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O's Note

いつまで続くか、この駄文

海の向こうは上海

2007-08-23 12:00:28 | 涜書感想文
 同僚のT先生、この8月から大連に赴任しました。2日前に電話があり、無事入国できたとのこと。これからT先生は、たくさんのエピソードを作っていくことでしょう。
 さて、これまた同僚のS先生が「読みますか?」といって貸してくれた文庫本。

 須藤みか『上海発!新・中国的流儀70』(講談社+α文庫、2007年6月)

 須藤氏は、中国国営出版社に勤務したことがあり、中国の大学院で新聞学の修士を取得した、フリーのライターのようです。そして現在も上海に在住のようで、上海を中心とした生活のあれこれについて発表してきたものを一冊にまとめたのが本書です。
 大連滞在中、学生の何人かが「卒業後は上海で働きたい」と話していましたので、中国の人々の中には、北京より上海にあこがれる人がいるということでしょう。また大連滞在中、「北京は政治の中心、上海は経済の中心です」という話も聞きましたので、働くなら上海、という考え方があってもおかしくはないでしょう。
 小生、上海には行ったことがありません(というよりまだ見ぬ中国の方が多いのですが)。上海出身の教え子もいて「ぜひ遊びに来てください」といわれたのですが、テレビ番組で紹介されている上海は、あまりに東京や大阪のような日本の大都会然として、旅行で訪れようという気になれません。

 ところで、須藤氏の本には、上海の社会、ビジネス、在留邦人などにまつわるエピソードが短い文章で70本、掲載されています。
 その一つ一つを紹介するのもしんどいので(苦笑)、内容はお読みいただくとして、読みながら思ったことは『やっぱり上海はビジネスの拠点であり、大都会だ』ということでした。つまりは東京などと変わらないわけです。
 新しく知ったことも数多くありましたが、一方で大連での生活を振り返り、『あり得る話だよな』と思ってしまいます。
 これから中国(とくに上海)を訪れたい、と思っている人には、予備知識として知っていても悪くはない話で、語調も柔らかいですので、気軽に読める本でしょう。

 というわけで、本箱へ(もちろん、現物はS先生に返却します)。

こんな人だったのか。

2007-08-05 11:35:46 | 涜書感想文
 ここのところ、幻冬舎が出版する本を何冊か読みました。
 最初、出版社の名前から、おどろおどろしい内容の本を出版する会社かと想像しておりました。(笑)
 そんなことを思いながらも、『最近、単行本でも新書でも、結構売れている本を出版してるよな』と感じてました。
 そして読んだ本がコレ。

 見城徹『編集者という病い』(太田出版、2007年2月)

 手に取った瞬間、『この水滴は何だ?』と思うような凝った装丁の本です。
 幻冬舎じゃなく太田出版じゃないかとお思いでしょうが、この著者が幻冬舎の代表取締役。つまりこの本は、幻冬舎を立ち上げた見城氏が「書いた」本です。
 あえて「書いた」とカッコ付きにしたのは、書き下ろしではないという意味です。もちろん書き下ろし部分もあるにはあるのですが、それはごく一部で、ほとんどが過去に雑誌などで発表した文章で構成されています。したがって読み進むと『あれ、これ先に出てたぞ』と思うエピソードも数多くあります。書き下ろしではない、という点でやや不満が残りましたが、別の見方をすれば、過去の文章が満載ということは、ずっと前から見城氏が売れっ子だったということがわかります。
 見城氏はもともと角川書店の編集者で、最後は常務にまでなった方でした。それが、角川コカイン密輸疑惑事件(知っている人も少なくなったでしょうが)で角川春樹社長の辞任とともに、自らも辞表を提出して幻冬舎を設立しました。
 角川書店での最初の仕事が雑誌『野生時代』といいますから、小生には非常に懐かしく思いました。
 ところで、この見城氏、どれほどインパクトの強い編集者なのかは、次のラインナップを見ればわかります。
 尾崎豊、山際淳司、坂本龍一、松任谷由実、村上龍、五木寛之、銀色夏生・・・
 本書では、尾崎豊がいかに繊細で手がかかる人物であったこと、坂本龍一がラスト・エンペラーで作曲賞を受賞したときに一緒にいたことなどが、何度か紹介されています。これは単に見城氏の自慢話ではなく、編集者として自分が惚れ込んだ人物(それは、本を書かせたいという思いが強い人物)に、直線的にアタックして築き上げた人間関係であったことを紹介しているわけで、濃密になった人間関係から文章を書いてもらうようになった証でした。
 そして幻冬舎では、『ダディ』(郷ひろみ)、『弟』(石原慎太郎)、『大河の一滴』(五木寛之)、『13歳のハローワーク』(村上龍)などを出版することになるのですが、これらもまた、見城氏が築き上げた人間関係から生み出された書物でした。

 さて、この見城氏、キャッチフレーズの天才とお見受けしました。
 たとえば本書の帯に書かれている言葉、「顰蹙(ひんしゅく)は金を出してでも買え!!」。もともとは「顰蹙を買う」。眉を顰められるようなことをするという意味ですが、それをお金を払って買うという表現に重ね合わせています。言葉遊びとして面白いですよね。また、「薄氷は自分で薄くして踏め」なんていうフレーズも使っています。
 
 見城氏は、編集者兼経営者としての将来ビジョンを問われて次のように語っています。
 「ビジョンなんてないですよ。僕が生きていくだけ。劣等感や、みっともない見栄も含めて、僕の生き様がそのまま僕の仕事になる。僕が生きていくプロセスとして、もだえ苦しみ、得意になり、『これが見城だ』と心の中で叫びながら、たった一人の愛する女に、『ステキ!』と言われることに寂しさを埋める。それが、そのまま幻冬舎なんですよ。」(p.281)
 ハードボイルドですよね。(笑)
 小生の年代は、角川書店が大枚はたいた宣伝広告で、森村誠一、大藪晴彦等の作品を読まされたので、心のどこかに、こういったハードボイルド魂にしびれるものが残っています。

 小生の仕事の一部は文章を書く仕事ですので、とくに気になった部分があります。それは、見城氏がいう売れるコンテンツの4要素。

 ①オリジナリティがあること
 ②明解であること
 ③極端であること
 ④癒着があること

 小生が書く文章は文芸書とは違っていますので、③はなかなか難しい要素ですが(極端だと相手にされない可能性があるので。苦笑)、①と②はまさにピッタリ。④は売るための要素で、買ってくれる人がいる=書物との癒着ととらえています。これも小生の条件に当てはまらないわけではありません。

 それにつけても、こんな凄腕の編集者が設立した出版社だもの、小生がそれに踊らされないわけがありません。(笑)
 さて、この本も本棚に入れておこう。

こんな本を読んでみたりするぅ。

2007-07-05 21:46:35 | 涜書感想文
 仕事柄、数年に一度、実態調査(アンケート調査)をします。「会計で実態調査?」と思われるかもしれませんが、今、組織で何が行われているか、それがどのように行われているかを知る必要がありますし、単純集計やクロス集計レベルですが、集めたデータを加工して、その情報からどんなことがいえるのかを考えたりします。
 基礎データから実態をどのように推し量るのかは、非常に厄介な作業です。TV番組でトリビアの種なんていう企画がありますよね。ある事柄について、有効と思われる数のデータを集めて命題を作ろうという企画です。先日何気なく見たトリビアの種は、「男性用小便器は成人男性のおしっこ約32000人分の水圧で貫ける」というもので(苦笑)、実際に水圧を少しずつ上げていって、陶器製の便器が壊れるまで実験をしていました。
 ところで、最近、時を同じくして2冊の本を読みました。その1冊がこれ。

門倉貴史『世界の[下半身]経済が儲かる理由(わけ)』(アスペクト、2007年3月)

