静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

ありえない現象

2009-12-13 22:09:12 | Weblog
今まで見てきたように、私たちの生きている〃現実〃が、なぜ、今、ここに、このようなものとしてあるのか、それは大きな謎で、きちんと説明するのは大変難しいのです。ただ、説明できなくても、明日からの生活に困るわけでもなく、考えたところで一銭の得になるわけでもありませんから、皆さんスルーしておられるのでしょう。

因果の道理を聞いて、素直にそれを受け入れ、順境に奢らず、逆境に人を恨まず、日々、努力精進していけるなら、今まで書いてきたようなことは別段、分かる必要もないのだと思います。
ただ、因果の道理を信じられないという理由で、攻撃してくる人もあるので、それらに迷わされないためにも、一応、知っているに越したことはない内容とは思うのです。

その上で、因果の道理を非難攻撃する人に出会い、詰問され、返事に窮するようなことがあれば、では本当のこととは何なのか、その人によくよく聞いてみたらいいでしょう。
因果の道理が真理ではないと言うのなら、あなたは何が正しいと考えているのですか?その人自身の見解、立場を尋ねてみることです。とことん「なぜそれが正しいと言えるんですか?」「あなたは本当にそう信じているんですか?」と尋ねてみたらいいと思います。「語るに落ちる」というもので、中途半端なところに妥協点を見出していることが暴露されることでしょう。

「いや、この世に絶対的な真理なんてないんだよ」というようなことを言ってきたとしても、その主張自体が、すでに自己撞着を起こしているではありませんか。絶対的な真理がないのなら、「絶対的な真理などない」というのも真理でなくなってしまうからです。

いかに難解な言説で迷彩をかけてきても、人である限り、その奥に必ず何か信じているものがあるのです。相手の話を聞きながら、その人の信じているその核が何かをじっと見つめることだと思います。それが見えた時、相手がいかに高圧的な出方をしても、ああ、大したことないな、と気づくはずです。

さて、

三世因果の道理を信じていないとするならば、その人の核にあるものは、おそらく唯物論的なものか、霊魂説に近いものでしょう。両者とも仏教では外道といわれます。しかし、今まで書いてきたようなことを言っても、相手が仏説を認めようとしない場合もあるでしょう。それなら、これから書くようなことを言ってみてはどうでしょう。

唯物論にせよ、霊魂説にせよ、〃世界〃はこのようなものとして最初から私たちの前に実在しているのだという常識が前提にあります。しかし、その常識が、現代物理学の先端では崩れてしまったのです。

どういうことかといえば、物理学が、いわゆる肉眼で観察できる対象のみを扱っていた時代は、ニュートン力学ですべての現象が整合性をもって説明できたので、ニュートン力学的な世界観が私たちの「常識」となりました。ところが20世紀に入り、肉眼では観察不能なミクロの世界にまで対象が広がってくると、従来の物理法則からはありえない現象が出てきたのです。(つづく)


因果の道理を深信し、日々精進を

2009-12-12 18:28:41 | Weblog
 善因善果、悪因悪果、自因自果、カボチャの種からナスビの芽が出た、ためしがない。まいたタネしか、生えてはこないのです。むろん結果は、ただちに現れるものもあれば、数十年後、さらには、来世に結ぶものもあります。遅速はあっても、いつかは必ず、果報を受ける。歴然として私がない、この因果の大道理を深信し日々精進する、これが仏法者というものです。

 これまで見てきたように、人は皆、夢を現実と思って生きています。夢とはいえ、醒めない夢ならそれは〃現実〃。中途半端な虚無感や無力感に浸っている場合ではありません。

 自分の生み出した世界に生きているのですから、運命は100パーセント自ら作っていくのです。そこに、私は悪くない、悪いのはあの人のせいだ、この人のせいだ、などという自分の思いを持ち込み、因果の道理に反した言い訳や誤魔化しを通用させようとしがちですが、本当のことが分かれば、全くそれは意味をなさないのです。まさに「死んだ子の年を数える」ような愚痴。大馬鹿。

たとえ隠れてやったことでも、心中密かに思ったことでも、すべては業となって残り、いずれ自らに結果を出すのです。他人に見つかった、見つからなかったなど、他人の視線に左右されることではないのです。

この因果の理法を知らず、放縦邪悪の行為をすれば、この世から、恨み、呪いの苦患を受けねばなりません。
それは、自身の破滅のみならず、自分の周囲の人をも悲境に追いやることになるので、よくよく気をつけるべきでしょう。

道路には道路法規という法があり、そんなものオレは認めん!というのも勝手ですが、そんな調子で車を乗り回せば、あちこちで衝突を起こし、泣くのは法を無視した自分です。

仏教で説かれる法は、そんな人間の定めた、そらごとたわごとレベルの法ではなく、三世を貫く、三世因果の法なのです。それを謗り、無視し、ねじ曲げて、どうなるか。法謗罪の恐ろしさを少しでも感じてもらえたらと思います。そして因果の道理をどんどん人に勧めてほしいと思います。

私たちが、この理法に従った言動をもっともっと心がければ、必ず人生は変わるでしょう。自分が変われば、周囲も変わる。ひいては世の中全体が明るくなるでしょう。因果の道理がいかに大切な教えか、どれだけ強調してもしすぎることはないと思います。


