ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

特別支援教育の視点を取り入れること

2010-12-28 18:38:09 | 「育」業

「なぜ、お前はできないんだ。ほかの子はみんなできるのに。」
「どうして、お前はそんなに遅いんだ。みんなは、もうとっくに行ってしまったのに。」
「1年生にだって、簡単にできるぞ。」
よくほかの子と比較して、こういうことが言われてる子がいます。
かつて、私もこのような言葉ばかり言われていました。
こういう言葉ばかり受けている子は、切ない思いで毎日を過ごしていることを、どうして周囲の人たちはわかってくれないのでしょうか。
私の場合は、子どもの頃、運動や動作がのろく、周囲の人たちから―同級生や上級生たち、そして大人たちからも―、こういう言葉を受け続けました。
「劣等感のかたまり」で日々を過ごしていました。
こういった言葉ばかり受け続けている子は、どうなるでしょう?
「自分なりにがんばっているのに、ほかの子みたいにうまくいかない。」
「自分にいいところなんて、ない。」
「自分なんて、どうせダメな人間だ。」
と、自分に対する自信、つまり「自己肯定感」がもてなくなります。
生きていることに投げやりになっていくのです。

今、学校現場では、特別支援教育の視点を取り入れた授業や指導が求められています。
その根底には、「どの子もできるようにしたい」という願いがあるのです。
「特別支援教育」というと、単に障がいをもった子どもの教育と誤解する人がいます。
通常の子どもたちから切り離して行う教育が、それだと思われています。
違うのです。
だって、特別「支援」教育なのですから。
子ども一人一人の教育的ニーズを把握し、そのもっている力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うのが、特別支援教育なのです。
つまり、個に応じた適切な指導・支援によって、「できる」経験と自信を与え、一人一
人の力を高めようとすることをねらっているのが、特別支援教育なのです。

子ども一人一人がもっている力は、違います。
そのもっている力に合わせて指導・支援を行うことは、大人の大切な務めだと考えています。
「うちの子は、周りの子と同じことができなくても、皆と一緒にいてくれればそれでいい」
という大人がたくさんいます。
それは違います。
周りの子たちはできるのに、他者と比べて自分にはできないことばかり、という経験の連続では、子どもは将来にわたって生きていくための自信を失うばかりです。
その子なりのペースに合わせ、「○○ができるようになったね。」と喜び合い、自己肯定感を高めていくことは、とても大切なことではないでしょうか。
その積み重ねにより、生きていく自信がつくように育てることが、教師や親をはじめとする大人の責務と考えるのです。
私の場合は、成長して体が大きくなり、運動が人並みにできるようになりました。
競技によっては人に勝ることも経験できました。
そうして、幸い私は自己肯定感をもつことができました。

「特別支援学級に入ると、友達がいなくなり、みんなに差別される」
という大人もいます。
それは、偏見です。
偏見が差別意識を生み、周囲の人たちに広げていくのです。
特に、大人です。
「できる・できない」ばかりを気にする大人の偏見が、子どもたちに伝わっていくのです。
その子が、とてもよくがんばっていることやできることが増えていることを、一緒に喜んであげるように大人が働きかけてあげていれば、周囲の子どもたちも、偏見ではなく敬意を持つことができるようになるのです。
どの子にもよさがあること、がんばっていることを、大人がきちんと伝えていくこと。
それが何より大切だと思うのです。

どの子にも「できる」経験と自信を与え、自己肯定感を高めていくこと。
どの子もがんばっていて、力を付けていっていることを喜び合うこと。
たくさんの大人に、真の特別支援教育の視点をもってほしいと思う、今日この頃です。
コメント (2)
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