たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2009年ルーヴル美術館展より-ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト

2024年05月18日 00時31分21秒 | 美術館めぐり

ピエール・パテル(父)

(1630頃?-1676)

《ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト》

1660年

油彩、カンヴァス

90 × 83 ㎝

署名、年記あり

(公式カタログより)

「聖書の記述に従い、この絵画はレヴィの娘ヨケベトが息子モーセをナイル川に捨てるところが描かれている。イスラエルの民の蜂起を恐れたファラオは、男子が生まれた場合、これをすべて殺すべしと命じた。この命令を逃れるため、モーセは遺棄されたのである。奇跡のように、ファラオの娘がモーセを助けた。彼は成長し、エジプトで奴隷となっていたユダヤの人々の指導者となって蜂起した。

 本作品では、この主題が古代の廃墟のある風景の中に描かれている。主要場面のすぐ後ろにはナイル川の擬人像が描かれており、この物語であることが確認できる。パテルはこの作品と他のもうひとつの作品、すなわち、ルーヴル美術館に所蔵される《エジプト人を砂漠に埋葬するモーセ》とをアンヌ・ドートリッシュの居室のために描いた。この2点の扉上部装飾は「モーセの物語」を主題とするロマネッリの7点連作を補うものであった。なぜこの主題が選択されたのかについての詳細はわからないが、皇太后がこの部屋を祈祷する場として使い、瞑想するのに相応しい主題を選んだと考えることは可能であろう。17世紀において、モーセの物語はしばしば政治論においては国家元首あるいは統治者の勇気と決断を示すものと考えられていた。

 構図の個々の要素を丁寧に表現していることは、古典主義的風景表現に秀でていたパテルの卓越した技術と絵画技法とを示している。眼を喜ばせ、精神を高揚させるこうした風景画は、「古代世界の夢幻的再構成」の試みのひとつであった。」

 

 

 

 

(犬養道子『聖書の天地』-三成る者・在る者-人間と神とのちがい-55~67頁より)

「ヨゼフは、いかに悪を克服し、悪を善に変じさせるかの最初のメッセージのたずさえ手でもある。

 異国エジプトのすべての人にとってのなくてならぬ指導者となり、己が兄弟たちのみならずエジプト人からも深く愛されたヨゼフの時代が、だんだんに遠ざかり、やがて彼のことを記憶する人のほとんどいなくなったころ、エジプトの施政者は、真砂のごとく増えてしまった「ヨゼフの民」を憂うるようになった。自国内の異民族と自国民との人口率がとんとんになるとき、施政者がそれを好ましくないと見るのは、いずこでもいつでも、当然のことであるから。この大問題を古代は古代らしく処理した。つまり、勅令によって、ヨゼフの子孫の民全部をエジプト王国の奴隷とし、たまたま、国策であった数々の地方都市建設の労役不労役人と定める一方、「こんど生まれ出るヘブライの男児は生かさぬ」ことをきめたのである。

 奴隷は鎖につながれる。売買可能の「物質」として、鎖で結びあわされた民-12人兄弟それぞれを祖とする12の部に分かれつつもひとつにまとまるようになっていた民は、熱と砂の国で、あえぎつつ時に斃れつつこき使われることとなった。つくってもつくっても、建てるべき都市はあとからあとからあてがわれた。労役に追いたてる鞭もたっぷりあてがわれた。太陽は来る日も来る日も燃えさかり輝きわたるが、民の心には一条の光もなく、くらやみのどん底に落ちて行った。

 エジプト側の、ヨゼフの民に対してとった政策は、根拠乏しい恐怖心からだけではなかった。第19王朝、名高いラムセス二世の世(前1301-1234)、エジプトの中東における地位は、それほど確固たるものではなくなり、ヒッタイトと呼ばれる。アッシリア国の公記録にも記される、強力な小アジアの部族が、中東の覇権をにぎろうとして、ひしひしとエジプトに迫っていたからである。