さて、最後に、

一人一人が自分の生み出した世界に生きているとして、なぜ、私たちはお互い他者と関われるのか?例えば、自分が樹木を切り倒すとして、自分の心内の木が倒れるのは分かるとしても、なぜ、他人の目からもその木が倒れてしまうのか?この事実をどう解釈するのか、という疑問が残ると思います。

これについては、唯識とよばれる仏教の学問の中で詳細に説明されています。ただそれを書くことは大変煩瑣になります。複雑ですが、唯識をよく勉強しておられる人はちゃんと分かっているのです。私たちとしては、「説明されている」という事実を知っておくだけで十分ではないでしょうか。昔から「唯識3年、倶舎8年」ともいわれて、学びつくすには長い年月がかかるのです。それらの学問をしたとして、その知識が、善因善果、悪因悪果、自因自果、この因果の大道理を深信し、日々精進するという仏法者の生活に収斂(しゅうれん)してくるのでなければ、何のための学問なのか、ということにもなります。自分を飾るため、他人より博学なのを誇示するだけの学問では意味がありません。


ただ、それでは不満な方のために、もう少し説明しやすい科学、主に量子力学の世界から話をしたいと思っています。(つづく)


変わる心が、変わる世界に

2009-12-11 20:39:56 | Weblog
一人一人が阿頼耶識の生み出した世界に生きている。
ということが仏教に教えられています。

阿頼耶とは蔵の意味で、蔵にはものが蓄えられています。
同様に、阿頼耶識にも蓄えられているものがあり、それが、私たちのやった行為(業)です。
この業を植物の種子になぞらえて業種子(ごうしゅうじ)ともいいます。種子には、太陽や水や土などの縁によって発芽し、やがて木となり実を結ぶ力があります。 
同様に、業種子には、縁によって私たちにこの〃現実世界〃をあらわし、タネに応じた苦楽を受けるという結果を起こす力があるのです。一切は、阿頼耶識に記録された原因が、毎日現れてきているのです。

煩瑣になるのを避けるため、概要だけですが、もう一つ触れておくならば、

天親菩薩は『唯識三十頌』という書の中で、阿頼耶識を、
「恒転如暴流(恒〈つね〉に転ずること暴流〈ぼうる〉の如し)」
と説かれています。「暴流の如し」とは、滝のように速い水の流れのことです。滝を遠くから見ると、一枚の布を垂らしたように見えるけれど、実際は無数の水の粒が激しく入れ替わっています。一瞬たりとも同じ状態ではないにもかかわらず、滝は滝としてずっと存続しています。

このように阿頼耶識は過去世・現在世・未来世にわたり流転する主体なのですが、絶えず変転していて、それは固定不変の魂のようなものではないということです。

「暴流の如し」。私たちのこの〃現実世界〃が、変転極まりない阿頼耶識の現わした世界である以上、この世界も原理上、絶えず変転するもので、絶対不変の世界とはいえないということです。

それは、「栄枯盛衰は世の習い」というような、感覚的に分かる次元の話だけでなく、その「世の中」というものの基軸である「時間」や「空間」自体、不変絶対のものではないということです。

19世紀以前の、ニュートン力学が支配的だった頃の世界観は、絶対時間、絶対空間というものが当然のこととして想定されていました。
しかし、アインシュタインの「相対性理論」の登場で、絶対時間、絶対空間はもろくも否定されてしまいました。
でも、アインシュタインの登場を待たずとも、仏教ではもともと絶対的な時間も空間もないことが教えられていたということです。

変わる心が、変わる世界で、一体、何を築いて、この人生に「幸福」の二字を刻印するつもりなのでしょう?

こういう話があります。

昔、楚の国(中国)の愚人が、家宝の剣をひそかに持ち出し、急流に浮かべた舟上で、試し切りに興じていた。切れすぎた反動で、剣は飛んで水中にジャボンと落ちた。舟はどんどん流されてゆく。驚いた彼は、さっそく、剣の落ちた舟べりに小刀で、深く印を刻み込み、〝やれやれこれで、剣のありかは安心じゃ〟とつぶやいたという。刻印の移動が念頭にない愚かさを笑ったものであろう。
 金や財を力にしている者は、金や財を失った時に顛倒する。名誉や地位を力にしている者は、それらをなくした時に失墜する。親や子供を力にしている者は、親や子を亡くした時に倒壊する。信念を力にしている者も、信念ゆらいだ時にまた崩壊する。(『なぜ生きる』)


私たちは迷いが深く、こう言われても、どこかに崩れないた確かなものがあるように思い込み、安穏と暮らしています。でも、一切合財が変わるということを本当に理解したならば、人生観は変わるでしょう。
崩れるものを頼り切ったこの人生が、たちまち薄氷を踏むような、不安に満ちたものと気づかされるはずです。いや、そんな不安、感じたことない、という人もあるでしょうが、それは幸福なのか、愚鈍なのか、胸に手を当てて考えてみればいいと思います。

臨終にはすべてが、私の身体も何もかも、世界ごと跡形もなく消えてゆきます。何にも残りません。人々の記憶に残る、など、本当のことが分かれば何の慰めにもなりません。重い業を担って、泣く泣く出て行くだけです。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一も相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」(御文章)