 結論からいえば、なぜ下半身経済が儲かるのか、通常考えられている理由しか読み取れませんでした。
 いわゆるセックス産業(門倉氏の定義によれば、セックス産業とは「売春を中心として、それに付随する産業を広く含めたもの」(p.10)となるようです)は、歴史的、民族的、宗教的、社会的、経済的理由があって、さらに合法、非合法という法律的な問題も介在しているわけですが、明らかなことは、性を売買の手段にしていることで、それを買おうとする輩、それを売ろうとする輩の間で売買が成立します。では誰が儲けるのか、なぜそれが儲かるのか、といったあたりを知りたかったわけですが。
 もっとも本書は、「なぜ儲かるのか」ということよりも、下半身経済が国やグローバル経済にどのようなインパクトを与えているかについて考察している部分が結構あり、それはそれで読ませてくれる内容ですので、そうであれば、タイトルをもう少し変えた方が良かったんじゃないかなと思います。
 さて、この本の面白いところは、下半身産業の経済規模を統計的手法で類推している点です。そしてそこで使われている手法が待ち行列理論です(これはS先生のお得意の分野ですので、講義でこの理論を聞いたことがある学生さんも多いでしょう)。
 門倉氏が用いている方法は、M/M/S型と呼ばれる待ち行列理論で、窓口が複数ある場合の推計方法。窓口数、サービス時間、平均待ち時間がわかれば、銀行の平均的な客数を推計することができるそうです(このあたりは勉強不足で説明できません・・・)。
 本書では、この手法を用いてさまざまな下半身経済の規模を推計しています。
 このブログは覆面ブログではありませんので、あまり過激な文章を書くと、「あー、あいつ、下品だ」と思われてしまいますので(もう思われているか)、詳しく知りたい方はこの本を読んでいただきたいのですが、たとえば(あー、やっぱり書いてしまう)、待ち行列理論から推計すると、ソープランドの市場規模は次のように推計できるそうです(p.49)。
[基礎データ]
平均個室数8室、平均的サービス時間90分、平均待ち時間6分、営業時間12時間
[推計]
上記から、1日の客数41人で年間客数15,036人
[お金に関する推計]
平均料金5万円とすると、上記の客数から年間売上高7億5,181万円
[経済規模に関する推計]
店舗数1,306店とすると、上記の売上高から市場規模は約9,819億円
[名目GDP比]0.13~0.15%(2005年)
 門倉氏自身も書いていることですが、実は日本ではセックス産業は非合法ですので(ソープランドは、浴場として営業許可を受けているので業態としては合法)、[基礎データ]部分に曖昧さが残ります。データが取りにくいわけです。
 とはいえ、正確な経済規模を計算することが本書の目的ではなく、少なく見積もってもこれだけになるということを大雑把につかもうとしていますので、本書で紹介されている業態別(?)の規模は、よくわかります。
 また別の観点からは、下半身経済に関する生のデータや仕組みを紹介していますので、それに関する記述部分は、「ふ~ん、なるほどね」と思うところが多々ありました。
 はじめは、何か面白い話のネタを仕入れようと思って手にした本でしたが、そしていくつかネタは仕入れたのですが、読み終えると、少々やるせなさを覚えてしまいました。

 ところで、この本を買ったあとに、○○先生が貸してくれた本がありました。小生が上記の本を買ったことを見ていた○○先生が「よろしければ」といって貸してくれたと記憶しています(○○先生ってバレバレじゃん。笑)。
 573ページもあるその本は、永沢光雄『AV女優』(ビレッジセンター出版局、1996年4月)。42名の女優に対するインタビュー記事を一冊の本にまとめたものです。
 いわゆる芸能関係の話題については、少しずつ聞きかじって知ったかぶりをしていますが(苦笑)、この本で紹介された女優さんたちの名前のうち、『なんとなく見覚えがあるなぁ』と思えたのはたった一人だけ(それもかなり曖昧)。
 タイトルを見ればちょっと衝撃的に思われますが(小生も最初に表紙を見て驚きました)、読んでみると、若い女優それぞれの生い立ち、生き方、考え方がストレートに描かれているように思います。そして小生ほどの年齢になるとやっぱり、『それでいいのかなぁ』と首をかしげたくなる考え方などもあって、いろいろ考えさせられた一冊でした(でもホントに時間がかかった・・・)。
 で、今、これを書きながら気づいたのですが、AV女優という呼び方、いつ頃から始まったのでしょうかねぇ。本編には書いてなかったような・・・。

Death of God

2007-06-11 22:31:23 | 涜書感想文
 JSA、シュリ、シルミド、そしてチャングムさん。
 韓国の映画やドラマをそれほど見ることはありませんが、JSA、シュリ、シルミドは韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の南北分断をベースにし、同一民族が敵対する二つの国に分断されたことによる人間模様を描いている点で共通点があるように思います。
 そして、それらの映画とチャングムさんとの共通点は、とにかくハラハラドキドキするストーリー展開ということに尽きるでしょう。チャングムの誓いなど、50話以上の連続ドラマでありながら、毎度毎度チャングムさんが危機にさらされ、思わず「頑張って!」と声をかけたくなったほどです。(笑)

 ところで、生協で何気なく手に取った本(だいたい何気なく手に取ることが多い。苦笑)。韓国の作家が書いた本です。

金辰明著/白香夏訳『中国が北朝鮮を呑みこむ日』(ダイヤモンド社、2007年5月)

 一言でいって、これまで小生が読んだ本の中でもっとも面白い本の一つになりました。
 とにかくスケールの大きさと危機の連続。先に挙げた映画やドラマに引けを取りません。これぞ韓国作品といった感じです。
 かてて加えてストーリーの面白さ。
 主人公は、カリフォルニア大学バークレー校の韓国人教授キム・ミンソ。彼がサバティカル休暇を取っている最中の物語としてストーリーが展開します。
 最初は、バークレー校の女子学生が殺人容疑をかけられているところをキム教授が助けるところから始まるのですが、それが、やがてはキム教授を中国、北朝鮮、韓国にまたがる大事件に巻き込むことになります。
 本書は4ページほどからなる「著者まえがき」から始まります。最初に読んだときには、それほど重要な内容ではないと思っていたのですが、すべてを読み終えてもう一度読み直すと、物語で出てきたキーワードがほぼ出ていたことに気付きました。
 キーワードは、東北工程、広開土王碑の読み取れない三文字、幽州刺使の鎮、その鎮が残した帖。
 東北工程は中国政府による中国東北部(満州)に関する歴史プロジェクトだそうで(ここでの満州は、いわゆる傀儡政権としての満州とは違っていて、もっと古い時代の地域をあらわす言葉として用いられています)、これと広開土王碑に書かれた文字、そして幽州刺使の鎮が残した帖(玄武帖)に書かれた文字を巡って、中国と北朝鮮、そして中国と韓国の歴史解釈の問題が題材とされています。
 広開土王碑が5世紀に建てられたこと、その時代は高句麗・新羅・百済の時代であること。このことが、現在の中朝、中韓関係に結びつけられているわけです。1,500年間をまたにかけたストーリー。これが本書のスケールの大きさの一つ。
 そしてもう一つが、地理的・政治的スケールの大きさ。なにしろ、キム教授はカリフォルニアに在住の設定で、その地においても事件は発生するのですが、大きな事件を追って韓国に戻るのはもちろん、時に中国に飛び、時にカンボジアに飛ぶ。しかも、中盤にはジミー・カーター元大統領も登場しますし(キム教授に訪朝した際の南北首脳会談の裏話を聞かせます)、最後の一番いい場面では金正日国防委員長も登場します(キム教授と電話で話をします)。凄すぎる!
 そればかりではなく、天安門事件発生時の趙紫陽総書記や小平氏まで登場します。
 だからといって荒唐無稽なストーリーというわけではありません。むしろ、そういった要人が登場することで「さもありなん」と思わせてしまうところがミソです。

 さて本書は、ある種ミステリー小説といえますので、ストーリー展開と謎解きをここで詳しく書くわけにはいきません。
 しかし、先に紹介した著者まえがきには、次のように書かれています。

 南北首脳会談を最初に提案した金日成。
 米国がお膳立てする南北会談を執り行うことで、米国の力を借りようとした金日成。
 彼はなぜ、長きにわたり同胞関係を維持し続けていた中国から離れようとしていたのか。彼が気づいた中国の野望とは、いったいどのようなものだったのか?
 もしかしたら私たち(韓国)は、金日成が逃れようとした中国の野望に向かって、歩を進めてはいないだろうか。
 私は、韓国社会が東北工程の陰謀を正しく理解しなければならないと考えている。東北工程には、中国が思い描く東北アジアにおける朝鮮半島の姿がまざまざと映し出されているのだ。[p.7]

