礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鳥尾は矢張り物の分るやつだ(伊藤博文)

2023-02-12 00:13:10 | コラムと名言

◎鳥尾は矢張り物の分るやつだ(伊藤博文)

 清水伸の「金子堅太郎伯に維新をきく」の紹介に戻る。今月二日以来、『維新と革新』(千歳書房、一九四二年四月)から、「金子堅太郎伯に維新をきく」の章を紹介してきた。本日は、その九回目。

      伊藤博文に乾児の少いわけ 
 これと関連しておかしな話があります。中田敬義〈ナカタ・タカノリ〉といふ支那語の董通詞のことである。支那にある日本公使館では大抵中田が通弁してゐた。中田は支那のことは大分知ったからヨーロッパの外交を研究したいといふので、丁度口ンドンで書記官の席が空いてゐるから五六年英国で研究することになつて、意気揚々と支那から帰つて来た。そして伊藤さんの通弁もしたことがあるので伊藤さんの宅を訪問して、これから英国へ行つて外交を研究したいと思ひ今日はお暇乞ひ〈オイトマゴイ〉に参上したと申上げると、伊藤さんは「なにイギリスへ行くつて? 貴様は支那の董通詞で沢山だ」といふ。中田はむつとして帰つてしまつた。中田がイギリスにゐる時に私は憲法取調のため渡英したのですが、或る日中田は「君の親分の伊藤といふ奴はひどい人だ、俺が北京にゐる時は通弁してやつたのに、イギリスへ来るについては井上さんが骨を折つてくれたんだが、伊藤は支那の董通詞で沢山だイギリス行きはやめてしまへと言つた、実に傲慢不遜な奴だ、再び伊藤の家の閾【しきゐ】は跨がぬ決心だ、あんな親分なんか駄目だ」といふ。「君は伊藤さんといふ人を知らぬからさう思ふのだ、君が間違つてゐる、董通詞で一生を終れといはれた時何故喰つて掛つてヨーロッパ行きの必耍を議論しなかつたか、伊藤さんはあんな男は三文の値打ちもないと笑つてゐるだらう、実は俺もさうしていぢめられたんだ」と私の言葉を聞いて中田は「成程君の言ふ通りだ、俺が悪かつた、出会頭〈デアイガシラ〉にあんなことを言はれたんでむつとしたが……」といつて中田はロンドンから帰つてからは伊藤公を崇拝する人になり、今度伊藤公伝を書いた時も中田がカバーしてくれました。伊藤さんが初会で以て傲慢不遜な男と人から誤解され易かつたのはさういふ点からで、そこが伊藤さんに乾児〈コブン〉の少ないわけでもある。その点になると山県〔有朋〕・松方〔正義〕は違ふ。どんな書生の意見でも一々お尤もです、と感服しました。よく考へて置きませう、と丁寧に扱ふ。そこが山県・松方に乾児の多いわけでありませう。本当の伊藤の乾児といへば井上〔毅〕・伊東〔巳代治〕と私位のものでせう。
 
      鳥尾小彌太の伊藤博文観
 伊藤さんは大局に通じてゐた。面白い話がある。山口の人で子供の時は伊藤さんより一つ二つ年下で始終タコ上げなんかして遊んだ間柄で、鳥尾小彌太〈トリオ・コヤタ〉といひ、後に陸軍中将にまでなり貴族院の議員となつた。丁度伊藤さんが議長であつたので議会のとき発言を求めて「議長」と呼んでも発言を許さない。あとから議長といつた者に発言を許すので、彼は伊藤といふ奴はひどい男だ、俺が何べん議長といつても発言を許さない、あれは議長の資格がない、俺は辞表を出すといつてこれをつき出した。伊藤さんはそれを聞いて、さうかあれは駄弁ばかり揮つて仕様がない、やめれば却つていといふのです。
 ところが暫くすると鳥尾が私のところへ来て今日は折入つて頼みたいことがある、伊藤さんに紹介してくれといふのです。君は伊藤さんとは子供の時から弟分ではなかつたか、紹介してくれとはおかしいぢやないかと私がいふと、いや辞表の問題以来六ケ月ばかり会つてをらぬのだ。ぢかに会ふのもおかしいから君が紹介してくれといふわけです。どうしてまた会ひたくなつたのかと聞くと、鳥尾はなかなか譬〈タトエ〉のうまい男でかういふのです。――この国難に当つてはどうも伊藤でないといかぬ。今の日本はかうだ、山県谷といつて山県が山にゐてその乾児がその谷に集つてゐる。その隣りには黒田谷といって黒田〔清隆〕が大将になつて乾児が集つてゐる。その又隣りは井上谷といって井上〔馨〕が餓鬼大将となつて乾児が集つてゐる。そのほかまた松方谷があつて松方の乾児が集つてゐる。ところが伊藤はどうかといふと、それらの谷を睥睨〈ヘイゲイ〉して遥か上の所にゐて、山県があんなことを言つてゐるとか、井上谷ではあんなことで騒いでゐるとか、それらの谷を眼下に眺めてゐる。その頂上に伊藤がゐて国のことはちやんと決めて行く。矢張り伊藤でないといかぬ。――といふのです。伊藤さんの所へ行つて私がその谷の話をしますと、伊藤さんは頗る上機嫌で、「鳥尾がさう言つたかい、あれは矢張り物の分るやつだ、すぐ連れて来い」といふわけで、午後三時頃鳥尾が参上したのです。そして夜の十時ころまで談笑したといふことです。翌朝鳥尾が私の所へ来て、昨夜は伊藤とおめず臆せず語り合つて溜飲が下つた、再び元通り交際するやうになつたと語りました。この鳥尾の谷の譬は伊藤公を評し得て余りあると思ひます。
○清水 それは何時ごろのお話ですか、国難と申しますのは。……
○金子伯 日露戦争前だったと思ひます。【以下、次回】

 最初のほうに「董通詞」という言葉が出てくるが、「とうつうじ」と読むのだろうか。調べたが、よくわからなかった。博雅のご教示を乞う。なお、「唐通事」(とうつうじ)という言葉があって、これは江戸時代に長崎・琉球などに置かれた中国語通訳を指すという。
 鳥尾小彌太(一八四八~一九〇五)の名前が出てくる。ウィキペディア「鳥尾小弥太」の項を見ると、「弘化4年12月5日(1848年1月10日)、萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。」とある。ここに、「長州藩士(御蔵元付中間)」とあるのは正しくない。「中間(ちゅうげん)」は、長州藩においては、「軽輩」に属し、「士分」(藩士)ではなかったからである。なお、伊藤博文は、長州藩の百姓の出身だったが、父親が「中間株」を買ったので、「中間」の身分となった。

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