次回は、各自が自分の生み出した世界を生きていることの補足と、それに関連し、「自分の行為が自分の運命を作っていく」という因果の道理の厳格さを、もう一度振り返ってみたいと思います。(つづく)





人生五十年 下天のうちを比ぶれば

2009-12-10 20:33:51 | Weblog
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり……」

織田信長が出陣の際に謡ったといわれる謡曲「敦盛」の一節です。共感する人が多いことからも分かりますように、だれしも人生を夢のように感じる瞬間がある。でも、それは「夢のように」はかないという意味であって、この現実が、構造的に、夢みたいだと分かってのことではないと思います。
分かっていれば、戦場など行かなかったでしょうから。

さて、
私たちは素朴に、自分の前に無限大の空間が広がり、そこに悠久の時間が流れている、そういう「時間」と「空間」を基軸とした世界が実在しているという感じをもっています。理屈はどうあれ、そのようにしか思えないのです。

でも、それのどこがいけないのか。
時間も、空間もちゃんと実在している。だから、今、私たちにそれがありありと感じられているのじゃないか、と言われる方もありましょう。でも、昨日書きましたように、夢を見た時、そこにもやはり「ありありとした」空間が広がり、時が流れていたはずです。ということは、私たちの心は、いくらでも私に「世界」を現わしてみせることができるのです。だから、その「ありありとした」という感じも、〃実在〃を証明する根拠にはなりえません。

さて、

夢は「意識」の乱舞といわれます。
意識には「夢」といわれる世界を、自身に現わす働き、作用があるということです。
夢は「意識内」に現れた、実在しない虚構の世界ですから、目が覚めると同時に消えてしまいます。

では、夢から覚めた、この「現実」と呼ぶ世界はどうなのでしょうか。

夢は、完全に自分だけの世界ですから、「意識が生み出した意識の中の世界」として、説明も理解も容易いのですが、この「現実」という世界が私に現れてくるのは、もっと複雑な構造で説明も難しくなっています。

ですが、結論から言えば、この現実世界とは、「意識」よりも深層にあって、私たちには知覚することのできない「阿頼耶識」の生み出した、やはり夢みたいな世界ということです。

万人に共通した、絶対的な時間も空間も本当は実在せず、それらは各自の共業(共通した業のこと)が生み出したもの。一つの世界を共有しているという錯覚の中で、各々が関わりあって夢見ている。いや、夢を現実と思って暮らしている。ということです。
ぼんやりとしたイメージでも、そう自身に問いかけ、振り返ってみてはどうでしょう。

夢で、宝くじに当たったと大喜びしていても、夢から覚めれば、くだらぬことに浮かれていたと自嘲するほかありません。
同様に、人生もまた夢の如し。とすれば、金が儲かったといって喜び、勉強ができた、仕事が成功したといって人に自慢し、恋人がいる、結婚した、子供が生まれたといって喜び、家が建ってご満悦でいるのも、それが夢中の出来事とすれば、何とつまらぬことではありませんか。

確かに、生きていくのに必要、大切なものではあるでしょうが、人生の目的と呼べるものではありません。その証拠に、それらはいつまでも幸せの形をしてはいないのです。

砂に書いた文字が、書いたあとから消えてゆくように、どんな幸せも、つかんだあとから消えていく。人生自体が〃夢〃ならばそれも当然かと。こんなことをいつまで続けるつもりなのでしょう?臨終ともなれば、何らかの爪跡を残したはずのこの「世界」丸ごと消えてゆくというのに。

だから、蓮如上人もおっしゃっています。
「人間はただ夢・幻の間のことなり、後生こそ永生の楽果なり」
「人間は五十年・百年の間のうちの楽しみなり、後生こそ一大事なり」
「それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」

もし、人間に本当に救われたということがあるならば、それは、夢の世界でいかに大喜びしたか、感謝できたか、ということではなく、この迷いの夢から「覚めた」といえることのはずです。

いつの時代、どこの世界にもいろんな宗教があり、それぞれに「私は救われた!」という体験談が付きものですが、たとえ本人がどんなに喜んでいても、救われたか否かは、その喜び具合では決まるのではありません。夢から覚めないうちは、夢を夢とは語れません。どういう意味合いでその人は「救われた」と言っているのか、語る内容から、その体験の質や深さは、自ずと計られるというものでしょう。


夢の世を夢見て暮らす夢人が……

2009-12-09 19:54:22 | Weblog
昨日、書きましたように、私たちの目に見える、そのままの「世界」が、本当に「私」の外部に実在するわけではありません。それは若干の考察を加えれば、だれしも納得できることでしょう。

ただ、見えたままではないにせよ、「私」の外部に「世界」がある。この確信だけはそう簡単に揺らぎそうにありません。

以前、「胡蝶の夢」の話を書きましたが、この世は自分の生み出した「夢」みたいな世界、とは、ひとつの可能性としては考えられても、本気でそうは思い切れないと思います。

でも、私たちの思いは思いとして、問題は仏教でどう教えられているかです。

外界は実は存在しておらず、ただ存在しているかのごとく現れ出ているにすぎない。我々をとりまく「すべての存在」は心の投影である。心の外に事物的存在はない。一人一人の人間は、それぞれの根本心である阿頼耶識(あらやしき)の生み出した世界を認識しているだけである。

と、このように教えられています。それは、天親菩薩の著された『唯識二十論』にも、繰り返し主張されていることです。

この「すべての存在」には、自分の意識、身体、他人、さらには自然、宇宙など一切の事象が含まれます。身体も自然も宇宙も、すべて心が作り出したものと聞いて、「そんな馬鹿げたことが」と反論する人もいるでしょう。でも、そのような常識的な立場を一端捨ててみてはどうでしょうか。

それまでその中に心があると思っていた身体が、
外界に厳と存在するのだと考えていた大自然が、
自分はその中の針の先のようなちっぽけな生命にすぎないと思っていた宇宙が、
すべて「私」の中に収まってしまう。

これは、そんな馬鹿げた、荒唐無稽なお話でしょうか?

