静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

死んだ後の地獄極楽など、お伽噺では?

2010-04-30 18:37:54 | Weblog
三世因果をたてて、未来に地獄や極楽が、あるのないの
というのは、昔ならいざ知らず、今日ではオトギ噺では
ありませんか?そんなことがどうして信じられるので
しょうか?

という人があります。

そのような質問は、例えばこんな情景を思い出させます。

 ウナギが、生簀の中で話している。
「なぜ今日は、有象無象が沢山集まっているのだろう」
「今日は、丑の日といって、われわれが人間どもの滋養
分になって、食われる日だそうな」
「本当に、そんな勝手なことをする、人間という者がい
るのか?信じられんなぁ」
「そんなこと言ったって、我々は、人間に食べられる運
命になっているのだそうな」
「誰も戻ってきて、そんなこと言った者はいないが本当
か?」
「そら、また、捕えられて連れてゆかれたではないか」
「散歩にでもいったのではないのか。そのうちに帰って
くるさ」
「引き揚げられると、頭に錐を立てられ、背中を断ち割
られるときの苦しみは、息もできないそうだ。三つに切
られて串に刺されて、七転八倒の火あぶり。怨み呪うて
いるけれど、言葉が通じない。料理している者も鬼なら、
食べている者も鬼。我々を八つ裂きにして食うそうな。
どうして帰ることができようか」
「まさか……?」
 

人間にも、物知り顔の者がいて、
「死んだら地獄へ堕ちて、鬼に責めたてられるのだ」
と聞くと、
「そんなバカなことがあるものか。鬼でも蛇でもつれて
こい。オレが捻りつぶしてやる。地獄とか、鬼とか、誰
か、見てきた者がいるのかい。地獄から戻ってきた者も
いないではないか。身体は焼けば灰になり、魂も同時に
消えてしまうだけだ。バカげたことにクヨクヨせず、飲
んで騒いで楽しんだらそれでよいのだ」

と、バカ冗談いっている者やら、

「死んだら死んだときさ。極楽には滅多に往く者がいな
いそうだから、道中には草が生えている。地獄には、道
づれが多いから、踏みにじられて草が生えていないそう
だから、草のたくさん生えている方に歩いたら極楽へ往
けるそうな」

と、茶化す者。

「地獄へいっても、私一人が苦しむのではない。たくさ
んの人と一緒に苦しむのだから、賑やかで楽しいではあ
りませんか」

と、ゴマ化す者もいます。


船が沈没したとき、私一人でない、何百人も一緒だから
苦しいことはないと、いっておられましょうか。
水害で流される人、火災で焼けだされる人、大事な主人
を失う人。独り子を亡くした人。破産した人。行方不明
になった人。

世の中には、種々の苦難がありますが、そんな災難は、
世間一般にあることだから、遭ってもなんともない、
といえましょうか。
自分がその立場に立ったら自分が苦しむではありません
か。

あんなことを言っていた人間が、あるいは家庭で一緒に
暮らしていた者が、突然息の根が止って、次の世界に運
ばれると、“待てよ” そんなことを言っていても一体、
どこへ行ったのだろう。また会う世界はないのだろうか。

人間は、どこから生まれてきて、死んでどこへゆくのだ
ろうか?と、人生に対する根本的疑問がわいてくるので
す。

来た道も分からなければ、行く先も知らない。アーで生
まれて、ウンで死ぬ。ヒョロリ生まれて、キュウと死ん
でゆく。
その間、ただ、便所と台所の往復で、勝った、負けた、
取った、盗られた、増えた、減った、得した、損した、
と眼の色変えて、息が止まるまで走り続ける。

多くの人間が、押し合い、揉み合い、憎み合い、名利栄
達を得るために先陣争いをしていますが、何の目的を達
成するために走り続けているのでしょうか。

盲目滅法で、他人が走っているから自分もジッとしてお
れないから走るといった調子。

世の中は、過去の原因によって、現在の結果が現われ、
現在の原因によって、未来の結果を生むのです。
過去といえば遠いように思いますが、生まれる前も、去
年も、昨日も、出た息までも過去であり、未来といえば
遠いようでも、死んだ後も、来年も、明日も、入る息も
未来なのです。現在とは、一生涯も、今年も、今日も、
一息一息が現在です。

一息一息が、過去、現在、未来をくり返しつつ、前進し
ているのです。未来が現在の延長ですからこの世が極楽
にならねば、死後救われるはずがありません。

この世は、どうにもなれない、死んだらお助け、とは気
狂の寝言です。 後生の一大事が晴れて大満足し、この
人生が無上の慶びに充ちた生活にならねば浄土へは往か
れません。


聞即信の一念で弥陀より仏智を賜ったとき、その頂いた
仏智で三世因果も後生未来の存在も、弥陀も浄土も明ら
かに知らされます。

それを他力金剛の信心といわれるのです。

トルストイ 絶体絶命!

