礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

蟻川恒正学説について補足する(桃井銀平)

2017-02-01 03:27:49 | コラムと名言

◎蟻川恒正学説について補足する(桃井銀平)

 昨年の八月一六日から九月一〇日まで、桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて」を、五回に分けて紹介した。
 その後、本年一月三〇日に、同論文の「補論」をいただいたので、本日はこれを紹介したい。

(5)《補論》 個人・私・公-蟻川学説についての補足的言及 
                   2017.1 桃井銀平(元都立高校教師)
1、人権の主体

 近代憲法における人権の担い手は、<公・私>の対立構造における<私>ではなく、<国家>に対峙すると同時にその構成原理でもある<個人>である。日本語・漢語の<私>が担っている固有の意味のもとでは、人権の性格を<私的>なものとして語ることは、論議を人権論の原則的土俵から逸脱させてゆくことになる。それは人権主張を貶める側のターミノロジーである。人権の主体は、<公>に対立する<私>でも<私>を切り捨てた<公>でもなく、<ひと一般>としての<個人>である。これは、憲法学にとっては議論の余地のない自明の前提だったはずである。樋口陽一は、<個人>という語を使って以下のように人権の主体としての<個人>の成立を描き出している。

「「人」たるがゆえの権利,という言い方をつきつめてゆくと,その権利は,なんらかの特性ゆえに識別される主体でなく,人一般としての個人を担い手とするものでなければならないことになるだろう。歴史に即していうならば,1215年マグナ・カルタと,1789年「人および市民の諸権利の宣言」の論理の相違であり,一般化していえば,中世身分制社会の自由と近代的人権の論理との相違である。(中略)
 こうして,一方で国家=国民主権,他方で人一般としての個人を主体とする人権という,近代憲法にとっての最も基本的な観念が成立する。このような変革をいちばん徹底的に追求したフランス革命は,国家と個人のあいだに介在する一切の「中間集団」を,いったん徹底的に解体していった。1789年宣言のカタログに結社の自由が出てこないのは偶然でなく,その時点で現に存在していた集団,すなわち身分制にもとづく結合を解体して,自由な諸個人を析出してゆくことこそが,革命の中心課題とされていたのであった。(中略)
 こうして,一方で唯一正統とされる主権的国家権力、他方で「人」権主体としての諸個人という二極構造がえがかれ、その中間に介在する集団は、特権と独占によって自由な諸個人の活動を阻害するもの、と目される。」(『国法学 人権言論 [補訂]』p8-10(有斐閣2007) )

 自然権の主体である<個人>はその自然権の享有を確実にするために自由な意思によって政府・国家を構成する、というのが立憲主義の自明の理論的立脚点ではなかったか。さらに、人の公共的・社会的な在り方は、その根源的なところで<個人>としての人格に根ざしている、と私は思っている。<個人>であることをどこか他所に置いておいて、公共的・社会的空間に入って行けるものではない。かような意味において<個人>は<公共>または<公>に関わり、<個人>は家庭・地域などの所謂「私的」な場だけでなく、企業・公務などの所謂「公的」な場でも存在している。個人の尊厳、個人の権利には原理的に「私的」時間・空間への限定などない。「公的」な場(または中間集団との関係)では人権は姿を消すというのでは、人権も自由も人間生活のごく限られた時空でしか存在し得ない。

2、学校・教育における公共性

 蟻川は2014年公法学会報告についての質疑(前出『公法研究77』所収)の中で、渡辺洋の質問に答えて以下のように述べている。

「①教師が自分の好き勝手を公的な場で通していいとは思えない。つまり、もし公的な場で
教師が思想の自由を主張するならば、それは公共の福祉の為になるのだと言えなければならない。教師には、いわば「公共」を一人で担っていくぐらいの責任意識や覚悟がなくてはならないし、もっているはずだと考えている。そこからあえて憲法の条文でいえば、さしあたり一二条だと考えている。②私の報告は「私」の居場所がないかのように語ったが、それはむしろ私の報告がこれまでの考え方からすれば標準的ではないようにみえているだけである。今回の事案の東京都教育委員会の職務命令システムの中で、否応なく引きずり出されているのが「わたくし」であり、ゆえに「わたくし」の居場所はそこにある。だが私としてはそれを、法律論としての事案の構造上、「私」ではなく「公」であると考えている。」
                                  (同上p149)

