たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

感染症対策の有識者会議「誤情報の常時監視」を含む行動計画改定案を了承 近く閣議決定へ

2024年06月17日 23時09分03秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年6月17日Yahooニュース、

感染症対策の有識者会議「誤情報の常時監視」を含む行動計画改定案を了承 近く閣議決定へ(楊井人文) - エキスパート - Yahoo!ニュース

コロナ禍の対応を踏まえ、今後の感染症対策に関する政府行動計画改定案を検討していた新型インフルエンザ等対策推進会議が6月17日に開かれ、感染症対策の名のもとに平時から「偽・誤情報」のモニタリング(監視)を行う方針などを盛り込んだ改定案を了承した。岸田内閣は与党との調整を経て、近く閣議決定を行う見通し。

 改定案の原案は4月24日公表され、パブリック・コメント(意見募集)では14日間で19万件超の意見が寄せられた。

 6月2日の推進会議で委員に配布されていたパブコメの概要資料は非公開となっていたが、きょう48ページの未定稿資料として公表された

資料によると、偽・誤情報対策について反対または慎重意見が多く寄せられたことを踏まえ、「表現の自由に十分に配慮」という文言が加えられた(改定案39ページ)。ただ、「事実関係として明らかに誤っている情報の拡散により、国民等への影響が大きい状況にないかなど、偽・誤情報を含め幅広く状況を把握する必要があり、モニタリングはその一環として行う」として、平時からの監視を実施する方針は維持した。削除要請を含めて恣意的な運用が懸念されるとの指摘も出ていたが、「SNS等のプラットフォーム事業者が行う取組に対して必要な要請や協力等を行う」という文言はそのまま残された。

パブコメでは、政府の情報発信にも誤情報が含まれていたのではないかという指摘もあった。これに対しては「不確実性をはらむ『作動中の科学』という側面を国民等にお伝えしつつ、その旨十分留意したリスクコミュニケーションに努めることが重要」と述べるにとどまり、政府の情報発信について検証する方策などに言及はなかった。

新型コロナの起源・原因については自然発生説と研究所漏洩説があり、日本政府は今も「調査は終わっていない」との立場だ(内閣感染症危機管理統括庁への取材で確認)。パブコメでは、ウイルス等の機能獲得研究の厳格な管理や把握を求める意見も寄せられていたが、行動計画でとる対策は「原因の如何を問わず」適用されるとの説明にとどまり、漏洩リスクへの対応策について言及はなかった。

他方、行動制限措置等の対策の終了時期について、4月24日公表の原案では「ワクチンの普及等による集団の免疫の向上、病原体の変異及び新型インフルエンザ等への対応力が一定水準を上回ること」としていたが、コロナ禍で「集団免疫が獲得できたのか」という疑問が寄せられていた。最終案では「集団免疫」という表現が削除され、「ワクチン等により免疫の獲得が進むこと、病原体の変異により病原性や感染性等が低下すること及び新型インフルエンザ等への対応力が一定水準を上回ること」という文言に修正された。

そのほかにも、パブコメの意見を踏まえて一部修正されたところが複数あるものの、全体としては、4月24日公表の原案から大きく変更された点はないとみられる(ページ数は223ページから225ページに若干増えた)。

新型インフルエンザ等対策特別措置法は、政府行動計画の策定・変更にあたって推進会議の意見を聴取するものとしているが、法律上の定員35人のうち、15人しか任命されていない(委員名簿)。

 6月17日の会合は5人の委員が欠席し、オンライン参加を含め10人が出席した。取材は冒頭のみ許され、担当閣僚の新藤義孝大臣が今日で議論を終了したうえで与党との手続きに入りたい旨を説明。会議は約1時間で終わり、改定案が了承されたことは統括庁への取材で確認した。」

 

新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)についての意見募集の結果概要(未定稿) 

gijisidai_3.pdf (cas.go.jp

 

 パブリックコメントに寄せられた意見などはなっから聞く気はなかったのでしょう。募集しましたという体を残したかったに過ぎないと思わざるを得ません。集計するだけで何か月も要するはず、国会議員が質問主意書をだせば会議を開かせる時間がなくなり進まないという設定はどこにいったのやら。