2010-04-28 13:11:20 | Weblog
トルストイの伝記はこう伝える。

〈……トルストイの精神的歴史もまたこのようにしてはじまった。彼もまた世の権力者たちの「上座にすわる」人であった。先祖伝来の家に裕福にのんびりと暮していた。はちきれんばかりの健康と体力に恵まれ、彼が愛し、欲した少女を妻にめとることができた。妻は彼のために十三人の子をうんだ。彼の手と心から生まれた作品は不朽の名作とされて、時代を越えて輝いた。ヤスナヤ・ポリャーナの農夫たちは、このおえらい領主様が馬をとばしてそばをはしり過ぎるとき、うやうやしく頭を垂れた。全世界の人は彼の嘖々たる名声の前にうやうやしく頭を下げた。レフ・トルストイにとって何ひとつ欠けるものはなかった。あるとき彼は手紙の中で、人間としての最も大胆な言葉を書いた、「僕は余すところなく仕合せだ」

 しかも突然、一夜のうちにこれらすべてが何の意味も、何の価値もなくなってしまったのだ。あの仕事好きな人が仕事嫌いになってしまった。妻は彼にとって縁なき衆生となり、子供たちはどうでもいいものになってしまった。夜毎に彼は乱れたベッドに起き上り、病人のように休みなくあちらこちら歩きまわる。昼間は眠った手と動かぬ目で仕事机の前にぼんやり坐っている。あるときは急いで階段を駈け上り、武器を自分自身に向けることがないように、猟銃を戸棚の中にしまいこむ。ときおり彼は、胸がはりさけんばかりにうめいた。ときおり、暗くした部屋の中で子供のように咽びないた。手紙も開かず、友だちもよせつけなかった。息子たちはおずおずした目で、妻は絶望して、この急にふさぎこんでしまった人を見た。……〉
(堀内明訳『三人の自伝作家』みすず書房「ツヴァイク全集10」)

 トルストイの突如の困惑。築き上げた栄誉と幸福を、その内面から、無数の破片にひび割れさせ、光を失わせたものは、何だったのか。

『なぜ生きる』という本に、こんな記述がある。
〈「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」。 一休は人間を「冥土への旅人」と言っている。「冥土」とは「死後の世界」である。人生は冥土の旅にちがいない。一日生きれば一日死に近づいている。世界の時計を止めても、それは止まらない。万人共通の厳粛な事実である〉

 トルストイも例外ではない。だが、このことが彼の突然の狼狽と、どうかかわるのか。
同じく同書から引用してみよう。
 
〈三日後の大事な試験が、学生の今の心を暗くする。五日後に大手術をひかえた患者に、
「今日だけでも、楽しくやろうじゃないか」といってもムリだろう。
 未来が暗いと現在が暗くなる。墜落を知った飛行機の乗客を考えれば、よくわかろう。
どんな食事もおいしくないし、コメディ映画もおもしろくなくなる。快適な旅どころではない。不安におびえ、狼狽し、泣き叫ぶ者もでてくるだろう。
乗客の苦悩の元はこの場合、やがておきる墜落なのだが、墜死だけが恐怖なのではない。悲劇に近づくフライトそのものが、地獄なのである。
 未来が暗いと、現在が暗くなる。現在が暗いのは、未来が暗いからである。死後の不安と現在の不安は、切り離せないものであることがわかる。後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、できる道理がないのである〉

 トルストイは、墜落を知ってしまった乗客だった。
 他の乗客の目には、周囲はあくまで、穏やかな光景で、脅かすものは何一つ映らない。
 だが、高度一万メートル以上を、時速約千キロで飛んでいること自体が、危険極まる状態ではないか。もし着陸地がなければ、乗客の「今」は、不安と絶望以外、何ものもないだろう。

 飛行機に墜落以上の大問題はないように、人生に「死」以上の大問題はない。しかも、全人類はこの一大事から、だれ一人逃れることはできないのだ。「死に向かわざるをえない生」は、それ自体、悲劇を内包している。

 トルストイは言う。
〈生に酔いしれている間だけは生きても行けよう、が、さめてみれば、これらの一切が――ごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!〉(トルストイ著、中村白葉・中村融訳『懺悔』)

