たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「子どもたちの悲しみに寄り添う」

2014年11月27日 10時38分03秒 | グリーフケア
また長くなりますがよろしかったら読んでください。

2014年11月9日(日)
講演会『子どもたちの悲しみに寄り添う
~ダギー・センターモデルから学ぶ遺族支援~』
講師:ドナ・シャーマン、通訳:岩本喜久子

ダギー・センターとは?
「いのちってなに? 死ってなに?」
不治の病の床にあった9歳の少年ダギー・ターノの問いかけに応えてエリザベス・キューブラー・ロスは『ダギーへの手紙(アグネスチャン訳、佼成出版社)』を書きました。そのやりとりに接して深く心を動かされた看護師のべバリー・チャッペルによってダギー・センターは、1982年オレゴン州ポートランドに設立されました。
ダギー・センターは、大切な人を亡くした子どもたちとその家族が、それぞれのペースで悲しみに向き合い、癒されるように、ピアサポート・モデルを開発し、現在米国内だけでなく世界各地で500以上の機関がこのプログラムに基づいた活動をしています。
ドナ・シャーマンさんは、1983年からダギー・センターの活動に加わり、1991年よりCEOとしてセンター全体の運営に関わる一方で世界各地で精力的に研修を行っています。(チラシより引用しました。)

最初に主催者より挨拶有。
2011年3月にダギー・センターに行ったことがきっかけで、今回が4回目の研修。
事故死・自死・・・子供との関わりが抜け落ちていた。
子どもに選んでほしい。子どもたちが、「おじさん、また来るよね」ということはないが、一緒に遊んでくれた大学生に「お兄ちゃん、また来るよね」という。(今日も男子学生が数名きているが)、この「お兄ちゃん、また来るよね」が大切。

ここから、通訳を方の話を通して私が記録をとった範囲で、ドナ・シャーマンさんのお話をまとめてみました。足りなかったり、理解がちょっと違っていたりする点があることをご了承ください。


親の死は子どもに大きな影響を与える。
まちがったことをしてしまうと、その子のその後の人生に大きな影響を与える。レジリエンスを子どもはもっていると言われているが、全ての子どもに同じような回復力があるとは限らない。
子どものリスクの要因を正しく理解しておくことは大切。

子どもの死別の体験の研究は、確実に増えてきている。
これまでわかっている七つの要素をあげてみる。必ずしもこうではないが、死別体験をしていない子どもよりも、死別体験をした子どものリスクは、3倍から10倍の割合で高い。

①うつの症状が高い。

②身体的な問題が起こる。病気になりやすい。免疫力がグリーフは影響すると言われている。免疫力が下がって、風邪をひきやすくなったり、注意力散漫でケガをしやすくなったりする。
こんな女の子がいた。ジャングルジムから落ちてしまったと言って、足にギブスをしてダギー・センターに来たその女の子は、それまで少しも楽しそうじゃなかったのに、その日はとても楽しそうだった。それから数か月後に、その女の子とドナさんとの会話で、最初にジャングルジムから落ちたと言ったのはウソだったとわかった。実は女の子は自分でジャングルジムから落ちた。お父さんが亡くなってから、回りが自分に優しくしてくれなくなったのでケガをすれば優しくしてくれると思って、女の子は自分からケガをした。

③学校の成績が落ちる。(日本とアメリカでは仕組みが違うかもしれないが)同じ学年をもう一回繰り返さなけければならなくなる。

④不安感が強くなる。大人も体験しているが、一度交通事故・地震で怖い体験をすれば不安になるのは当然のこと。

⑤自信がなくなる。

⑥自己コントロール力の低下。自分ではどうしようもなくなるという気持ちが強くなってしまう。
⑦将来に対する希望が持ちづらくなる。自死を考えることもあることが、過去の研究から理解できる。他者との関係が持ちづらくなる。薬・アルコールへの依存が現われる。こうした子どもたちをサポートしなければリスクは高くなる。

死別だけではなく、離婚・親が刑務所に入る、といった喪失も社会にはある。喪失体験を隠そうとしてしまうグリーフ。自分を守るためだが、いい結果をもたらさない。
子どもと向き合う努力が大切。そういう仕事は大変でしょ、とよく言われるが、ダギー・センターに来た親や子どもから毎日学んでいる。

ドナさんは、1979年大学卒業後、NGOに所属し、カンボジアの難民キャンプに配属された。難民キャンプで生まれて生活している子どももいた。難民の体験を集めるのはドナさんの仕事で、同じ年齢の通訳と一緒にカンボジア人から話を聴いて集めた。その後、ベトナムの難民キャンプに移動し、同じように体験を集める仕事をした。

