たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

第五章岐路に立たされる女性-⑥転職

2024年07月20日 17時05分58秒 | 卒業論文

 結婚が誰もが納得する退職の理由であることを記したが、近年の晩婚化の進行と共に、従来、固く結びつけて考えられてきた結婚と退職との間に、乖離がみられるようになった。結婚のための退職ではなく、より多くの女性がOLを辞めて新しい職業に就くようになった。派遣会社に登録する女性もあれば、日本企業よりも男女平等という点において一歩先を行くと見られている外資系の会社に勤める女性もいる。またその外資系勤務に必要な語学力を磨く目的で海外留学を志す女性もいる。さらに、何からの専門的な職業に就くために修学・資格取得を目指す女性もいる。ここでOLが転職へと促される様子を概観したいと思う。

 先ず男性に比して女性の方が転職希望率の高いことを裏付ける資料として『平成9年 就業構造基本調査の解説』から転職希望率及び求職率を男女別に見た場合、女性の方が高いことが読み取れる。転職希望者は、男性391万5千人、女性323万1千人、転職希望率は男性9.9%、女性11.8%と男性に比べ女性の方が高くなっている。さらに、転職希望者のうち、実際に仕事を探すなどの求職活動を行っている者(転職求職者)は、男性170万6千人、女性143万3千人で、ともに転職希望者の約4割を占める。また、有業者に占める転職求職者の割合(転職求職率)をみると、男性4.3%、女性5.2%となっている。(表5-1)(図5-1)

 東京・三田にある「女性と仕事の未来館」の事業報告によれば、転職に関する相談は、大別すると人員整理などでやむなく転職を迫られる層と、自分の生きがい・能力発揮を目指して転職を希望する層に分けられる。日本では従来、男女を問わず転職に良いイメージはもたれなかったが、最近の企業倒産、人員削減の中で転職せざるを得ない人々が増え、女性にもその波は押し寄せている。一方、ヘッド・ハンティングや引き抜きによる一見華麗な転身が話題になる時代でもあり、実に気軽に転職の相談を寄せてくる相談者が多い。また、今なお女性を補助的な仕事の担い手として位置づけている均等法以前の古い体質の企業が数多くあり、女性が転職せざるを得ない状況におかれているケースもある。女性たちの年齢層は20代後半から30代初めが圧倒的に多く、特に29歳、30歳という年齢は転職を考えるメルクマールかと思われる。[i] 

 平凡な毎日の中で、平凡なOLが自分を見出していくのは難しい。銀行員生活3年目の終わりの日記にわたしはこう書いている。「OL生活もうすぐ4年生。丸3年間毎日同じことの繰り返し。けだるさを感じずにはいられない。仕事に振り回されて、心が乾いてしまいそうでそんな自分がいやなのだ。毎日毎日をもっと大切に生きたいのだ」。

 25歳を境に女性のライフサイクルは分化し、就業を継続していた場合28歳頃に男女の壁にぶつかることはすでに記した。OL7年目は転職に揺れる時期である。先の「女性と仕事の未来館」の事業報告から次のような事例を紹介したい。Aさん27歳は製造業に就職、事務職として勤務してきたが、仕事は営業に出ている男性の補助業務、雑用ばかりで会社にはそれ以上のことは期待されていない。気が付くと同期の女性も次々と結婚、子供をもって働いているような先輩女性の姿もない。「一生このままかと思うと自分の人生は空しくなります」と転職を考え始めた。「何で私、今こんなことしているんだろう。このままじゃいけない、何とかしたい」といった自身の心の叫びを大多数のOLは幾度となく聞いているだろう。しかし、何か始める時は大きなエネルギーを必要とする。リスクも伴うものだ。唯川恵は、27歳にして突然上京した友人の姿にOL7年目の自身の焦燥感を次のようにも回想している。無謀でもいいじゃない。そんなパワーが私にも欲しい。パッと花咲く花火のようにたとえ一瞬でも私も無茶に生きてみたい。このままこの会社でOLとして、ただ年をとってしまうなんて、あまりにも哀しい。でも、でも・・・そんな簡単にはいかない。そんな勇気はない。[ii]

