今朝、テレビで今日は「呉服の日」だと言っていた。
「こんにゃくの日」であることは知っていた。
今日は、5月29日水曜日。
あの年も、5月29日は、水曜日だった。
朝から頭が痛いと言っていた。
それでも、4月から勤め始めた新しい職場を休むわけにはいかない、と出かけて行った娘だった。
その娘が職場で倒れた、という電話が当時の勤務先に入ったのは、午前中だった。
けいれんを起こし意識を失くして救急車で病院に運ばれた、ということだった。
病院から遠くない所に勤めていた妻と息子は、それぞれの職場から急きょ休みをもらって病院に駆けつけていた。
私は、午後遅くになってから病院に駆け付けた。
妻と息子だけではなく、けろっとした顔で娘もいて、4人で医師からおそらくこういうことだろう…と説明を受けたのだった。
ただ、再び軽いけいれんを起こしたし、原因も分からないので入院して様子をみましょう、と言われたのだと覚えている。
ただ、そこからが大変だった。
信じられないような、悪夢のような出来事が真実として何度も娘を襲ったのだった。
…あれから、6年…!
早いものだ。
すでに、妻も私も、もう退職している。
時間の流れがそこにある。
しかし、娘は、まだ入院以前の状態には戻っていない。
朝晩10錠を越える薬を相変わらず服用している。
障害を負っているのだから、そういう人たちが働いている作業所に行かせればいい。
そういうことを助言する人もいる。
いや、それは違う。
身の回りのことが自分でできるまで回復しないうちに作業所みたいなところに行ったって、ぼーっとしているだけだし、変な緊張が起こる場において体調の急変を起こしたりしてはいけない。
…そう考えて、家で様々なリハビリを続けてきている。
朝、毎日バイタルを計測してから、声を出して、決まった詩を読む(暗記する)。
新聞のコラム(天声人語のようなもの)を音読し、内容を確認する。
手足のストレッチをしたりスクワットをしたりして、体の動きをよくする。
脳トレの問題を毎日何問か行う。
3,000歩以上の散歩をする。
毎食後の食器洗いを行う。
可能な範囲で食事つくりや食卓の準備・手伝いをする。
こんなことの繰り返しと継続によって、ふらふらしていた足元はしっかりして、よろめいたりすることはなくなった。
脳トレの問題解きも、発病以前から常識不足だったので(?)できないことも多いが、反応はだいぶまともになっている。
今日は、歩く活動の一つとして、少し遠めのドラッグストアに買い物に行った。
そこに雑誌売り場があり、ある雑誌の表紙は中村倫也だった。
「この人、『半分青い。』に出ていたよね。なんていう役だったっけ?」
と、娘は私に聞いてきた。
1年前に出ていたドラマの役など、私も忘れてしまっていた。
「忘れたよ。」と答えると、今度は、「主役の永野芽郁がやった女の子の名前は何だっけ?」と聞く。
「鳥の名前だったよね。」
「あっ、すずめ(鈴愛)だった。…けど、鈴愛の苗字覚えてる?」
「うーん、オレ、それは忘れているよ。何だっけなあ。」
そして、しばらくしたら、娘は、
「思い出した。にれの(楡野)だよ。そして、律(りつ)の苗字はね…。」
「何だ?」
「はぎお(萩尾)だよ。」
「すごいな、お前。オレも思い出せなくなっているのに、よく思い出せたな。」
「へへへ…。すごいでしょ。…でも、あの表紙の人、なんて役だったかなあ…。」
…こんな会話をして楽しむことができた。
まだまだ同じことを何回も聞いたり、すぐに忘れたりする方が多いが、少しは積み上げもあるようになってきた。
日にちも曜日も同じ5月29日。
あれから6年たった。
娘本人は忘れていることが多いのだが、すぐそばで見てきた家族にとっては激動の日々だった。
6年か…。
そうしみじみ思うのである。
「こんにゃくの日」であることは知っていた。
今日は、5月29日水曜日。
あの年も、5月29日は、水曜日だった。
朝から頭が痛いと言っていた。
それでも、4月から勤め始めた新しい職場を休むわけにはいかない、と出かけて行った娘だった。
その娘が職場で倒れた、という電話が当時の勤務先に入ったのは、午前中だった。
けいれんを起こし意識を失くして救急車で病院に運ばれた、ということだった。
病院から遠くない所に勤めていた妻と息子は、それぞれの職場から急きょ休みをもらって病院に駆けつけていた。
私は、午後遅くになってから病院に駆け付けた。
妻と息子だけではなく、けろっとした顔で娘もいて、4人で医師からおそらくこういうことだろう…と説明を受けたのだった。
ただ、再び軽いけいれんを起こしたし、原因も分からないので入院して様子をみましょう、と言われたのだと覚えている。
ただ、そこからが大変だった。
信じられないような、悪夢のような出来事が真実として何度も娘を襲ったのだった。
…あれから、6年…!
