イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

言葉と心について

2009年02月15日 13時08分53秒 | Weblog
「言葉は心そのもの」と言うようなことをどこかで書いた記憶があります。

書くことは書いたのですが、
どうも舌っ足らずであったように思えてならないのです。

だから今日はそのことに触れてみようかな、と思っているのですが、

でもですね、それにはまず、「再帰」と言う言葉の意味を説明しなければならず、
それはなんとも面倒なことだな、とも思っているのです。

でもやってみましょうか

再帰とは「入れ子構造」の文法のことです。

私たちは、私たちが思う以上に結構複雑な文法を巧みに使っていたりします。

「あの子はきっと僕のことが好きなんだ」と言う文章を正確に書けば、

「私は、あの子は私のことがすきなのだと思う」と、このようになります。

この文章の文法を説明すると、「私」「あの子」と言う主語と、「すき」
「思う」と言う述語が、主語主語、述語述語と言う順番で並んでいて、

さらに詳しく説明すれば、「私は思う」と言う大きな主語と述語のカッコの中に
「あの子はすき」という主語と述語が組み込まれた「入れ子構造」を
なしていることが分ります。

わかります?

このような入れ子構造をした文法のことを「再帰」というのです。

この程度のことは日常的に考えたり喋ったりしているので、
改めてどのような文法になっているかなど、気にも留めないし、
また、いちいち気に留めていたら、会話にもなりません。
それくらい当たり前に使ってはいますが、説明するとなると
ちょっと面倒くさいものなのです。

しかしこれは実のところ、人間にしかできない複雑な表現方法なのです。

音を使ってコミュニケーションをする生き物は多々あれど、
再帰と言う方法を用いて表現できるのは人間だけなのです。

先ほどの文章を読んでみれば分りますが、「私」は「あの子」の視点に立って
「私」を評価しているのです。

つまり再帰とは視点が他者にあると言うことです。

これはつまり、私は私を客観的に見れると言うことです。
私は私の後頭部を見ることができる、と言うことです。

三歳くらいの子供はまだ文法がおろそかなので再帰を使えないのです。

三歳くらいの子供の行動を見てみれば一目瞭然です。

自分の「いま」の行動を客観的に見れないのですから、
情動的なところが優先されてしまうのです。

客観的に見れると言うことはつまり、

私はなにものであり、何のために存在しているのだ、
と私自身に問えると言うことなのです。

私たちはあらゆる場面でこういう問いをするでしょう。
夫婦間や、地域や会社など所属しているものの中で、
私たちはこういう問いを自分に問いかける。

その回答を示すのは「言葉」なのであって、情動的な部分ではない
と言うことです。

言葉がなければ、私が私に、そう問いかけることは不可能でしょう。

猫がニャーニャー言いながら、実のところ、

「吾輩がなにものであるかと言うと、人間に猫と名づけられたものである
。名前はまだついてなく、人間社会におけるわれわれの存在意義は
癒し、といったところかな」

と言っているようには私には見えません。

自分の存在意義を追及している生き物を私は見たことがありません。
人間以外にはね。

言葉がないということは、自分を客観視することができないと言うことであり、

それはつまり、自分の性格を省みることも、おしゃれをすることも、
その他一切の人間的行動をすることができない、と言うことなのです。

さて、ここから先は構造主義のソシュールや、ロランバルトを
読み返していただければと思いますが、

簡単に言うと、

どの言葉を使うかで、「私の心」が決定されるということです。

結論

言葉は心そのものです。

もう一つの結論

人間の起源とは言葉を取得したときであると言うこともできます。

まだ書き足りないような気もしますが、この辺にしておきましょうか。

久しぶりに長くなってしまいました。

それでは、サラマレイコム