中でオスカルに託した私の思いではありました。それほど当時の女性が社会に進出するということに対して逆風が強かったし、女性が置かれていた立場もとても弱った。私のように女性として名前が出ると、逆風をもろに一手に受けるわけですよ。それにたいしてなにくそ、という気持ちはありましたし、たとえ倒れても描いたのは、やっぱり女だからダメだと言われたくなかったからです。」
『40周年記念ベルサイユのばら展』のチラシ。手帳をみると、わたし、2013年9月21日(土)に行きました。その日は午後、松本侑子先生の赤毛のアンとキリスト教との関わりについての講座を受講し、お茶会にも参加。その後プリンス・エドワード島でご一緒した女性お二人とお茶。さらにその後眼科を受診、そしてベルばら展へ。盛りだくさんな一日だったとあります。妹の命日、当日のブログには全く書いていないですが、そんな一日をすごしたことを思い出しました。なんかこの頃には自分全く知らなかっただけで、クソ会社ではわたしを使い捨てる話が水面下で進んでいたんだと思うと、なんだかおかしなものを体中に感じながらも一生懸命に働いていた自分がかわいそうに思えたり、ばかみたいに思えたり。
ベルばら展は、ガイドブックをみながら振り返ると、最初の部屋にマーガレットに掲載された漫画の原画がところせましと展示されていました。小学生の頃、従妹に借りた漫画本を台詞を暗記してしまうぐらい読み返した作品の原画にテンションがあがりました。綺麗でした。端っこに何号とか書かれているのが原画なんだなあとしみじみ。ついつい台詞も全部読んでしまったので時間もかかり疲れましたがどっぷり、池田理代子さんの世界に浸ることができました。ほんとこの作品はいい意味で中毒性があります。いちばん描きたかったのは女性の自立だということをどこかで読んだことがありますが、今ならフムフム。小学生だったわたしにはそんなことわかるはずもなく、とにかくはまりました。テレビで宝塚のベルばらを放送しているのも何度も何度も観た記憶があります。宝塚ではベルばらしかやっていないのかと思っていました。はじめて東京宝塚劇場で大階段を観た時は、これが小学生のわたしがいつかみたいとあこがれた、あのキラキラの階段かと感動しました。
次の展示室は、宝塚版のベルばら。アントワネットの豪華な輪っかドレス、オスカル・アンドレ・フェルゼンの衣装。いずれも細くってさりげなく華やかで、ブーツがかっこいいし、これを着こなせる人だけが舞台の真ん中に立てるんだと実感。写真撮影OKだったのに携帯が古いタイプのままでメモリ不足で写メできたかったのが心残り。その分楽しみました。オスカルのヴァイオリンやフィナーレで大階段を降りる時もっているシャンシャンの小道具も展示されていました。あとは舞台装置の絵コンテ。ちなみに宝塚100周年記念の国際フォーラムの展示会には、オスカルの部屋が再現されていました。どこをとっても華やかなビジュアルの宝塚ワールド。嬉しかったです。宝塚の次は、アニメ版ベルばら。最後の展示室が新たなベルばら世界の紹介。池田理代子さん自らが構築。ベルばらのキャラクターが可愛らしい3頭身キャラに変身し四コマ漫画が新聞に連載されているということでした。これは知りませんでした。史実は生々しく、史実に沿った漫画の世界も重いのでこれはほっとしました。天に召されたはずのキャラクターたちがお茶目に蘇っているの嬉しくなりました。キャラクターもたくさん登場して楽しいかぎりでした。夢見るベルばらルームというのが最後にあって、どこまで可愛くキラキラの世界。史実を思う時、フランスに行った時訪れた壮大なヴェルサイユ宮殿を思い出すとき、アントワネットの長女マリー・テレーズと次男ルイ・シャルルが負の大きな遺産を背負う運命となったことを思うとつらくなりますが、こうして漫画の世界では生きているの嬉しいですね。
(池田理代子さんへのインタビュー、ビジュアルブックより)
「-「ベルばら」はセリフもすごく魅力的ですが、これを言いたかったというセリフはありますか。
池田:沢山ありますが、強いてひとつ選ぶとすれば、オスカルが衛兵隊の兵士たちに向かって、人間は身分が拘束されていたとしても心は自由だと。最後に、それを取り消したい、人間は心だけじゃないと、髪の毛一本、血の一滴まで自由でなくてはならないと、いうところですね。それはオスカルが革命側につくという姿勢を決めた時のひとつの考え方を示したと思うんです。
-女性の立場に対する反骨精神が、創作意欲をかきたてていたというお話も聞きました。
池田;そうですね、それが「ベルばら」の中でオスカルに託した私の思いではありました。それほど当時の女性が社会に進出するということに対して逆風が強かったし、女性が置かれていた立場もとても弱った。私のように女性として名前が出ると、逆風をもろに一手に受けるわけですよ。それにたいしてなにくそ、という気持ちはありましたし、たとえ倒れても描いたのは、やっぱり女だからダメだと言われたくなかったからです。」