俺はワルポンだっ!

ちょいワルおやじを卒業したワルポンの斜め下から見た現代社会

『本土寺・帝釈天・法華経寺』

2017-06-25 11:59:43 | 観光地
またまた御朱印ゲットの旅に出かけました。
今回は以前に何度もお参りした葛南地区の有名寺院を訪ねました。
そのいずれもが日蓮宗のお寺です。
房総は日蓮の生まれた国なので多いのは当然でなのしょうか?

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最初に訪れたのは松戸市北小金の本土寺です。


紫陽花寺としても有名です。


秋には紅葉も美しくて参拝客が絶えません。
昼休みの時間は御朱印の記帳ができませんでしたので、仕方なく参道にある茶店で昼食を摂りましたよ・・・

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次に、本土寺から車で20分ほど走り、“寅さん”で有名な葛飾柴又“帝釈天”に行きました。
正式名称は「経栄山題経寺」です。

“瑞竜松”とよばれる松の木が帝釈堂の屋根よりも高く聳え立ち、まさに天にも昇らんとする龍のようでした。


法華経の説話を絵巻の題材として木彫の「胴羽目彫刻」が帝釈堂の周りを囲んでいます。


大正11年から昭和初年にかけて当時の彫刻名人たちが欅材(縦1.27m、横2.27m、厚さ20cm)に彫ったもので、「重要文化財級の価値がある」と、彫刻ギャラリーの入場券に書いてありました。

大庭園:邃溪園(すいけいえん)には回廊がめぐらされていて、見学することができました。


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さらに車で20分ほど走ると市川市下総中山の法華経寺に着きました。
日蓮宗の総本山は身延山の久遠寺ですが、ここ法華経寺は日蓮が生まれた誕生寺などと共に五大本山の一つです。
毎年11月1日から2月10日の寒中に100日間にも及ぶ修行は比類なき荒行として知られています。

蓮池にはもう赤とんぼの姿も・・・


“比翼入母屋造り”の「祖師堂」は圧巻で国指定重要文化財に指定されています。
この様式の建物は岡山市の吉備津神社(国宝)と2か所だけとのこと。


「鬼子母神堂」前の本殿寺務所で御朱印を頂きました。
御朱印を頂いた時の代金は比叡山はじめ、多くの神社仏閣で300円でしたが、こちらでは“御芳志”とありました。

小銭を持っていない時は困るう~・・・
お釣りを下さいとも言えないし・・・大枚をお納めしました。

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ちなみに、諏訪大社の4社は500円でした。観光地だからでしょうがないのでしょうか?

本土寺で御朱印の記帳を待っていたおば様たちに聞いたところによると、明治神宮や赤坂の日枝神社は500円だそうで、やっぱり東京は高い。
そう思ったのですが、神田明神や浅草浅草寺は300円とのこと。

信心深そうな老若男女も金銭には口さがないことで・・・




『香取神宮と鹿島神宮』

2017-06-23 23:05:51 | 観光地
明治以前、“神宮”と称する神社は伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3社しかないなく、格式の高い神社でした。
その香取と鹿島へ行ってきました。
実は年相応に、このところ凝っている“御朱印”をゲットするために・・・です。

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香取神宮の創建は神武天皇18年なる由古文書に記されているそうですが、現在のご本殿は元禄13年に檜皮葺屋根、黒塗権現作りで徳川綱吉公によって造営されたそうで、重要文化財となっています。
明治4年に官幣大社となり、戦場へ赴く軍人や兵隊たちが武運長久を祈願しました。


本殿の脇には樹齢約1000年というご神木がありました。


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鹿島神宮の創建は皇紀元年頃(紀元前660年)で、有史以来の歳月を重ねているとのこと。


社殿はその昔、伊勢神宮のように20年ごとに造営されていたそうです。
現在の社殿は元和5年(1619年)に二代将軍徳川秀忠公により奉納されたそうです。

「奥宮」は、慶長10年(1605年)将軍徳川家康公が本殿として奉納されたものを元和の造営の際に引き移したのだそうです。


「要石」は見えているところは直径25㎝ほどしかありませんが、中へ行くほど大きくなっているそうで、地震を起こすといわれる大鯰の頭を押さえていると言われています。
水戸光圀公が掘らしたところ7日7晩かかっても掘り切れなかった大きさとのこと。
このため、この地方での地震の災害はないそうです。