『唯識二十論』では、度々、夢を例に説明されています。夢を見ている時を考えれば、上記のことは、まったく突飛な話ともいえず、むしろ日常、私たちが経験により実証済みのことではないでしょうか。

恐ろしいものに襲われ、いくら逃げようにも足がもつれて前へ進めない。もうだめだ!と観念した時、夢から覚めた。すると床の中で毛布が足にからまっていた、という類の経験はだれしもあると思います。

自分を襲ってきた相手、走ろうとした足、自分のいた空間、経過した時間、それらは皆、自分の心が生み出したものであり、夢を見ている間はまぎれもないリアルな「実在」です。
しかし、夢から覚めたとたん、それらは一切は跡形もなくなります。
何処へ消えてしまったのでしょう?

すべては自分の生み出した虚構の世界に自分だけがいたということ。
その世界という「もの」は虚構でしたが、もがき苦しんでいたという「こと」はリアルであった、ということです。
その意味で、この「現実」と呼ばれる世界という「もの」もまた、夢みたいなものなのです。

この世は夢、というと、「な~んだ夢か」と、現実世界という「もの」を軽視しているように聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。
夢は覚めてこそ夢であって、覚めることがない夢ならば、それは現実と言うほかなく、その中でしか生きられないという「こと」はリアルなのですから、おろそかにはできないのです。

この夢のような世界に、厳然と「善因善果 悪因悪果 自因自果」の大道理が成立していて、誰もこの法則から逃れることはできません。
夢を見ている時、自分でその夢から脱出できないように、過去無量劫から迷いの夢を見続けている私たちは、迷いから脱することはなく、因果に縛られ、苦から苦へ転々としているということです。


話としては分かるけれど、本当にこういう考え方をしなければいけないのでしょうか?と不安に思われる方もあるでしょうし、すべて自分が生み出した世界とするならば理屈が通らぬとか、科学的ではない、と言われる方もあるでしょう。でも実は、これこそ最も「科学的」な世界観なのです。
次回以降、可能な限り、それに答えていくようにしたいと思います。(つづく)

あらゆるものは心を離れて存在しない

2009-12-08 20:39:20 | Weblog
紺碧の空、果てしなき大地、洋々たる大河は、自分の心を離れて存在する。あるいは肉体と心は別々の存在であると思っています。

私たちは常識的に、心の外に事物が存在し、私たちの心は、それを鏡が写し取るようにとらえている。だから、見えたままの世界が、自分の心の外に本当に「ある」のだと素朴に信じています。

しかし、それは本当のことでしょうか。

私たちが「世界」と呼んでいるものについて、少し検証してみることにしましょう。
私たち日本人と、アメリカ人、インド人とでは、大きく文化が異なります。だからそれぞれの国へ行くと、まるで別世界に来たような感じを持ちます。

でも、別世界とはいえ、その体験した「世界」を構成する要素を分析してみますと、つまるところ視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の情報、つまり色や形、音、匂い、味、熱さ、固さなどの感触、こういう5種類の要素から成り立っている点では変わりません。その5種以外の要素が、自分の世界に登場してくることはありません。

ここは人や国が違っても共通することなので、ここから、
「世界というのは、まあこんな感じのもの」という確信が生まれてきます。

でも、他の生き物は、私たちのこの〃感じ〃を共有しているものでしょうか?
他の生き物について、少し考えてみましょう。

たとえばミミズ。彼らも私たちと同じ地球に生きているはずですが、ミミズには目がありません。ということは、彼らの生きている世界に、色や形はそもそも存在していないはずです。
また耳も無い。だから彼らの生きている世界に音は存在しません。そのほか、匂いも、味も、感触も、人間とは大きく異なる、あるいは存在しないはずですから、同じ地球に暮らしているとはいえ、全然異なる世界を生きていることになります。ミミズには、人間の生きる世界など、想像すらできないことでしょう。

しかし、だからといってミミズの「世界」認識は不完全で、人間こそが「世界」を完全に認識していると言えるでしょうか?

人間は、たまたま眼・耳・鼻・舌・皮膚という5種の感覚器官を持っていたから、こういう世界、つまり5種の要素(情報)で構成された世界を生きているわけで、もし、6つめの感覚器官を持って生まれてくる人があれば、その人の生きる「世界」は6種の要素で成り立っているはずです。となると、その人の体験している「世界」は、5つの感覚器官しか持っていない正常な?私たちにはうかがい知ることもできないはずです。

ではいくつの感覚器官を持った生き物が〃完全な〃世界認識を得るのでしょう?