 上記の著者の言い分は「ホントかいな」と思わずにはおれない部分でもありますが、少なくとも中国、韓国、北朝鮮に関する歴史的・政治的問題は、我々にはなかなか理解できないものでもありますし、著者まえがきもまた物語の一部と考えて、「そう考えるのも一つ」と割り切って読むことが肝要でしょう。

 また、上記に続けて、次のように述べています。

 この小説は、金日成が殺害されたという推測を出発点としつつ、朝鮮半島を巡り、現在秘密裏に進められている恐怖のシナリオを読者の目の当たりにすべき執筆したものである。[p.7]

 物語の前提として、大胆にも「金日成暗殺」を置いています。本書では、金日成暗殺説をうまい具合に表現しており、ここも読み所の一つです。ちなみに原題Death of Godの意味するところは金日成の死ではなく、金正日の死のようです。なお、「神が死んだ日=中国が北朝鮮を呑みこむ日」とつながるようです。

 いずれにしても、そんな難しいことを考えず、ハラハラドキドキするストーリー展開を大いに楽しむことができる本。それがこの本だと思います。

[追記]
 本書は、ダイヤモンド社のページで「立ち読み」ができるようになっています。「電子ブックを開く」からさわりの部分をどうぞ。

アトーダタカシ

2007-06-07 20:50:00 | 涜書感想文
 タイトルに惹かれて久しぶりに阿刀田高の短編集を読みました。

 阿刀田高『脳みその研究』(文春文庫、2007年5月)

 阿刀田高氏については小生がとやかく紹介するまでもないでしょう。5月末には日本ペンクラブの会長に就任したと報道がありましたし、短編の名手として名高い作家ですよね。
 小生、学生時代に最初に読んだのが『冷蔵庫より愛を込めて』だったように思います。その後、直木賞を受賞した『ナポレオン狂』を読んで、ゾクゾクする感覚にしびれ、講談社文庫を中心に網羅的に読みました。本棚の本を数えてみたら78冊。『脳みその研究』は79冊目ということになります(たまたま並んでいたのを数えただけなので78冊が正確な数字かどうかは怪しい・・・)。まあ、それだけ「凝った」というわけです。
 ところがここ数年、「阿刀田高」本から遠ざかっていました。
 というのも、ギリシャ神話だの、旧約聖書だの、コーランだの、扱う題材が教養志向のものが多くなってきて、阿刀田高氏に期待する「何だかゾクゾクする感覚」が得られなくなっていたからでした。
 それが、何気なく書店で手にした『脳みその研究』。
 9つの短編で構成された本書は、どれがいいと決められないくらい味わい深いストーリーばかりで、久しぶりに阿刀田高ワールドを満喫し、一気に読んでしまいました。

 その中で、ドキリとしたことがあります。
 ちょっと前に、「泣かせる本が読みたーい」と書いたら、四階の住人さんから谷崎潤一郎『少将滋幹の母』がおすすめとコメントがありました。『以前、読んだことがありそうでなさそうで』と思いつつ読んでいると次のようなくだりが・・・。

 芝居ばかりではなく、小説のたぐいも人並みには読んでみた。
 ここでは圧倒的に谷崎潤一郎に引かれた。わかる人にはわかるだろう。私にはふさわしい。この作家との出会いは文字通りのビギナーズ・ラック、多少の予備知識がないでもなかったが、とにかく初めに読んだのが〈少将滋幹の母〉。いっぺんで魅了されてしまった。
 -すごい-
 めくるめく思いで読み終え、その夜は興奮のあまり眠られなかった。谷崎の小説やエッセイを次々に漁ってみたが、残念ながら〈少将滋幹の母〉ほどの感動は得られない。(「狐恋い」)

 この短編では、これ以降、実際に『少将滋幹の母』(新潮文庫刊)から引用が行われ、しかも母子再会の場面も引用とともに展開されています(うーん、やっぱり読んだことがあるような)。
 実は、この「狐恋い」という短編は、『少将滋幹の母』のような運命的に引き裂かれた母子にある愛情表現がベースにあるからこそ、そしてそれがクライマックスにつながる前段で引用されているからこそ、ブラックな大団円が活きてきます。
 久しぶりに読んでみて、『奇妙な味のする短編、健在だな』と思った次第。

声に出して読めない日本語

2007-06-04 21:24:15 | 涜書感想文
 2年ほど前から地元新聞で始めた「声に出して読む○ーシン」運動(○ーシンは地元新聞の略称。ちなみに「運動」かどうかは不明)。DSでブレークした東北大学の川島教授にあやかって始めたようです。新聞を声に出して読むと脳が活性化されるそうです。
 ところで、ちょっと前から読んでいた本があります。

久島茂『はかり方の日本語』(ちくま新書、2007年3月)

 久島先生は意味論・国語史を専攻する大学の先生で、日常的に使われている言葉のうち、はかり方に関する言葉で疑問に思うものを挙げて、その考え方を紹介したのが本書です。
 たとえば、その帯広告では次のような疑問を挙げています。

・「一日中」とはいえるのに、なぜ「一時間中」とは言えないのか?
・戦争は数えられるのに、平和が数えられないのはなぜか?
・「2センチ長い鉛筆」は、なぜ長さが2センチの鉛筆ではないのか?
・球も円も区別しないで、「まるい」という理由は?

 実はこの帯広告につられて買ったのですが、読み進めていくうちに、どんどん深みにはまっていく感覚を覚えてしまいました。
 というのも、日常的には感覚的に使っている日本語の持つ意味の深さに気づき、読めば読むほど難しく感じ、「最後までたどり着けるだろうか」と思ったのもしばしばでした。
 たとえば、帯広告に出ていた「一日中」とはいえるのに「一時間中」とは言えないのは、一日と違って、一時間には始まりと終わりが不確かだからだそうです(p.54)。
 戦争は1回2回と数えられるのは、戦争が原因を持った特別な出来事であり、一方、平和は特定の対象を指しにくいため数えられないそうな(pp.43-44)。
 こういったかぞえ方に関する言葉の意味が、どんどん紹介されていきます。
 その中でも、『面白いな』と思ったことがあります。
 それは日付の例。本書では、次のような新聞記事がいくつか採り上げられています(pp.85-86)。

「会期は三月二十六日までの二十九日間で、三月一、二日に予算案に対する質疑がある。」(『朝日新聞』2001年2月27日)
「ほとんどの高校で四月九、十日に入学式がある。」(『朝日新聞』2001年3月20日)

 さて、これを声に出して読んでみてください。
 久島先生は、これらを疑問の残る書き方であると述べています。
 たしかに、新聞などでよく見る表現ですが、「一、二日」や「九、十日」という書き方は、声に出して読もうとすると、感覚的にでさえ読むことができません。久島先生は次のように推察しています。

「結局、『一、二日』は『いちにち、ふつか』とは読めず、また『いち、ににち』と読むのも普通ではない。あるいは『いち、ににち』と声に出して読むことはなくても、書き言葉として、こう読んでいるのかもしれない。」(pp.87-88)

 そして面白いことに、日付や日数で一や十が絡むと読みにくくなっても、「二、三日」「三、四日」になると読めるようになるそうです。読んでみるとしっくりきますよね。
 日本語って不思議ですよね。(日本語を勉強する海外の方々の苦労が忍ばれます。)

陰日向に咲く

2007-05-21 22:10:00 | 涜書感想文
 フジテレビ系列の番組に「ザ・ベストハウス123」という番組があります。小生、ほとんど見たことはありませんが、あらゆる分野のトップ3を決めてしまおうという趣旨の番組のようです。
 子供たちが見ていて、たまたま一緒に見た放送で紹介されたトップ3の一つが「感動…必ず泣ける本」。
 最近、ワケもなく『泣かせてくれる本が読みたいなぁ』と思っていた小生、番組に釘付け。(苦笑)
 トップ3の第3位は実話もの、第1位は絵本でした。 
 その第2位として紹介されていたのが、この小説でした。

 劇団ひとり『陰日向に咲く』(幻冬舎、2006年1月)

