◎幻の雑誌『ことがら』と青木茂雄氏の映画評論
現代思想に関心を持っている人でも、一九八〇年代に、『ことがら』という雑誌が出ていたことを知っている人は少ないだろう。
この雑誌は、一九八二年八月一五日創刊。発行元は、「ことがら編集委員会」(国立市、小阪修平気付)、発売元は、文京区本郷の五月社であった。一九八六年一一月一〇日に、第八号終刊号を出し、その歴史を閉じた。
後に私は、この雑誌の編集委員であった青木茂雄氏に無理を言って、全八号分を譲り受け今に愛蔵しているが、雑誌が発行されていた当時は、全くその存在に気づかなかった。本屋の店頭に並んでいるのを見かけた記憶もない。
同誌第六号(一九八四年七月一〇日発行)の「編集後記」によれば、その時点での編集委員は、青木茂雄・笠井潔・木畑壽信・黒須仁・小阪修平・高野幸雄・長野政利・西研・万本学の九名であった(敬称略)。
この雑誌については、いろいろと紹介したいことがあるが、とりあえず、今日と明日は、そこに載っていた青木茂雄氏の映画評論を紹介してみたいと思う。青木氏の映画評論「映画という経験」は、同誌第五号(一九八四年二月二〇日発行)にその①が載り、第六号にその②が、第七号にその③が載った。そのうち②の主要部分を、今日と明日の二回に分けて紹介する(もちろん、青木氏の了解は得た)。
おもしろいことが良い映画の必須の条件であるとは前回に書いたところである。そして、その秘密が、「観客の心をいかにしてその身体からひき離し、スクリーンに展開されていることがらにのりうつらせるかにある」と先に結論づけて書いた。このことをいま少し具体的に展開してみたい。四年ぐらい前に観た作品だが、ジョルジュ・クルーゾ監督の『恐怖の報酬』というだいぶむかしに封切られ大変化話題になったフランス映画がある。これなどはまさにおもしろさだけを純粋培養して絵に画いてしまったような作品だ。とにかく、最初のワン・カットから最後のワン・カットまで息つく間もないほどの緊迫のうちに観てしまうのだ。手に汗をにぎるという言葉はこの映画のためにあると言って良いくらいだ。映画館を出て興奮未ださめやらぬうちに考えた。いったいこの映画のどこでおもしろく感じたのだろうか。クルーゾーという映画作りの達人が人の心を手玉にとるその秘密は、いったいどこにあるのだろうか。
第一に、筋立てが非常に単純でわかりやすく、場面の状況を観客が即座に自分のものと感じてしまうことにある。トラックに満載したニトログリセリンを南米はマラカイボの石油採油所に運ぶというはなはだもって危険な役目をイヴ・モンタン扮するマリオ以下数名の荒くれ男たちが大金とひきかえに買ってでるわけだが、このニトログリセリンなるものはほんのわずかな震動をうけただけでもいとも簡単に爆発してしまうしろものなのだ。車の運転には細心がうえにも細心の注意がはらわれなければならない。さもないと車もろとも空中にとびちってしまうはめとなる。しかも運搬すべき経路は、あるかなきかの荒れた山道ときている。観客は、このきわめて単純明解な状況設定のなかにひきずりこまれ、やがてスクリーンの前にくぎづけされてしまう破目となる。
だが、「ニトログリセリンは少しの震動によってもいとも簡単に爆発してしまう危険きわまりないしろものだ」という状況設定はそれ自体としてはいまだ抽象的である。この説明をたとえ言葉で何度きかされたとしても、観客は心の底では決して納得しない。この抽象的な状況設定から映画製作者はスクリーンのカットの積み重ねによって、観客の心のなかに具体的に、あたかも自分が背中に大きなニトログリセリンの大きなかんを背負っているかのように思わせてしまうのだ。
青木氏の『恐怖の報酬』論は、ここから佳境にはいるのだが、これは次回。
参考までに、『恐怖の報酬』は、一九五三年制作のフランス映画でグランプリ(ジョルジュ・クルーゾ監督)と男優賞(シャルル・ヴァネル)を、第六回カンヌ国際映画祭で金熊賞を受賞している。【この話、続く】
今日の名言 2012・7・30
◎表現はそれ自身が眼差なので見ることができない
高野幸雄氏の言葉。『ことがら』第6号(1984・7・10)の「編集後記」に出てくる。「眼差」は〈マナザシ〉と読む。高野幸雄氏は同誌編集委員の一人。
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