【原文】
東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿参られけるに、この殿との、大将にて先を追はれけるを、土御門相国、「社頭にて、警蹕いかゞ侍るべからん」と申されければ、「随身の振舞は、兵杖の家が知る事に候」とばかり答へ給ひけり。
さて、後に仰せられけるは、「この相国、北山抄を見て、西宮の説をこそ知られざりけれ。眷属の悪鬼・悪神を恐るゝ故に、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰おほせられける。
【現代語訳】
東大寺の御輿が、東寺に新設した八幡宮から奈良に戻されることになった。八幡宮を氏神とする源氏の公家が御輿の警護に駆けつけた。キャラバンの隊長は、かの内大臣、久我通基公である。出発にあたって、警備の者が野次馬を追い払うと、太政大臣の源定実が、「宮の御前で、人を追っ払うのはいかがなものでしょうか」と咎めた。通基は、「セキュリティポリスの振る舞いは、私たち武家の者が心得ているのでございます」とだけ答えた。
その後、通基は、「あの太政大臣は、『北山抄』に記された作法だけ読んで、『西宮記』に書いてある作法を知らないようだ。八幡宮の手下である鬼神の災いを恐れ、神社の前では、必ず人払いをしなくてはならない」と言った。
その後、通基は、「あの太政大臣は、『北山抄』に記された作法だけ読んで、『西宮記』に書いてある作法を知らないようだ。八幡宮の手下である鬼神の災いを恐れ、神社の前では、必ず人払いをしなくてはならない」と言った。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。