イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

構造主義フーコー2

2008年07月31日 18時40分45秒 | Weblog
思い込みの粉砕。それこそがフーコーのやろうとしていたことでした。
私の持ち合わせている概念はあらゆる時代、あらゆる地域に通じるものだ、
という思い込み。
たとえば今ある歴史認識においても、私たちは歴史を一筋の川のように眺め、
進歩と進化を繰り返し今に至っているのだなと思いがちですが、フーコーは
それに異を唱えるのです。
本当にそんなふうに「いま、ここ、わたし」
に向かって歴史は流れてきたのですかと。
歴史に一筋の線を見出すということは、現実の一部分だけを捉え、
それ以外の可能性から組織的に目を逸らさない限りできません。
たとえば家系をたどろうとするときにおいても、
真っ先にたどろうとするのは父親の家系ではないですか。
しかもその家系の中に歴史的な人物がいたりすると
「私は織田信長の末裔なのだよ」といってみたりする。
しかしそれは「信長」から「私」に至るまでのそのラインにだけ光を当てたに
過ぎないではないですか。たとえば信長から私に至るまでに7代要したとします。
すると私が誕生するまでには2の7乗、
144人もの先祖がいるということになるのです。
私に至るまでには織田ばかりではなく、内田とか、加藤とか、斉藤とか、
さらには日本人ではない血も入り込んでいるかもしれないのです。
そのようなものを全て無視した結果見えてくるもの、
それが「織田信長の末裔」というものです。
フーコーは問いを発します。
「これらの出来事はいかにして語られてきたのか」ではなく、「これらの出来事は
どのように語られずにきたのか」と。
このような見方をするには、いま私が持ち合わせている発想や概念を「かっこにいれて」
歴史的事象にまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければ
到底できることではありません。
このような方法をフーコーはニーチェの系譜学的思考から継承したのです。

今日はここまで、

金曜日、土曜日はお休みします。

次回は

フーコー「狂気の歴史」です。