 劇団ひとりが本を書いたというのは知っていましたが、まさか泣かせる内容の本だとはつゆ知らず、番組を見て早速生協へ。
 奥付を見てビックリ。昨年1月に初版。小生が購入したのはその29刷。ベストセラーじゃないですか!(それにしても最近、幻冬舎本にはまっている感じ。)
 
 全部で5つのストーリーで構成されているのですが、読み進むうちに思い出したのが、若かりし頃読んで非常に感動・感激した井上ひさし『十二人の手紙』。この小説は、今でも、小生の中ではトップ3の一つになっているほど優れた構成・ストーリーを持つ本なのですが、『陰日向に咲く』もそれに近い構成・ストーリーになっていました。
 つまりは、各ストーリーはそれぞれに独立しているものの、ストーリー間が一つの糸(出来事や登場人物)でつながっていて、最後にストンと落ちてストーリー全体が大団円を迎えるというわけです。
 もちろん、劇団ひとりと井上ひさしとでは、時代も感覚も、そして台詞回しもまったく違いますが、先を読まずにはおれないという気持ちにさせてくれた点では一致していました。

 さて、「ザ・ベストハウス123」で、とりわけ泣かせる部分として紹介されていたは「Over run」と題された第4のストーリー。
 ストーリーの前半は、パチスロや競馬にはまった主人公が、魔法のカードと名付けたキャッシングカードでどんどんお金を引き出し、やがては借金が返済能力を大幅に超えてしまうまでを描きます。その結果、主人公が思いついたのが手っ取り早く金を調達する方法。それは振り込め詐欺。
 ひょんなことからつながった電話の相手は老婆でした。ストーリーの後半は主人公と老婆との関係を巡って展開されます。
 実は、「ザ・ベストハウス123」は罪作りな番組で、泣かせると思われる部分を引用付きで紹介していましたので、主人公と老婆の関係、そしてその結末を知りながら読むことになったのですが、それでも「うーん」と唸らせてくれる展開でした。

 テレビ番組に出ている人が書いているこの手の本は、どうしてもその人のテレビでのキャラクターを想像しながら読んでしまいます。この本もまた、劇団ひとりの口調や声のトーンを想像しながら読んでしまいました。これが読み手にどのような効果(影響)を及ぼすかは非常に重要で、期待はずれになってしまった場合、本の内容それ自体が色あせてしまいます。しかし、『陰日向に咲く』は、文体それ自体が軽妙洒脱(まあ、軽いわけで)、台詞回しも劇団ひとりがいえばこうなるかなと思ったり、何より、登場する主人公が、男性の場合も女性の場合も、劇団ひとりそのもの、と思われるようないじけた感じがうまく表現され、それが小生にとってはいい効果をもたらしてくれました。
 ところで、「泣きたい本が読みたい」と思っていて、「必ず泣ける本」という触れ込みで手にした『陰日向に咲く』。・・・・・・泣けませんでした。(残念)
 5話とも、最初は笑いながら、最後はもの悲しく終わり、それなりに身につまされる話なのですが、小生の琴線と「ザ・ベストハウス123」の選者の琴線の波長が合わなかったのかもしれません。
 案外、学生さんなら(若い感覚をお持ちの方なら)泣けるかもしれませんね。ぜひご一読を。

実践!会計入門

2007-05-16 22:24:24 | 涜書感想文
 「さおだけ屋」以来、身近な事例を紹介しながら会計について理解してもらおうという入門書が書店に平積みされるようになりました。大学で会計を担当する者として、学生さんにも会計を身近に感じてもらえるいい機会ですので、この状態がしばらく続いてくれればなと思ったりしています。
 さて、そうした書物の一つがこれです。

 金児昭『実践!会計入門』(宝島社、2007年5月)

 表紙には「1時間で会計のセンスが身につく!」とありますから、読まないわけにはいきません。(笑)
 本書で経済評論家・経営評論家を名乗っている金児氏は知る人ぞ知る実務家で、信越化学工業に勤務するかたわら公認会計士試験委員も務めた方です。現在は退職していますが、信越化学工業は塩化ビニル、半導体ウエハで世界トップのシェアを誇る高収益企業で、その高収益体質を会計の面から後押ししたのが金児氏であるといわれています。
 さて、この本、版元からしておおよそ会計学とは縁遠いのですが、本の内容が漫画であるという点も、これまでの入門書とはひと味違った趣向になっています。(もっとも、『BARレモン・ハート:会計と監査』なるウンチク漫画本もあったことはありましたが。)
 この本、『クロサギ』と同じように、漫画それ自体は、ある意味あっさりしていて、ビジュアル的にはそんなに面白みは感じられません。(漫画担当の方には申し訳ないのですが。)
 興味津々だったのは、金児氏が会計の何を採り上げて書物を構成しているかでした。つまり、金児氏は、会計を勉強したことがない人たちに最低限何を理解してほしいと考えているかを知りたかったわけです。

 目次をあげると次のようになります。
 第1章 天下分け目の純資産比率30%
  ~無借金経営に近づくために~
 第2章 在庫はコスト発生装置?
  ~過剰在庫が会社を圧迫する~
 第3章 会社の血液・現金
  ~今すぐできる黒字倒産対策~
 第4章 見える価値だけに惑わされるな
  ~見えない資産が会社力を決める~
 第5章 丁寧な作業こそコストダウンの源
  ~手抜き仕事が生む無駄のスパイラル~
 第6章 売上の2割は利益を上げよ!
  ~明日への投資の最低条件~
 第7章 損益分岐点が示すビジネスモデル
  ~ハイリスクハイリターンか、ローリスクローリターンか~

 どの章も、まず数字の見方について思い違いをしている経営者の考え方を示し、次に「会計的な思考」(金児氏の表現)に基づく解決策を示しています。そして最後に、金児氏自身のコラムを付けて一話が完結します。
 会計を少しでもかじったことがある人が上記の見出しを見ると、『これは管理会計の話だよね』と感じると思います。思い違いをしている経営者の考え方を示してそれを正す、という構成ですから、経営者のための会計が主要なフィールドになっているわけです。
 会計学に簿記から入ると、一見無味乾燥と思われる技術をたくさん覚えなければならない、面倒くさいと思い、それで会計嫌いになる場合も少なくないでしょう(小生もそうなりかけたのですが)。
 その点で、本書のように、ある特定の言葉や用語(勘定科目)に着目して、それにまつわる話題を採り上げれば、さしあたりそこだけ注目すればいいわけですから、「会計学って面白いかも」と思ってもらえるかもしれません。ましてそれが経営にかかわる話題であれば、『将来企業経営をしたい』と思っている人にも注目してもらえるでしょう。
 ただそれでもやっぱり、経験からいえば、管理会計に入る前に、簡単な勘定処理や財務諸表体系を理解しておいた方がいいかなと思います。
 ある特定の言葉や用語は、それが独立して存在しているわけではありません。たとえば、第3章「会社の血液・現金」に関して、我々は日常生活においても現金が大事、何事も現金がなければ始まらないとは分かっているでしょう。でも企業会計上(勘定科目上)現金は日常生活における現金(通貨)ばかりではないこと、会計学でいうところの利益の増加は現金の増加と違うことなどの知識がなければ、なぜ現金が会社の血液といわれるのか、十分に読み解くことができないわけです。第7章の損益分岐点も(ちょうど今、管理会計論で解説中)、損益分岐点という言葉の意味だけわかっても不十分で、損益分岐点を理解するために、前提としてコスト発生のメカニズムを理解しておかなければならないわけで、そのためには、原価計算も知っておいた方がいいわけです。
 とはいえ、金児氏は、もちろん、そんなことを承知の上で、あえて絞り込みをかけているわけであって、まずはここから入って、興味を持ったら会計学を本格的に学ぶべしと考えていると思われますし、その点を踏まえた上で気楽に読んでみるのには恰好の書物であると思います。
 
 と、そんなことを考えていると・・・。
 この本の章立ては7章。問題提起と「会計的な思考」の解説でワンセットであると考えると、1章を2回の講義で採り上げるとして2単位科目サイズ(14回分)。考えてみれば、新しいカリキュラムでは、管理会計論は2単位科目に分割。
 管理会計の入門編としてこの本をテキストにしてみようかなと思ったりして。(案外本気モード)