 ①の蟻川の主張は「教師聖職論」そのものに思えてしまう。個人としての思想・良心を守るための受動的な不起立等が「自分の好き勝手」とおとしめられ、「公共」のためにでなければ自己の人権をまもれないというように聞こえる。明確な強制が何よりも教師個人に課せられているにもかかわらず、それを正面から採り上げられない議論に何か存在理由はあるのであろうか。学校儀式で「否応なく」「わたくし」が「引きずり出されて」くる(②)ということは、直接には教師個人の尊厳を圧伏してこそ行政の不正な「公共」が貫かれる、このような構造になっているということだ。すなわち「否応なく」教師個人の権利が抵抗の基礎とならざるを得ないということではないか。教師の<個>を押しつぶすことが、国家儀礼の目的を達成するための不可欠の前提となっている。まずそれを踏まえなくてはならない。
 それにしても、この「私」は「公」には接続しないのものであろうか。バーネット判決においてジャクソンは、国旗敬礼拒否をした「エホヴァの証人」固有の宗教的信条を社会契約説によって政治的・公共意味空間へ接合した―これは蟻川自身の研究の重要な結論の一つである。「私」が出発点ではあっても、それを<個人>として位置づけて事案を<公>的問題として取り扱うことは、<事実上生徒に強制された儀礼>の本質を主題化し続けるためには不可欠なことだ、と私は思う。

「しかし、そもそもBarnette判決は、私的良心の弁護の論であっただろうか。むろん、弁護の論ではなかったと云うことはできない。それどころか、私的良心の絶対的価値を謳って、この判決を凌ぐものは、アメリカ憲法判例史上、他にないとさえいわれる。だが、本判決の最大の意義は、むしろ、「エホヴァの証人」の宗教的潔癖を、政治的・公共的意味空間へと独自に接合した点にこそある。」「ジャクソンによるかかる行論が、ロールズと思考の地盤を共有さえしうる「社会契約説」の考え方から導かれたものであったということは、ここで更めて説明するまでもないであろう。」
            (『憲法的思惟』(岩波書店。原著は1994年、創文社)p68,121)
 
 ところで、公教育における<公共>を構成するアクターは教師だけでよいのであろうか。国家が独占する<公共>と対抗的に学校における<公共>を構成しようとする場合、専門職の教師だけでなく、保護者そして生徒自身、国民から選挙で信託された行政、校種によっては地域という複数の主体の権限・権利複合として構成すべきものと私は思っている。そのもとでも、適正な手続きで決まった教育内容・方法が、必ずしも教師の考える<公共>と合致するとは限らない。正しく決まった教育内容・方法であっても、それが教師個人の人格の一貫性を本質的に脅かすとき、または人格に分かちがたく結びついた核心的思想にもとづく教師としての良心に反するとき、教師個人の思想・良心の保護のための何らかの回避措置が要請されてくる。これも、近代人権論からの根本的要請であろう。教師個人の権利を脅かすものとして想定されるのは、行政だけでなく生徒・保護者でもありうるのだ。
 「(教師は)「公共」を一人で担っていくぐらいの責任意識や覚悟がなくてはならないし、もっているはずだ」(蟻川)という発想では、教師個人の人権保障が第2義的になるだけでなく、生徒・保護者の権利を正しく位置付けることも難しくなるのではないか。

3、「教師の教育権」の位置づけ

公教育での国家による教育権の独占に対しては、教師だけでなく生徒・保護者・地域・行政も含めて学校での教育権を構成する、というのが有力な潮流であると私は判断している。では、教師の「教育の自由」「教育権」は、憲法に基礎づけられるものであろうか。基礎づけられるとしたら第何条が相応しいのであろうか。実は、蟻川は上記の質疑の中で、「専門的職能の「職責」(市川(須美子-引用者注)会員は「職能的自由」という概念ををたてている)の保障を一九条で基礎づけることができるのかという非常に大きな問題がある。この点こそが、不起立訴訟においてのりこえねばならない山場であると思う。」(p152)と正直に語っている。蟻川自身、教師の専門的職能の「職責」保障を一九条で基礎づけることができるかどうかについては確信が持てていない。憲法学・教育法学の議論の歴史を振り返ると、有力説は<教師の教育権=人権>論から<教師の教育権=職務権限>論へと移行してきている。あえて一時代遡行して論ずる意義はどこにあるのであろうか。 

 かつて『憲法的思惟』は長期にわたって品切れ状態が続いていて入手困難な著作であった。ようやく借り出して読むことが出来て、私は多くのことを学ばせてもらった。蟻川の研究によって引き上げてもらった地点から最近の彼の言説を論評するのも、学恩に報いることであろう。

*このブログの人気記事 2017・2・1(6・7・8・9位にかなり珍しいものが)

 

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