静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

戦車ゲームの比喩

2009-12-22 16:33:05 | Weblog
理解困難といわれる唯心論的世界観を、一つの喩えで説明いたしましょう。昨日からの続きで、『唯心論物理学の誕生』(中込照明)より──。

それは複数のコンピュータを使った戦車ゲームです。(上の写真を参照)

<各コンピュータにはそれぞれの戦車が割り当てられ、画面にはその戦車から見た戦場の風景が映し出される。この【戦場】(画面上の)はニュートン力学的世界であって、一つのコンピュータの前にいるプレイヤーが弾丸を発射すれば弾道を描いて飛んでいくのである。この弾道はゲームに参加しているすべてのコンピュータ画面に、それぞれの戦車が見た形で現れる。なぜそのようなことが可能であるかというと、すべてのコンピュータに同一のプログラムがあらかじめ与えられており、ネットワークを介した通信により、一つのコンピュータ内で、ある方向に、ある速度で弾丸が発射されたという情報がすべてのコンピュータに届き、各コンピュータ内で弾道が計算されて表示されるからである。
 通信とあらかじめ与えられたプログラムにより、各コンピュータ画面に現れる戦場風景に完全な対応関係が作られている。この場合、唯一絶対的な【戦場】というものはどこにも存在しない。このような対応関係だけですべてうまくいくのである。まさしく予定調和の世界である>

各プレイヤーの意志決定が、(自分の画面上の)戦車を通じて【戦場】に作用する。【戦場】には、ニュートン力学的(決定論的)法則が、あらかじめプログラムされている。さらにその【戦場】にもたらされた作用が、全体(他のコンピュータ)にも影響を与える通信のシステムがある。というようなイメージを思い浮かべてみましょうということです。(上図参照)

<コンピュータとプレイヤーを一緒にしてモナド(心)と考えてみる。自由意志を認めたうえで予定調和を実現するには通信による相互作用のようなものが必要になることが分かる。この相互作用は、画面上の【戦場】での力学的相互作用とはまったく別種のもの、非物理的なものとみなされるべきである>

筆者も断っているように、これはあくまで比喩です。比喩というのは一分を表わすのみで、全分をあらわしているわけではありません。
ただ、ここでいう【戦場】とは、私たちが普通自覚している「世界」のことと考えられます。絶対的な【戦場】は存在せず、各自が各様の【戦場】に生きながら、共通認識が成り立っている。画面上の「戦車」は、プレイヤーの意志が直接作用する部分であるから身体に当たるでしょう。その「戦車」(身体)の動きが【戦場】(世界)に影響を与え、かつ他のコンピュータ(他人)の画面上の【戦場】(世界)にも影響を与えている。相互に影響を受け合っているということ。
ここから、実際はバラバラでありながら、同一の世界にいて、各々が同じものを眺めているという誤解が定着していくということです。

人間の「観察」の対象は、あくまで画面上に限られるので、自然科学が対象とするのは【戦場】の法則性です。それではとらえきれないのが、(自分の世界)と(他人の世界)との対応関係【コンピューター間の通信のシステム】ということになります。それは画面の外のことだから、人間には不可知のものになりますが、そういうものを仮定すれば、相対性理論や量子力学の解釈問題がスッキリするというのなら、いたずらに拒絶すべきものではないと思います。唯心論的世界観というものは、常識的ではありませんが、決してトンデモ本レベルの荒唐無稽な話ではないのです。

最近は、書店にも唯識の入門書的なものが多く出回り、関心が高まっているようですが、多くの読者は、「サッパリ分かりませんでした。確かに唯識がどういう思想かを知識的に理解することはできましたが、実感として、自分の深層意識(阿頼耶識)がこの全宇宙を作り出しているなどという途方もないことを本当に理解、あるいは納得できますか?」と感じているのです。


上記のコンピュータの話はあくまで例えで、仏教に説かれる世界観そのものではありませんが、心が世界を生み出しているということに、少しでもリアリティを深めてもらうきっかけになるなら、それで結構だと思うのです。
自分の生み出す世界であれば、自分の善悪の行為が、自分の運命を作っていくということに、別段、不審を立てねばならない理由は見つからないはずです。

仏教では、自分の運命は、自分が100パーセント作ると教えられています。


火の車 造る大工はなけれども 己が造りて 己が乗りゆく

であります。ここから当然、他人の言動をあれこれ言うより、まず己を見つめよ、ということになるではありませんか。

コペルニクス的転回

2009-12-22 00:00:04 | Weblog
              コペルニクス

地球を中心に天が動いているというプトレマイオスの天動説は、16世紀に至るまで人々の支持を得ていました。しかしコペルニクスが登場し、地球ではなく太陽を中心に、水星,金星,地球,火星,木星がまわっているという地動説を唱えました。
コペルニクスがこう考えたのは,「こちらのほうが簡単に説明できる」という理由からです。

地動説は、「大地は揺るがざるもの」という私たちの実感とはかけ離れていますが、プトレマイオスの言うような地球の周りの円の上を、さらに円がまわっているという説よりも、はるかに天体の運行をスッキリ説明できたのです。

ちょうど同じように、私たちの心が世界を生み出すという教説は、私たちの実感とかけ離れていますが、相対性理論や量子力学の解釈をめぐる難問が、この考え方に立ったほうがスッキリ説明できることが分かってきました。

昨日に引き続いて『唯心論物理学の誕生』から引用してみましょう。
著者は、ライプニッツのモナド論を応用していますが、モナドという概念は馴染みが薄いため、ここは広い意味で「心」と理解してもらってよいと思います。

「モナド(心)は互いに相互作用はしないが、(心の)内なる世界は予定調和により相互に照合し合う」

<モナドは空間に浮かぶ物理的実体ではないので、モナド同士で、いわゆる物理的な相互作用はしない。しかし互いに何の関係もないというわけではない。関係がないのなら複数のモナドを出す意味がないのである。
人間の意識内容は外界の反映ではなく、心が作り出した〃イメージ〃であるというのが、唯心論の立場である。問題は自分の中のイメージと他人の心の中のイメージの関係である。
常識的には外界があって、それをそれぞれの視点で見ることによって、各自の心に外界のイメージが出来上がると考える。視点が異なるから、イメージは異なるけれども、同じ外界を観察するから、対応関係を付けることができる。と思われている。
だが、ここで見方を変えてみよう。
「同じ外界を見ているからイメージに対応関係が付く」と見てもいいけれど、「対応関係があるから、イメージの原因としての外界があるかのように感ずる」と見てもよい。ライプニッツの見方は後者である>

ではどうしてこのような、つまり自分の中のイメージと、他人の中のイメージとの間に対応関係が生ずるのか?という疑問が出てくる。
しかしそれはこの対応関係を初めに自然法則として設定してしまえばよいのである、と筆者は言っています。

なぜかは分からないが、最初からそういうことになっているのだ、つまり「予定調和」ということです。
いい加減な、と思われる方もあるかもしれませんが、物理法則というのはその基本においてはそういうものなのです。例えば、なぜ宇宙なんてものがあるのですか?と言われても、あるからある、としか言いようがないではありませんか。

各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという一見奇異な筆者の主張も、それを受け入れたほうが、相対性理論や量子力学の解釈上の難問がスッキリ解消するのであれば、「そんな馬鹿な」で片付けていいはずはありません。

天体の運行を見事に説明できたコペルニクスの地動説も、当時の人たちにとっては「そんな馬鹿なあ」という俗説だったのですから。

次回は、各自の心が世界を生み出し、それが相互に対応関係を持つという考えを、一つの喩えで説明したいと思います。(つづく)