早いものだ。
すでに、妻も私も、もう退職している。
時間の流れがそこにある。
しかし、娘は、まだ入院以前の状態には戻っていない。
朝晩10錠を越える薬を相変わらず服用している。
障害を負っているのだから、そういう人たちが働いている作業所に行かせればいい。
そういうことを助言する人もいる。
いや、それは違う。
身の回りのことが自分でできるまで回復しないうちに作業所みたいなところに行ったって、ぼーっとしているだけだし、変な緊張が起こる場において体調の急変を起こしたりしてはいけない。
…そう考えて、家で様々なリハビリを続けてきている。
朝、毎日バイタルを計測してから、声を出して、決まった詩を読む(暗記する)。
新聞のコラム(天声人語のようなもの)を音読し、内容を確認する。
手足のストレッチをしたりスクワットをしたりして、体の動きをよくする。
脳トレの問題を毎日何問か行う。
3,000歩以上の散歩をする。
毎食後の食器洗いを行う。
可能な範囲で食事つくりや食卓の準備・手伝いをする。
こんなことの繰り返しと継続によって、ふらふらしていた足元はしっかりして、よろめいたりすることはなくなった。
脳トレの問題解きも、発病以前から常識不足だったので(?)できないことも多いが、反応はだいぶまともになっている。
今日は、歩く活動の一つとして、少し遠めのドラッグストアに買い物に行った。
そこに雑誌売り場があり、ある雑誌の表紙は中村倫也だった。
「この人、『半分青い。』に出ていたよね。なんていう役だったっけ?」
と、娘は私に聞いてきた。
1年前に出ていたドラマの役など、私も忘れてしまっていた。
「忘れたよ。」と答えると、今度は、「主役の永野芽郁がやった女の子の名前は何だっけ?」と聞く。
「鳥の名前だったよね。」
「あっ、すずめ(鈴愛)だった。…けど、鈴愛の苗字覚えてる?」
「うーん、オレ、それは忘れているよ。何だっけなあ。」
そして、しばらくしたら、娘は、
「思い出した。にれの(楡野)だよ。そして、律(りつ)の苗字はね…。」
「何だ?」
「はぎお(萩尾)だよ。」
「すごいな、お前。オレも思い出せなくなっているのに、よく思い出せたな。」
「へへへ…。すごいでしょ。…でも、あの表紙の人、なんて役だったかなあ…。」
…こんな会話をして楽しむことができた。
まだまだ同じことを何回も聞いたり、すぐに忘れたりする方が多いが、少しは積み上げもあるようになってきた。
日にちも曜日も同じ5月29日。
あれから6年たった。
娘本人は忘れていることが多いのだが、すぐそばで見てきた家族にとっては激動の日々だった。
6年か…。
そうしみじみ思うのである。
しかし、娘さんは、まだ薬を服用しているとはいえ、平穏な日々を送れるようになってきているのは本当によかったと思います。
そして、今回のブログで、毎日娘さんが様々なリハビリに取り組んでいることを知り、驚きました。それらを毎日継続するのはかなり大変なのでは、と感じました。
少しずつとはいえ、リハビリの成果を感じられる場面も増え、娘さんの頑張りを思いました。
困難な状況に見舞われても、けなげに頑張って今を生きている娘さんに拍手を贈りたいと思います。
配慮に満ちたたくさんの温かい言葉をありがとうございます。「翻弄」「必死」「不運」等…本当にその通りです。そんな思いでいっぱいでここまできました。
今ようやく穏やかな日々になっていることが、うれしいです。平穏こそが幸福と強く感じています。一人一人の人生はまだまだ続きます。これからも、何が起こるかはわかりませんが、前を向いて生きたいと思います。
そちらも4月からの暮らし、その後いかがですか?毎日が案外早く過ぎているのではないでしょうか?
温かいメッセージに心から感謝いたします。またお会いしましょう。お元気でいてください。