◎下山は三越地下道のアジトで秘密連絡をとっていた
『改造』第34号(1949年10月)から、「下山定則は自殺である」という記事を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
下山私金庫に
秘められた謎
さて、下山総裁の死は、かうして〝自殺〟と〝推定〟されたまま最後の〝断定〟をしばらく延期された。だが、他殺とは誰ももう主張しない今日、自殺したことは、いわず語らず明らかである。そこで下山総裁はなぜ自殺したか?が新しい疑問として諸君の興味をそそるであろう。
下山にはどうしても死なねばならぬような事情はなかつたように見える。国鉄首切りは、多大の困難を予想されながら、政府、人事院、国警のバツクアップでどうにか打開が期待され、公務員法でストを禁止された従業員はどう戦つてよいかわからず、多くのものが民同の手で組合分裂の方向に誘導されていた。不用意に盲動するものに弾圧の方法もあつた。
地位からいえば、彼は国鉄職員として最高のポストにのぼつていた。家庭はいちおう平和であつたようだ。二、三の女性とのウワサど、芳子夫人としては世間にありふれた些事としていたろう。主観的に見ても局長時代の女秘書齋藤ヒデや二十年来馴染〈ナジミ〉の森田のぶとの関係は、死をもつて清算せねばならぬほどギリギリ決着のものではなかつた。単に夫人の病臥中あるいは入院中の淋しさを慰める程度のものであつたとみてよい。
ただ一つ彼には重大な秘密があったという事実に問題のカギがのこる。それは千代田銀行に私金庫をもつていたことである。私金庫というものは、元来、家人や親戚、知己、朋友などに知られたくない秘密の財産、重要書類などをもつとも安全にしまつておくためのもので、普通は大財閥の主人公とか大会社の社長などでなければ必要のない施設である。それが敗戦後の財閥解体やパージで契約が解け、終戦のあと千代田銀行では七つの私金庫が空いていた。下山はどうして知つたか、その一つを借りることに成功した。しかし、当時たかが国鉄の局長クラスだつた彼にどうして私金庫が必要だつたろう。
ここで消息筋は「某外郭団体一千万円事件」なるものの風聞を下山にむすびつけて考える。わが社の探知しえた情報によれば、検察当局も近くこの怪事件の捜索にのり出すというが、大体の輪郭は、某団体の公金一千万円が持ち出されて、国鉄の反共資金に流用されているのではないかという容疑である。下山は国鉄懐柔工作の必要から、そのほかにも資金ルートをもつていたらしく、それらの金を私金庫に入れていた。三越地下道のアジト〝室町茶屋〟その他で民同幹部と下山がしばしば秘密連絡をとつていたのは、今ではかくれもない事実であるが、その工作資金は私金庫から流れ出し、民同の提供する組合内情報は私金庫にしまいこまれていた。これらの推定が事実に近いことを裏書きするかのように、怪死の前日下山は某所でサンザン油をしぼられ、『あの一千万円をどうして処置をつけるつもりか』と面詰されたとの情報もある。
それから以後の下山総裁の不審な挙動は、東大吉益〔脩夫〕助教授が指摘するとおり、また自殺説の毎日新聞が比較的詳細につたえたとおりで、生涯の難局に追いつめられたものの苦悩がマザマザと現われている。
彼はおそらく最後の関頭に立つた心理状態で、三越へ行き、齋藤ヒデへの結婚祝の品を物色しそれも上の空で、地下道へ行つた。地下道でも彼の苦悩は解決されなかつた。彼はやがて末広旅館に現われ、そこで〝休息〟をとつた。
その頃ラジオは彼の〝失踪〟をつたえ厳重な手配がおこなわれていることをくりかえし放送した。もはや生きてかえるにもかえられない雰囲気が、時々刻々につくられていつた。このようにして精神的に虚脱状態に突きおとされたものがフラフラと死神にさそわれることは、すこしも珍しい結末ではないのである。〈16ページ〉
「下山定則は自殺である」の記事はここまで。このあと、『真相』第61号に載った「『下山事件』他殺白書」の紹介に移るが、明日は、いったん話題を変える。
