ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

娘よ(2)

2013-07-14 17:23:15 | 生き方
再三様々な検査を行ったが、どこが悪いのか、何が原因なのかは相変わらずわからない。
効果を期待して、新たにステロイド剤の投与が始まった。
点滴で、飲み薬で、けいれん止めの薬と合わせて使うようになった。

娘の精神状態が突然ひどくなったのは、入院してからちょうど2週間目となる日の朝だった。荷物をまとめて、「家に帰る」と強行しようと暴れまくった。
点滴の管を引き抜こうとしたり、帰ろうとしたり、ベッドに立ち上がったりするようになった。
この日から、体には、拘束帯が必要になった。
それを取ろうと、必死に指を動かしたり体をねじったりする姿は、本当に悲痛な姿だった。
心が正常ではない人のそれだった。
そんなだから、やがて拘束帯のほかに、手足にも拘束ベルト・手袋が必要になった。
意識が正常でないから、点滴を取ったりベッド上で立ったり逃げたりしようとするからだ。
わかってはいても、娘がベッドに拘束された姿を見るのは、家族として心が痛んだ。


彼女の言動は、あきらかに認知症の人と同じになっていた。
言っていることに脈絡がない。
自分が入院していることも時に分からなくなるようになった。
病室が、時にお好み焼き屋や食べ物屋になった時もあった。
「あと一つだけ食べようかな。」
「すみませーん、誰かいませんか~。」
などと廊下に向かって叫んだりしていた。
どんどんおかしくなっていく娘。
しかし、われわれ家族にできることは何もなかった。
面会時間に訪ね、一緒にいてあげ、相づちをうって上げるくらいしかないのがもどかしかった。
家族が責任もって付いてあげられるとき、拘束帯やベルト・手袋は外してあげることができた。
せめて食事の時間は外してあげたい、と考え、朝は無理でも、昼食や夕食の時に家族や信頼して頼める誰かが付いてあげられるように努めた。
 
話をする時、時々は正常な会話が成立した。
「小学校の頃のマラソン大会でいつも1位だったけど、2位は誰だったっけ?」と聞くと、正確にその時の級友の名前が出てきた。
数年前勤めた事業所が所有する車種や台数なども正確に言えたりした。
看護師さんの名前も、自分に好意的に接してくれる方なら、「〇〇さーん」などと、その名を間違えずに呼べたりもしたのだった。
話の中身が大半おかしい話をしている時でも。

とにかく、私たちにできることは、そばにいて話を聞いてあげること。
拘束を解いてあげること。
食事を気持ちよくできるようにしてあげること。
そんなことぐらいしかなくなってしまったのだった。
倒れてから3週間もたつというのに、娘はよくなるどころか、こんなふうに悪化の一途をたどるばかりだったのである。
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