イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

あだ花 鈴木君のこと2

2009年03月25日 19時12分17秒 | Weblog
知り合いや友達になるきっかけなど、大体こんなもんです。何かドラマのような劇的な出会いなどそうそうあるものではありません。大森君は一人っ子で、てんで競争と言うことを知らないおっとりバカ、太郎さんは何から何まで一応一回は斜に構えてみせる斜めバカ、そして僕はと言えばそれまでのあらゆることを中途半端に終わらせてきた中途半端バカ。気の会う接点がまるで見つからないようなこんな四人が、ただ同じ環境に放り込まれたと言うそれだけで、不思議にも親友と呼ぶ以外に方法のないくらい強く結びついていったのでした。
入学してまもなくお互いが示し合わせたわけでもないのに、僕らは決まって大森君の部屋に集結し、そこに大森君がいようがいまいが関係なく、我がもの顔でくつろいで後の三人を待つことが日課となったのでした。もちろんおっとりバカの大森君もそのような状況を安易に受け入れ、自分がいようがいまいが部屋に鍵をかけることはなく、いつでも出入り自由な環境を整えていてくれたのです。
それでも大森君が主役になることはただの一度もありませんでした。四人の中の主役はいつだって決まっていました。
進学校くずれの鈴木君。
ダントツに教養を持ち合わせていた鈴木君はいつだって会話の中心であり、僕たちは彼の教養にただ酔い知れるだけなのでした。

もちろん教養があるとは言え、その範囲は中学校卒業レベル程度のものでしたが、それでも何の教養も持ち合わせていないものにとっては、脅威以外のなにものでもなく、みな彼の前では自分の馬鹿さ加減を嫌と言うほど痛感し、彼の話を寺小屋の子供のように貝のように押し黙ったまま正座をして聞き入るのでした。 

「あのね、you isなんて言い方はないんだよ。I isもなし」。そこで彼は「はぁ」と小さなため息をつきさらに先を進めるのでした。「Youにはare、Iにはam、これは決まりごとなの。たとえばあの猫は黒いを、あの猫を黒いじゃ変でしょ。これと同じで英語にも文を作るときの決まりごと、文の法律とでも言うべきものがあるの」

脳みその半分をけんかの流れをうまく運ぶことのみに費やし、後の半分はすでにあることすら忘れているものたちにとって、彼が何を言っているのか理解できる臨界点はこの時点ですでに過ぎ去り、後はただ呆然と口の動きだけを、しげしげと観察でもするように、さも真剣な顔つきをして見せて理解してるよとでも言いたげな顔で眺めているばかりなのでした。
「どう、わかった」

そんなこと中学校から高校まで一度だって分ろうとしたことのないものたちに分るわけがないのである。
「わかったよ、でもなんでアメリカ人はさ、アイの次はアムにしようなんて思ったんだ」
おっとりバカの大森君は質問もおっとりバカなのでした。
 
つづく