 墜落途上の飛行機とさとった時、生きがいとしてきた家族も芸術も、底知れぬ不安をごまかす一手段にすぎなかったと、彼自身認めている。
 他の乗客はまるで何事もないように、機内食に舌鼓を打ち、外の景色や会話を楽しんでいる。しかし、この飛行機のたどる運命に気づいた時、どうして悩まずにいられよう。

 こんな時、

「そんな悩みは若い頃にありがちだけど、大人になればふっとんじゃうよ」
とか、
「あなたはあなたらしく飛べばいい」
とか、
「飛ぶ。私はただそのことだけでいいと思うんです」
などと大真面目に言われても困るではないか。

でもそれが、巷にはびこる人生論の実態であろう。

100%堕つることが分かっている飛行機に乗る者は誰もいまい。
ところが、生まれた時に全人類は、100%墜落する飛行機に乗り込むのだ。
しかるに古今東西の人類は"どう飛ぶか"しか考えることが出来ないでいる。
 一大事とはこの事である。

 墜落不可避の飛行機の悲劇とは、どう飛ぶかの問題と関係がない。

生死の一大事を抱える万人の人生もまた、本質は苦しみでしかない。そう思えないとしたら、それは幸福というより無知というものだろう。

 この一大事を人類全機に急報し、無礙の大空港、信心獲得を勧められた方こそ、まさに親鸞聖人であった。


どうせ死ぬのだよ

2010-04-27 13:39:25 | Weblog
ある哲学者は、真実まことを知らず、まことの心もない、そんな私たちの人生観の危うさを、次のように指摘する。

〈いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまう。他人のために尽くしても、その人も死んでしまう。日本のため、世界のため、地球のために尽力しても、やがて人類も地球もなくなるのに、なぜ「いま」生きなければならないのか。

 私が死ぬと周りの人々が悲しむから?でも、それも相対的なものである。そういう人々もまたじきに死んでゆくのだ。そして、この理屈は、誰も私の死を悲しまないとき、私は死んでもかまわないという結論を導く。
(中略)
不本意に生き残った者たちも瞬時にして死ぬ。沈みゆくタイタニック号を呆然と眺めながら涙を流していた人々も、戦地から帰ってきた息子の遺骨を前に泣き崩れた母親たちも、皆死んでしまった。勝ち鬨をを上げている人も、辛酸を嘗めている人も、皆消滅する。
そしてまもなく地上には人間は誰ひとりいなくなる。それからしばらく経つと、地球は巨大な太陽に呑み込まれ、太陽系も崩壊し、銀河系も飛び散り、一雫も人類の記憶は残らなくなる。これが、われわれを待ち構えている未来の姿である。
(中略)
 世の中のことはすべて、私にとって究極的にはどうでもいいのだ。(中略)みんな、どうせ消滅してしまうのだから。成熟するとは「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という問いを忘れることであるのに〉
(『狂人三歩手前』中島義道)

 こんなことを公言する哲学者は〃厭な奴〃と思われるだろうが、仏法を抜きにすれば、この人の言うことは恐ろしく「正しい」のだ。

「どうせ死ぬのだよ……」

 一見、華やかな生活の底に、だれしもこんな虚無を抱えている。それに気づかぬよう、眼前の仕事にいそしみ、あえて日々を忙しくしているのかもしれぬ。だがそれは、根底で自己を誤魔化し、嘘をついているにほかならない。自分探しをする人といっても、そこまで自己を掘り下げる気は毛頭なく、ある意味、居心地よく出来ている世間の価値観に、自ら進んで騙されていく。

 それを一概に非難はできない。
 生活の根底に厳然として横たわる虚無を、本気で見つめ続けたら、不安でだれしも気が変になってしまうだろうから。 

 人生を語る多くの作家や哲学者が、この不安の深淵に踏み込み、引きずり回された。ロシアの代表的作家、トルストイもまたその一人である。

明日は、このトルストイについて触れてみたい。



名号のいわれ

2010-04-26 18:21:48 | Weblog
他力信心を獲得するとはどういうことなのか。
蓮如上人は『御文章』5帖目5通の「信心獲得章」にこう教えられています。

「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と。

「南無阿弥陀仏にすがたを心得る」とありますので、以下、南無阿弥陀仏について説明しましょう。

『歎異抄をひらく』より

 阿弥陀仏が、「すべての人々を、一人残らず絶対の幸福に救う」という誓いを実現するために作られたのが、「南無阿弥陀仏」である。六字の「名号」と言う。
 いくら病気を治す原理が宇宙に存在しても、それを発見しそれに則って、医師が薬を作らなければ患者を救うことはできない。
 いわば「南無阿弥陀仏」は、〝万人の苦悩を抜き取り永遠に幸福にする〟真理を体現した阿弥陀仏が創造した妙薬に喩えられよう。
 はるかなる過去から汚れ切って、微塵のまことの心もなく、苦から離れきれない我々を憐れみ、救わずはおかぬ熱い思いで奮い立った弥陀が、気の遠くなるような長期間、誠心誠意、全身全霊の修行の末に、大宇宙の功徳(善)を結晶されたのが、「南無阿弥陀仏」の名号なのである。
『教行信証』には、その経緯(名号のいわれ)を次のように詳述されている。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり(教行信証)

すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿弥陀仏)を完成されたのである。

 阿弥陀仏から私たちが、この名号(南無阿弥陀仏)を一念で賜り、南無阿弥陀仏と私が一体になったのを、
「仏凡一体」(阿弥陀仏の心と、凡夫の心が一つになる)
とか、
「仏智全領」(大宇宙の功徳を丸貰いする)
と教導されている。
 その実体験を聖人は、次のように讃嘆される。

「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者(親鸞)の身にみてり」(高僧和讃)

どんな人も、弥陀の本願信ずれば(南無阿弥陀仏を賜れば)、心も言葉も絶えた幸せが、その人(親鸞)の身に満ち溢れるのである。

 不可称・不可説・不可思議の功徳の「南無阿弥陀仏」と我々が一体になったのが、不可称・不可説・不可思議の信心なのである。


他力金剛心

2010-04-25 21:06:24 | Weblog
前々回から引き続き。。。

真実まことを、まことの心で信じさせていただく他力の信心は、信じる対象も「真実」、信ずる心も「真実」だから、もう崩れたり、消えてしまったり、色褪せたりすることがない。だから、他力金剛心ともいわれる。

 一念で弥陀に救い摂られ、他力金剛心を獲得なされたその喜びを、親鸞聖人はこう嘆ぜられている。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」(教行信証)

「噫!」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きと喜びの、言葉にならぬ言葉である。「弘誓の強縁」とは、〝何としても苦しみの根元を断ち切り、人生の目的を果たさせたい〟という強烈な弥陀の誓願をいい、その誓いどおり、苦しみの根元が断ち切られ、人生の目的成就した歓喜の生命を、「真実の浄信」と言われている。
 それはもう、百年や二百年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから、「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことを獲た」と言われるのである。多生億劫の間求めても、得られぬものが得られたから、「噫!」と驚嘆されるのも当然であろう。
 そして、しみじみ、どんな遠い過去からの弥陀のご配慮があったのやらと、「遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と感泣されている。 


 だが、ほとんどの人はそんな凄い弥陀の救いを知らず、築くあとから崩れ去る、もろくもはかない幸せを人生の目的と信じている。それはこれまで繰り返し述べているように、薄い氷のはった湖で舞踏しているような危うさがある。

この信心は終わりなき道

2010-04-24 10:40:51 | Weblog
昨日に続いて。

不実のものを、不実の心で信じた「信心」は
〃見せかけの〃安定感、砂上の楼閣であろう
から、最終的には破綻の憂き目にあってしまう。

親は子を、子は親を信じ、
夫は妻を、妻は夫を信じ、
金があって裕福な暮らしができたら幸せと信じ、
出世して称賛を浴びれば満足と信じ、
世間から認められたら本望だと信じ、
自分の心に素直に生きられたら幸せだろうと信じ、
いつまでも健康でいるかのように、健康を信じ、
まだまだ生きておれると明日の命を信じ……

それらの信念に基づいて、その人なりの生き方が
出来上がっていくのであろうけれど、その先に
果たして、真の安心や満足があるのだろうか?

信じるのは自由だし、また、こういうものしか
信じられないのだから良いも悪いもないのだけれど
こういうものをひっくるめて①の信心、すなわち
不実のものを、不実の心で信じた「信心」といって
いるのである。

しかし、変わるものを、変わる心で信ずるのだから、
そこに完成はない。すべてが変貌する、終わりなき道。
あそこが最終目的地と定めて出掛けて行っても、
たどり着けばそこは終着地ではなくなっている。
それは一つの通過点。

バンクーバーで金メダルに輝いたキムヨナ選手も
どんなにかつらい練習に耐え忍んだことであろう。
日常のすべてが、金メダル獲得という目的に収斂
していたはずである。

ところが狙い通り、金メダルを獲得し、世界の称賛
を一身に浴びても、その達成感は束の間で、次の
瞬間から、この先どこへ向かえばいいか、本人は
思い悩み始めているではないか。

