礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

予も初号より愛読者の一人となるべし(江藤新平)

2018-09-20 04:11:11 | コラムと名言

◎予も初号より愛読者の一人となるべし(江藤新平)

 古典社編『書物語辞典』(古典社、一九三六)から、「しんぶんし」という項を紹介している。本日は、その三回目(最後)。條野伝平(採菊散人)が『文芸俱楽部』第二巻第九篇(一八九六)に寄せた「新聞紙」という文章の後半。前回、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。

散人〔條野伝平〕は扨こそ〈サテコソ〉と思ひ細君に如々〈シカジカ〉と告げ所詮二三日は御帰り有まじ其上言ば〈イワバ〉敵の手に捕れた〈トラワレタ〉のも同様なれば御知己の方々に御相談遊ばされよ己〈オノレ〉も及ぶ丈け奔走仕つらん〈ツカマツラン〉と早速開成所教授方柳川春三氏を訪ひて事の次第を述べ勝誇りたる官軍の事なれば万一手暴〈テアラ〉の所業抔あらば天下の才子をむざむざ失ふ事残念なり御工夫は無らんかと相談せしかど捗々しき〈ハカバカシキ〉答へも無かりしかば駿河台の甲賀町に居られし川勝丹波守〔広運〕を訪ひて〈オトナイテ〉前同様の事を語りたるに及ぶ限りの救助策を講ずべしと諾はれ〈ウベナワレ〉たれど尚外国方組頭たりし杉浦愛造氏(後に内務大書記官にて歿故せり)に謀りたるに氏は大に驚かれ百方尽力せられたり然るに居士〔福地桜痴〕が糾問局に留め置れし事十日ばかりにして悉く申開き相立て放免となりしが此事より新聞刊行制禁の旨を告示せられ特に太政官日誌を発行せられ北畠茂兵衛山中市兵衛の出板に係れり。其後明治三年と覚へたり細川潤次郎先生の建議に出たるとか聞しが新聞紙発行を差許され山口県の士族関篤輔と云ふ人が両国薬研堀に於て新聞雑誌と号する半紙本の雑誌を発行ありしに続いて横浜に於て横浜毎日新聞の発行あり、是は日刊にして西洋紙に活字を用ひて印刷を為せる始めなりし。其後明治五年二月廿一日採菊〔條野伝平〕等准允〈ジュンイン〉を蒙りて東京日々新聞を発行せり、支那製の活字を用ひしかど紙は清帳と唱ふる日本紙を用ひ一ケ月弐拾銭一枚一銭五厘本局は浅草森田町代地なる採菊の自宅なりしが初号を発刊せし其夕方散人が茅屋の戸外へ美麗なり馬車の駐りければ社員等不審く見てあるに一人の官人馬車より下り、日々新聞の持主に面会致度とありければ散人出て面会せしに官人の曰く今日太政官に於て日々新聞の初号を一見せり其に付き卿等に一言申度き事ありて推参せり今日日刊の新聞を発兌〈ハツダ〉せらるゝは好き目的なり然れども民度はいまだ新聞の必用を感ずる迄に至るは四五年の後ならん夫れは極めて得失償ふまじけれど勉めて之に耐えなば政府は進んで文明の政略を採るゝ方針なれば必らず盛大の事業に至らん。予も初号より愛読者の一人となるべし予が宅は麹町なれば態々の配達は迷惑なるべけれど道すがらに読者の殖る様執持得せんと懇得なる説諭の末筆を採りて住所姓名を記さるゝを見れば麹町十丁目左院副議長江藤新平とありたりき』。

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