 地方自治体法改正も閣議決定されようとしています。官房機密費からお金をばらまくことで当選してきた自民党が大事なことを国会で審議せず次から次へと閣議決定、阻止する手立てはないのでしょうか。

 日本がどんどんどんどん壊れていきます。一日一日破滅へと向かっています。


ヒルティ『眠られぬ夜のために(第一部)』より‐4月1日~4月29日

2024年06月17日 18時23分17秒 | 本あれこれ

「4月1日

 偉大な思想は、ただ大きな苦しみによって深く耕された心の土壌のなかからのみ成長する。そのような苦痛を知らない心には、ある浅薄さと凡庸さが残る。いくら竹馬に乗って背のびをしたとて無駄である‐例えばその竹馬が宗教的な、科学的な、それとも哲学的な性質のものであろうとも、あるいは人間的な特性であろうとも。しかし、ひとは余儀なくされるのでなければ、だれがこの実り豊かなだが同時に恐ろしい道にみずから進んでふみ入る勇気を持つだろうか。また、神の導きの手がなければ、だれが、時には毛筋ほどにも狭い、深淵のふちの小道を通りぬけることができようか」

 

「4月4日

 だれもで信仰の一時的な動揺を完全に免れるわけにはいかない。さもなければ、「信ずる」とはいえないであろう。しかし、信仰上の経験を重ねるうちに、信仰がしだいに一種の知識となる。だから、使徒ペテロは正当にもつぎのように語っている。「わたしたちは、わたしたちが知り、そして見たことについてのみ語る。ただたくみな作り話に従いはしなかった。」(ペテロ第二の手紙1の16参照)

 現代においても、すべての福音説教者は、自分についてこれと同様に言えなければならない。それができないかぎり、彼の説教はあまり役に立たない。

 ワーグナーの美しい歌劇によってわれわれに一層親しまれるようになったローエングリンの伝説は、この点で人をよく納得させるものを含んでいる。

 すなわち、およそ人類の真の救い主は、その独自の精神的本質をそなえて未知の国からやってくる。したがって、多かれ少なかれどこか異様なところがある。それ同時に、彼は「闇と苦しみ」のなかから来るのではなく、「光と喜び」からやって来るのである。ひとはそれに接すると、なによりもまず、この救い主みずからがそのような新しい生命に浸りきっているのを感じるにちがいない。今日の預言者に見るように、ただ人間の悲惨についての嘆きやその描写によって、あるいは自然科学や社会主義との単なる対決。それもごく弱よわしい対決によっては、ひとに全然感銘を与えることができないし、そもそも預言者の名に値いするものではない。」

 

「4月5日

 どんなに正しい人でも、その生涯のうちいつかは、「罪人のひとりに数えられる」にちがいない(マルコによる福音書15の28)。もしこのことが起こらなければ、かえってより徴候とはいえない。このような場合、神を慰めとして持つならば、すなわち、あらゆる人間的批判をはるかに越えて力づけ給う神の慰めと、この助けを確信することから生じる清らかな良心(真に清らかな良心とはこれ以外にはない)とを与えられるならば、世人の批判にも容易に堪えられ、それも想像していたほど悪い者でも危険でもないことを悟るであろう。

 ひとはこのような経験を経ることによってはじめて勇気ある人間となり、神がその戦いに用いることのできる者となる。それまでは、どんな人もみな臆病者であって、いざという時に神の味方に立つことを恐れるのである。」

 

「4月6日

 今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実なものを見わけるある種の本能である。つまり、それは、無数の企画や組織や団体や党派の煽動や、文学的および政治的潮流や、または宗教的団体や宗教などのなかにまき込まれないために必要なのである。これらの動きは、毎日のように、すべての教養人に襲いかかってくるが、真に生命あるものは、そのなかのほんの一部にすぎない。大部分は実にはかない存在であって、趣意書や年報を二つ三つ出したかと思うと、翌年はもう消えてなくなるか、さまざまな、やはり頼りない小さな分派にわかれたりする。こういうものから、できるだけ離れているがよい。

 

 あなたがなんらかの形の無益な人造的事業にたずさわってあなたの生涯をむだにしたくなければ、真のキリスト教を促進し、これに反対するさまざまの偏見を克服することに力をかすがよい。」

