俺はワルポンだっ!

ちょいワルおやじを卒業したワルポンの斜め下から見た現代社会

『旧堀田邸』

2009-04-29 20:58:57 | Weblog


「旧堀田邸」は、佐倉市街の丘の上にあります。

佐倉藩は十一万石の大名でしたが、その最後の藩主の堀田正倫(まさとも)の住宅として明治23年に建てられました。
現在では国指定重要文化財として市が管理していて、一般に公開されています。

主な建物は、木造平屋一部二階建で、玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿などが渡り廊下でつながって建てられています。

☆       ☆       ☆       ☆

堀田正倫は邸宅も含めた3万坪の広さのこの地に堀田家農事試験場を作り、農業の発展に尽くしました。現在では3分の一程度の広さとなっていますが、緑の芝生に松や百日紅(さるすべり)の老大木と石灯籠や大きな庭石が配され、眼下には高崎川が流れ対岸の台地を借景にした広大な庭園が広がっています。

いつもは、居間棟の二階と書斎棟は非公開となっているのですが。現在は4年に一度の公開で中に入ることが出来ます。
写真は、その二階から書斎棟を見下ろしたところです。

書院の床脇の違い棚を上下に挟む天袋と地袋の引き違い戸には、明治を代表する女流画家の跡見花蹊によって、一枚の繋がった構図の絵として梅が描かれていました。

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近くには「佐倉順天堂記念館」が公開されていますし、徒歩圏には武家屋敷や神社仏閣、古い街並みが見られ、城跡公園には「国立歴史民族博物館」があります。

是非とも、この連休には一日散歩コースとして佐倉を訪ねられたら如何でしょうか!

『修行僧見参(けんざん)』

2009-04-25 21:00:21 | Weblog
先ごろ、成田山へお参りした際に「光輪閣」の裏にあるトンネルへ自転車を置かせてもらったので取りに行って表へ戻ってみると、いかにも旅の修行僧とおぼしき僧衣姿の3人と成田山僧侶たちにカメラマンまでいましたので、何事かと見ていました。

様子を窺っていると、どうも、二人の弟子を従えたインドの修行僧が成田山へ見参(けんざん)し、今から管主様に拝謁(はいえつ)するところのようでした。

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光輪閣玄関の石段下の石畳の上で裸足になり、錫杖(しゃくじょう)菅笠(すげがさ)を前に置いて、何度も礼拝(らいはい)を繰り返した後、直立して管主様のお出ましを待っていました。

光輪閣へ上がるよう、せめて玄関まで上がるように何度も僧侶たちが勧めていたのですが、固辞して石段下で微動だにせず、すっくと背筋を伸ばして待っていたのです。

しばらくして、管主様が玄関先へお出ましになり、管主様も上へ上がるように勧めましたが、再び固辞して礼拝し、石畳の上に禅を組んで接見が始まりました。

猊下(げいか)に拝謁出来たことへの謝辞を述べ、何年か前に先の猊下に拝謁してインドへ渡り修行の旅へ出て本日帰参した旨や、高尾山へも報告に上がったことなどを、響きわたる大声で口上を述べておりました。

接見が終り丁寧な挨拶を交わした後に、案内係の坊さんに先導され弟子を従えて悠然と山門を出て行かれました。
まるで、三蔵法師が孫悟空や八戒、沙悟浄を供に連れ、白馬・玉龍に乗って天竺へ旅して諸山を回った西遊記の一場面を見ているような気がしました。

時空を超えてタイムスリップしたような別世界の光景を目の当たりにして、しばし茫然と見送ったのであります。

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ところで、ワルポンは無宗教者なのですが、日本人で有りながら、あまりにも無関心で宗教に関しての知識がほとんどありません。

