静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

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夢の世を夢見て暮らす夢人が……

2009-12-09 19:54:22 | Weblog
昨日、書きましたように、私たちの目に見える、そのままの「世界」が、本当に「私」の外部に実在するわけではありません。それは若干の考察を加えれば、だれしも納得できることでしょう。

ただ、見えたままではないにせよ、「私」の外部に「世界」がある。この確信だけはそう簡単に揺らぎそうにありません。

以前、「胡蝶の夢」の話を書きましたが、この世は自分の生み出した「夢」みたいな世界、とは、ひとつの可能性としては考えられても、本気でそうは思い切れないと思います。

でも、私たちの思いは思いとして、問題は仏教でどう教えられているかです。

外界は実は存在しておらず、ただ存在しているかのごとく現れ出ているにすぎない。我々をとりまく「すべての存在」は心の投影である。心の外に事物的存在はない。一人一人の人間は、それぞれの根本心である阿頼耶識(あらやしき)の生み出した世界を認識しているだけである。

と、このように教えられています。それは、天親菩薩の著された『唯識二十論』にも、繰り返し主張されていることです。

この「すべての存在」には、自分の意識、身体、他人、さらには自然、宇宙など一切の事象が含まれます。身体も自然も宇宙も、すべて心が作り出したものと聞いて、「そんな馬鹿げたことが」と反論する人もいるでしょう。でも、そのような常識的な立場を一端捨ててみてはどうでしょうか。

それまでその中に心があると思っていた身体が、
外界に厳と存在するのだと考えていた大自然が、
自分はその中の針の先のようなちっぽけな生命にすぎないと思っていた宇宙が、
すべて「私」の中に収まってしまう。

これは、そんな馬鹿げた、荒唐無稽なお話でしょうか?

『唯識二十論』では、度々、夢を例に説明されています。夢を見ている時を考えれば、上記のことは、まったく突飛な話ともいえず、むしろ日常、私たちが経験により実証済みのことではないでしょうか。

恐ろしいものに襲われ、いくら逃げようにも足がもつれて前へ進めない。もうだめだ!と観念した時、夢から覚めた。すると床の中で毛布が足にからまっていた、という類の経験はだれしもあると思います。

自分を襲ってきた相手、走ろうとした足、自分のいた空間、経過した時間、それらは皆、自分の心が生み出したものであり、夢を見ている間はまぎれもないリアルな「実在」です。
しかし、夢から覚めたとたん、それらは一切は跡形もなくなります。
何処へ消えてしまったのでしょう?

すべては自分の生み出した虚構の世界に自分だけがいたということ。
その世界という「もの」は虚構でしたが、もがき苦しんでいたという「こと」はリアルであった、ということです。
その意味で、この「現実」と呼ばれる世界という「もの」もまた、夢みたいなものなのです。

この世は夢、というと、「な~んだ夢か」と、現実世界という「もの」を軽視しているように聞こえるかもしれませんが、そういうことではありません。
夢は覚めてこそ夢であって、覚めることがない夢ならば、それは現実と言うほかなく、その中でしか生きられないという「こと」はリアルなのですから、おろそかにはできないのです。

この夢のような世界に、厳然と「善因善果 悪因悪果 自因自果」の大道理が成立していて、誰もこの法則から逃れることはできません。
夢を見ている時、自分でその夢から脱出できないように、過去無量劫から迷いの夢を見続けている私たちは、迷いから脱することはなく、因果に縛られ、苦から苦へ転々としているということです。


話としては分かるけれど、本当にこういう考え方をしなければいけないのでしょうか?と不安に思われる方もあるでしょうし、すべて自分が生み出した世界とするならば理屈が通らぬとか、科学的ではない、と言われる方もあるでしょう。でも実は、これこそ最も「科学的」な世界観なのです。
次回以降、可能な限り、それに答えていくようにしたいと思います。(つづく)
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