礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

世にいう「本願ぼこり」と吉本の「関係の絶対性」

2013-07-26 05:26:39 | 日記

◎世にいう「本願ぼこり」と吉本の「関係の絶対性」

 もう少し、「関係の絶対性」と『歎異抄』との関係についての話を続ける。
 親鸞の存命中、悪人こそが往生できるという、いわゆる「悪人正機説」〈アクニンショウキセツ〉を知った者のなかには、極楽往生を望むあまり、わざと悪いことをするものがあらわれたらしい。
 これは、当然、予想された事態であったと思う。当時、そうした「本願をほこって悪をおそれない者」を非難する「本願ぼこり」という言葉が使われたらしい。
『歎異抄』第十三条のテーマは、その「本願ぼこり」である。同条は、『歎異抄』の中でも、特に難解なところであるが、その趣旨を一言でいえばこうなる。「本願ぼこり」を非難できるような人はいない、アミダ信仰の本質は、「本願ぼこり」にある。――あまりに大胆な主張であるが、何度読みなおしても、そういう解釈になるのである。
 さて、親鸞は、極楽往生を望むあまり、わざと悪いことをする人々に対し、「くすりあればとて毒をこのむべからず」(毒を消す薬があるからといって、わざわざ毒を飲む必要はない)とたしなめているが(同条第三節)、かといって、彼らのことを「本願ぼこり」という言葉で非難することはしなかった。むしろ、「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり」(本願にほこってつくった罪にしても、やはり宿業によるものなのだ)と言ってのけたのである(同条第四節)。
「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり」。これは、恐ろしい言葉であり思想である。人間が故意に(主体的に)おこなった行為も、その当人の主体性を超えたものによって規定されているという考え方である。
 吉本隆明が「マチウ書試論」の最後に示した「関係の絶対性」という考え方は、こうした親鸞の考え方とパラレルなものだと思う。吉本の文章を再度、引用する。

 マチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を抽き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意思がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性の前では、相対的なものにすぎない。

 これを『歎異抄』第十三条の考え方にもとづいて言い換えてみよう。

『歎異抄』第十三条が提出していることから、強いて現代的な意味を抽き出してみると、「つみ」というものは、人間の意志にかかわりなく、「宿業」がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意思がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、「宿業」が強いる絶対性の前では、相対的なものにすぎない。

 先日来、「宿業」という言葉を、注釈なしに使ってきたが、前世〈ゼンセ〉における善悪の行為という意味である。梅原真隆は、角川文庫の現代語訳の中で、この言葉を「宿世〈サキノヨ〉の業縁」とホンヤクしている。【この話、続く】

今日の名言 2013・7・26

◎くすりあればとて毒をこのむべからず

 親鸞の言葉。『歎異抄』第十三条第三節に出てくる。毒を消す薬があるからといって、わざわざ毒を飲む必要はない。上記コラム参照。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 吉本隆明「関係の絶対性」と... | トップ | 吉本隆明の壺井繁治批判をめ... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ( 金子)
2013-07-29 22:35:08
 一神教的な考えでは、やはりスピノザ的な「そうなるべく
してなる。」という予定調和的な考え方になると思います。ましてや、個人の自由意志に置いてさえも神が自分が自由意志によってそのように選択することに既に決定しているという考え方になります。

平田篤胤も死ぬ前に、「一切は神の心であろうでござる」と言ったそうです。
返信する

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事