ついでにで、誠に恐れ多いのですが、主な仏教について少々調べてみましたので骨子を書き出してみます。

 宗派名  開祖     (ご生涯)     本山      ご本尊
・天台宗 仁教大師最澄(767~822年) 比叡山延暦寺 釈迦如来
・真言宗 弘法大師空海(774~835年) 高野山金剛峰寺 大日如来
・浄土宗 法然上人(1132~1211年) 華頂山知恩院 阿弥陀如来
・浄土真宗 親鸞聖人(1173~1212年) 西本願寺、東本願寺 阿弥陀如来
・臨済宗 栄西禅師(1141~1215年) 南禅寺など 釈迦牟尼仏
・曹洞宗 道元禅師(1200~1253年) 永平寺、総持寺 釈迦牟尼仏
・日蓮宗 日蓮上人(1222~1282年) 身延山久遠寺 釈迦牟尼仏


こんなことを書き連ねても、功徳になるとは思いませんが、これからも神社仏閣に参って小銭を賽銭箱に投げ入れることになるでしょう。

御利益(ごりやく)を少なからず、いや、山ほど期待して・・・

『スーパーがオープンしましたあ!』

2009-04-24 21:49:55 | Weblog
オラの街に待望のスーパーマーケットがオープンいたしました。

ワルポンがこの街へ引っ越したばかりの頃には、歩いて行けるところにスーパーがあったのですが、いつの間にか閉店して、その後、何度か代替わりしたりしていたのですけれど、いつからか本当に無くなって久しく経ちました。

☆       ☆       ☆       ☆

車社会ですから駅前に行けば、かなり大きなスーパーもありますし、ちょっと10分も走れば大型総合ショッピングセンターもありますから不便を感じたことはありません。
でも、あまり大型のショッピングセンターは歳のせいか、広すぎて歩き疲れてすぐに嫌になっちゃいます。

毎日の食料品や日用品などが買える小型のスーパーがご近所に出来る計画があると聞いて、待ち遠しく今日が来るのを本当に心待ちにしていました。

それがぁ、本日ぅ、ついにぃ、オープンしたのですぅ。

澄みきった青い空には大きなアドバルーンが3つも揚がって賑々しくオープンしたのです。

先だって、スーパーの方が開店の案内状と粗品を持って各戸を回って来ましたので、9時開店で先着1000名様にエコバッグプレゼントがある情報もしっかりゲットしていましたから、朝食後すぐの9時過ぎに家を出ました。

と、通りに出るとスーパーに曲がる交差点まで車がぎっしりと渋滞していました。
それでも、先着1000名には充分間に合うだろうと思ったのですが、押っ取り刀(おっとりがたな)で駆けつけてみると、ありゃりゃ!

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入場制限60分待ちの長蛇の列、大行列ではないですか~!
仕方無しに並びましたよ~。

1000番以内にいるのだろうか? エコバッグ貰えるだろうか? などなど・・・考えているとスーパーの開店応援スタッフとおぼしき方が、宣伝チラシを順番に配っていたので貰い受け暇つぶしに見ていると、後方に並んだオバちゃんが大声で「ここらでもエコバッグ貰えるの?」とスタッフに聞いていた。さすが、オバちゃん!

スタッフは頭の中で数の計算をしてたのか、「う~ん」と唸って、しばらくしてから「ここら辺がギリギリかも・・・」だと。
「オイオイ大丈夫だろうね?」と思ったけれど、黙って並んでいました。

しばらく進むと、今度は女性のスタッフが大きな手提げ袋を腕にかけ、「飴とキャラメルとチョコレートのどちらがいいですか?」と、前の方の列から配って来ました。

ワルポンは即座に判断して飴にしました。何故かと言うと、まだしばらく行列に時間がかかりそうだったから、長持ちする飴を選んだのです。
ところが、貰った飴はりんご味で美味しく無かったのよ。チョコにすれば良かった・・・

そんなこんなしている内に最終コーナーを曲がって、あと6分待ち、ついにお目当てのエコバッグを貰うことが出来ましたぁ~!
ピンク、緑、茶、赤、黄など様々ありましたが、その中から茶をゲットしました。
「やったあ、うれしい~っ!」と思ったのですが、表情に出さずに「ありがとっ」と、ブスッと言って受け取りました。

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目的も果たしたし小一時間も並んで疲れたので、家に携帯から電話してワイフに代わってもらうことにしました。

バトンタッチして家に帰りました。

これから老化がどんどん進んで車も運転できなくなって・・・ 
ここにはお世話になりっぱなしになるかも・・・ 
又、閉店されちゃ困っちゃう・・・ 今から毎日、買い物して応援にしなきゃねッ!

