たんぽぽの心の旅のアルバム

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1995年ミュージカル『回転木馬』‐『回転木馬』と『リリオム』(2)

2021年07月01日 00時31分10秒 | ミュージカル・舞台・映画
1995年ミュージカル『回転木馬』‐『回転木馬』と『リリオム』
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/0fe9353149c187cadc32a626d8f0e3f6

1995年帝国劇場公演プログラムより

「『回転木馬』と『リリオム』-倉橋健(早稲田大学名誉教授)

『回転木馬』の前半は、セリフをふくめて、原作にかなり忠実であるが、後半と幕切れが違う。原作ではリリオム(ミュージカルではビリー)は、天国の判事に、自分は罪を悔いないと言いはり、煉獄で懲役16年の判決をうける。

 そして服役後、罪のつぐないをするために、天国の巡査二人につきそわれ、一日だけ地上にもどされる。リリオムは乞食に身をやつし、盗んだ星を持って訪れるが、すげなく追い返される。怒った彼は、娘に平手打ちをくらわし、とぼとぼと去っていく-というのが『リリオム』の結末である。おそらく彼は、天国の門はくぐれまい。

 ロジャースとハマースタインは、これではミュージカルとして、あまりにも暗すぎると考えた。そこで<天国の判事>を<星の番人>に、<天国の巡査>を<天国の友>に変え、卒業式の場面を加え、医師のセルドン先生に「信念と勇気をもって自分の二本の足で人生を歩いてゆけ」と語らせ、「人生ひとりではない」の歌で幕にした。こういう明るい人間観や人生観は、彼らのその後の作品『南太平洋』『王様と私』『サウンド・オブ・ミュージック』にも一貫して流れている。なお、二人の手になるミュージカルは全部で9本あるが、これらに『フラワー・ドラム・ソング』を加えた6本がロングランを記録した。



『回転木馬』は、『リリオム』に歌や踊りを装飾的につけ加えたミュージカルではない。歌や踊りは、劇的な内容の展開に必要な、不可分離な要素として、構成されている。たとえば、ビリーとジュリーが最初に語り合う場面は、原作ではつぎのようになっているー

リリオム
 おれのような男とは、よう結婚できまいな、え?

ジュリー
 あたしーもし誰かを好きになれば、その人がどんな人であろうとーかまわないー死んでもい  い。

リリオム
 だが、おれのようなならず者と結婚する気はあるまいーたとえーそのー好きになったとしてもー

ジュリー
 いいえ、するわーもしあんたが好きになればね、リリオムさん。

リリオム
 じゃーなんだーつまりー今は好きじゃないってわけだ。なら、どうして家へ帰らないんだ?


 ロジャースとハマースタインは、これらのセリフから「もしあなたを愛したら」というナンバーを作りだし、率直に感情をあらわすことのできない二人のもどかしさを表現した。つまり、ミュージカルやオペレッタにありがちの、かんたんに他愛もなく好きになったり、愛し合ったりしない真実性の表現である。

 しかもハマースタインは、「あなたが言ったとおり、風はないわ。花はひとりでに落ちてくるのね、その時がきたらーわかったわ」とジュリーに言わせ、モルナールの「散るアカシアの花」よりも劇的にこの場をしめくくった。

 歌と音楽による登場人物の感情や性格の表現は、「ミスター・スノウ」や「ソリロキー(独白)」にもはっきり見られる。とくに、ビリーの歌である「ソリロキー」はみごとだ。その有名なナンバーは、『回転木馬』の特色の一つであり、また聞きどころである。

 ビリーは、いわば風来坊の、ダメな人間である。だが、観客の共感と理解を得られなければミュージカルの主人公にはなれない。それを可能にしたのが、ロジャースの発案による「ソリロキー」である。ハマースタインはこれを2週間かかって作詞したが、ロジャースは2時間で作曲したといわれる。

 この曲では、まっとうになりたいと願いながらも、どうすればいいのか判らない、ビリーの人の好さと弱さがあらわされている。根は善良的なのだが、生き方が短絡的なのである。この曲はまた、その後のビリーの決定的行動-強盗という行為の必然性を動機づける役割もはたしている。

 たんに子供が生まれるから金がいる、だから強盗をするーでは、動機が弱い。もし生まれる子が女だったら、ということにビリーが思いをはせたとき、彼は初めて事の重大さに愕然とする。貧民窟でそだった女がどうなるか、誰よりも彼がよく知っている。男の子なら、なんとしてでも生きてゆける。だが、女の子は・・・? そこで彼は決心するー「よし、やってやる!金をつくろう、盗もうと、ひったくろうと、死のうと!」





 独白はジュリーにも用意されている。自殺したビリーにいうモノローグである。ソリロキーsoliloguy!とモノローグmonologueは、前者がラテン語のsolusとloquiに、後者がギリシャ語のmonologosに由来し、ともに<ひとりで言う>を意味し、独白-一人語りである点では違いはない。ただ一般にソリロキーは、俳優が役の内面の施行を吐露する場合に使われ、状況を説明したり感懐を述べるのはモノローグである。したがって、シェイクスピアについていえば、『ハムレット』の「生か死か」はソリロキーで、『ヘンリー五世』の幕開きと『テンペスト』の最後の口上、あるいは『オセロー』のイアーゴーの述懐は、モノローグである。

 ジュリーは死んだビリーに語りかけるー

「眠るのよ、ビリーーおやすみ、安らかに、いい子になって。あんたがなぜあたしをふったか、わかっていたわ。気が短くて不幸せだったからよ。わたしはあんたの考えていること、なんでも知っていた。でもあんたはわたしが何を考えていたか、よくはわかってくれなかった。あんたに言わなかったことが一つあるのーなんだか笑われそうで怖かったの。それはねー(今でも恥ずかしさに打ち勝ち努力をしなければならない)愛してる、愛してるわ。(ささやくように)愛してーいるわ(微笑する)いつも、声を出して言うのが、恥ずかしかったのよ。でも今言ったわ。ね、言ったでしょ?」

 そしてショールを肩からはずしてビリーに掛け、ネティーを見上げて訊く、「あたし、これからどうすればいいの?」。ネティーは「今までどおり、あたしんとこにいればいいのさ」と言い、「人生ひとりではない」を歌う。

 ビリー亡きあとのジュリーは、この歌のとおりにいきてきた。しかし踊りで表現される娘ルイーズの生き方は、天国から見ているビリーをはらはらさせる危なっかしさをはらんでいる。まるで彼自身の少年期のような。そこで1日かで地上にもどることを許されたビリーは父親として、まともに人生にむかうことを娘に教え、ジュリーが生きてきた延長線上にルイーズの将来を軌道修正しようとする。ここでまた「人生ひとりではない」が歌われる。

 こうして『リリオム』のシニカルな悲劇的な結末は、この物語のほろ苦さを失うことなく、ミュージカルにふさわしい幕切れとなった。ハマースタインとロジャースが原作にほどこした最も大きな改変であるが、通し稽古を見たモルナールにハマースタインがおそるおそる感想をきくと、モルナールは目に涙をうかべ、「すばらしい!とくに終わりが最高だ」と語ったという。」

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