◎誤った国の方針の下、あれまでに戦った将兵は天晴れ
二〇一三年二月一五日に、「早撮りの傑作『明治天皇と日露大戦争』(1957)」というコラムを書いた。その後、この映画のことは忘れていたが、本年秋、中古のDVD(デアゴスティーニ・ジャパン、二〇一四)を入手したのを機会に、一九五七年(昭和三二)夏以来、実に六十年ぶりに、この映画を鑑賞した。
久しぶりに観た第一印象は、よく出来ているではないか、というものだった。軍艦の模型などは貧弱だったが、宮中御学問所、大本営のセットなどは、それらしく造られていた。野戦のシーン、街頭のシーンなどは、エキストラの動員数も多く、なかなかのものであった。
出演者の演技は、明治天皇役の嵐寛寿郎〈アラシ・カンジュウロウ〉と山本権兵衛〈ゴンノヒョウエ〉海相役の江川宇礼雄〈エガワ・ウレオ〉を除いて、あまり感心しなかった。乃木希典〈ノギ・マレスケ〉大将は、この映画では、明治天皇に次ぐ重要な役どころだが、これを演じる林寛〈ハヤシ・ヒロシ〉の演技がパッとしない。ただし、風貌は満点に近いと思う。
元老の伊藤博文を演じたのは、阿部九洲男〈クスオ〉、同じく元老の山県有朋を演じたのは、高田稔。ふたりとも、風貌はホンモノに似ているが、迫力・存在感では、完全に明治天皇=嵐寛寿郎に負けている。というより、この映画は、明治天皇を偉大で英邁な指導者として描こうとしたものであって、そうである以上、伊藤役の阿部九洲男や山県役の高田稔は、役者としての存在感を存分に発揮するわけにいかったのかもしれない。
さて今回、この映画を観て、最も印象に残ったシーンは、旅順のロシア軍が降伏したあと、明治天皇が、伊藤博文、山県有朋ら元老・重臣を引見するシーンであった。旅順のロシア軍が降伏したのは、一九〇五年(明治三八)一月一日一六時半のことであった。ということは、この引見があったのは、翌一月二日ということになろう。
その際に、伊藤博文が言う。「戦いは正義にもとづかなければならないことを痛感いたしました」。
これを受けて、明治天皇が厳かに言う。「誤った国の方針の下、あれまでに戦ったステッセル麾下〈キカ〉の将兵たちは、まことに天晴れであった。旅順の開城に際しては、武人の面目を保たしめるよう伝達せしむるがよい」。
この映画が公開されたとき、アジア太平洋戦争の敗戦から、まだ十二年弱しか経っていなかった。明治天皇の、この「お言葉」を聞いた日本人は、日本がアジア太平洋戦争で勝利できなかったのは、やはり、それが「誤った国の方針の下」でおこなわれた不義の戦争だったからだ、と痛感したのではなかったか。と同時に、不義の戦争ではあったが、「あれまでに戦った」ことについて、「天皇」から、初めて慰撫されたと感じたのではなかったか。
この映画が、当時の日本国民の心を捉えたのは、このあたりに理由のひとつがあったのだろう、などと考えたことであった。
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