それにしてもエコバッグ、ゲット出来て良かったなあ~!

という考え方が・・・ 俺も完全にオバちゃん化しているな、と反省しています。

『多古米』

2009-04-23 19:16:35 | Weblog


里では、うぐいすが上手にさえずり、賑やかなカエルの合唱が聴かれる季節となりました。

田んぼでは、代かきが始まりトラクターが忙しく動き回っています。
早いところでは、もう田植えが始まっているようです。

       ☆       ☆       ☆       ☆

昔から手賀沼や印旛沼では干拓が進みましたし、県下全域で農産物の生産は盛んで、千葉県は北海道に次ぐ農業県になっています。

稲作も盛んで、中でも千葉県香取郡多古町の「栗山川」流域でとれる「多古米」は評判の美味しさです。南魚沼産の「コシヒカリ」や庄内米の「はえぬき」ほど、ビッグなブランドじゃありませんが、昭和46年の「全国自主流通米品評会」で「食味日本一」に輝いた本当に美味しいお米です。

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多古町のすぐお隣は、成田国際空港です。

世界に羽ばたく近代空港と、数千年前から連綿と続いてきた「多古の稲作」の対照が面白くありませんか?

こんばんは、良く噛んで味わって食べよ~っと!

『成田山 新勝寺』

2009-04-22 21:49:47 | Weblog
日本人は神様仏様が好きです。

世界のどの国でも、自分たちの宗教が決まっていると云う人たちが圧倒的に多いと思うのですが、日本人はというと、一つの宗派にこだわらず、神仏混交、八百万の神を拝んでいる方が圧倒的に多いのではないかと思います。

今年の正月三が日の神社、仏閣の参拝者数は、全国では9,939万人で、その一位は明治神宮の319万人、二位は成田山298万人、三位は川崎大師の296万人だったそうです。

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成田山新勝寺の年間参拝者数は1,000万人とのこと、皆さん本当に信心深いですよね。

駅から参道を行くと去年完成した総門が聳え立ち、その巨大さに圧倒されます。
がっしりとした石段を登り、仁王門をくぐって更に続く急な石段を登ると、眼前に大本堂が姿を現します。

成田山新勝寺は真言宗智山派の大本山です。

境内には、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂などのお堂が立ち並び、いずれも重要文化財に指定されています。
本堂の裏手は「成田山公園」と呼ばれる16万5千㎡の広大な日本庭園になっていて、一度は足を延ばしてみたいものです。

写真は、ちょうど御護摩を終えて本堂からお下がりになるまっ赤な差し掛け傘の管主様の行列です。
御護摩は一時間おきに行われているのですが、九時からの奇数時間には行列が出ます。11時は管主様がお出ましの行列だそうです。

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「花より団子」、JR成田駅、京成成田駅から続く門前の参道には、成田名物の羊羹や鉄砲漬け、川魚の佃煮、手焼きせんべい、地酒、竹細工の日用品・・・お土産には事欠きません。
うなぎの蒲焼、お蕎麦、お寿司・・・食べ物屋も並んでいます。

そうそう、行列の絶えない大判焼き屋も人気です。

帰りに、小豆餡を2個と白餡2個を買いました。
パックに4個並んでいましたが、外観上見たところ同じなので、「どうやって見分けるんだい?」と訊いたら、「両はじが小豆で、中2つが白餡です」との返事。

さすがプロ! いや~あ、感心したねぇ。

『手賀沼公園』

2009-04-21 22:48:10 | Weblog
   ↑
【手賀沼公園から手賀沼大橋をのぞむ。左側の森の中が「文学の広場」です】



手賀沼公園は、我孫子市の手賀沼のそばにあります。

手賀沼公園には「文学の広場」があって、志賀直哉や武者小路実篤、柳宗悦(むねよし)、中勘助らを紹介した説明板が立ち並び、斉藤茂吉の歌碑などもありました。

我孫子は、今でこそ東京への通勤が便利な住宅地ですけれど、その昔の手賀沼湖畔は、鎌倉と並ぶ文士たちの別荘地だったそうです。

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湖畔の大通りから一本山側に入った旧道と思われる車一台がやっと通れる細い曲がりくねった道沿いに、武者小路実篤、中勘助、嘉納治五郎らの別荘跡地があり、志賀直哉邸跡の斜め前には白樺文学館が建っています。

