好著だ。
野村克也氏は、プロ野球に選手としても監督としても偉大な業績を残した方だ。
その言動に注目が集まるようになったのは、解説者として実に専門的な話をしていたころから。
そして、監督として弱小チームを強くする力量をもち、どのように強くしたか、どんな理論を持っていたかが書かれた本は、読んでみるとどの本も読みごたえがあった。
書かれた言葉は、経験に裏打ちされた重みがあって好まれている。
それゆえ著書も100冊を超えているはずだ。
中には、名言集や格言集の類だってある。
そんな重みのある言葉を数多く発した野村氏が亡くなったのは、妻の沙知代氏を喪ってから2年余りでしかなく、実に短い時間だった。
本書は、野村監督時代にヤクルトスワローズの番記者だった著者が、沙知代氏を喪って気力も体力も失った野村氏と交流しながら、野村氏の生き様と最後の一年を綴ったものである。
あれほど素晴らしい強打者であり、指導力のある監督であり、野球人として成功を収めた野村克也氏。
なのに、本書には多くの人から敬愛されていた彼が、自分には人望がない、とずっと思い込んでいる姿が描かれていた。
「好かれなくても良いから、信頼はされなければならない。嫌われていることを恐れている人に、真のリーダーシップはとれない」
そんなリーダー哲学をもっていた野村氏だったが、監督業から離れた後、妻を喪うと、その哲学を通してきた副作用が深い孤独となって彼を襲ったのだった。
著者は、駆け出しの記者の頃、野村監督に暴言を吐かれて1年も無視された経験もあった。
だが、野村氏の人間性を理解した著者は、生気を失った彼のために行動を起こした。
野村氏の「究極の望み」に、以前気付いたことがあったからだ。
それは、「人を残す」ということだった。
「人生の中で何を残したのか。それによって、その人の価値というものが決まる。ワシはそう思っている。財産、仕事、人があるとしたら、やっぱり大切なのは、人だろう。そう思わんか?ワシは<財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上とす>を座右の銘としてきた。しかしワシは、何を残したんやろな」
野村氏に今改めて「人を残した」という確信を持ってもらうために、著者は行動を始めた。
最初は、月に一度の野村氏との食事会に始まった。
そこから様々なことを聞き、野村氏本人の思いを引き出そうとする。
「番記者」との「同窓会」、コーチとの同窓会、ヤクルトの選手たちとの同窓会…。
著者は、そんなことを次々に企画し実現させて、「人を残した」思いを野村氏に抱いてもらうことに成功したのだった。
本書は、そんな最期の1年のエピソードの合間に、野村氏の野球人生での歩みをはさんでいく。
彼は、テスト生から出発して一流選手にまでその地位を向上させていったすごさを持っているというのに、選手時代も監督時代も、そしてその後も、自己肯定感が低いままであった。
そして、スター選手だった長嶋氏や王氏に対するコンプレックスをずっと持ち続けていた。
人から愛されたい、愛されているという実感を得たい、そういう願いが人生でずうっとあったように見える。
それは、貧しさの中から生まれていた。
若くして夫を亡くし、幼い子どもたちを守り、老いた舅と姑を支えて64歳で人生を終えた野村氏の母。
貧しくても苦労をしても、弱音を吐かずに生きた母の背中を見て育った彼は、33歳のときに母を喪っている。
野村の生きる基準は、常に母だった。人に迷惑をかけると、母は悲しむ。それなら、人の役に立てば、母は喜んでくれるのだ―。
「自分が選んだ野球という仕事で、何か、人さまの役に立ちたい」
亡き母に誓った思いは、やがて「人を残したい」という具体的な目標に結びついていった。
本書をずっと読み通して、思う。
彼は、母の愛がほしかった。
貧しい子ども時代、もっと母の愛がほしかった。
だが、貧しさはそれをさせなかった。
母は、生きるために精一杯働いていたのだった。
それを見て育った彼は、働くことに精一杯の精力を傾けた。
それが野球だった。
人生の中で、母の愛に近い愛を得ることができた。
それが沙知代氏だった。
彼を丸ごと包んで愛してくれる愛だった。
自分を丸ごと包んでくれる愛をほかに見いだせないから、彼女の死後、自分には人望がない、とつぶやくばかりになっていたのではないかと思う。
だが、著者の尽力によって、彼は「人を残した」という実感をいくばくかでも得ることができたはずだ。
本書によって、野村克也氏は、「すごい人」から「弱い老人」にまでなり下がる。
だが、その真の姿を知って、なおさら人間味が深くなって、好感が持てた。
こうして寄り添って、彼の最期の一年を書き記しながら、その人生もたどってくれる本書。
彼の人生を教えてもらいながら、自分の人生についても考えてしまう。
やはり、好著だ。