ダギー・センターでは、辛い体験をした人々が、自分の体験を語る。語ることによって何らかの意味を見い出す。そのお手伝いをするのが私の仕事。
死別を体験した人に、「早く忘れなさい、前に進みなさい」と社会は言うがそうではない。共に生きる。乗り越えるのではなく・・・。先ず、話を聴くことが大切。
レジリエンス=再生する力・人間の回復力。
研究結果では、その体験の意味を見い出せたとき、なぜ自分がそういう体験をしたかを見い出せたとき、人は回復していく。回復していく力を見い出せたとき、人は回復していく。

子どもたちにも、自分の力を見い出せるよう導いていくことが大切。
グリーフ・サポートをしている専門家の側が、サービスを提供しているという姿勢が多くみられる。そうではなく、私たちが死別体験をした人たちから学ぶべき。
PTG(トラウマのあとの成長的体験)。成長には痛みが伴う、という研究結果がある。

ドナさんが初めて来日したのは阪神淡路大震災の後。あしなが育英会から、ダギー・センターのような場所をつくりたいと招かれたのは最初。(神戸にはあしなが育英会によって、レインボーハウスが設立されました。)
大切な人が亡くなれば、みんなが集まるのはどこの国も同じ。

サービスの壁となることの例として、例えばオクラホマ州で爆弾によってたくさんの人々が亡くなった時、多くの団体が押し寄せるが必ずしも有益な団体とは限らない。自分たちのサービスを知られたい、募金を集めたいという団体もある。

カンボジアの難民キャンプ時代、ある団体が寄付金集めのためとして撮影に来たことがあった。NG0は国連からお金が出ているので、本来関係ないはずだが・・・。NGO同士で競争があるのは事実。あるNGOが難民キャンプのごみ箱に団体の名前を載せて自分たちの宣伝に利用するという場面があった。災害の後、寄付金を集めた団体の運営者が現場に行った後、五つ星ホテルに泊まるのはよくあること。

9.11の後、専門家が押し寄せ過ぎたので帰したということがあった。
専門家と言われる人たちが、”死”に関するクラスをとっていないのが現実。ドクターたちは、実践の中で模索しながらやっている。
死について話さない。そういう環境の中に私たちはいる。
学んでいない専門家が悪いわけではない。
遺族たちは、模索しながらやっているドクターから、こうした方がいいよ、とアドバイスされているのが現実。専門家がやってはいけないことで辞書が一冊作れるぐらい、まちがって行われていることが現実には多い。「亡くなった人の写真を片付けなさい」「亡くなった人に関わる物を片付けなさい」など。

3.11の後、長期的展望のないことが多い。たくさんの寄付金を集めた団体がいつの間にかプログラムを終了しているということがあった。一年後にはメモリアルがあった、二年後・三年後の節目にもあったが、長期的にはなかなか行われない。

コネチカット州の学校襲撃事件の後、遺族に対する嫌がらせがあったことも事実。善意で集められたテディ・ベアが送られてくる一方で、首の切られたテディ・ベアの入った箱が送られてくるなど、ということがあった。全ての人に良心があるわけではないのが現実。

子どもたちにとって、死別そのものだけではない。学校生活に影響が出るなど、色んなことにつながってくる。

今アメリカではグリーフを疾患とする流れが大きくなっているが、それはいいことではない。
DSMⅤ(アメリカ精神医学会の診断基準、第5版)が出るまで、グリーフをどう扱うか議論されてきた。DSMⅤに載せられている診断基準は、私たちには当たり前の反応として理解できるもの。
診断基準があると、抗うつ薬が処方されてしまう、ということが起こる。
WHOによれば、40秒に1人がうつによる自死で亡くなっていると報告されている。2020年には20秒に1人と言われている。
抗うつ薬が増え、うつが増えると自死は増えていく。
薬を批判しているわけではない。何か正しくやっていないことがあるのではないか。

アリゾナ州の大学の研究で、12週間グリーフを体験した子どもたちの行うプログラムを追う、という研究を6年間にわたって行った。その研究で、参加者たちは自分たちの話したいことを話せなかったという報告がある。プログラムに12週間という制限をもうけるのは問題ではないか。
誰かがわかってくれていると感じている子どもたちはポジティブ反応。誰かがわかってくれていないと感じている子どもたちはネガティヴ反応があった。①誰かがわかってくれていると子どもたちが感じること。②自分の体験を話せると子どもたちが感じること。この二つが子どもたちへのサービスの基本。

2009年にダギー・センターの建物が放火された。今も犯人は捕まっていない。家族を失った人たちと同じ体験をドナさんはした。決してこういう悲劇的なことがあってよかったということではない。前向きな気持ちになる時、否定的な気持ちも同時にあることを忘れてはならない。

これまで講義をしたり、賞をいただいたりしてきたが、出会う家族・子どもたちが先生であり、私は生徒であることをあらためて思う。話を聴かせていただく、ありがたい体験をさせてもらっているという気持ち。喜びには悲しみが伴う。












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