イスラエルでの暮らし

イスラエルでの暮らしなど、紹介します。そして今現在の生活で感じたことなど

構造主義後編1 フーコー

2008年07月27日 08時58分27秒 | Weblog
人間の心とはいったいいかなるものなのかと思います。
心を閉ざした瞬間から見えているはずのものが見えなくなり、
聞こえているはずのものが聞こえなくなる。
いくら自制しようとしても自制しがたい圧力に押し戻され
そこから抜け出すことの困難さといったらインディージョーンズも真っ青
というくらいのものですよ。
しかし、その反面永遠なるほどの持続力も持ち合わせてはいないので
どれだけ頑なな心であってもいつかはほころびは生じる。
視界を失ってしまったその頑なな心に出来たわずかなほころびを
広げることの出来るものこそ、知力ではないのかなと思います。
聖書にはこう書いてあります。「無知は死の影」
頑なな心、つまりそれ以上を知ろうとしない無知からは
発展を期待することは出来ません。
「知」とはあらゆる軋轢や、いがみ合いや、利害などを調整することの出来る
最高の道具なのだと思います。

さあ、そんなわけで構造主義の後編です。
第一の登場人物はフーコー。
彼のやろうとしたこと。それは今ある社会制度の生成現場の探求でした。
私たちはいまある概念や社会制度が、時代や地域に関係なく
基本的に同一のものであろうと信じています。
それはたとえば、今ではもちろんそうではないのだなと誰もが思っていますが、
二十年以上前くらいまで、日本人のほとんどが、
世界中のどこであろうと人様に迷惑をかけたら「ごめんなさい」
と謝ることが常識だろうと思っていたのです。
私などはつい最近までそのように思っていました。
だからイスラエルに行ったときは本当に驚きの連続でした。
彼らは想像を絶するほどに謝ることが大嫌いな民族だったのです。
本当に謝らないんだから。どれだけ自分が間違っていようと、
自己の正当性をこれでもかと主張してくるんだから。
このようなことではパレスチナとの和解など、到底おぼつかないと思えてきます。
多少脱線しましたが、
このように私たちが時代や地域に関係なく通じるものだと思っていた概念や
社会制度は、実はそのほとんどが歴史のある時点から作られたものだったのです。
私たちが何か物事を考えるとき、
私たちは無意識に今ある概念や社会制度を当てはめて
思考していますが、それらはどれも時代を超えて通じるものでも、また
地域を越えて通じるものでもないということです。
今日はこれくらいで。

明日は実際にフーコーがどのようなものに目をつけて、
このようなことを看破したのかを書こうかなと思っています。

思っているところです。
もしかしたら明日ではないかもしれません。