 

「4月7日

 死後にもその人柄の印象を長く残すような人は非常に少ない。たいていの人は、重要な地位にあった者でも、数年ならずして忘れられてしまう。最も長く心にのこるのは、その人の誠実の追憶であり、また女性の場合は、彼女の真にやさしい愛情の思い出である。」

 

「なにかあなたにとって有害なことが、思いがけなく身に迫ってきたならば、これを防ぐために、まず常識の原則にしたがって直接できるだけのことをするがよい。つぎには、しかし精神的にーあるいは、それで心が落着くというのなら、肉体的にも、われらの主のみまえに身を投げて、ヨハネによる福音書15の7か16の24を唱えながら、まず正しい洞察が与えられるように祈り、次にはあなたのためにいずれが本当に必要であるかに応じて、忍耐力か、神の助力かを祈り求めるがよい。

 それがすんだら、ふたたび安からな気持で日々の仕事にかえり、いたずらに無益な心労にかまけないがよい。」

 

「4月10日

 つねに金銭に関して心やすらかな生活を送りたいと願うならば、たとえどんなに少額でも、その収入の一定の歩合を善行の目的のために使うことから始めねばならない。これはだれにもできることであって、そのためにそれだけ貧しくなるなどと思うなら、とんでもない思いちがいである。実際は、むしろその反対である。ところが、また他方では、それだけの手数をさえ嫌うほどの怠惰な金持がたくさんいる。彼らはそのあり余る金の一部を、よく選択もせず、ときには大して善意すらなく、なにかの団体や施設に寄附すれば、それでもう大きな善行をしたつもりでいるのだ。これは全くのごまかしであって、まさにコリント人への第一の手紙13の3でいわれている使徒パウロの有名が言葉が該当するものである。」

 

「4月12日

 他人から受ける不正、迫害、屈辱は、時にはわれわれの自己教育のために必要である。しかし、神と平和の関係にある人はみな、最後に、イザヤ書60の14・15,32の17・18、および33の22・23に記されたことを、体験するであろう。原則的にいえば、これらのことに対しては沈黙を守るのが、最良の策である。というのは、そうしていると、侮辱者のなかでも幾分ましな連中は、こちらで言いたいことを、自分自身に、しかもさらに厳しく言いきかせるであろうし、しかし、他の連中は、こちらの応答のたびに、彼らがとった態度への口実を求め、それを見出すであろうから。

 世間によくある、ひそかな嫉妬者に対しては、くり返しあらためて善意を示すことが、彼らの攻撃を防ぐ最上の策である。そうすれば、彼らはついにみずからおのれの剣の上に倒れるか、すくなくともこっそり退却するであろう。ちょうど、ヨブ記の悪魔が、そのさまざまなたくらみが無効に終わったのを見て、すっかり行方をくらましたのと同じように。」

 

「4月13日

 人間の生涯には、時として次のような時間がある。すなわち、霧のように限りなく幾重にも層をなして神をとり囲んでいるように見えるすべての覆いを透して、魂が神に近づく瞬間である。こういう時には、あらゆる既成宗教がただお粗末な象徴にすぎない気がし、また、すべての信条や礼典がいかにも人間くさいものに見えてくる。それらは、神のみ心にも、さらに人間の可能性や本来の使命にも、全くそぐわぬものとしか考えられない。」

 

「4月14日

「偉大なことをなしとげるのは、それ以外になすことのできない人のみである。」これはなんという真実であろう。だから、われわれはときおり、このような「それ以外になすことのできない」状況に身を置かねばならない。つまり、ある大きな決心をあらかじめよく考慮しておき、つぎに、あることがなさるべきであり、またなされねばならないことがいよいよ明らかになったなら、断固としてそれを行うことである。なぜなら、このような人生の最大の瞬間のあとに、えてして、一種の後悔や、もとの日常性へ戻りたい気持が起りがちだからである。これは一つの反動であって、結局そのような気持は、動かしがたい事実にぶっつかると、ちょうどダムに堰きとめられたように、砕けざるをえない。こうして初めて、勝利が戦いとられるわけだが、実際それは、そのような曲折を経て、かえって非常に容易なものとなりうるのである。」

 