それは、その生き物の持つ感覚器官に応じて、生きる世界もいくらでも変わるので、どれが完全な世界とは言えません。

ここから分かることは、最初に書いたような、心の外に事物が存在し、私たちの心は、それを鏡が写し取るように認識しているという素朴な信念は、迷妄だということです。

事実は、私に応じて、世界も変わるというということです。

しかし、見えたとおりの、「紺碧の空、果てしなき大地、洋々たる大河」は存在しないのだとしても、心の外に世界が「ある」という確信だけは揺らがないと思います。

ところが、仏教では、その〃確信〃さえも、迷妄と破っているのです。

それは、
「一切の諸法は、皆我心を離れず」
<あるゆるものは心を離れては存在しない>という教えからも明らかです。(つづく)

胡蝶の夢

2009-12-07 18:28:30 | Weblog
( Photo by (c)Tomo.Yun ) http://www.yunphoto.net

中国の昔の思想家で、荘子という人がいます。
その荘子の思想を表す代表的な説話に「胡蝶の夢」といわれるものがあります。どんな話か、ここに引いてみることにしましょう。


いつのことだったか、私はうたた寝の夢の中で胡蝶となった。
ひらひらと翅にまかせて大気の中を舞いあるくことの楽しさ。
私は私が私であることも忘れてその楽しみに耽った。
やがてふと目が覚める。私はやっぱり現身の私だ。
 
だが――
この現身の私が夢の中であの胡蝶になったのだろうか、
それともあのひらひらと楽しげに舞いあるいていた胡蝶が
夢の中で私という人間になっているのだろうか。
私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか。
夢が現実なのか、現実が夢なのか……。
 

荘子の思想については、専門外なので詳しいことは言えません。でも、思想的立場はどうあれ、「私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか?夢が現実なのか、現実が夢なのか?」という荘子の問いかけには、誰しもはたと立ち止まって考えさせられるものがあると思います。

現実的に考えれば、荘子と胡蝶とには歴とした区別があり、夢と現実とは明らかに相違しています。荘子は荘子であって、胡蝶が荘子ではありえません。

しかし、そう確信する根拠はどこにあるかといえば、「そうとしか考えられない」ということでしかないでしょう。だとするならば、

ひょっとして、私が現実と呼ぶものも、すべて夢みたいなものではなかろうか?

そう考えてみることも、あながち酔狂ともいえないのではないでしょうか。
もし、自分が、覚めることのない夢をずーっと見続けているとしましょう。その可能性は誰しも否定はできないのですから。

だとしますと、この現実と呼んでいるものと夢とを区別し、現実は夢ではないと科学的に立証してみせたところで、それも夢であるわけですから、ほとんど意味をなしません。

このようなことを言いましたのは、仏教では、私たちは客観的で、単一の世界の中で生きているように思っていますが、実は一人一人が生み出した世界に、一人一人が生きているのであり、またその中でしか生きられない、と教えられているからです。

そしてこのことが、唯物論、霊魂説の両説が乗り上げている暗礁に、別次元から道を開く見解であることを示していくつもりです。

知識人の宗教観

2009-12-06 19:54:47 | Weblog
 知識人といわれる人たちの宗教観とは、大体このようなものです。


◆人生には、生・老・病・死に代表される、どうにもならない苦しみがある。そこから派生して、愛する人を失う苦しみ、嫌な者と一緒にいなければならない苦しみ、また求めたものが得られない苦しみがあり、こういう苦しみは科学が進歩しても、政治や社会制度が変わっても、人が人である限り、決してなくなるものではない。

 人々はそのどうにもならない苦しみに、ある時は打ちひしがれ、ある時はため息をもらし、それでもなお生きていくために、宗教という偉大な「物語」を考え出した。

 その偉大な物語は、信ずることさえできれば、どんな人生にも希望と喜びがもたらされる。だから、その物語が科学的、あるいは歴史的にみて事実か否か、合理的か否かなど問題ではないのだ。
 その物語を信ずることで、苦しみの人生が喜びに転ずる、または感謝の人生に転ずる、その「事実」こそが重要であり、合理的ともいえるのだ。◆

……結局、イワシの頭も信心から、ってことを言いたいんだと思いますが、それならそうと最初から言えばいいのに、という気もします。

こういう「信じさえすれば、いい気持ちで生きられる」というのが宗教なら、正邪をとやかく言う必要もないのでありましょう。でも、親鸞聖人ほど宗教の正邪、信仰の正邪をやかましく言われた方はないのであって、上記のような考え方は、個人の思いとしては自由かもしれないけれど、その「宗教」に仏教を含めての言ならば、断じて承服できるものではありません。

哲学者の三木清の言葉を引用するならば、
「宗教は真実でなければならない。それは単なる空想であったり迷信であってはならぬ。宗教においても、科学や哲学においてと同じく、真理が問題である。ただ宗教的真理は科学的真理や哲学的真理とその性質、その次元を異にするのである。もとより宗教の真理も真理として客観的でなければならぬ。客観性はあらゆる真理の基本的な微表である」(『親鸞』)

このように言う三木清自身が、後半生、仰ぎつづけた親鸞聖人の教えとは如何なる教えか。それを知るにはまず、三世十方を貫く因果の道理をよく理解してかかることだと思います。