裁判官の爆笑お言葉集

2007-05-01 21:28:50 | 涜書感想文
 研究室が同じフロアであるI先生やS先生とは一緒に食事(昼食)をとる機会が多く、お二人は法律プロパーなので、食事中の雑談の中で法律がからむ事件・事故に関する話題が出てきたりすると、門外漢の小生にもわかりやすく解説してくれたりします。そんなときは「なるほど」と思ったり、あるいは話を聞くまで知らなかったなどということもしばしば。
 つい先日も、ある労働委員会から出された不当労働行為の命令文のなかに、「被申立人は、本命令書(写し)受領後速やかに、下記文書を申立人に手交するとともに、縦1.5メートル・横1メートルの大きさの白紙に、楷書で明瞭に記載し、○○(場所)に10日間棄損することなく掲示しなければならない(文書に記載する日付は、被申立人が申立人に対して、本文書を手交・掲示した日とすること)。」という主文(の一つ)について、「縦1.5メートル・横1メートルの大きさの白紙に、楷書で明瞭に記載し」という具体的な命令が書かれていたことから「こんな主文もあるんですね。」と驚いていると、すかさずS先生は、メールで「それはポスト・ノーティスというものです」と教えてくれ、しかも辞書的意味まで送ってくれました。具体的な命令それ自体に驚いていたのですが、その記載内容にポスト・ノーティスという名前が付いていたことを聞いて二度ビックリでした。
 さて、昨日今日と読んでいたのがこれ。
 永嶺超輝(ながみね・まさき)『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎新書、2007年3月)
 生協で何気なく新書コーナーを見ていて手に取りました。
 「裁判官」という、お堅い仕事をしている方々の「爆笑」「お言葉」ですから、どんな話だろうと興味が湧くのは小生ばかりではないでしょう。
 この本、見開き右ページにその「お言葉」が、左ページに永嶺氏の「感想」という構成で、おおよそ100の「お言葉」が収められています。
 一言でいえば、そのタイトルとは裏腹に爆笑できるものはありませんでした。法曹を目指し、そして裁判を傍聴している永嶺氏ならば、厳粛な判決言い渡し後に語られる説諭や付言、あるいは質問などが、判決とは違って人間臭さがにじみ出ている、そこが面白いのだということになるのでしょうが、これまでに実際に裁判を傍聴したことがない小生には、それらの「お言葉」が「爆笑」できるような感覚にはなれません。むしろ、罪の重さに比べて量刑が軽い場合に発する裁判官の苦しさが随所に見られ、それこそ人間臭さが感じられます。
 この点に関して、たとえば、永嶺氏は次のような感想を述べています。

 こうやって裁判官の言葉を集めていると感じるのですが、心情的には重い刑を言い渡したいのに、量刑相場がそれを許さないという「板ばさみ」に遭ったとき、担当裁判官は被告人に向けて、一段と強烈な非難のメッセージを浴びせるような印象を受けます。それによって量刑の軽さとのバランスを取ろうとしているのでしょうか。[p.81]

 この感想が書かれた裁判は、K県警が組織ぐるみで、現職警部補による覚せい剤使用の事実を揉み消したとされる事件で、犯人隠避の罪などに問われた元県警本部長に、執行猶予つきの有罪判決を言い渡した裁判です。
 この裁判の裁判長は、判決言い渡し後、次のように説諭しました。

 「罪は万死に値する。」

 10,000回死ぬのと同じほど重い罪。この言葉自体はどこかで聞いた気がしますが、実際に裁判で使われるとあまりに衝撃的な「お言葉」に聞こえてしまいます。
 この本には、このような「裁判官たちの生の声」が収められているわけですが、永嶺氏は、これらの声を自身のブログで紹介しています。
 さて、皆さんは「爆笑」できるでしょうか?

大きな熊が来る前に、おやすみ。

2007-04-23 21:02:29 | 涜書感想文
 2年前に読んでちょっと気になっていた作家、島本理生。
 生協にその新作本が並んでいました。
 島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』(新潮社、2007年3月)
 帯を読むと「切なくて、とても真剣な恋愛小説」「新しい恋を始めた3人の女性を主人公に、人を好きになること、誰かと暮らすことの、危うさと幸福感を、みずみずしく描き上げる感動の小説集」などと、おじさんには、とうの昔に忘れてしまった感覚が並んでいてちょっと気恥ずかしい感じがします。
 本書は、書き下ろし1編を含む3編で構成されていて、「大きな熊が来る前に、おやすみ。」はその1編。
 島本氏(1983年生まれの新進気鋭の女性作家です。ちなみにご結婚されている模様)は、ストーリー展開の面白さもさることながら、セリフ回しのみずみずしさ、あるいは若い女性の感受性を言葉で表現することに優れた作家のようです。評判になった『ナラタージュ』は長編小説で、こちらの方はストーリー展開自体が楽しめたのですが(でも、一人のおじさんとして『どーしてそうなるのよ!』と思う部分もありましたが)、本書は短編で、しかも読みやすい文体ながら、そのセリフ回しや感覚表現に何度か立ち止まって考えてしまうことがありました。
 表題作である「大きな熊が来る前に、おやすみ。」という意味は、主人公が子どもの頃、いつまでも起きていると父親がやってきて「いつまでも起きていると熊に食べられる」という話を聞かされたことに由来します(設定では、父親の母が北海道出身でその母が父に伝えた話として紹介されています)。
 主人公は父親に必ずしもいいイメージを持っているわけではなく、むしろ、嫌っているといった関係で描かれています。
 さて、一緒に暮らしている彼氏と主人公の会話。ひどいケンカをして、それでもお互いを気遣う場面(p.63)。

「私、言ってないことがあったの。熊のことで」
 まだ、うつろな目をしたまま、なにそれ、と発したそばから闇に溶けていくような声で彼は聞き返した。
「私が子供の頃に眠るのが嫌だったのは、父親が、大きな熊のことを言うたびに、早くその熊が来てくれるように願ってたからなの」
「・・・・・どうして?」
「目の前にいる父ごと食い殺してほしかったから。だから毎晩、寝ないで願ってた。どうかお願いです、この家に来てください、私も一緒に食べられてかまいません。死んだってかまいません。だからお願いです、お父さんを殺してください。そんなふうに毎晩、毎晩、くり返し願った。そんなことを思う自分は父に嫌われて当然だし怖いことをされても仕方ないと思った」
「分かった、分かったから」
 彼は初めて心の底から苦しそうな声を出して、そう遮った。

 ストーリー展開上からも、この場面の主人公のセリフは読者をドキッとさせるセリフですが、ここに至るまで、彼氏と父親に対する主人公の意識が重なり合っていたことなど、みじんも感じさせませんでした。
 娘と父親の関係から考えてしまう、というのは、娘を持つ親としての悲しさ(?)なのかもしれませんが、一般論としても、娘の、父親に対するトラウマはやっぱり気になるところではあります。
 そしてようやくお互いに許し合えるような気持ちになったところで物語のラストを迎えるのですが、ベッドに横たわりながらの会話(p.68-69)。

 徹平は先に目を閉じて
「おやすみ。熊が来る前に」
 いや、と私は首を横に振った。
「熊はもう来ないよ」
 明日を飲み込んでくれる熊などいないことも、手軽な希望などないことも、知っていた。それでもここからまた一つずつ積み上げていくしかない。生きるというのはそういうことなのだろう、たぶん。
 私は枕元のライトに手を伸ばした。
 すべての明かりが消えてしまうと、二つの鼓動と体温だけが闇に溶けずに、わずかに残った。

 作品を評論家然として論評することなど、はなからできませんが、彼氏にもまた「おやすみ。熊が来る前に」といわせ、主人公はそれを拒否します。このあたりの感覚(表現)は何を意味するのか、興味深いところです。
 『うまいなあ』と思うのは、「手軽な希望などないことも、知っていた。それでもここからまた一つずつ積み上げていくしかない。生きるというのはそういうことなのだろう、たぶん。」という書き方。とくに「生きるというのはそういうことなのだろう、たぶん。」という、明るさを感じながらも確信が持てないでいる心の動きがよくわかります。
 そしてまた、先に引用した箇所で「なにそれ、と発したそばから闇に溶けていくような声」と表現していながら、最後で「二つの鼓動と体温だけが闇に溶けずに、わずかに残った。」と表現しています。消えていくものは「声」、わずかではあっても残るものは生きているという「証」。読後、思わず「うーん」と唸らずにはおれません。

 ところで、3編とも、やっぱり気にくわないところがあって(苦笑)、それは、3人の女性の相手となる彼氏の言動。読みながら「こんなヤツ好きになるなよ」「付き合うなよ」と思うのですが、なぜか3人の主人公は、最後には彼氏を許し、付き合い続けていくようなところで終わってます。
 ここらあたりの感覚は、おじさんには、もはや理解できない部分なのかもしれません。
 お読みになった方、どんな風にお思いになりますか?

