ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

卓球に夢中だった頃があったと思い出す

2017-12-26 22:51:00 | スポーツ
今でこそ、自分自身が最も多く行うスポーツが長距離走となっている私ではある。
しかし、何度かここで書いたことがあるが、自分が高校・大学時代に行っていたのは、卓球であった。
卓球は、中学校時代に夢中になった。
それも、部活ではなく、いろいろな友達とあちこち卓球台が置いてあるところを回って、打ち合うのだった。
50年前のあの頃は、あちこちの会社で卓球台を置いてあるところがあった。
昼休みや勤務終了後などに社員が遊べるようにという、厚生の一つの施設設備としてあったのだった。

学校の放課後などは、まだ会社は勤務時間中であるから、卓球台が空いていることが多かった。
空いている卓球台がある会社は、4つほどあった。
友達と回って、空いていないと、先客(だいたいは同じ中学生だった)に「入れて。」とお願いしたりして、半コートずつで打たせてもらったりもした。
一緒に試合をすることもあった。
だが、「ダメ。」と断られたら、別な卓球場を探して移動することもよくあった。
また、入り込んで打ち合っていると、会社の人が怒鳴り込んできて、「勝手に卓球台を使うな。」と叱られたところもあった。

中学校では、定期テストの1週間前になると、部活が活動禁止になった。
だから、卓球台は卓球部員だけのものではなく、やりたい人が自由にやることができた。
楽しんでやっていると、だいたい先生が見回りに来て、「テスト前だというのに、いつまで遊んでいるんだ!帰れ!!」と、大声を出されたものだった。

その当時、名古屋で世界卓球選手権大会が行われた。
私は、卓球部員でもないのに、世界卓球の選手たちのプレーに引きつけられた。
特に、その大会では、文化大革命以降世界の舞台から隠れていた中国が、7年ぶりに参加したことで注目されていたのだった。
アメリカと中国の間で「ピンポン外交」が生まれたのがこの大会だった。
その頃、過去に世界卓球選手権で何度も優勝した人に、荻村伊智朗という人がいたことを知った。


いろいろと卓球の思い出を書いてきたが、急に書きたくなったのは、今読んでいる本が「ピンポンさん」(角川文庫;城島充)だからだ。

この本は、何度か世界チャンピオンに輝いた荻村伊智朗選手の人生と、彼を支えた卓球場を経営した女性とのかかわりを重ねて書かれてある。

今でこそ卓球は注目されるスポーツになったが、荻村が卓球を始めたばかりの戦後の時代は、スポーツとして認められていなかったのだ。
そこから、荻村の波乱の人生が展開されていく。

ようやく本の半分ほどまできたが、卓球が大好きな自分としては、卓球だけでなく昔の暮らしとがクロスしているので、興味深く読めている。
そこで、自分の中学時代、卓球に夢中だった頃のことを思い出したしだいである。
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