◎このとき、加賀山副総裁も三越の地下にいた
月刊誌『真相』の第61号(1954年3月)から、「『下山事件』他殺白書」という記事を紹介している。本日は、その九回目。
加賀山とシャグノン
そのためにCTS〔Civil Transportation Section〕から矢の催促があっても 首切りをなるべく先にのばそうと苦心していた。
しかし、このような下山総裁の苦心を汲むものは、国鉄内部でさえあまりいなかった。いや、むしろ、下山の意図に反してというより、アメリカ側の意図に迎合して、下山の立場をかえって悪<するような動きをする国鉄幹部が大部分だったことである。
たとえば、当時国鉄労組側の立役者で下山との団体交渉に当っていた共産党員鈴木市蔵〈イチゾウ〉副委員長は「下山総裁は交渉する気はないことはないらしいが、とり巻きが決裂にもって行こうとあせっている」と新聞記者にもらしている。事実、団体交渉が決裂したその日も、加賀山副総裁の参謀役の牛島〔辰弥〕職員局長は交渉の席上「打切れ」と書いた紙片を考え込む下山総裁にまわし、強引に交渉を打切ってしまっている。
また下山の女房役であった加賀山副総裁がすでに記したようにCTSのシャグノン中佐をしきりと弁護しているのを見ても想像できるように、下山の抵抗に協力するより、むしろ、アメリカ側の御機嫌取りに汲々としていた状態がうかがわれる。
そして、下山が行方不明になった五日も、午前十一時にCTSへ出頭するよう、要求されていたことは周知のとおりである。
このような情勢の中でおこった下山事件は、そのプロローグから,すでに数多くの謎や奇妙な偶然があちこちに発生し、一そう底の知れぬ怪事件に仕立て上げている。
これら下山事件をめぐるいくつかの謎をとくなら、この事件の真相は明らかになるであろう。
加賀山も三越へ行った
それらの謎の第一は、下山総裁が行方不明になった七月五日は、国鉄本庁では総裁がいつものように午前八時二十分ころ自宅を自動車で出たことは確認したが、定刻の九時になっても出勤せず、十一時キッカリにゆくはずになっていたGHQにもまだ現われないというので、大塚秘書が方々電話で探していた。ところが、まだ十一時をほんのちょっと回った時刻に、加賀山副総裁はいきなり斎藤国警長官〔斎藤昇国家地方警察本部長官〕に電話で『下山総裁の行方捜査』を依頼している。
この日、総裁は午前九時三十七分ごろ三越に南口から入っていったまま消息を絶ってしまったことは世間の知るとおりである。
ところが、加賀山副総裁自身も午前九時からはじまるはずの局長会議をスッポかして、偶然にも、九時半ごろ同じ三越に入り、地下街の「室町茶寮〈ムロマチサリョウ〉」で、今泉東鉄局長〔今泉秀夫東京鉄道管理局長〕、国鉄民同派沢田〔広〕ら四名と密談をこらしていた。
だから、加賀山副総裁が『総裁行方不明』を国警長官に連絡したのは、まさにこの密談の直■であったわけだ。この「室町茶寮」とは国鉄幹部と国鉄民同派との連絡アジトに使われていたところで、下山総裁自身しばしばここで民同派から組合の情報をとっていた。この日、加賀山副総裁らか密談していた五人組のあとの二人と密談の内容はわからないが下山総裁はいなかったといわれている。〈14~15ページ〉【以下、次回】
■の字は判読できない。文脈からすると、「後」か。
月刊誌『真相』の第61号(1954年3月)から、「『下山事件』他殺白書」という記事を紹介している。本日は、その九回目。
加賀山とシャグノン
そのためにCTS〔Civil Transportation Section〕から矢の催促があっても 首切りをなるべく先にのばそうと苦心していた。
しかし、このような下山総裁の苦心を汲むものは、国鉄内部でさえあまりいなかった。いや、むしろ、下山の意図に反してというより、アメリカ側の意図に迎合して、下山の立場をかえって悪<するような動きをする国鉄幹部が大部分だったことである。
たとえば、当時国鉄労組側の立役者で下山との団体交渉に当っていた共産党員鈴木市蔵〈イチゾウ〉副委員長は「下山総裁は交渉する気はないことはないらしいが、とり巻きが決裂にもって行こうとあせっている」と新聞記者にもらしている。事実、団体交渉が決裂したその日も、加賀山副総裁の参謀役の牛島〔辰弥〕職員局長は交渉の席上「打切れ」と書いた紙片を考え込む下山総裁にまわし、強引に交渉を打切ってしまっている。
また下山の女房役であった加賀山副総裁がすでに記したようにCTSのシャグノン中佐をしきりと弁護しているのを見ても想像できるように、下山の抵抗に協力するより、むしろ、アメリカ側の御機嫌取りに汲々としていた状態がうかがわれる。
そして、下山が行方不明になった五日も、午前十一時にCTSへ出頭するよう、要求されていたことは周知のとおりである。
このような情勢の中でおこった下山事件は、そのプロローグから,すでに数多くの謎や奇妙な偶然があちこちに発生し、一そう底の知れぬ怪事件に仕立て上げている。
これら下山事件をめぐるいくつかの謎をとくなら、この事件の真相は明らかになるであろう。
加賀山も三越へ行った
それらの謎の第一は、下山総裁が行方不明になった七月五日は、国鉄本庁では総裁がいつものように午前八時二十分ころ自宅を自動車で出たことは確認したが、定刻の九時になっても出勤せず、十一時キッカリにゆくはずになっていたGHQにもまだ現われないというので、大塚秘書が方々電話で探していた。ところが、まだ十一時をほんのちょっと回った時刻に、加賀山副総裁はいきなり斎藤国警長官〔斎藤昇国家地方警察本部長官〕に電話で『下山総裁の行方捜査』を依頼している。
この日、総裁は午前九時三十七分ごろ三越に南口から入っていったまま消息を絶ってしまったことは世間の知るとおりである。
ところが、加賀山副総裁自身も午前九時からはじまるはずの局長会議をスッポかして、偶然にも、九時半ごろ同じ三越に入り、地下街の「室町茶寮〈ムロマチサリョウ〉」で、今泉東鉄局長〔今泉秀夫東京鉄道管理局長〕、国鉄民同派沢田〔広〕ら四名と密談をこらしていた。
だから、加賀山副総裁が『総裁行方不明』を国警長官に連絡したのは、まさにこの密談の直■であったわけだ。この「室町茶寮」とは国鉄幹部と国鉄民同派との連絡アジトに使われていたところで、下山総裁自身しばしばここで民同派から組合の情報をとっていた。この日、加賀山副総裁らか密談していた五人組のあとの二人と密談の内容はわからないが下山総裁はいなかったといわれている。〈14~15ページ〉【以下、次回】
■の字は判読できない。文脈からすると、「後」か。
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