唯物説も、霊魂説も、暗礁に乗り上げる理由

2009-12-05 20:49:04 | Weblog
「私とは何か」と、突き詰めて考えていくと、2通りの考え方に分かれることを述べてきました。

1つは唯物論。すなわち「私」といっても、物質以外に何もないとする考え方。
もう1つは、物質とは異なる何ものか、心、精神、魂、霊魂など、呼ばれ方は様々ですが、「意志」をもった何かがあって、それが「私」というものの主体であるという考え。

哲学・思想の歴史をひも解けば、それこそいろいろな考え方、立場があり、複雑怪奇な様相を呈していますが、つまるところ、考え方の大元としては、

「私」とは、①物質である  か  ②物質ではない  か

のどちらかということになりましょう。

2択の問題ですから、そんなに難しくないような気もするのですが、実際はこれまで見てきた通り、①も②も、現実の「私」を説明するのに甚だ不都合が生じてしまいます。(詳しいことは過去のエントリーを参照下さい)

でも、何でそういうことになるのでしょう?

唯物論の①の立場からは、死後に存続する生命は否定され、自由意志の入り込む余地はなくなり、運命決定論に傾き、それにともない善も悪も意味をなさなくなります。当然、三世を貫く因果の道理は否定されます。

不滅の霊魂の存在を認める②の立場は、霊魂と肉体の関係をうまく説明できないでいます。そもそも霊魂のような存在自体いかがわしいことは、昨日書きました。

でも一見、不滅の霊魂を認めてこそ、三世因果の道理が成り立つようにも思えますが、やった行為に応じた善悪の結果が現れるという因果の道理を、霊魂説からは納得いくよう説明できないはずです。

暴走車と衝突するひどい目に遭ったとして、それもあなた自身の悪い行為(業)の報いですよ、と教えられて、「そんな馬鹿なぁ」と何かオカルトな話に思うのは、その人が〃霊魂説のような〃思いを持っているからと思われます。


普通に考えれば、①と②は対立した見解で、そのどちらかにしか答えがないように思うのですが、それがなぜ両者とも暗礁に乗り上げてしまうのでしょう?

それは、私たちが①でも②でも、どちらの立場に立とうとも、共通した〃ある思い〃があるためです。

それは、

「世界」は誰にとっても共通で、単一のものであるという信念です。

それが大前提で、その中に「私」や「あなた」がいる、と思っています。これは万人に共通したゆるぎない思いなので、それはもう強固な常識、磐石の信念となって、私たちのものの考え方を大枠で支配しています。それ以外の考え方は全くできなくなっています。


でも、それは本当は違うのですよ、ということを「ある本」をもとに書いてみたいと思います。もちろん、深遠な真理を、ここに正確に書き尽くすことは到底無理ですが、ある種の誤解をとくことにはなると思います。(つづく)

死の恐怖をやわらげる、ただの作り話?

2009-12-04 19:36:42 | Weblog
意志をもった霊魂があるという考え方は、科学的な裏づけはともかく、多くの人が何となく受け入れているものです。

日本においては、死んだ人は宮に鎮座して神になるとか、あの世へ往ってお盆になると帰ってくるというようなことを漠然と信じている人が多いですし、キリスト教国においては、死ねば人は天国に召し抱えられることになっていますから、葬儀といっても、身内以外は妙にカラッとしていて、日本ほどジメジメした印象がありませんでした。

また臨死体験といって、仮死状態から再び生還した人が、その時、自分の体験したことを得々と語る場合があります。ベッドに寝かされている仮死状態の自分の体や、見舞いに来た人たちを、病院の天井から見下ろしていた、などという、俗に幽体離脱などと呼ばれる証言も多く聞かれます。

人は体験話に弱く、こういう話を聞かされたり、自身が体験すると、日頃、科学的精神を尊重する人でもイチコロです。この世には科学で説明できないこともあるのだ、などと言い始めます。

でも普通に考えて、これは変な話ではないでしょうか。
仮に幽体離脱などという現象があるとしましょう。でも、肉体から離脱した幽体(霊魂?)などというものに物が見える能力が備わっているとするならば、そもそも肉体に目がついている必要はないではないか?という素朴な疑問が起きてきます。肉体の目をつぶっても幽体には物が見えていいはずです。

よく「霊と交信した」とか、「先祖の霊があなたの後ろにいる」などという話をする人がありますが、肉体を失っているくせに、霊に物が見えたり、コミュニケーションできること自体、不可解であります。その幽霊にとって、生前の肉体の目や耳は、何のためについていたのでしょう?