 転職を契機に何か資格を身につけて出直そうと考える人も多い。しかし、大多数は何をやっていいのかわからないのが現状だ。資格を取ること自体が目的になってしまってその先が見えない場合も往々にしてある。「どうして女性はそんなに資格・資格と資格にこだわるのか」という男性の声がきかれることがあるが、資格を持っていないと自分を証明することができないことがあるのだ。一つの企業に勤め続けている男性には経験ないだろうが、男性に比して女性にとって資格は、「自分の証明してくれるもの」として重要である。男性の肩書き同様、社会に出て信用を得られるものだと位置づけることができる。なぜなら女性が日本型企業社会の中で身元を証明しようとするとき、所属企業や学歴よりも資格の効果の方が高い場合が多いからだ。女性にとって所属企業に勤めていることは、男性のようにそこの住人とはみなされにくい。管理職になっていれば別だが、通りすがりの人、いっときの社会見学者ぐらいのものである。「そしていつか、いなくなるんでしょ」といったところだ。「専業主婦」をしている女性の場合は、誰々の奥さん、誰々のお母さんとしか呼ばれず、また役所の書類から銀行の振込みまでいつも旦那さんの名前をサインしていると、自分の名前がいつか消えてしまいそうな不安にかられる。資格をとることで、自分の名前を取り戻した「専業主婦」もいる。自分が自分であることを証明する。一生ものの資格とは、そんな自分の存在証明ができる資格のことをさしているのだ。[iii]

「今の仕事はつまらない」、「長く勤めたところで仕事内容や待遇が改善されるわけではない」、こうした理由から退職へと補助業務に固定されたOLは促される。退職したOLの結婚以外の選択肢の一つとして転職はある。しかし、とにかく今の仕事をやめて新しい仕事に就けば新しい人生が開けるというような安易な転職はすべきではない。そうした考え方は、結婚を仕事からの逃げ道とする、いざとなれば結婚という伝統的解決方法をとればいいという考え方と質的には同じである。「今の仕事はつまらなくて、やりがいが感じられないので適職をみつけて転職したい」。これは、「女性と仕事の未来館」の事業報告から短大卒業後食品会社に就職して6ヶ月の女性の場合である。とにかく会社を辞めさえすれば新しい人生を開けるというような、一歩間違えば安易な行動を起こしかねない。そんなOLに唯川恵は次のようなエールを送っている。ただ会社がつまんない、とか、仕事が面白くない、なんて理由で転職を考えるのははっきり言って愚かでしかありません。どこに行っても、つまんない会社はあります。面白くない仕事だって、そっちの方がほとんどなのです。仕事は仕事です。私たちは報酬をもらうために労働を提供しているのであって、楽しみを得るために勤めているわけではないのです。継続は力なり。私は、この言葉をOLの座右の銘としてささげます。いいえ、OLだけでなく、生きることにおいて必要不可欠なことだと信じています。それを踏まえた上で、転職するかしないか考えるべきです。決めるのは自分自身。腹をくくって考えてほしい。[iv] 一度辞めてしまえばどれほど後悔しても元の会社に戻ることはできない。現在の会社に見切りをつける前に他にやりたい仕事は何か、その可能性や到達手段を考えて在職中から準備をしておくことが必要だ。すぐにも会社をやめる前に、まず現在の日々の仕事を遂行していく中でやりたいことの関連知識や技術をしっかり習得して、キャリア・アップを図るための自己研鑽を怠らないことが重要である。仕事を通じて着実に蓄積された能力は職務遂行の上でも、転職、再就職の際にも有効なものとなろう。また、社内研修、社外の勉強会等にも積極的に参加し、多くの人々との人間関係を大切にしておくことも忘れてはならない。民間の専門学校等を含め学ぶ場は多くあるので、積極的に情報を集め、まず自ら行動が起こしてみることが大切である。[v]