凡人に手の届かぬ金メダルを獲得してなお、
終着地ではないとするのなら、この人生にたどり着く
べき終着地などあるのだろうか。


通過点が意味をなすのは、終着地があってのこと。
ゴールなき円形トラックを走っているのなら、
通過点は絶望を深めるだけのものでしかあるまい。


人生にゴールがあるとするならば、

それは

真実まことを、まことの心で信じさせていただいた
世界にこそあろう。

それが他力金剛の信心といわれるものであり、親鸞学徒
の求むるものは、究極的にそれ一つである。


崩れる信心

2010-04-23 16:22:15 | Weblog
一口に「信ずる」と言いましても、そこには
信ずる「対象」と、信ずる主体としての「心」
があります。
では、私たちの「信心」の実態を、対象と心
の2つから分析してみましょう。


 (信ずる対象)――(信ずる心)
①  不実   ――  不実
②  真実   ――  不実
③  真実   ――  真実


①の信心は、信ずる対象が夢幻のような、まこと
なきもので、それを同じくまことなき心で信じた
信心です。
全人類の圧倒的大多数がこの信心でしょう。
これは本人がいかほど固く信じておりましても、
いつかは馬脚をあらわす、破綻の信仰です。

一例をあげるなら、

現代人のほとんどが、お金の価値を信じています。
信ずればこそ、生涯の大半を懸け、金銭を獲得する
のに血眼になるわけです。
しかし、よくよく考えてみると、「お金」そのもの
にどれだけ価値があるのでしょう。物柄自体は、
印刷された紙きれと、二束三文の金属の塊でしか
ありません。
しかし、皆がこれを「価値あり」と認めると、とたん
に価値が生まれてくるのです。

その背景には、貨幣経済を成り立たせる社会のシス
テムがあってのことですが、それにしても人間同士
の約束事です。

それらが今日も、明日も、この先も維持されると
信じて、この〃印刷された紙きれと二束三文の金属
の塊〃に価値があると信ずればこそ、目の色を変え
て追いかけるのです。

しかし、昨日の次に今日が来たように、今日の次に
も今日と同じような明日が来ると、素朴に信じられ
るうちは、何ら疑問を持つこともないでしょうが、
この前提自体が危うい。真実ではないのです。
だから必ず揺らぎます。

その端的な例が臨終です。

いよいよ死ぬ時は、それまであれほど大事に見えて
いたお金が、そっくりそのまま、ただの「紙と金属」
に豹変してしまいます。

信じた価値が、虚構の価値だったと知らされる時
です。

とはいっても、

人間だれしもいつかは死ぬんだし、死ねばすべて
おしまいなんだから、お金稼いで、死ぬまで楽しい
夢見て暮らせばいいんじゃないの、と言う人も多い
と思うのです。

しかし、死ねばすべておしまい、死後はないという
のも、真実のない心で、理屈を積み上げて作り上げた
虚妄の確信にすぎません。だからそれも崩れます。

事実、お釈迦様は、「死後はない」という主張を、
断見外道と退けておられます。

一切の虚妄の信仰が崩れ、むきだしの自己の死、
暗黒の後生と対峙させられる時、恐れと後悔が
かわるがわるおきると、お釈迦様が説かれるのも
道理ではありませんか。

これを一大事といわずして、何が一大事でしょう。


「夫れおもんみれば、人間はただ電光・朝露の夢・
幻の間の楽ぞかし。たといまた栄華・栄耀に耽りて
思うさまの事なりというとも、其れはただ五十年乃
至百年のうちの事なり。
 もし只今も無常の風きたりて誘いなば、いかなる
病苦にあいてか空しくなりなんや。まことに死せん
ときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身
には一も相添うことあるべからず。されば死出の山
路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんず
れ」(蓮如上人)

人は皆、何かを信じて生きている

2010-04-22 10:29:54 | Weblog
昨日書いたことに関連していいますと、

まず、人は何らかの信心を持っているという
こと。また何かを信じなければ生きてはいけ
ないということが、前提としてあります。

それは仏や神といった特定の宗教、あるいは
共産主義のような特定のイデオロギーを信奉
している人だけのことではなく、無宗教、
無思想を自認する人であっても、やはり例外
ではありません。

たとえば、
私たちは日々の生活に、一定の秩序と関連性
を見いだそうとしています。
これがないと安心して暮らせません。今日は
昨日みたいだった、明日も今日みたいだろう、
今日善いとされていることは、明日も善いと
されているだろう、自分が善いと感ずること
は、他人も善いと感じているだろう、といっ
た信頼、安心感です。

これが、生きるための大切な基盤なのですが、
自然災害や社会の動乱や事件に巻き込まれ、
この信頼、安心にひびが入ると、とたんに不安
に陥ります。ひどくすると、トラウマを抱えて
しまう人も出てきます。

だから「信心」はだれにとっても不可欠のもの
なのですが、
人は何を信じて、人生に安定感を得ようと
しているのでしょう?