鷲の人、龍の人、桜の人

2007-04-21 13:22:13 | 涜書感想文
 今日読み終えた本。
 キャメル・ヤマモト『鷲の人、龍の人、桜の人-米中日のビジネス行動原理』(集英社新書、2007年2月)
 この本、ある意味、非常に単純です。
 何が単純かといって、キャメル氏(本名は山本成一)は、人間は複雑なので簡単に単純化はできないことを承知の上で、「僕は、日米中の人たちの特徴を際立たせるために、許されないくらいの単純化をしました。」(p.200)と述べています。つまり、鷲の人(米国人)、龍の人(中国人)、そして桜の人(日本人)を「行動文法」という形で表現しています(鷲の人、龍の人、桜の人という表現もわかりやすいですよね。でも猛禽類と伝説上の動物に比べられるのが木というのも何とも弱々しい)。
 キャメル氏は、本書を通して、日本(人)が米国(人)や中国(人)との競争に打ち勝つために、あるいはうまく人間関係を構築するために、米国(人)や中国(人)の「行動文法」を理解する必要があると説いています。そこで、日本(人)を含めた「行動文法」3つを対比して、あれこれ事例を交えながら話を進めていきます。
行動文法
 米国人 基準(スタンダード)の人
 中国人 圏子(チュエンズ)の人
 日本人 場の人
 皆さんにも実際に読んで(笑って)欲しいと思いますので、あまり詳しくは紹介しないつもりですが、この「文法」、言い得て妙だなあと感心しました。
 会計学を勉強すると、会計原則とか会計基準とか、とにかくそういったものに出くわします。そしてこれを理解しなければ先に進めません。日本の会計はどこから来たのかという問題を抜きにしても、1945年以降設定された会計原則や会計基準は、その最初においては、ほとんどが米国から学んだ、といえると思います。基準の人が住む基準の国から、場の人が住む場の国にそれを導入する。多少の(あるいは大幅な)改編が必要になるでしょう、何しろ行動文法が違うのですから。そして今、日本固有の基準を「オレたちに合わせろ」と猛禽類にいわれて立ちすくんでいます(笑)。
 閑話休題。キャメル氏は米国人を「基準(スタンダード)を自由に決めて守らせる-神様のおつもりか?」と述べています(序章1の見出し)。
 一方、中国人の場合は、聞き慣れない言葉「圏子」で表現していますが、日本語的にいえば仲間という意味です。小生も中国(といっても大連だけですが)とかかわるようになって、最初はこの圏子にとまどい、次第に圏子を意識し、最近では圏子を活用するようになっています。キャメル氏の言葉を借りれば「一対一の関係で仲間(圏子)をつくる-あまりに人間的な?」ということになります(序章2の見出し)。
 そう、中国では個人的な人間関係が大きくものをいいます。これがいいのか悪いのか、桜の人がとやかくいう筋合いではないでしょうが、とにかく仲間として認められれば、ことがスムーズに進むことは間違いありません(実感)。逆をいえば、小生が半年ほど大連に滞在することになった時、日本からの荷物について一騒動あったのですが、この時には、小生はどの圏子にも属していなかったわけで、かなり苦労しました。仲間として認められていなかったわけです。
 最後に日本人について、キャメル氏は「働く『場』のいうことをきく-とかくこの世はすみにくい?」と表現しています(序章3見出し)。
 場は「和」に通じます。わかってはいますが、やっぱり場の空気は大事ですし、和を持ってなすという意識が働いてしまいますよね。小生には理解できない部分が多くなってきている最近の学生さんでさえ「場の空気が読めないヤツ」という表現を使っていますので、やっぱり場というものが大切だという「遺伝子」は受け継がれているのでしょう。
 ところで、キャメル氏は、キャッチコピーの名手のようで、面白い表現がちりばめられています。本当はそれぞれに考えさせられる内容で、しかもコピーだけを読んでもなかなか理解できない部分がたくさんありますが、やっぱりうなずいてしまうものもありますので、最後に、それらを紹介します。

三つのお金観(第1章)
 アメリカ人の「カテバリッチ教」
 中国人の「学歴圏金」
  ※学歴圏金は、学習・職歴・圏子・お金の略。
 日本人の「結果金」
三つのキャリア観(第2章)
 アメリカ人の「アップ・オア・アウト」
 中国人の「リスク分散」
 日本人の「職人染色」
三つの組織的仕事観(順番は本書のまま)
 アメリカ人は「分ける人」
 日本人は「合わせる人」
 中国人は「はしょる人」

 くどいようですが、キャメル氏はこれですべてが割り切れると思って書いているわけではありませんので、ご注意を。でも個人的には、最低でも、小生自身には当てはまるなあと思っていたりして・・・。

ググる

2007-04-08 21:21:22 | 涜書感想文
 今年の1月下旬に、NHKスペシャルで「“グーグル革命”の衝撃 あなたの人生を“検索”が変える」という番組が放映されました。これは、ページランクというコンセプトで検索エンジン革命を起こしたGoogleの裏側を紹介した番組で、なかなか興味深い、それでいて空恐ろしさを感じる番組でした。
 Googleに限らず、インターネットで検索することを「ググる」などと表現することが一般化するほど、検索エンジンはGoogleが標準化しています。
 そんな中、もう一つの「裏側」を取りあげた本が出版されました。
 吉本敏洋『グーグル八分とは何か』(九天社、2007年1月)
 グーグル八分という言葉は、吉本氏によれば「グーグルが特定のウェブページを検索結果に表示しないようにすること」(p.256)と定義されます。しかし、この定義のページは本書の一番最後にあり、なかなかたどり着けません。むしろ「まえがき」の書き出しは、非常に刺激的な物言いでスタートします。

「グーグル八分とは、何か? それは、グーグルが行っている『恐怖政治』の別名です。」(p.)

 この本は、自身がグーグル八分になり、検索結果に表示されなくなったサイトを運営している吉本氏が、氏のサイトのみならず、グーグル八分になったサイトについて、関連する出来事を紹介し、なぜそれらのサイトがグーグル八分になったのかを説明しています。
 たとえば、「悪徳商法?マニアックス」(吉本氏のサイト)とGoogleで検索してみてください。その一番上に「グーグル八分対策:悪徳商法?マニアックス」と表示されるでしょう。これは、本当のサイトではなく、グーグル八分されている本当のサイトへの入口のためのページです。そして、その検索結果を示すページの下には、「 Google 宛に送られた法律に関するリクエストに応じて、検索結果のうち 1 件を削除しました。必要に応じて、ChillingEffects.org で削除が発生したことに至った苦情を確認できます。」というイタリック文字が表示されています。吉本氏によれば、このように表示されるようになったのは最近とのことですが、検索をして、その結果のページに、「Google 宛に送られた法律に関するリクエスト」云々が表示されていれば、そのサイトがグーグル八分されている可能性が極めて高いと述べています。
 本を読み進めると、グーグル八分されるサイト(ページ)は、検索されると不都合であるという者が、Googleに削除依頼をし、Googleがそれを受け入れることによって行われることがわかります。
 問題として指摘されていることは、広く一般に対して警鐘を鳴らす内容(吉本氏のサイトのような)であっても、そのサイトに記述された企業(個人)が不都合を感じている場合、その企業(個人)の依頼に応じてGoogleは検索結果から削除し、削除依頼があったことはサイト管理者には一切知らされないばかりか、その内容の真実性についてサイト管理者の意見を表明する機会が与えられていないということです。
 Google自体が民間企業であることを考えれば、その企業(Google)がどのような行動を取ろうともそれほど問題視することはないでしょう(この点は吉本氏自身も肯定しています)。先に紹介したNスペでも取りあげられていましたが、昨年初頭にGoogleが中国進出を狙って、検索結果について中国政府の検閲を受け入れる決定をしたのも、ことの善し悪しは別にして、民間企業である証でしょう。しかし検索エンジンとしてGoogleが「独占状態」になっている点で(ライブドアやGooもGoogle検索エンジンを使っている)、グーグル八分の影響は大きいというのが吉本氏の主張です。
 感想をいえば、本書でグーグル八分されたサイトに記載された企業(個人)は、見方によれば「ちょっと怪しい」と思われるもので、グーグル八分ということ以上に、それらの企業(個人)の情報を得ただけでも読んだ甲斐があったと思わせてくれます。
 