仮に霊魂の存在を認めるとして、肉体を失えば、無色、無音、無臭、無味、無感覚の世界にしか生きられないのではないでしょうか。そんな、子孫のあとをノコノコくっついて歩く霊魂などというものは、普通に考えてありえることではありません。前後左右、方角も立たないフラフラの霊魂があっちにも、こっちにもゴロゴロしている世界など、考えたくもない気がします。

さらにそんな霊魂が、肉体に入り込めたとして、どうやって肉体を操縦するのか?
家電製品に電気が通ると動き出すようなもの、といわれる方もありますが、電気というのは純粋に物理現象です。霊魂のような、物理法則に従わない「自由意志」を持つ非物質のものとは本質的に違います。
肉体と霊魂は、科学の原則として噛み合わないのです。

また、死んだ後の世界、〃あの世〃があるとして、それはどこにあるのか?大昔なら、天を指差して済むことだったかもしれませんが、今日の天体観からすれば、ずっと上れば成層圏に突き当たり、さらにそれを超えれば宇宙へ飛び出し、ということになります。科学者からすれば、この3次元空間のどこにそんな〃あの世〃など認められるか。ということでしょう。

大宇宙の起源ともいわれるビッグバーンが云々される現代においては、ますます〃あの世〃の存在は、眉唾物になっています。

結局、霊魂だの、死後の世界だの、という、いわゆる宗教というのは、死の恐怖をやわらげるために考案されてきた、ただの作り話なのだ、というところに話が落ち着くのだと思います。

仏教をそういう宗教と一緒くたにする人がほとんどですが、そんな教えを「外道」と断じ、信じてはならないと教えてきたものが仏教であります。
(つづく)



霊魂があるわけでもない

2009-12-03 21:00:11 | Weblog
今まで見てきたように、唯物論は現実を説明するには随所に不都合な点があります。また、純粋に唯物論の立場に立つならば、因果の道理の仏説は否定されます。そうなると廃悪修善に努める理由も曖昧となり、そこから現世的、快楽主義的思想がはびこり、社会に混乱をもたらすであろうことは想像に難くないと思います。

でも、唯物論が正しくないとしたら、他にどんな考え方があるのでしょうか。

唯物論の対極にあるのが、精神、あるいは心といわれるものの主体、つまり霊魂のようなものが存在すると考える立場です。

人間は物質だけの存在ではなく、不滅の霊魂が宿っていて、肉体消滅後も存続し、死後の世界へ行くという考え方です。唯物論を支持してきたのは主に科学ですが、こういう霊魂説を支持してきたのは、仏教以外のほとんどの宗教です。
六師外道の中にも、霊魂の存在を説いた尼乾子(ニガンタ・ナータプッタ)のような人もいます。

いずれも、釈尊は外道といわれているのですから、仏教は「永遠の生命」を説いているとはいえ、霊魂説に組するものでは決してないのです。「無我なるが故に常有に非ず」と経典にあるのはそのことです。

さて、世界を構成している物質と、精神現象の主体である霊魂が存在すると考えて、何か不都合な点はあるのでしょうか。今日の多くの科学者が、こういう考え方をとらないのには、それなりの理由があってのことです。

それはどういうものか。それはまた次回に譲ります。(つづく)

唯物論は外道

2009-12-02 20:54:58 | Weblog
こうしてみると唯物論とは、随分、旗色の悪い思想のように思えますが、実際には支持者がたくさんいます。以前、社会を動かすのは人であり、人を動かすのは思想であると書きました。その時代に敷衍した思想が、その時代の空気、ムード、あるいは倫理観を醸成していくのだと思います。

今日、ハッキリと唯物論の立場を表明する人は少ないかもしれません。
でも、科学者の大半はこの立場だと思います。科学者でありながら唯物論の立場を捨て、霊魂を信じていると言えば、馬鹿にされるか、異端視されることでしょう。

今日の人は、「科学=真理」という漠然とした信仰を持っています。だから科学者の態度に右習えで、大衆の信仰は唯物論寄りに傾いているといえるでしょう。

それはそれとして、昔の人はどう思っていたのか?
例えば江戸時代、頭蓋骨の中の灰白色のブヨブヨしたもの(脳みそ)から、心が生ずると言えば、皆、馬鹿にして大笑いしたでしょう。でも現代は、昔なら大笑いされるそのことを、まともに信じる人が圧倒的に多くなっています。このことが社会に何の影響も及ぼさないものでしょうか?

もちろん及ぼします。でも、

科学的な知識も何もない、無学で無知な江戸の庶民と比べ、現代人は科学的知見に立ち、人生について、社会について、確かな、優れた見解を持っている。世の中も人も確実に進化していると思っている人が多いと思います。

しかし、

唯物論というのは、現代になってようやく到達しえた人類の英知というようなものではありません。

釈尊の時代にも、唯物論を唱えた人はありました。
名前を阿耆多翅舎欽婆羅(アジタ・ケーサカンバリン)といい、六師外道の一人に数えられています。

彼は唯物論および快楽至上主義を唱えたといわれています。

彼の主張を要約してみましょう。

アジタは世界も人間も、地、水、火、風の4要素の離合集散によって説明できるという四元素還元説を唱えました。
物質とは別の「不滅の生命」の存在を否定し、善悪の行為の報いも完全に否定しました。人は死ねば4要素に帰って消滅するとし、輪廻を否定し、来世も認めず、道徳も宗教も不必要なものとみなしました。また布施に功徳があるという考えもまた愚者のものだと主張しています。

地、水、火、風の4元素のみというのは、今日の人には荒唐無稽に思えるかもしれません。しかし問題の核心は、構成分が何であるか、ではなく、世界のあらゆる現象を幾つかの要素にすべて還元する、という考えの枠組み自体なのです。

今日ならば、人体を構成する高分子の生体物質は、核酸、タンパク質、糖質、脂質といわれ、もっと細かく分ければ、その99パーセントが、水素原子(H)、酸素分子(O)、炭素分子(C)、窒素分子(N)の4種類の元素であることが分かっています。

アジタの4元素説に、上記の物質を当てはめさえすれば、アジタの主張は今日でもそのまま通用します。そんな人が皆さんの周りにもたくさんいるのではありませんか?