 エジプトのおそれたのは、このヒッタイトと、自国内におびただしく増加して強力となった異分子「ヘブライの子ら」とが密通・呼応・協力しあうことだったのである(出エジプト記1ノ8-10)。

 あのヨゼフ以来住みつくのを許されていた結構な土地からナイル河の大三角州に連れ出され、民は、当時の常としてただちに対外敵守備に通じることとされていた国内装備・建設事業の労役を一手に引受けさせられたことになる。ビトムの町別名「倉庫の町」や、華麗で強固なラムセスの町をつくったのは彼らヘブライの子らであった。エジプト側にしてみれば、食糧(これはかなりふんだんだった。ナイルデルタは穀物豊かであった上に、鳥類や羊の肉はどこにでもあったから)さえあてがえば、あとは無料でこき使える大量の男女労働者(成年に達した者だけで20万近い人数であったと推定される)を確保出来た上に、対ヒッタイト軍備も固めることが出来たのだから、一石二鳥三鳥、こんどは民の数を憂えるどころか、永劫に彼らを鎖につないでわが手もとにおいておきたかった。つまり、民に課された奴隷の枷(かせ)と軛(くびき)は、容易なことでは取り去られ得ない、強固執拗なものとなって行ったのである。

 民の多くの者が、代々口づてに伝えられて知っていた、しかし安逸にまぎれて忘れ去っていた。あの、はるかなる祖アブラハム・イザアク・ヤコブの神の約束と希望を、しんの底からの無言の叫びを以て思い出したのはこのときであった。

 そしてまた、ヘブライの男児は生かしてはならぬ」の勅令(この勅令には、今現在は出来るだけヘブライのおとなどもを使い、将来はヘブライの女児をエジプト人がめとることによって、時をかけつつ、民をなしくずしにしてゆく意図が入っている)を、母と姉ミリアムとの愛と機転によってまたその愛と機転の心情を汲んだ心やさしいエジプト王女の情によって(出エジプト2ノ1-9)まぬがれ、いみじくもひき出す者(モーゼ)と名づけられていたひとりの青年が、奴隷の枷から民を自由に向ってひき出すべく、神に呼ばれたのもこの時であった。

-アブラハムの場合といい、このモーゼの場合と言い、神に「呼ばれる」とはどう言うことなのか。新約に入ってのちは、われわれの今日までの、「神のみむね」の啓示と形容されることになるその「呼びかけ」は、神がかり風にどこからか湧き起って来るものではない。人間が主幹に酔って恍惚のうちにつくり出す幻想でもない。それは、まず、呼びかけを受ける人間の、天性や才能や意志や理性や置かれた状態や時代の環境の中にすでに「在る」のである。モーゼの場合について言えば、最初の呼びかけは、虐殺から救われて生きのびた彼が己の出生(ヘブライの出生)を知り、時代のおもむくところを見つめ、己が民の奴隷労働の状態をつぶさに見に行き、そのあまりのひどさに衝撃を受け、おのれただひとり、この過酷な奴隷状態をまぬかれて生きて来たのは、ひとえに民を救い出す目的のためであったと判断したとそのときに与えられた。

 そもそも、虐殺の運命からそのモーゼを、「神のみむねにしたがって」救ったときの、彼の母と姉ミリアムの行動はどうだったか。それは人間理性の総動員と、タイミングを見てとる回転の速さと、果敢な実行力によって、はじめて達成されたのである。

 神のみむねや呼びかけは、「世の出来ごとの成るにまかせて、何でも易々と受け身で受けとれ」では決してない。かえって、無個性無気力の、成るにまかせるあきらめの消極的人間は、みむねや呼びかけを認識し得ないものなのだ。もしも、成るにまかせるのがみむねなら、モーゼの母や姉は、技身の剣を片手に一軒一軒、男の赤子をさがして歩くエジプト兵に、泣きながら「みむねのままに」赤子モーゼを渡したにちがいない。」

 


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