同館には、大正デモクラシーの時代の白樺派に関する資料がいろいろと展示されていて、志賀直哉や夏目漱石、小林多喜二、バーナード・リーチらとの人間関係が判りやすく表示されていました。地下の応接室には、柳兼子の懐かしさを誘うレトロなアルトの歌声が流れていました。

湖畔を取り囲んでサイクリングロードがあり、「山階(やましな)鳥類研究所」や「鳥の博物館」、「水生植物園」、「フィッシングセンター」・・・の多彩な施設や神社仏閣などの歴史的建造物と優れた自然の手賀沼の水域が渾然一体となって、独特の文化地域を創り出しておりました。

☆       ☆       ☆       ☆     

ところで、手賀沼公園には「手賀沼をきれいにしましょう」みたいな文言を書いた立派な立て看板があり、その末尾に「手賀沼課」とありました。

そういえば、永年、全国の“水質汚濁ワースト1位”が定着していましたねぇ。

どうも安孫子市は「手賀沼課」という「おやっ」と思う名の部署を設けて、“ワースト1位”の汚名を返上しようと、本気で浄化対策に取り組んでいるようです。

千葉県には、もう一つ水質の悪い印旛沼があります。

頑張れ手賀沼! 負けるな印旛沼!


『天敵』

2009-04-20 00:19:15 | Weblog
一昨日、三春の“滝桜”を観に行った帰りに、郡山へ行って春ニシンを食べようと言うことになったのです。

というのは、38年前に郡山で食べた、脂ののった焼きたての塩焼きのどでかい一匹まんまの子持ち春ニシンに、大根おろしをたっぷり添えておしょう油で、口いっぱいにほおばって食べたあの味が忘れられなくて、郡山に行ったらもう一度食べてみたいと、あれからずーっと思っていたのです。

その後、何度も郡山を訪ねることはありましたが、なかなか時間と機会が無いままになっていました。
今日こそ千載一遇のチャンス(ちょっと大袈裟ですが・・・)、と言うことで、郡山までの12kmの道程を遠回りすることにしたのです。

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ところが、店の名前も場所も覚えていないのです。
坂の中腹の横丁を入った高台にあったことぐらいしか覚えていないのです。
兎に角、行けば何とかなるサ・・・

食い意地って云う奴は恐ろしいですね。しばらく車を進めている間に、突然「児雷也」の名前が浮かび上がり、お店の名前を思い出したのです。

駅前の交番へ飛び込んで尋ねました。若いハンサムなおまわりさんが、電話帳や自分の携帯電話のインターネットで一生懸命に調べてくれました。
が、結局判りませんでした。お店の商売閉じたのかなあ・・・
すまなそうな顔の親切なおまわりさんに、丁重にお礼を言いました。

ところで、「児雷也」って、若いおまわりさんはご存じなかったと思います。
だって、「ジライヤ」と言ったのに、「ジダイヤ?」時代屋?と何度も聞き直していましたから・・・

       ☆       ☆       ☆       ☆

「児雷也」をご存じない方の為に、若干講釈申し上げますので悪しからず。

「児雷也」は江戸時代の後期に本が出て、歌舞伎などに登場して知られる架空の忍者です。
ワルポンの幼少のころには、少年雑誌の「おもしろブック」か、なんかのマンガになりましたので同世代の方はみんな知っています。

ガマに乗り操る妖術の忍者・児雷也(じらいや)と、ナメクジの妖術を使う綱手(つなで)、大蛇に変身する大蛇丸(おろちまる)が、それぞれ「三すくみ」で戦う天敵同士の、雲を呼び、空を飛ぶ、時空を離れた世界で戦う壮大稀有なスペクタクル・・・です。