一口に「信ずる」と言いましても、そこには
信ずる「対象」と、信ずる主体としての「心」
があります。


では、私たちの「信心」の実態を、対象と心
の2つから分析してみることにしましょう。



「信心といえる二字をば、『まことのこころ』
と訓めるなり。『まことのこころ』というは、
行者のわろき自力のこころにては助からず、
如来の他力のよきこころにて助かるが故に、
『まことのこころ』とは申すなり」(御文章)

(つづく)

以ての外の大事

2010-04-21 19:22:16 | Weblog
親鸞学徒が明らかにしなければならないことは、
他力の信心一つです。

他力の信心を明らかにするには、まず自力の信心とは
何か、それを明らかにする必要があるでしょう。

なぜなら、他力の信心は、そもそも言葉で簡単に
説明できるものではないからです。

ただ言えるのは、

全人類には、自力の信心か、他力の信心か、二通りの
人しかいないということです。
世の中にはいろいろな考え方、思想・信条があるとは
いえ、例外はありません。
自力の信心か、他力の信心か、いずれかなのです。

そこで、自力の信心を明らかにするということは、
自力の信心では、助からないことを明らかにする
ことでもあります。

だとするならば、自分はどうか?
自力・他力の信心に無関心で済ませられる人は
いないはずです。

他力の信心は、万人共通唯一のものであるのに対し、
自力の信心は、人それぞれで、どこまでいっても、
共通一味になることはありません。

この違いは、

人生の目的は人それぞれか、万人共通唯一のものか、
そう問うてみることで、自ずと明らかになります。

圧倒的大多数の人が自力の信心であり、人生の目的は
「人それぞれだ」とカンカンに信じています。という
より、そうとしか思えないのです。

人生の目的が人それぞれで何が悪い?

きっとそう思われるでしょうが、そこにこそ世間の
常識では測れぬ、重大な問題があります。


問題を整理してみましょう。

世の人を大別すれば、自力の信心か、他力の信心か、
その二通りになります。
自力の信心では助からないことを
これから粛々と書いていきたいと思いますが、
何より肝心なのは、あなた自身はどちらなのか?
そこです。

これこそ、もってのほかの大事と教えられています。

「……聖人の御前に参らん人の中に於て、(他力の)
信心を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心の輩
もあるべし。以ての外の大事なり」(蓮如上人)

(つづく)

北野氏のため息

2010-04-20 14:47:49 | Weblog
バラエティや映画で大活躍の北野武氏が、以前、

雑誌でこんなことを言っていた。 興味深かったので

そのまま載せておこうと思う。

〈なぜ生きるのか、なぜ死んじゃいけないのかって

のがすごい気になる。要するに、なぜ人間はいきて

いかなきゃいけないかっていうのがさ、どうも分か

んねえよね。なぜ死んじゃいけないのかとか、なぜ

死を毛嫌いするのかっていうこととかね、そういう

のがすごい気になるから。わりかしそればっかし考

えているよね。

 結局なんか……死ぬことの怖さって、一番低レベ

ルなとこで考えれば、まだやりたいことが残ってる

とか、いいことやってないうちに死にたくないとか、

そんなとこじゃない?でも、ある程度お金も取るよ

うになって、ある程度ねえちゃんにもモテるように

なってきてさ、一体これなんの意味があるんだろう

って思うじゃん。下手すっと、俺はこんなものを手

に入れるためだけに生きていこうとしたのかなって

いう、すごい変な感じになっちゃって。だとしたら

死んでもなあっていうとこがあって。でも、生まれ

て、貧乏な家庭に育って、漫才やって売れないとき

は、なぜ死にたくないかっつったら、とにかく金稼

がなきゃいけねえし、女にモテたいし、美味えもん

も食いたいし、いい車に乗りたいしとか、その程度

のことで生きようとしたんじゃないかと思うよね。

でも意外にそれが手に入っちゃうと、なんだよこれ

って。俺、なんで生きてんのかなと思うことあんじ

ゃない?だから、ほんと、そのへんがよく分かんね

えんだよ。で、そうなっと余計、考えちゃうんだよ〉

(『孤独』北野武・ロッキンオン 218ページ)