「4月15日

 今日ではもはや、だれも他人に仕えることを欲しないで、まず神から、つぎには道徳的世界秩序からのがれ、すべての国家秩序から、教会や家族のきずなから、自由でありたいと願う。しかし、それをある程度なしとげると、こんどは、空虚感か、野卑な享楽浴か、もしくは暗いペシミズムに陥り、ついには破壊欲まで昂じることがある。

 本当は逆に、まず自分自身から、自分の気分や性癖から自由になることから始めて、つぎにはみずからすすんで神と、地上における神の大業とに仕えるべきであろう。これがすなわち幸福への道である。

 もはや自己の改善に心を労するのでなく、他人の福祉のために己れをささげよという命令を受けるようになれば、その人はすでに人生学校の最上級に進んだのである。われわれが想像する未来の生活も、おそらくつねにこのようなものであろう。」

 

「4月18日

 昔から哲学とか神学とか呼ばれてきたすべてのものが、ただ真実めいた言葉をならべたてるだけで、本当にみすぼらしいものに思われることがよくある、というのも、それらは表現しようとする事柄の真の根底にまでは達しえないからだ。

 ところが、この人間的知識の暗闇の空に、このような記述の一切の企ての彼方にある、偉大で真実な神についての、われわれの生活から得た経験的事実が、さながら、あらゆる人間的解釈をこえて崇高な、永遠にして揺ぎない真理の星のように、燦然と輝くのである。

 こういう経験からのみ、確固とした信仰が生まれるのであるが、しかしまた深い神秘主義も生じる。こういうものは、その体験を持たない人には正しく理解されないものであり、他の人びとにとっては、それは「愚かごと」であるが、われわれにとってはさまに「神の力」なのである。」

 

「4月20日

 演劇人たちはよく「うまい引っ込み」という言葉を使うが、これは、人生の過ぎ去った時期について思い出す時にも、また、われわれの生涯に深い交渉をもって通りすぎた人びとのことを思い出す場合にも、意義あることである。われわれはよくも悪くもあらゆる出来事から、正しい、気品ある態度で別れを告げ、最後には人生そのものからも立派な別れをするよう努めなければならない。」

 

「4月21日

 ひとは他人からなにも得ようと思わないなら、全く違った目で彼らを見ることができ、およそそのような場合にのみ、人間を正しく判断することができる。

 浅い交わりの友人とも長くつき合って行きたければ、彼らから多くを求めないよう用心しなければならない。」

 

「4月24日

 こころみと祝福とは密接に関連している。こころみがやってくるのは、そうしなければ祝福が与えられそうもない時である。なぜなら、特に、自分自身の力を頼みとする心の自信と傲慢とがあって、祝福の訪れをはばむからである。そこで、ふたたび戸口を開き、心をやわらかにし、素直にするのが、こころみの役目である。この目的が達せられると、すぐさま祝福が訪れてくる。」

 

「4月29日

 天才的素質は一種の精神病だという説は、すでにしばしば主張されてきたが、天才は人類の最大のほまれであるから、われわれは人類の名誉のためにも、この説を承認するわけにはいかないだろう。しかし、この素質がその持ち主に及ぼす影響のなかに、時には病的傾向のものがふくまれていることは確かである。天才的人間が自己の上に支配を認めず、どんな義務にも縛られない絶対的権利を主張するやいなや、その病的傾向はさらに悪化しがちである。こういう場合は、すでに狂気に近く、また実際、狂気に陥った例も少なくない。神の命令に対する全く意識的な犯行や、あるいは挑戦的無神論は、つねに精神的不健康の始まりと見るべきである。実際、そう考えても決して誤りではないであろう。カーライルの伝記に、のちの皇帝ナポレオン三世が彼を狂気だと思ったという話がしるされている。カーライルがへいぜい抱いていたあの強い神の観念がなかったならば、疑いもなく、彼は気が狂っていたにちがいない。しかし、彼が単にあのような抽象的な理想主義者でなくて、現実的なキリスト者であったならば、彼の生涯は、彼自身にとっても、彼の家族にとっても、また彼の国民にとっても、どんなにかよい働きをしたであろう。

 ローマ人への手紙1の22‘、エレミヤ書10の6・14・15」

 

(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文庫、114~140頁より)