◎牧野伸顕・吉田茂・麻生和子・麻生太郎
岩淵辰雄著『現代日本政治論』(東洋経済新報社、一九四一)の第六章「二・二六事件」から、「二・二六事件起る」という文章を紹介してみたい。この文章には、初出の年月が示されていない。おそらく、この本の刊行に際して、書き下されたものであろう。だとすれば、初出は、一九四一年(昭和一六)六月二六日である。
二・二 六 事 件 起 る
昭和十一年〔一九三六〕二月二十六日、東京市民は異常な戦慄に襲はれた。口から口に誰いふとなしに眼にものをいはすやうにして、事件の噂は電波のやうに忽ち市民の間に広まつて行つた。
その日は朝から雪もよひの凍りつくやうな寒さに空もどんよりしてゐた。果して昼から雪になつた。
事件の概要は、近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、第三連隊、野戦重砲兵第七連隊に属する将兵約一千四百数十名が、その未明に不法出動して〔岡田啓介〕首相官邸、齋藤〔実〕内大臣私邸、渡邊〔錠太郎〕教育総監私邸、牧野内大臣宿舎〔牧野伸顕・前内大臣宿舎〕(湯河原伊藤屋旅館)、鈴木〔貫太郎〕侍従長官邸、高橋〔是清〕大蔵大臣私邸を襲撃し、齋藤内大臣、渡邊教育総監を殺害し、鈴木侍従長、高橋大蔵大臣に重傷を負はしめ(高橋大蔵大臣は同日薨去〈コウキョ〉)次いで此等叛乱軍は永田町付近を占拠してその内外の交通を遮断したのである‥‥(戒厳司令部発表)。事件がどうして起つたか、それは所詮歴史が後に全貌を語ることになるより外に一般には知りやうがないであらうが、政界は前年から異常な危機を孕んで〈ハランデ〉ゐた。陸軍を中心にしては教育総監の更迭〔一九三五年七月一六日〕に次いで永田事件〔一九三五年八月一二日〕が起り、軍務局長の永田鉄山が陸軍中佐相沢三郞に殺害された。その裁判がこの一月〔二八日〕から開かれて一般の耳目を聳てゝ〈ソバダテテ〉ゐた。その一方では右翼を中心とする國體明徴運動といふものが齋藤〔実〕内閣以来熾烈な政治問題となつて、ひた向きに岡田内閣の退場を望んでゐた。
議会は一月〔二一日〕解散され、二月〔二〇日〕総選挙が行はれたが、この解散には二つの意味があつた。一つは内閣が右翼の政治的攻勢に対して、信を国民に問ふといふことゝ、もう一つは政、民両党〔立憲政友会および立憲民政党〕がこれを機会にして再び政治の中心勢力たらんとしたことである。
然るに、選挙が済むと、岡田内閣は政、民両党の閣僚と妥協して依然居据る〈イスワル〉ことになつたので、選挙は済んだが政局の転換は望めないことになつてゐた。
事件はその機微の裡〈ウチ〉に勃発したのである。
わずか二ページの短い文章だが、事件に至る経緯や、その背景を、的確にまとめている。要するに、この事件で「襲撃」の対象とされたのは、天皇側近、財閥、政党などに代表される旧勢力、あるいはそれらと親和的関係にあった軍人たちであった。端的に言えば、真崎甚三郎を教育総監の座から引きずり下した勢力と見なされた人物が、襲撃の対象とされたのである。
この事件で襲撃されたが、かろうじて一命を取りとめた岡田啓介や鈴木貫太郎は、のちに終戦工作の中心となった。牧野伸顕は、直接、終戦工作には関わっていないが、その女婿である吉田茂は、深く終戦工作に関わっている。これらは、決して偶然とは言えないだろう。
ちなみに、事件当日、湯河原伊藤屋旅館の別館「光風荘」にいた牧野伸顕・前内大臣は、孫娘の機転で、あやうく難をのがれたとされている。この孫娘というのは、吉田茂の三女で、のちに麻生太賀吉〈タカキチ〉に嫁した麻生和子である。現・財務大臣の麻生太郎氏は、その長男である。
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