 注意すべき点は、Googleをはじめとする検索エンジンで得られる情報がすべてではない、ということを理解することでしょう。最近、小生の同業者の間で話題になることの一つに、学生さんのリポートの内容に関するものがあります。「ほとんどが、あるサイトの丸写し」である場合が、決して少なくありません。出典(引用サイト)が示されているならまだしも(丸写しであることが発覚するので引用サイトを記載することはできないでしょうが)、引用文をそのまま自分が書いたようにしてしまうケース。そして悲しいことに、引用先が個人のサイトで、内容が間違っていても鵜呑みにしてしまうケース。これを読んでいる学生さんの中には、心当たりの方、いませんか?(苦笑)
 インターネットで情報を検索することが悪いといっているのではありません。
 インターネットで得られる情報だけが情報のすべてではないことを理解すべきであるということです。
 本書で、吉本氏は、(社)日本図書館協会「図書館の自由委員会」副委員長にインタビューをしています。そのインタビューの中で、副委員長が語った、次の言葉は、当たり前のことを当たり前に話していますが、非常に意味深い内容です。

「やはりネットだけやっていたらダメになります。いろいろ組み合わせて、その一つとしてネットがあるという形にしないとダメです。本なり新聞なり、アナログなものと組み合わせたらよい結果に繋がると思います。ネットにしろアナログにしろ、どちらか一方が絶対なのではなく、所詮は道具、ツールとして両方使えばいい、両方使うことで出てくる、おもしろさや怖さというものがあると思います。」(pp.221-222)

ハゲタカ

2007-04-01 08:47:15 | 涜書感想文
 2月はじめから3月半ばまで、6回にわたりNHKで放映された土曜ドラマ『ハゲタカ』。ご覧になった方もたくさんいると思います。
 この放映と合わせて書店に並んだ原作。真山仁著『ハゲタカ(上)・(下)』(講談社文庫、2006年3月)。そして最初は『バイアウト』というタイトルで出版された『ハゲタカⅡ(上)・(下)』(講談社文庫、2007年3月)。
 結論からいえば、ドラマと原作では、まったく内容が違っているという印象です。これはドラマが良くないというわけではなく、ドラマはドラマとして、原作は原作として楽しめるという意味です。もっとも、原作を読んでいるとドラマで主役たちを演じた役者さんの顔が浮かんできて、とくに『ハゲタカⅡ』の方では、チト、イメージが違ってきたかなと思いましたが。
 『ハゲタカ』では1989年12月から2004年3月まで、『ハゲタカⅡ』では2004年12月から2006年12月までが対象になっています。いうまでもなく前者は、いわゆる失われた10年を含んでいますし、後者は、粉飾決算に揺れる老舗企業の「倒産」が日本を驚かせた時代です。
 この小説では、外資ファンドの日本法人代表として鷲津政彦(ゴールデンイーグルと異名を取る。ドラマでは大森南朋-おおもり・なお-が演じています)、名門銀行を辞め、のちに再建が必要な企業のCRO(Chief Restructuring Officer:最高事業再構築責任者)として活躍する柴野建夫(ドラマでは柴田恭兵が演じてます)、そして柴野が辞めた銀行の頭取にまでなり、やがては政府の企業再生機構の総裁になる飯島亮介(中尾彬が演じてます)という、3人を中心にして、複数の企業事案が同時進行的に取り扱われています。
 鷲津は、当初、外資ファンドを利用して「日本をバイアウトする」と、非常な行動で企業を買いまくります。しかしその本意は、日本を破壊することではなく、日本の文化や伝統をあっさりと捨て去る日本人の意識を変えようというところにありました。

「悪いか? 金には色も国も、そして民族もない、ただの金だ。それをどう使うかは、使う人間が決める。持っている人間は、期待した利回りがあれば何の文句も言わないだろ。世界中の金を使って、この愚かな国に思い知らせてやるのさ。本当の再生とは何かをな。」(『ハゲタカ(下)』p.317)

 金には色がない、というフレーズは、かつて紹介したマネー・ロンダリングの本の中でも使われていました。それはさておき、「本当の再生とは何か」という問いかけは、本書を通じて考えさせられるテーマです。ハゲタカは悪(ワル)といいながら、最終的には保身のために改革も再生もできない経営者たち。それを知りつつ利益を確保しようとする銀行(銀行自体の保身は、ドラマでもバルクセールの場面で描かれています)。こういった組織とそこに所属する人間の行動がわかりやすく描かれています。
 さて、『ハゲタカⅡ』では、2件の大型企業買収が扱われます。一つは鈴紡(カネボウかな、やっぱり)と月華(花王かしらん)との買収劇、曙電機(日立とNECの合作?)とシャイン(キャノン?)の買収劇です。
 ここでは、ドラマとは違って、日米両政府を巻き込んでダイナミックな展開で物語が進みます。
 物語の最後に、著者は柴野に次のように述懐させます。

「二十一世紀という激動の時代に突入し、伝統も名門というブランドも何の役にも立たないことを証明する皮肉な役回りを、両社(鈴紡と曙電機-引用者注)は担ってしまう。彼らの成功モデルだった多角化は否定され、運命共同体の名の下で構築された組織は馴れ合いと官僚的な事なかれ主義を生み、やがて責任の所在が不明確な無責任体質への腐敗していった。」(『ハゲタカⅡ(下)』p.426)

 口では改革を叫んでいても、最終的には伝統と名門ということが改革の芽を摘んでしまい、自らではどうしようもないカオスの中に入り込んでしまう。その結果としての無責任な意思決定と行動。そして保身。そこに隙が生まれ、外部からの買収の標的になってしまいます。
 『ハゲタカ』では悪(ワル)に徹していたかのような鷲津は、『ハゲタカⅡ』では柴野と協力して別の外資ファンドによる曙電機の買収を阻止しようとします(ドラマでも急転直下協力する関係になって終わりました)。結構、ハードボイルド的です。
 『ハゲタカⅡ』を読みながら、『まだ解決されていない問題があるよなぁ』と思っていましたら、一番最後に「...to be continued」。物語はまだ続くようです。
 先にも触れましたが、読みながらドラマの役者さんの顔が浮かんで、中でも一方の悪(ワル)として描かれた飯島をドラマで演じた中尾彬は、飯島そのものでした。(苦笑)
 この本は、ぜひ学生さんたちやバブルを経験していない若い人たちに読んで欲しいなと思いました。

 さて、この物語では、買収にからむたくさんの用語が出てきます。先に書いたバルクセール、バイアウトを始め、MBO、LBO、TOB、ゴールデン・パラシュート、ホワイト・ナイトなどなど。MBOやTOBは最近の新聞でよくお目にかかりますし、ホワイト・ナイトは、フジテレビとライブドアの一件でSBIがフジのホワイト・ナイトとして登場していましたのでご記憶の方もいるでしょう。
 突然、こういった用語が一般にも使われ出しましたが、思い起こせば、今を去ること20年前、『ウォール街』という小説が出版され(映画にもなりました)、米国企業同士の合併が描かれておりました。その中で上記の買収がらみの用語が使われておりましたので、20年の時を経て、その行為を含めて日本に定着したといえるのかもしれません。