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帰りに「潮来あやめ園」へ立ち寄りました。


「娘十八番茶も出花」・・・こんな穢れのない清々しい浴衣を着たような可憐な花もありました。


夕日が西に大きく傾くころ帰途に就き、一日がかりの小旅行で首尾よく両神宮の念願の“御朱印”を有難く頂戴いたしました。

・・・信仰も疲れるものです。


『御射鹿池』

2017-06-16 12:56:51 | 観光地
蓼科山麓の農地は高地にあることや、奥蓼科温泉郷から流れ出る水は酸性が強く冷たい鉱泉のため、農民たちは水不足と冷害に苦しんできたのです。

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このため、流れ込む冷たい水を、溜池を作って温めることによって農業用水として使用しようと、1933年に「農業用温水ため池」である「御射鹿池」を作りました。
面積1.3ha、貯水量26000t、最大水深8m、堤体標高1528mです。
「御射鹿池」の名の由来は、諏訪大社に伝わる神に捧げる鹿を射るという神事、「御射山御狩神事」にあるそうです。

PH4前後と酸性が強く魚などは生息できません。でも、そのために湖面には山や木々がきれいに映し出されるといわれています。


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東山魁夷画伯の名画「緑響く」はここをモデルにされたそうです。


農林水産省の「ため池100選」にも選定されています。



「乙女滝」

2017-06-14 16:49:39 | 観光地
江戸時代、蓼科山麓にある田畑は水不足で度々飢饉におそわれていました。
名主の“坂本養川”は蓼科山から流れ出る何本かの川を横断してつなげる堰を作ることで水量の多い川から取水し、水不足の地域に水を流す計画を作成し高島藩に献策しました。

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これによって、滝の湯川から「芝湛(しばたたえ)」と呼ばれる木と石で築いた堤防で川を堰き止め取水し、開削によって作った延長10.4kmの「滝之湯堰」が1785年に完工、また、延長12.5kmの「大河原堰」も1792年完工し、現在もそのまま使用されています。
これらは「世界かんがい遺産」に登録されています。

取水した川の冷水を温めてから農業用水として流すために、周囲1㎞、面積0.08㎢の「温水溜池」とよばれる「蓼科湖」が標高1250m地点に造られました(1952年)。

横谷渓谷は深い谷です。ここを横断する「大河原堰」は人工の滝を作って水を一旦渓谷に落としました。これが「乙女滝」です。

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「横谷温泉旅館」の手前の崖寄りの空きスペースに路駐して、すぐ近くの階段を下りること50mぐらいで滝のサイトに立つことが出来ました。

落差16mとはいえ、てっぺんから滑るように谷底深く落ち込む様は迫力満点です。


落ち込む滝口まで登ってみましたが、流れ落ちる水流と一緒に谷底に吸い込まれそうで足がすくみました。


無事生還できてよかった・・・


『波の伊八』

2017-06-08 15:08:17 | 観光地
先日、ドライブがてらに走っていたら、万木城カントリークラブの近くの「東頭山行元寺」というお寺の前を通りかかりました。
“波の伊八”の縦看板が目に留まりました。
葛飾北斎の浮世絵「冨獄三十六景神奈川沖浪裏」にそっくりの欄間が見られるという。


本堂に参拝して観光案内の方から丁寧に長々と説明を受けた後、薄暗い書院に案内され、「波に宝珠」と名付けられた“欄間”を拝見しました。
北斎もこれを見て、宝珠を富士山に置き換えて描いたのでは・・・と説明をされました。


伊八は鴨川の生まれで本名を武志伊八郎信由(1751~1824年)といい、房総の各地や相模の国に数多くの欄間彫刻を残したということです。
開山して1150年という古刹でした。


時にはぶらりと訪ねても新しい発見ができるものですね・・・知らないのは自分だけかもしれませんが・・・