 転職とは、キャリアの進むべき方向を大きく変えることである、とキャロル・カンチャ-は述べている。カンチャーによれば、キャリアとは単に仕事・経歴をさすものでなく、「生涯に経験するすべての職業、行動、考え方、姿勢」まで含む、自己実現、人生そのものなのである。仕事を変えることは大きなリスクを伴う。従来の価値観に捉われず、自らのキャリアの創造のため仕事と人生を変えるリスクを冒す勇気を持つ人をカンチャーは「キャリア・クエスター」と名づけている。「キャリア・クエスター」とは、よりよい人生を実現するために、転職というリスクを進んで侵していく意志のある想像的な人のこと、言い換えれば、「転職力」を身につけている人のことである。[vi]「自分らしさ」を求めて、転職をする、留学を志す、派遣社員という働き方を利用する、さらに専門的な職業を求めて就学するなど選択肢は様々であるが、いずれを選ぶにせよ、ポジティブなOLは、「キャリア・クエスター」と言えるだろう。自分さえちゃんとしていれば、「失敗」は「失敗」ではない。「失敗」を恥ずかしいとか、取り返しがつかないとは思わないほうがいい。長い人生から見たら、「失敗」の一度や二度、どうってことはないのだ。だいたい失敗しない人生なんて、平坦でつまらないではないか。[vii]「キャリア・クエスター」タイプは、フレキシビリティに価値を認め、自分で選択したキャリアを通じて、自分を作り変える。自分の尺度を持ち、仲間に尊敬されるよりも、自分で自分を尊重できることに重きをおく。世間の常識に束縛されることを嫌い、独立心に富む。仕事と精神的生活のバランスをとろうと努力するタイプである。

カンチャーは、仕事に対する姿勢を三つのタイプに分けている。ポジティブな生き方をするOLが先に記した「キャリア・クエスター」タイプだとすれば、「被差別者の自由」を享受し、巨大で強烈な消費者集団としての顔を持つ、特に親と同居のOLはカンチャーの分類の二つ目に当たる、「自分の生活が一番、責任なんて負いたくない」タイプと言えるだろう。このタイプは自分の満足を求めることだけがその行動の基準なので、企業戦士などもってのほか。恋愛のため、余暇のため、家族や自己実現のための時間を欲しがり、完全にバランスの取れた人生を送りたいと望む。このタイプは、仕事はお金のためと割り切り、昇進や難しいビジネスにまつわる話題は避ける。そういったことは生活を脅かす要素と考える。キャリアのために生活を犠牲にする気はさらさらなく、また、仕事が生活を圧迫することも好まないのがこのタイプである。三つ目としては、組織から与えられる仕事に受け身で関与する、「組織内での評価がすべて」タイプである。昇進、権力、役職、そして他人の評価と尊敬に何よりも価値をおく。転職など考えもせず、その適応能力も、組織内で動き回ることと組織内での生き残りにおいてしか発揮されない。日本の「会社人間」は言うまでもなく、このタイプに当たる。いずれのタイプにせよ、キャリア・クエストという生き方を選ぶことによって、人生を変えることができる。キャリアを積み上げながら人間として成長していくことが大切なのである。そのためには、ひとつの職場で昇進することよりも、個性の多くの面にフィットする複数の仕事が必要だとカンチャーは述べている。目的をもって人生を生き、その目的がキャリアの目的と一致するときにはじめて、「私は何者なのか。私は何になりたいのか」という誰もが抱く疑問の答えが見えてくる。それは人生に意味を与える仕事とライフワークの選択を可能にしてくれる。キャリア・クエスターは自己に忠実である。自分で確信を持って、「こうありたい」という人生を生きている。人生の道に沿って、キャリアも常に動いている。本当に満足できる人生とキャリアの実現のためには、人生のあらゆる要素をよりよいものにするように努め、自分の内と外に調和をもたらすようにしなければならない。[viii] すでに概観したように、女性にはしばしば人生の転機となる機会が訪れる。そうした転機は自分を成長させ、次のステップへと進むチャンスなのである。ライフ・サイクルの変化に沿って、自ら選択しキャリアをフレキシブルに変化させていく。転職とは、より充実した人生を歩んでいくための手段なのである。

では、女性が働くことの意味がどこにあるのか、生活費を稼ぐ絶対の必要性に縛られている場合に、より良い人生を歩もうとする「キャリア・クエスター」がどのような選択をするか、やりがいや目的のある仕事の探求と生活のためにしなければならないこととのバランスをどのようにとりながら「自分らしさ」を見出していくか、こうしたことについては、さらに考察していきたいと思う。「自分らしさ」を見つけることは簡単ではない。

 

 

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引用文献

[i] 『女性と仕事の未来館 報告書 NO.3 働く女性が拓く未来』7-8頁、2001年。

[ii] 唯川恵『OL10年やりました』160-161頁、集英社文庫、1996年(原著は1990年刊)。

[iii] 松永真理「なぜ仕事するの?」80-83頁、角川文庫、2001年(原著は1994年刊)。

[iv] 唯川、前掲書、162-163頁。

[v] 『女性と仕事の未来館 報告書 NO.3 働く女性が拓く未来』22頁。

[vi] キャロル・カンチャー著、内藤龍訳『転職力-キャリア・クセストで成功をつかもう』8-9頁、光文社、2001年。

[vii] 松永真理『なぜ仕事するの?』199頁、角川文庫。

[viii] キャロル・カンチャー、前掲書、18-26頁。


三好春樹『関係障害論』より‐人間の目が光る?

