礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木畑壽信さん追悼スピーチ(青木茂雄)

2017-11-02 00:45:56 | コラムと名言

◎木畑壽信さん追悼スピーチ(青木茂雄)

 九月九日のコラム“「木畑壽信氏を偲ぶ会」開かる(2017・9・8)”で、九月八日夕に、「木畑壽信氏を偲ぶ会」が開かれたことを報告した。その会では、雑誌『ことがら』の編集同人だった青木茂雄氏が追悼のスピーチをされたことも記した。
 青木氏は、このスピーチの際、原稿を手にしていたようだったので、その原稿をファイルで送ってもらえないかとお願いし、快諾を得た。
 そのあと送られてきたファイルが、「木畑壽信氏を偲んで(1)」から「木畑壽信氏を偲んで(4)」までの四本で、これらは、すでに当ブログで紹介済みである。
 しかし、「木畑壽信氏を偲んで(1)~(4)」は長文であり、「偲ぶ会」の当日に青木氏がおこなったスピーチとは、全く別のものであった。聞けば、当日、手にしていた原稿は、その日のうちに処分してしまったので、新たに書き直したとのことであった。
 そこで、当日のスピーチを再現したものをお送りいただければ、これも紹介したい旨をお伝えいたところ、以下のようなファイルが送られてきた。
 本日は、この「再現版」追悼スピーチを紹介してみたい。タイトル以下は、すべて、青木さんの文章である。
 なお、坂口安吾「高麗神社の祭の笛」の紹介は、都合により、一週間ほどのちに再開することにしたい。

木畑壽信さんのこと、思い出すこと
      青木茂雄( 旧『ことがら』編集同人)

 木畑壽信(きはたとしのぶ)さん、この「壽」という文字がむずかしくて一度ですらすらと書けたことがないんですが、本人の第一印象もまた、名前の文字と同様に、なにやら難しいというものでした。
 私は、人生の節々でなぜか、木畑さんと出会ってきました。
 最初に会ったのは、1978年か79年頃だったかと思います。寺小屋教室という一般向けの思想講座があったのですが、今で言えばちょうどアソシエのようなものです、その中の「寺小屋論」という自主発表の場で、木畑さんが、確か勤めている新宿区役所の組合運動の報告という形で、「構成する差異」という内容の発表を行った、そのときが最初です。いろいろな思想家の名前がでてきて、なにやら大変に難しい内容のものでした。会場からの質問・意見に対して木畑さんの応えた言葉を今でも覚えています。「あなた、ヘーゲルをちゃんと読みましたか。」私は、この言葉を聞いて、「すごい奴が来た」と思いました。
 二度目は、同人誌『ことがら』の編集同人として、です。『ことがら』は今からちょうど10年前に亡くなった小阪修平さんが主導して作った雑誌です。1882年に1号が出て、85年までに8号を発刊して終了しました。その1号に木畑さんが「世界との対話」という文章を書いています。彼が20代から書き綴った文章をまとめたものですが、この中に彼の人となりが良く表されています。今お配りしたのは、冒頭のページのコピーです。「僕の思考は倫理的である。」という部分に対して、小阪さんが「反歌取り」の形で反論した部分もコピーの半面にあります。見事な反論だと思います。しかし、木畑さんは大まじめで「倫理的」であろうとしたと思います。しかも、それが他人から見ると「倫理的」には見えなかったところがミソなのです。
『ことがら』は3号あたりから、各号ごとに編集担当が輪番され、編集担当が違うと、体裁から何から何まで違ってしまうものとなりました。各号ごとに違う、そういう変わった雑誌でした。木畑さんが担当したのは4号と7号でしたが、とくに7号には彼の当時の全てが凝縮して表されているものでした。表紙のデザインから、目次のレイアウト、各頁の文字の配置まで、すべてをゆるがせにしないもの、として雑誌にしました。あまりに彼が細かいことにまでこだわるので私は彼に言いました。そんな形式的なことなどどうでもよいじゃないか。スタイルなどは二の次だ、大事なのは内容だ。それに対して彼が大まじめで答えて言うには、いや形式やスタイルにこそ思想は現れるものだ。このスタイルが僕の思想表現だ…。
 これで木畑氏の人となりが解った気になりました。思想とはスタイル、すなわち装いなのだ、と。少なくとも、私とは違う、この人はまったく別の価値観で動いている、と思いました。
しかし、どういうわけか、その彼とはいろいろなところでウマが合ってしまうのでした。『ことがら』は8号で終わり、同人はそれぞれの場所を活動の場としていきました。その後も私と木畑さんとあと何人かで、その後を引き継ぐ形で討論・報告する会を1年くらい運営しました。しかし、それもほどなく終了しました。
 そのあと私は職場の方が忙しくなり、また、地域の活動や組合活動などでも多くの時間を割かれるようになり、思想表現の活動からは随分と遠ざかっていました。木畑さんは、その後新宿区役所を退めて、アメリカにわたって大学で勉強したという話などが聞こえてきました。しばらく続いた、彼自身で綴った大分の冊子の定期的な私のもとへの郵送も、そのうちに送られて来なくなりました。
 その後は連絡が途絶えてましたが、定年退職を2年後に控えた2006年から、水道橋のアソシエで子安宣邦さんの日本思想講座に出るようになりましたが、その場で20年振りに木畑さんと出会いました。これが3度目の出会いです。帰りに何回か喫茶店などで話しましたが、まったく変わっていない、そして求めていることも昔とまったく同じです。 彼はよく「喫水」(きっすい)という言葉を使いました。『ことがら』は(内容的には不十分だとしても)ともかく“「喫水」は良い”…。それが『ことがら』に対する彼のイメージでしたし、その後の彼の方向性を示すイメージだったのでしょう。船首の切っ先がさっそうと水を切っていく姿です。それは彼の浮かべる“前衛”の姿なのでしょうか。私は、その船首の甲板上に、映画『望郷』のラストのジャン・ギャバン扮するペペ・ル・モコよろしく(モコは船に乗れませでしたが)、せいいっぱい装った木畑壽信の姿を見てしまうのです。
 最後に、木畑壽信が『ことがら』1号の編集後記に書いた短い文章を紹介します。

「この雑誌が碧空の大空のもとで大地の獲物を狙いながら飛び廻る鷲のように、未知の人々の間柄のなかで飛び廻ることができるかどうかはいまだわからない。ただ、現在の会員にできることは、自分の歌を謡うことであり、自分の納得のいく論文やエッセイを言語表現し構成することだけである。 (木畑)」

※この文章は、2017年9月8日、木畑壽信さんを偲ぶ会での発言に加筆したものです。

*このブログの人気記事 2017・11・2(10位にやや珍しいものが入っています)

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