◎陛下御自からラヂオに依り御放送に相成り……
極東軍事裁判研究会編『木戸日記――木戸被告人宣誓供述書全文――』(平和書房、一九四七年一一月)に拠って、七十六年前の今ごろを振り返っている。本日は、その三回目。
三〇四 陛下終戦の詔勅放送を御決定 昭和二十年八月十日には長崎市に第二回目の原子爆弾が投下せられ多数の被害者を出すに至りました。九日ソ連の参戦と相俟つて国民に異常の衝撃を与へたので太平洋戦争の終結を中心に和戦双方の論議策動は頓に〈トミニ〉活潑となつて来ました。私は此情況を見て此際は是が非でも戦争を終結せねばならぬと更に決意を新にしたのでありましたが、扨て〈サテ〉之が実現となると猶幾多の難関が予想せられるので、此異常なる事態に鑑み〈カンガミ〉私は之を乗り切る為めには終戦の御詔勅を陛下御自から〈オンミズカラ〉ラヂオに依り御放送に相成り、直接国民に御示〈オシメシ〉に相成外ない〈アイナルホカナイ〉と考へたのでありました。私は〔八月一一日〕石渡〔荘太郎〕宮相を訪ねて相談した処、宮相も賛成されました。早速私は午後三時五十五分に拝謁して以上の事情を申上げて御願した所、陛下は何時でも実行被遊る〈アソバサレル〉との有難い思召〈オボシメシ〉を承つたのでありまして、此処に私の決心を実行し得ることになつたのでありました。
三〇五 回答待機中の焦慮 午後五時に私は再び宮相を訪ねて思召を伝へ、其準備の打合せをしました。昭和二十年八月十一日には未だ連合国からの回答は来らず、焦燥の気持の中に過ぎたのでありましたが、此間徳川義親〈ヨシチカ〉侯よりは手紙を以つて此際は錦旗革命に依る外は国を救ふ途はないと云ふ意見も申越されました。同日附私の日記は次の如く記してあります。
昭和二十年八月十一日
「午前九時染井ニ墓参シタル後出勤。九時五十五分ヨリ十時十分迄御文庫ニテ拝謁。十一時東郷〔茂徳〕外相参内面談。十一時四十五分佐治謙譲氏、徳川義親ノ手紙ヲ持参ス。錦旗革命云々ナリ。
正午鈴木〔貫太郎〕首相来室面談。其後ノ経過ヲ聴ク。十二時半下村〔宏〕国務大臣来室面談。
一時三十五分ヨリ二時半迄御文庫ニテ拝謁。二時半安倍〔源基〕内相来室面談。三時石渡宮相ヲ居室ニ訪ヒ(おとない)、ラヂオニテ御放送被遊テハ如何トノ意見ニツキ懇談ス。三時五十五分ヨリ四時五十分迄拝謁ラヂオノ件其他ヲ言上ス。五時宮相ヲ訪ヒ、ラヂオ放送ニ対スル聖上ノ思召ハ何時ニテモ実行スベシトノ御考へナル旨ヲ伝フ。
尚皇太后陛下軽井沢行ニツイテ情勢ノ変化ニ伴ヒ如何ニスベキヤトノ御下問アリ。右ヲ宮相ニ伝フ。五時町村〔金五〕警視総監来室、世間ノ情況ヲ聴ク。六時鈴木首相来室面談。」【以下、次回】
若干、注釈する。徳川義親(よしちか)は、貴族院議員・侯爵(一八八六~一九七六)。五・一五事件、二・二六事件等に関与したことで知られる。その徳川義親の手紙を持参した佐治謙譲(さじ・けんじょう)は、憲法学者(一九〇〇~一九五四)。
下村宏(一八七五~一九五七)は、国務大臣・情報局総裁、号は海南。たぶん彼は、終戦の詔勅放送についての打合せのために、やってきたのであろう。
ところで、徳川義親の手紙にあった「錦旗革命」という言葉だが、敗戦を目前にしたこの時期に、この言葉を使うとすれば、「軍部」から政治の実権を奪い返し、天皇親政を実現するといった意味以外には考えにくい。それにしても、かつて徳川「軍事」政権を担っていた徳川家の後裔から、「錦旗革命」なる言葉が発せられるとは!
今日の名言 2021・8・10
◎東京ではクマゼミは珍らしい
動物学者・高島春雄(1907~1962)の言葉。2019年8月10日の当ブログ参照。なお私は、昨日(2021・8・9)の朝6時、今年初めて、クマゼミの声を聞いた。
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