こんなことを書きたくて、書いているのではありません。
まったくの余談です。
年寄りの習癖でして、前置きが長くてすみません。

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うちの畑の山法師(やまぼうし)の枝先に、去年の秋に産み付けられたカマキリの巣(卵のう)から、今日見たら、蟻んこよりも数段かぼそい生まれたばかりのカマキリの赤ちゃんが這い出して、春の陽を浴びながらのんびりと、エッチラオッチラ体操をしていました。

ところが・・・デンデン
巣の上には・・・デンデン
天敵の蜘蛛がそおーっと忍び寄り、じっとチャンスを狙っています・・・デデンデン
危うし、カマキリの赤ちゃん!・・・デデデンデンデン

自然界は非情です。
食うか食われるか、戦いは生まれて、すぐから始まっているのです・・・
カマキリは交尾が終わると、子孫繁栄のためにメスがオスを食べてしまうということです。

人間社会も同じです。天敵がいるのです。嫌な奴がいます。
親の脛をかじる子供などは、まだ可愛い部類ですけれども、競争社会では、日常的に食うか食われるかの戦いを強いられています。

負ける訳には行きません!
頑張れ、日本!

『三春の“滝桜”』

2009-04-19 00:35:49 | Weblog
今日は福島・三春の“滝桜”を見に行ってきました。

圏央道の牛久東ICからETCを使って入り、常磐高速道から磐越道に乗って現地を目指しましたが、三春ICに渋滞情報が出ていましたので、ひとつ手前の小野ICで高速を下りました。
高速料金は、本当に1000円でした。麻生さんのおかげです。

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途中、「種まきの桜」や「永泉寺のサクラ」を見ながら、その外にも名も無い沢山の満開の桜を見ながらスムーズに一般道を進んだのですが、三春ICから滝桜に向かう道路に出て合流すると激しい渋滞に巻き込まれました。

すぐに、ワルポン得意の裏街道に入ったのですが、1kmほど先で、元の渋滞の道に戻されてしまいました。

小さい頃から運動会で走りは苦手だったのですが、障害物競走だけは、何故か、いつも得意だったのです。
道路脇の車の待避所に10台ぐらいの車が駐車してありましたので、直感で、そこへ車を停めて歩き出しました。

しばらく行くと、人に出会いましたので、滝桜までどのくらいの距離かを訪ねましたら、3kmくらいとの返事を貰って、ひらめいて思ったとおりと、元気に歩きました。
普通の速さで歩いても、渋滞する車を倍くらいのスピードで抜かして進みました。

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30分ぐらいで着きました。
真っ盛りの“滝桜”に対面することが出来たので~す!

淡い薄紅の花が、傾く夕陽に浮かび上がり、正に滝の流れが溢れ落ちるようなその姿は、さすが日本三大桜のひとつです! 花もすごいが幹が、又、ものすごい! 神が宿っておられました! 
感激し、カメラのシャッターを切り続けました。


樹種はベニシダレザクラ、樹齢1000年以上、樹高12m、根回り11m、幹周り9.5m、枝張り東西22m南北18m・・・

暗くなったらライトアップもされるそうで、ワルポンが帰途に着いた夕方になっても、現地に向かう車列は切れ目無く続き、相変わらずの渋滞でした。

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郡山に出て夕食を食べた後、東郡山から再び高速に乗って柏ICまでひとっ飛び、家まで250kmを2時間半で帰り着きました。帰りの高速代は1400円。
(「温泉でも泊まろうか?」と言ったのですが、「泊まらない」と、一言で却下、人使いが荒いのです。全走行距離530km、今日もこき使われました)

三春の“滝桜”周辺はあんなに混雑していたのに、磐越道も、常磐高速もガ~ラガラでした。

高速道路はペイ出来るのでしょうか?
本当に、日本経済は大丈夫なんでしょうか? 

得した気分ですけど、心配です・・・ 麻生さん!