北野氏は、テレビのバラエティ番組などによく出て

くるが、その目の奥はいつも虚無的な何かがのぞい

ている。あの人はいくら笑っていても、その目は笑っ

ていないように感ずる。たとえば廃墟、あるいは冬の海岸

みたいなモノトーンの世界に突っ立っているような印象だ。

そう感ずるのは多分、私だけではないと思う。

事実、北野氏の映画は、孤独でアンニュイな感じのヨーロッパ

の人たちに高く評価されている。


だれしも笑顔の底に渋面を隠しているものだ。

より強くスポットライトを浴びた人ほど、その陰影

は普通より濃いのかもしれない。

沈黙

2010-04-19 21:54:51 | Weblog
 寝る前には、気持ちよい文章に触れるのがいい。
そのほうが気持ちよく眠れる気がする。これが文章
のまずい作家だと、ところどころの言葉遣いにひっ
かかって目が覚め、言い回しのまずさに憤って目が
覚め、展開のしょぼさに「えー」とがっかりして目が
覚めてしまう……。その点、村上春樹は当代きって
の文章の名手であるから、どの作品もさながら銘酒の
味わいがある。寝る前に読むには最適であろう。

長編は時間がなくて中々読めないが、短編ならいい。
最近、読んだもので特に印象に残ったものがこれ。
『沈黙』という一編である。(ネタバレ注意!)


 ボクシングジムに通う31歳の青年が、リングの外で
「たった一度だけ、人を殴った体験」を同僚に語り始
める。
 彼は中高一貫の進学校で過ごした日々を回想する。
クラスには、勉強もスポーツも抜群で、容姿も頭の回
転もよく、先生からも人望のある、青木という同級生
がいた。

 だが、この青木には芯というべきものがない。人間と
しての深みのようなものが、完全に抜け落ちていた。
自分の優位を保つため、ただ巧妙に人の中を立ち回ること
だけに長けた、つまらない奴なのだ。
 しかし、そのことに気づいていたのは彼一人だった。

 中学の時、彼はその嫌らしさが我慢できず、激情に駆
られて青木を殴ってしまう。
 青木はプライドを傷つけられたことをずっと根に持ち
続ける。そして3年後、青木は、ある同級生の自殺事件を、
彼の暴力によるものだという噂を巧妙に流し、彼を完全に
孤立させてしまう。

 彼は怒り狂う。しかし誰一人理解してくれぬことに
ひどく落ち込み、自殺まで思いつめる。だがある日、満員
のバスの中で青木とバッタリ視線が合った。身動きさえでき
ぬ状況下、睨み合いが続く中、青木の目の奥に一瞬、怯え
の色が浮かんだ。

 その瞬間、青木への殺意は消え失せ、一種の憐れみの感
情へと変わってしまう。
青木は、見かけはどうあれ、尊大な着ぐるみを脱がせれば、
ただの怯えるネズミでしかなかったのだ。

 その後も、クラスでのいじめの状況は変わらなかったが、
彼の心はふっ切れていた。堂々と孤独を生き抜き、卒業す
るのである。


作品の結末で、彼は、こういう。

 負けるわけにはいかないんだと思いました。青木に勝つ

とか、そういうことじゃありません。人生そのものに負け

るわけにはいかないと思ったんです。自分が軽蔑し侮蔑す

るものに簡単に押し潰されるわけにはいかないんです。



 でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言

いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中

です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせ

に、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らさ

れて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違った

ことをしてるんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちら

っとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、

決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い

当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たち

の行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りはし

ないんです。本当に怖いのはそういう連中です。

 

blue

2010-04-18 23:29:20 | Weblog
濃い海の上に広がる

空や制服や幼い私達の一生懸命な不器用さや

あの頃のそれらがもし色を持っていたとしたら

それはとても深い青色だったと思う。

(映画「blue」)


