今日、「御巣鷹の尾根」の登山道が29日、冬の閉鎖期間が終わり、
慰霊登山が解禁となったようです。
今年は8月で1985年の事故から30年になるそうです。
事故機にたまたま乗り合わせてしまった人達は、そのような運命だったのでしょうか?
一年くらい前にmisaさんのブログの中に日航機墜落事故の真相という
タイトルのブログを見つけ読んでみてその内容にびっくりしました。
世の中、報道されている事と真相が違うこともあるようです。
以下、misaさんのブログの抜粋転載です。
日航機123便の墜落事故は、戦後の日本最大の捏造事件であり、全ては闇の中に葬り去られてしまいました。
マスコミは決して報道しませんが、123便は、ミサイルにより垂直尾翼を失いダッチロールに陥ったのです。
座席最後部から5番目に座っていた小川哲氏はオレンジ色の飛行物体が接近して来るのを撮影していました。
ミサイルではないかと疑惑が持たれたのは、ボイスレコーダーを分析したり、、遺品の写真から、パイロットや乗客が、謎の飛行物体を目撃している事が分かったからでした。
衝撃後7秒後に、もう「スコーク77(国際緊急無線信号)」を発信している事からも、機長は衝突を事前に分かっていた事がうかがえます。
「スコーク77」は、飛行機が他から攻撃されたような時にだけ、発信するものだそうです。
これは、エマージェンシー・コールと違って、民間機が何かの攻撃の対象にされたとし、自衛隊機がスクランブル発進をして、その飛行機を誘導し保護すると言う決まりがあるようです。
(中略)
事故の徹底的な隠ぺいの裏には、一体何が潜んでいるのでしょうか。
一番の理由は、アメリカがプラザ合意をさせるために仕組んだものだとみる事ができます。
さらに、123便を選んだのは、プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名と、松下トロンOSの技術者17人、また、当時の日本を代表する脳神経学者の一人である塚原仲晃氏の命を狙ったとの憶測もされています。
プラザ合意の目的は日本経済の解体にありました。
日本をバブルで巨大化させた後に大爆発させる計画でした。
しかし、日本がなかなかプラザ合意に同意しなかったため、脅しの為に123便は撃墜されたとみられているのです。
しかし、事故調査にあたっていた前橋地検の山口悠介検事正が「事故原因をぎりぎりまで追究すれば、戦争になる。」と言っているように、真実は決して表には出せないようです。
無念です。犠牲になった方々がこれでは浮かばれません。
これが私たちの生きる世の中の真実なのです。
他に民間人として一番最初に現場に踏み込んだM氏の証言があります。
これもmisaさんのブログにありました。
この証言からわかることを箇条書きにしてありました。
・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に
自衛隊員が既に100名程度来ていた
・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた
・4~50名の生存者の声が聴こえた
・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった
というものです。
全てを知っているのは、一握りの人なのでしょうね。