『改造』第34号(1949年10月)から、「下山定則は自殺である」という記事を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
下山私金庫に
秘められた謎
さて、下山総裁の死は、かうして〝自殺〟と〝推定〟されたまま最後の〝断定〟をしばらく延期された。だが、他殺とは誰ももう主張しない今日、自殺したことは、いわず語らず明らかである。そこで下山総裁はなぜ自殺したか?が新しい疑問として諸君の興味をそそるであろう。
下山にはどうしても死なねばならぬような事情はなかつたように見える。国鉄首切りは、多大の困難を予想されながら、政府、人事院、国警のバツクアップでどうにか打開が期待され、公務員法でストを禁止された従業員はどう戦つてよいかわからず、多くのものが民同の手で組合分裂の方向に誘導されていた。不用意に盲動するものに弾圧の方法もあつた。
地位からいえば、彼は国鉄職員として最高のポストにのぼつていた。家庭はいちおう平和であつたようだ。二、三の女性とのウワサど、芳子夫人としては世間にありふれた些事としていたろう。主観的に見ても局長時代の女秘書齋藤ヒデや二十年来馴染〈ナジミ〉の森田のぶとの関係は、死をもつて清算せねばならぬほどギリギリ決着のものではなかつた。単に夫人の病臥中あるいは入院中の淋しさを慰める程度のものであつたとみてよい。
ただ一つ彼には重大な秘密があったという事実に問題のカギがのこる。それは千代田銀行に私金庫をもつていたことである。私金庫というものは、元来、家人や親戚、知己、朋友などに知られたくない秘密の財産、重要書類などをもつとも安全にしまつておくためのもので、普通は大財閥の主人公とか大会社の社長などでなければ必要のない施設である。それが敗戦後の財閥解体やパージで契約が解け、終戦のあと千代田銀行では七つの私金庫が空いていた。下山はどうして知つたか、その一つを借りることに成功した。しかし、当時たかが国鉄の局長クラスだつた彼にどうして私金庫が必要だつたろう。
ここで消息筋は「某外郭団体一千万円事件」なるものの風聞を下山にむすびつけて考える。わが社の探知しえた情報によれば、検察当局も近くこの怪事件の捜索にのり出すというが、大体の輪郭は、某団体の公金一千万円が持ち出されて、国鉄の反共資金に流用されているのではないかという容疑である。下山は国鉄懐柔工作の必要から、そのほかにも資金ルートをもつていたらしく、それらの金を私金庫に入れていた。三越地下道のアジト〝室町茶屋〟その他で民同幹部と下山がしばしば秘密連絡をとつていたのは、今ではかくれもない事実であるが、その工作資金は私金庫から流れ出し、民同の提供する組合内情報は私金庫にしまいこまれていた。これらの推定が事実に近いことを裏書きするかのように、怪死の前日下山は某所でサンザン油をしぼられ、『あの一千万円をどうして処置をつけるつもりか』と面詰されたとの情報もある。
それから以後の下山総裁の不審な挙動は、東大吉益〔脩夫〕助教授が指摘するとおり、また自殺説の毎日新聞が比較的詳細につたえたとおりで、生涯の難局に追いつめられたものの苦悩がマザマザと現われている。
彼はおそらく最後の関頭に立つた心理状態で、三越へ行き、齋藤ヒデへの結婚祝の品を物色しそれも上の空で、地下道へ行つた。地下道でも彼の苦悩は解決されなかつた。彼はやがて末広旅館に現われ、そこで〝休息〟をとつた。
その頃ラジオは彼の〝失踪〟をつたえ厳重な手配がおこなわれていることをくりかえし放送した。もはや生きてかえるにもかえられない雰囲気が、時々刻々につくられていつた。このようにして精神的に虚脱状態に突きおとされたものがフラフラと死神にさそわれることは、すこしも珍しい結末ではないのである。〈16ページ〉
「下山定則は自殺である」の記事はここまで。このあと、『真相』第61号に載った「『下山事件』他殺白書」の紹介に移るが、明日は、いったん話題を変える。
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