深い意味はありません。

女子高が舞台の映画で、あの時代にありがちの、

壊れそうな危うさが心に残る佳作です。

ただ、ロケの舞台にはちょっとビックリ。。。

ほんの一瞬なんですけどね。





仕方ないといえば仕方ないこと

2010-04-16 19:24:54 | Weblog
私の大学時代は、自分の行っていた学部の関係もあり、

浅田彰や柄谷行人や蓮實重彦などの本の一節でも覚え、

映画、音楽、芸術がらみで、社会や文化を批判してみせ

るのがカッコいいと思われ、難しい言葉で他者を圧倒

するのが、自己の優越性の証であるかのように勘違い

した者がたくさんいた。

彼ら文化人は素晴らしく頭がよく、確かにカッコよかった。

だが今にして思うに、いや、当時からうすうす感じて

はいたのだが、彼らの話は、自分を他人より1ランク、

いや2ランク上に見せる粉飾ばかりで、根底に「救済」

というものがなかった。

昨日、ここに書いたことでいえば、太平洋のど真ん中

に放り出された人に、文化人たちの言説は、カッコいい

泳ぎ方を示すのみで、どちらに向かって泳げばいいか

を教えているわけではない。

まあ、そもそもそれを明らかにしようというものでも

なかったのである。

とはいえ、あのフランス語を自在に話せる文化人たち

の膨大な知識量、他人の作品を難解な言葉で容赦なく

批判する姿に、すっかり幻惑され、魅入られた人たち

は、自分もあんな風になりたいと、わざわざ難解な本

を読んでいたようである。

だがそれは、水平線しか見えない海で、1ランク上の

泳ぎを目指す虚しい試みではなかったか?と今にして

思う。

だとするならば、それは滑稽を通り越し、悲哀ですら

あろう。

彼らに魂の救済などと言っても、冷笑を浮かべられる

か、顕微鏡のプレパラート上の観察物でも見るような

目をされるだけ。

決して、話の噛み合うことはない。

彼らの多くは私よりも勉強していて、頭脳優秀であった

と思うが、「自分」というものが、すっぽり抜け落ちて

いるように感じた。

優秀な頭脳といっても、所詮、消滅を繰り返す肉体の

一部である。

誕生と同時にできたこの頭脳に、誕生以前からの永遠

の生命の実相など本来、分かりようもない。そんな頭

で理解できる「救済」といっても、あくまで〃その程度〃

の救済でしかなかろう。

そんな「頭」をあんまり過信するものではない。

永遠の生命に立脚する仏法と、話が噛み合わないのは、

仕方ないといえば仕方ないことだが……。







オープン・ウォーター

2010-04-15 12:51:53 | Weblog
『オープンウォーター』というアメリカ映画がある。
7年前に公開されたらしいが、当時はまったく知らず、
DVDになってから、借りて見た。

これはストーリーらしいストーリーもなく、制作費も
ほとんどかかっていない、アイデア一つが売りの恐怖
映画なのだが、ゾンビとか幽霊とか、恐怖の対象が
出てくるわけではない。

特別なものは何も出てこない。

だけれど、これを人間の「実存」という問題にひき
あてて見てみると、存外、深みがあるのである。


ある倦怠期を迎えた夫婦が、もう一度、夫婦生活の
仕切り直しをするために、南の島へバカンスに出かける。
そして他の観光客らとともに、現地人の操縦する船で沖
まで行き、スキューバダイビングをひとしきり楽しむ。
ところが、海上で待機している船が、乗船人数を誤り、
その夫婦がまだ海中にいるにも関わらず、引き帰して
しまうのである。
そうとも知らず、主人公の夫妻が、船に戻ろうと海面から
首を出すと、居るはずの船がない。
眼前には、ただ水平線が果てしなく広がっている……。

これが恐い。今までの、どんな恐怖映画にもなかった
静かな、何もない「恐怖」である。

二人は、自分達の置かれた状況をようやく悟る。
どうしよう?どうしたらいいんだ?
しばらく言い合いになるが、泳がないことには溺れて
しまうから、とにかく泳ぐ。
でも、360度、水平線という状況下で、彼らはどちらに
向かって泳いでいいのか分からないのである。

分からないけれど、泳がざるを得ない。

このあと、泳ぎ続ける二人には様々な苦難がやってくる。
例えば、体温がどんどん下がっていく。
お腹がすく。喉がかわく。
疲れてくる。
波に揺られ続けるので、船酔いに似た症状が起きる。
夜が来る。眠たくなる。
嵐に遭う。

とまあ、これでもか、これでもか、と困難が襲うのだが
彼らは救助されることを信じて、耐えに耐えて泳ぎ続ける。
やがて向こうのほうから、大きな船がやってくる。
二人は歓喜し、声を限りと助けを求めるが、船は二人に
気がつかず、遠く去っていく。
希望は大きな落胆へと変わる。

そのうち、1匹、2匹とサメがやってくる。
目の前を大きな背びれが何度もよぎっていく。
恐怖は最高潮に達していく。
そのうち、つれあいが片足をサメにやられる。
その悲鳴を聞きながら、助けてやりたくても、助けて
やりようがない……。

このあとどうなるか?ネタバレになるので結末は
書かない。

これは実話がもとになっているらしい。
多少アレンジされているとはいえ、虚構ではないので
余計、身に迫るものがある。

この映画は面白い人には面白いが、面白くない人には
全く面白くない映画かもしれない。

その違いは、登場人物に感情移入できるかどうかによって
決まると思う。感情移入できた人とは、この映画の恐怖の
本質が、今の自分の置かれた状況と、いや全人類の置かれた
状況と、重なっていることに気づいた人であろう。