さて、

こういう世界認識から当然、導かれる結論として、アジタは快楽至上主義 を唱えています。

つまり、

唯物論に立つアジタは、人生には目的が備わっているという従来の思考や、人間には生得的に守らなくてはならない規範があるとする伝統的な共同体倫理を否定しました。
そして、宗教行為は無意味であり、現世における生を最大限に利用して、それを楽しみ、幸福をそこから得るべきだとしました。ただし、楽しみには悲しみがつきものであり、それはある程度覚悟しなければならないとし、悲しみを恐れて喜びから退いてはならず、たまに訪れる悲しみもまた、現世での幸福のためには喜んで受け入れることも必要だと説いています。

なんか、どこかで聞いたような?こんな人生訓話を書いている人は、今日でもたくさんいるように思いませんか?
まさにアジタは、現代の風潮、ムードを先取りした感がします。でも実際は、先取りではなく、人類は同じところを行ったり来たりしているだけということなのです。

釈尊が、アジタの説を「外道」と言われたということは、仏説はアジタの言っていることの対極にあるということになります。

すなわち、

人間は物質に還元し切れず、永遠の生命は存在し、善悪の行為に報いはあり、来世はあり、輪廻もあり、道徳も宗教も必要とし、布施の功徳ももちろんある。

ということになります。(つづく)



唯物論への疑問(7) 続・クオリア 

2009-12-01 18:13:56 | Weblog
クオリアの起源が、唯物論に突きつけている問題を、昨日に続いて書いてみます。
以下の内容は、『哲学的な何か、あと科学とか』(飲茶著)に基づくものです。大変分かりやすいので参考にさせていただきました。


「巨大なビリヤード台」と「その上で転がるたくさんのボール」を想像してみてください。

台の上でボールは転がり続ける。すべてのボールは、力学という絶対の法則に従って動いており、決して物理法則から外れた動きをすることはありません。

さて、宇宙が、「こういうボール(原子)とその運動で出来ている」と考えてみましょう。たくさんのボール(原子)が、一定の法則に従って、永久に運動する世界です。

私たちの「身体」も宇宙の中の一部ですので、「身体」は原理的には何億、何兆個のボール(原子)が運動しているビリヤード板上の現象の一部ともいえるでしょう。

その運動が果てしなく複雑化していく中で、人体のような形となったボール(原子)の集合体が、まるで意志を持ったように動くこともあるでしょう。

だが。。。

実際には、そんなボール(原子)の集合体の運動に、意志などないのは自明です。
なぜなら、どんな運動であろうと、結局のところ、物理法則に支配された機械的なボール(原子)の離合集散に過ぎないからです。

機械的なボール(原子)の集合体が、人間の形となり、右手を上げ、
「今、右手を上げたのは、俺様の自由意志だ!」と叫んだとしても、
「意志がはたらいたのではない。単に、機械的に動いた結果である」
と解釈するのが妥当なところです。

「なぜ右手を上げたか?
 そこに『意志』なんて、妄想を持ち込む必要なんかない。
 そんなことは、ボール(原子)の運動で説明できる。
 すべては物理法則に従って、機械的に起こったことなんだ。
 たしかに、全てのボール(原子)がどう動いているかを知ることは難しいが、究極的には『キミ』が『物理法則に従うボール(原子)の集まり』である以上、『キミという人間が機械的な存在にすぎない』ということは自明なのだ」

その考え方は正しいように思えます。

だがしかし。よく考えてみてください。
仮に、すべてのボールの動きを説明する科学理論があったとして、「人間」のすべての行動について、完璧な説明を行うことができたとしても、それでもなお残る疑問があります。

それは、
「今、現実に『この私』が感じている『この赤』という内的体験(クオリア)がどこから来たのか説明がつかない」ということです。

結局のところ、
機械的に動くボール(原子)の集まりが、どんなに複雑化したところで、
「今、現実に起こっている『この主観的な体験』」を生み出すなんてことはありえない。だから、そのボールたちの動きを理論立てて追求したところで、クオリアの問題については、何一つ解答は得られないということです。

ところで、これまでの話は、
「世界をボール(原子)の集まり」
という古典的で単純な世界観で説明してきましたが、最新の科学理論、例えば超ひも理論でも、量子論でも、どんな最新科学理論でも原理的に同じなのです。

というのは、結局のところ、どの科学理論でも本質的には、
「世界は、物質Xの集まりで出来ています。そして、物質Xは、法則Yにしたがって、運動(変化)します」ということを述べているにすぎないからです。

つまり、理論の種類によって、物質Xが「原子」だったり、「量子」だったり、「ひも」だったり、法則Yがより複雑な数式だったりと、そういう違いがあるだけなのです。

だから、「ボールの集合という考え方では、『なぜクオリアが発生しているのか?』を説明することができない」ということは、どんな科学理論にも適用できてしまうし、今後、科学がどんなに発展しようとも、同じ仕組みである限り、クオリアの問題を解決することはできません。

これが、クオリアが唯物論に突きつけている問題の本質なのです。



参考:『哲学的な何か、あと科学とか』(飲茶)