2024年07月20日 08時00分25秒 | 本あれこれ

三好春樹『関係障害論』より‐「アヴェロンの野生児」を読んでみる

「もっと最近のお話もあります。これは、よく知られていると思います。

 同じく福村出版から出ていますが、『狼に育てられた子』という本です。植民地時代のインドで、怪物が現れるという噂が地元の人たちの間にあって、イギリスの宣教師で、孤児院をやっていた人が見にいきます。狼の穴から化け物が一気に2匹出てくるのです。よく見ると、人間らしいということで、捕獲をいます。そして、自分の孤児院で育てるための受け入れの準備をしてくるから、それまで見ていてくれと、地元の人に頼んで帰っていきます。地元の人はこれは悪魔だと気持ち悪がって水も与えなかったものですから、彼が迎えにきたときは死にそうになっていました。彼はそれをもう一回元気にしまして、育て始めます。いわば、教育を始めるわけです。

 好奇の目にさらされるのはかわいそうだということで、誰にも明らかにしないで、自分たちだけで教育を始めるわけですが、夜になると2人で外へ出ていって、狼のように遠吠えをします。人間では考えられない感覚がいっぱい出てきます。おそらく姉妹だったろうということですが、1人が1年足らずでなくなり、もう1人は発見後9年目に尿毒症で亡くなっています。

 亡くなった後、記録を発表します。写真もたくさんあり、本にも載っています。ところが、専門家はみんなこれはでっちあげだと信用しませんでした。なぜかというと、記録の中に「夜になると四つの目が光った」という記載があったのです。動物の網膜というのは、わずかな光に反応して、光を返す物質が生成されているのですが、人間の網膜にはそういうものは一切ありません。ですから、目が光るということは、人間には考えられないことだったのです。

 そのうち、この記録が嘘ではないということが明らかになってきます。というのは、ある生物学者が、昆虫採集のために森の中を歩いていたのですが、そこを他の学者に銃で撃たれる、という事件が起こりました。どうして撃ったのかというと、「暗闇の中で目が光ったから動物だと思った」と言うのです。そんな馬鹿なとうことで調べてみたら、この昆虫学者の網膜には、動物と同じ物質がちゃんとあったのです。この人は暗い森の中をずっと歩いていたものですから、そういう物質ができてきたらしいのです。それ以降、洞窟に住んでいる人の中から同じような現象が出てくるようになりまして、人間というのは、本来体の中で分泌されない物質を環境に適応するために作り出すらしい、ということがわかってきたのです。本来は存在しない化学物質さえ環境に合わせて作るのですから、感覚を忘れることくらいは、老人だってやるでしょう。

 これはどういうことなのでしょうか。感覚として感じていないわけではないのです。感覚器官があって、尿意はちゃんと神経を伝わって脳に達しているはずです。途中で切断されているわけでも何でもない。だけどそれを感じないというのはなぜかというと、これは一種の「認知障害」だとしか思えないです。左マヒ特有の「失認」という症状があります。見ているけど見えていない、聞いているけど聞いていない、という不思議な症状です。

 なぜこういう症状が起きるのかというと、物を見るという視覚中枢のもう1つ上のレベルに、資格認知中枢というのがあって、ここで見ているということを意識してはじめて人間は見ることができる、といわれています。この認知中枢が血管障害によって障害されているときに、失認という症状が出るのですが、この場合には認知中枢がやられているわけではなくて、心理的に認知をしないわけですから、認知拒否です。要するに、器質的な障害はないのに失認と同じ症状が出ているということで、私は『老人の生活リハビリ』という本の中で、オムツによって感覚がなくなるということを、「仮性失認」と名づけています。認知拒否という症状を、理論的に考えてみるとそうなると思います。」

(三好春樹『関係障害論』1997年4月7日初版第1刷発行、2001年5月1日初版第6刷発行、㈱雲母書房、44-47頁より)