『チューリップ』

2009-04-17 22:15:40 | Weblog
せんだって、印旛沼のそばの「佐倉ふるさと広場」のチューリップを見に行って参りました。

風車が勢いよく回って、オランダ国旗がはためいていて、チューリップも色とりどりにきれいに区画され、今が見頃と咲き誇っておりました。

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何で、印旛沼のほとりにオランダの国旗や風車、チューリップ畑があるの・・・?

佐倉とオランダの関係をご説明申し上げねばなりますまい・・・

佐倉とオランダの関係は、江戸時代の鎖国と関係があるのです。
江戸幕府はキリスト教を排除するために鎖国令を発し、外国との交流を閉ざしたのでしたが、オランダ、中国、朝鮮は例外で、長崎の出島を通じて交易がありました。ちなみに今年は日蘭交流400周年だそうです。


佐倉藩主の堀田正睦(ほったまさよし)は、幕末近くの天保14年(1843年)に蘭医・佐藤泰然を招いて蘭医学の塾「佐倉順天堂」を開いて全国各地から医学生を集め、オランダから西洋医学を学んで、「西の長崎、東の佐倉」と云われるように、日本の医学をリードする多くの人々が輩出されたのでした。

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こうして、この歴史的交流から佐倉日蘭協会が設立され、佐倉とオランダのつながりが今でも続いているのです。

そのシンボルとして、「本格オランダ風車」が3.7億円の市費を投じてオランダから輸入・建設され、又、輸入したチューリップが今では50万本も咲いているのです。

チューリップは希望者に売ってくれます。

佐倉と深く親しい交流があるということは・・・ オランダでも、佐倉名物「蔵六餅」が売られているのかなあ?


そんなことは無いようです。

『歌謡曲』

2009-04-16 23:32:11 | Weblog
今日、「吉田正音楽記念館」(入場無料)に行って参りました。

作曲家・吉田正のふるさとである日立市に建つその建物は、足下に市街と太平洋を見下ろす胸のすくような絶景の高台にあって、満開の桜と芽吹いたばかりの見るからに柔らかな淡い新緑の山々に囲まれておりました。

レコード大賞も何度か、勲三等旭日中綬章、国民栄誉賞・・・など沢山の賞を受賞。
古賀政男、服部良一、遠藤実、船村徹など、昭和の大作曲家の一人です。

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歌謡曲は、演歌とか流行歌などとも呼ばれますけれど、邦楽と洋楽の音感覚をあわせ持った哀愁を帯びた曲で、日本人の心をくすぐる旋律が、なかでもムード歌謡と呼ばれる範疇の歌がいいですねぇ・・・

「異国の丘」、「街のサンドイッチマン」、「好きだった」、「有楽町で会いましょう」、「潮来笠」、「いつでも夢を」・・・
誰でも知っている曲です。

門下生には、鶴田浩二、フランク永井、和田弘とマヒナスターズ、橋幸夫、吉永小百合・・・がいます。

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古賀政男の「丘を越えて」、服部良一の「青い山脈」、遠藤実の「おひまなら来てよね」や「からたち日記」、船村徹の「王将」や「別れの一本杉」・・・
歌手も藤山一郎、五月みどり、島倉千代子、村田英雄、春日八郎・・・の名が思い浮かびます。

昭和の歌謡曲はいいですよねぇ!

ワルポンが若かりし頃、ハワイアンバンドの「モアナ ハワイアンズ」というグループがダンスパーティの舞台に立った時、ワルポンもウクレレ持って出演したこともあったんだぜ!

いえ、正直に申し上げますと、実はメンバーのウクレレ担当が急用で出演できなくなって、「どうせ舞台上は暗くて誰にも判らんから、弦に触れないでポーズで立ってろ」と先輩に言われて、一晩1000円のアルバイトでして・・・

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口惜しさのあまり、その後ウクレレ買って、かなりの腕前になったのですが・・・

したがって、カラオケは大好きで~す。
ムード歌謡、ハワイアン、そうそう、一節太郎の「浪曲子守唄」は十八番ですッ!

作曲家の先生は遊び人が多いとお聞きしますけど・・・

自分で言うのも何ですが、飲み屋のお姐さんにはかなりモテたもんですよ。

ずうーっと、昔の過去の話ですけどッ!