学歴汚染

2007-03-04 19:40:00 | 涜書感想文
 いつの頃からか読むようになった小島先生(静岡県立大学)のブログ
 そのブログで、これまでの経過をまとめて単行本として出版するという告知があり、早速注文して読みました。
 小島茂著『学歴汚染~日本型学位商法(ディプロマミル)の衝撃~』(2007年1月、展望社)
 表紙からして毒々しいのですが(装幀も小島先生)、内容も「ヤバイよな」と思われる内容でした。
 この本は、小島先生がかかわってきたディプロマミルとのやりとりを、2004年6月25日から2006年12月21日まで、時系列的にまとめたものです。すでにブログや関連するホームページでだいたいの流れは知っていたのですが、こうして改めて読んでみると、いかにディプロマミルに騙されやすいかが透けて見えてきます。
 実は、大学教員になりたての頃、一冊の本を読みました。
 喜多村和之著『大学淘汰の時代-消費社会の高等教育』(1990年3月、中公新書)
 喜多村先生は高等教育論で有名な方で、15年以上も前に「大学は淘汰される」ということを主張していた方です。その本の中に「ディプロマミル」という言葉があり、それ以来、ディプロマミルという言葉が忘れられませんでした。
 ディプロマミル(Diploma Mills)。Diplomaは学位(卒業証書)、Millは工場ですので、学位工場ということになります。喜多村先生の本を読み返してみると、喜多村先生はディプロマミルを「ニセ学位販売業」と表現しています。一方、小島先生の方は、「学位商法」と表現しています。
 両先生の表現からわかるように、大学の名をかたり、学位(卒業証書)を法外な金額で売りさばく「商売」(会社)がディプロマミルというわけです(ディプロマミル以外にディグリーミルともいわれます)。
 喜多村先生の本では、「アメリカにはディプロマミルがある」ということで、アメリカの実情を紹介した内容でしたが、小島先生の本では、ディプロマミルの日本校とのメールや書簡でのやりとり、ディプロマミルに騙された被害者の言葉など、日本におけるディプロマミルの実態を採り上げています。
 日本に住む我々にとって、どうしてディプロマミルのような会社が成立するのかというのが疑問として上がります。
 これを小島先生は次のように説明しています。

 文科省が大学設置の認可を一括管理している日本と違い、アメリカでは、正式に大学を設置するには、原則的に、州の設置認可を受け、かつ、高等教育基準認定協議会(CHEA=Council for Higher Education Accreditaion)や教育省(Department of Education)から公認された民間認定団体からアクレディテーションという基準に認定を受けなければならない。アクレディットされていない、つまり、正式な大学とは認定されていない大学のことを「非認定校」(Unaccredited school)と呼び、オレゴン州をはじめいくつかの州は、一部の例外を除き、こうした大学の学位の売買や利用を法的に禁じている。(小島、p.13)

 アメリカでは、大学として設置しても(名乗っても)、まず州の認可を受け、次に認定団体から認定されない(認定基準を満たしていない)場合、正式な大学(日本でいう文科省管轄の大学)とは見なさないというわけです。裏を返せば、アクレディテーションを受けなくても、大学を名乗ることができるともいえるわけです(州の認可の有無にかかわらない)。
 もっとも、小島先生も指摘していますが、アクレディテーションを受けていない大学(非認定大学)すべてがディプロマミルというわけではありません(認定を待っている大学もあります)。しかし、アクレディテーションを受けていない大学は、その時点ではディプロマミルと見なされる可能性があることも事実です。
 
 さて、先にも書きましたが、喜多村先生が上梓した時代と小島先生のこの本との決定的な違いは、ディプロマミルの被害が対岸の火事ではなく、日本で現実に起こるようになったということです。そのもっとも大きな要因は、インターネットの普及とe-Learningです。
 本書で採り上げられている(実際に闘った)ディプロマミル日本校とのやりとりの中で、小島先生は次のように書いています(先方への手紙の一部)。

 私も、自分のホームページにも書いてあるように、インターネットによる通信教育(eラーニング)の普及を時代の流れとしてとらえています。同時に、問題は、ディプロマ・ミルや非認定大学がそれを悪用することであると、主張しています。

 インターネットが普及したことにより、アメリカの大学の情報が手に入れやすくなったわけですが、これは、ディプロマミルから見れば、日本人向けに売り込みやすくなったことを意味します。またもてはやされるように出てきたe-Learningという言葉を巧みに利用して、ネット上で勉強できて学位が取得できる、しかも日本語でOKというように、日本人に直接的に売り込めるような環境になったというわけです。
 本書では、ディプロマミルの被害者の話もたくさん出ていますが、心が不安定な状態だった、あるいは、競争相手に負けないようにキャリアアップをしたかったというような要因が吐露されています。
 小島先生のこれまでの警告が実ったのでしょうか、国会で、伊吹文部科学大臣は、大学教員採用時のディプロマミルの使用を調査すると述べました。すでにディプロマミルは、大学教員になりたい人あるいは現役の大学教員にも入り込んでいることを裏付けています。小島先生がディプロマミルを追跡するようになったキッカケの一つが、まさに同僚がディプロマミルからPh.Dを買ったことにあったと述べています(エピローグ、p.217)。
 制度の違いに発する問題とはいえ、今後もじわじわと浸透しそうな詐欺がディプロマミルといえるでしょう。

追記
 本書にも紹介されているサイト「健康本の世界」(khon)は、その名前から想像も付かない内容のホームページです。この中の「大学」には、非認定(含非認可)大学が紹介されています。それとともに、その大学から学位(博士号)を取得したと自らの履歴で紹介している方々(有名人もいる)の名前も紹介されています。

アグネス・ラムのいた時代

2007-02-27 22:55:44 | 涜書感想文
 生協で図書コーナーを冷やかしていると、新書コーナーにまぶしい表紙の本がありました。(笑)
 その本は、『アグネス・ラムのいた時代』(長友健二+長田美穂、中公新書ラクレ、2007年2月)
 後書きを読むと、雑誌『読売ウィークリー』に連載されていた記事を再構成して一冊の本にしたもののようです。基本的には長友健二氏の思い出話がメインで、その思い出話を補足する文章を書き加えたのが長田美穂氏。
 この本を読むまで長友健二氏がいかなる人物か知りませんでしたが、長友氏は有名な写真家でした(2006年にお亡くなりになっています)。
 長友氏は自らを「婦人科カメラマン」と称していたようで、男性俳優や歌手も撮影しているものの、女優や女性歌手、タレントを数多く撮影しています。その中の一人がアグネス・ラムで、時代を象徴するタレントとして述懐されています。
 本書では、象徴する年代を次のように取りあげています(記載順)。

 1975年4月~1976年9月 アグネスブーム
 1971年4月~1972年8月 ヌードグラビアと日活ロマンポルノ
 1960年3月~1961年8月 映画スター(赤木圭一郎・石原裕次郎)
 1973年1月~1974年12月 ナベプロ絶頂期(天地真理・アグネスチャン)
 1977年9月~1980年5月 フォークソングとキャンディーズ

 赤木圭一郎・石原裕次郎が活躍した時代は知りませんが、そのほかは、小生の青春時代と重なっていて非常に興味深く読みました。そういえば、裏表紙にこんなことが書いてあります。「『青春』という言葉がまだ恥ずかしくなかった1970~80年代」。
たしかに現在は、青春という言葉はあまり目にしませんね。
 この本、書いてある内容も裏話的側面ばかりで、芸能野次馬として読んでも面白いのですが、長友氏がカメラマンということもあって、被写体から掲載許可が下りた当時の写真が何枚か掲載されていて、これだけでも楽しめます。
 不思議なもので、その写真(雑誌の表紙やグラビア)をリアルタイムで見ていたかどうか忘れてしまっているのですが、『あぁ、こんな感じだったよなぁ』と思ってしまいます。つまりはその写真の、そのポーズを記憶の中に刻んでいるような感覚になります。ということは、やっぱり長友氏の写真を見ていたのでしょうかね。
 1970年代から1980年代のアイドルって、万人受けする顔が求められていたんですね。そして本の時代区分にもあるように、そのブームは2年ほどと、息の長いアイドルは少なかったようです。
 思えば、小生自身もその時々で好みのアイドルが変わって行ったような(ミーハーだったので)・・・。